市長が提唱した「健康都市さっぽろ」の中心は、屋外の自然環境を利用したスポーツや体力づくりと、コミュニティ形成を意識した地域単位のグループづくりであった。ただ体育館はいまだ限られ、地域レベルでの市民スポーツの需要に応えるには十分とはいえなかった。例えば、『市民の観光レクリェーション(余暇意識とレクの実態)』(昭52・10)は、「全国的にみて、スポーツレクリェーション施設は公共的にも整備の遅れている分野の一つであるが、札幌市の場合も屋内外のスポーツ施設では『施設不足』が非常に強い阻害要因[屋内スポーツ、二八・〇パーセント、屋外スポーツ一五・一パーセント]としてあげられている」(一〇頁、括弧内引用者)と報告する。余暇の増大と市民スポーツの高まりを背景に、十分な設備を伴った総合的な体育館建設が強く望まれていった。
昭和五十四年、第二回定例市議会に提案された補正予算には、区体育館建設費二五億二八〇万円のうち、五十四年度分として九億四三四〇万円が計上された。ここで、市初の区体育館(白石区(現厚別)、西区(現手稲))が建設されることになる(昭56・2開館)。「新札幌市長期総合計画第二次五年計画(昭55~59年度)」では、地域・地区的施設の整備が盛り込まれ、「市民の多様なスポーツ要求にこたえるため、各区に総合的な体育施設として、区体育館の建設を進めるとともに、全市的な配置を考慮し、温水プールを建設する」ことが述べられた。同計画では、四つの新規区体育館建設が計画され、その後も分区にあわせ各区に体育館が整備されていった。
一方、市が管轄するプールは、学校を除けば中島プール(昭44~平8)、夏期間の美香保、月寒体育館のみであったが、四十九年に発寒温水プール(~平11)、五十一年に厚別温水プールが竣工した。両施設ともに清掃工場の余熱を利用した初の温水プールであった。また、豊平公園温水プール(昭58)、平成元年には日本水泳連盟公認コースを備えた平岸プールが完成した。その後、白石、手稲曙、東、清田、西温水プールが建設され、冬期間でも水泳に親しめる環境の整備が図られていった。