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(財)札幌市体育協会

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 昭和八年に設立された札体連は、三十五年、第一回市民体育大会を開催するなど、市民スポーツ推進の上でも中心的な役割を担っている。三十七年には、社会体育優良団体として文部大臣表彰も受けた。
 オリンピック後は、スポーツ人口の増大に伴う事業の拡大、また社会的地位と社会に対する責任の明確化から財団法人化がなされていった。基本財産三〇〇〇万円(市より二〇〇〇万円、自己準備金一〇〇〇万円)の形成には苦慮したが、その過程で募金を市民に呼びかけるなど、札体連への理解を広く求めていった。五十三年十一月九日に道教委に法人化を申請し、翌年四月一日に許可がおりた。その目的は、「札幌市におけるスポーツ団体を総括し、アマチュア・スポーツの普及振興を図るために必要な事業を行い、もって市民の指針の健全な発達と本道におけるスポーツの振興に寄与すること」(札体連「寄附行為」)である。連盟内には、競技力向上委員会、普及委員会、財務委員会、スポーツ少年団育成委員会が置かれ、また市内のスポーツ少年団によって構成される札幌市スポーツ少年団も位置づけられた。
 連盟の事業は、市民体育大会をはじめとする各種スポーツ大会の開催と事業協力、全道的スポーツ大会(青年スポーツ大会等)への選手役員の派遣、講演会等を通じた指導者養成、スポーツ少年団の育成、スポーツ団体への指導助言、市から委託された施設の管理・運営、(財)北海道体育協会(以下道体協)との連絡協調、市・道のスポーツ施策への協力、連盟相互の連絡融和等である。
 札体連は、平成七年に札幌市体育協会(以下札体協)と名称を変更するが、その基本的事業内容は、各種競技会の開催を通じた競技スポーツの向上にあったとみてよい。しかし、法人化への移行時期は、市内のスポーツ人口の拡大に施設等の客観的条件や指導者の問題が追いつかず、協会自体も体指との連携を密にし、市民スポーツの底辺拡大と環境整備分野に係わっていったことも忘れてはならない。当時の様子は次のように述懐されている。
たとえば野球をやりたくても、グラウンドを確保するのにえらい苦労しているわけです。最近テニスコートなんかでもそうですけれども、美香保コートはもう朝七時ごろから並んでいる。それで、九時ごろから受け付けをする。それでも取れるか取れないか分からないというような状況で、これは人口がふえるのに増して、体育が盛んになってきている。それも学校体育だけじゃなくて、選手の層もあれば、またレジャーでもやる人もいますし、非常に多いわけですよね。
(札体連 四〇年誌)

オリンピックの後ですね、体育指導委員会と札体連が非常に仲よくなってきて、地域的なものと種目的なものがつながってきた感じがしましたね。
(札体連 五〇年誌)

 こうしたなか、区体育館やスポーツの施設の管理運営業務の委託は、市民スポーツ振興と専門的な指導の接点においてなされたものと考えられる。その後、平成元年のはまなす国体開催準備の関係から札体協は再び競技スポーツ事業のウエイトを増していくが、一方でスポーツ少年団活動等により市民スポーツの発展に寄与していくこととなる。