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七〇年紛争とキリスト教

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 昭和四十五年(一九七〇)年に日米安全保障条約を自動延長させるかどうかをめぐって、七〇年代(昭和四十五~五十四)の当初、政治的対立が尖鋭化した。また、この前後、ベトナム反戦運動、大学紛争、成田空港土地収用問題、沖縄返還問題が起こったが、とくに大学紛争はキリスト教界にも影響を与えたほか、四十五年開催の大阪万国博覧会(万博)をめぐってキリスト教界の中にも対立が起きた。
 万博の問題は、プロテスタントとカトリックが共同して、万博パビリオンの一つとしてキリスト教館を設ける計画の是非であった。キリスト教館は、万博を日本伝道の機会とする意図であったが、万博自体、アジアへの新しい経済的侵略を切り開くものであるとする万博キリスト教館反対運動が、主として日本基督(キリスト)教団から起こった。万博参加を再検討するために招集された四十四年十一月の同教団総会は、開会したが議事を決することが出来ず、以後四十八年まで開催不能となった。同教団の地方組織、東京・大阪・兵庫・京都各教区も万博反対運動によって総会の開催が阻止された。
 同教団の一部には、教団の正常化を主張し、教師試験を独自に行ったグループや教団を離脱する教会も生じた。札幌でも、同教団の紛争後、札幌新生教会は、ホーリネス派の伝統を堅持するため、ホーリネス系教会との連携を深めていたが、六十年(一九八五)十一月、同教団を離脱した(現在、ウエスレアン・ホーリネス教団に所属)。
 大学紛争は、明治学院大学、同志社大学はじめキリスト教主義学校にも起こったが、神学部にも及び、関東学院大学神学部、青山学院大学神学科が廃止となった。とくに日本基督教団立の教師養成機関である東京神学大学では、四十五年三月、学生の封鎖を解除するため機動隊を導入して排除した。この是非をめぐる論議は、日本基督教団自体の対立を引き起こした。大学紛争は、札幌市内のキリスト教主義学校のうち北星学園大学にも波及し、同年に入学式の中止、翌四十六年の校舎の封鎖や学生デモ、〝団交〟などが行われ、三名が退学処分となった。しかし、これらの動きによって札幌ではキリスト者の平和・人権運動に分裂や停滞を招くことはなかった。六〇年安保条約改定反対運動を契機に結成された北海道キリスト者平和の会は、後述するように恵庭・長沼事件への取り組みを進めた体験から、過激に及ぶ行動を批判して幅広い連帯を訴える立場を取った。