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総説

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10 衛 生
衛生統計前史
 衛生統計のなりたちを調べてみると,1873年(明6)6月,太政官より医制取調を命じられた文部省が,各府県に対して管内の医師,薬舗,病院の状況を報告するよう命じ,この時はじめて医療施設,医療従事者の調査を行ったのが衛生統計の嚆矢とされる。翌74年8月,文部省は76条からなる「医制」を東京・京都・大阪の三府に達し,悪性流行病(チフス,コレラ,天然痘,麻疹の類)の届出を義務づけた。この後75年6月,衛生行政事務が文部省より内務省に移管され,翌年2月内務省がはじめて府県に医師の施治患者死亡届出制度を達した。同時に,悪病流行に際し医員を派遣した場合,患者の数,年齢,職業等を報告する伝染病調査制度を導入した。これが全国規模の死因統計および伝染病調査制度の最初である。
 折しも1877年8月,コレラが大流行し,内務省は「コレラ病予防法心得」を各府県に達し,届出を義務づけた。79年に入ると,内務省が各府県に衛生課を,各町村に衛生委員を設置するなど,全国衛生行政機講の整備がすすめられた。翌80年には衛生統計諸表が定められ,全国的に統一された様式による報告が開始された。同時に,「伝染病予防規則」を公布して,コレラ,腸チフス,赤痢,ジフテリア,発疹チフス,天然痘の6種の報告が義務づけられた。
 1886年6月,内務省令「内務報告例」が制定され,伝染病に関する報告,各種報告が一元的にまとめられ,ここに大系化されるにいたっている。
 
衛生統計一覧
 このように衛生統計が全国的に統一されていく過程で,札幌市の場合の衛生統計を調べてみるに以下のような資料が確認される。
 
   『開拓使事業報告』対象年(1869~81),『札幌県統計概表』(1882),『札幌県統計書』(1883),『北海道(庁)衛生年報』(1901~05),『北海道衛生統計要覧』(1924~35),『北海道庁統計書』(1886~93,1896~99,1901~06,1908~40),『明治廿一年札幌区役所統計概表』(1888),『明治二十二年札幌区役所統計概表』(1889),『札幌一覧』(1906~07),『札幌区統計』(1909),『札幌区統計書』(1910~11),『札幌区統計一班』(1912~20),『札幌市統計一班」(1921~38),『(札幌市)衛生統計年報』(1949~61),『札幌市衛生年報』(1964~97),『札幌市統計書』(1957,61,66,71~97)
 
 本表を作成するにあたっては,それぞれの表に出典を明記したが,ここで戦前期について多く依拠した資料についてことわっておかねばならない。それは,『札幌区(市)統計一班」と『北海道庁統計書』の各掲載項目の数値を比較してみると,同年であっても数値が明らかに相違している点である。これは,両者の分類集計方法および集計時期の相違から生じたものであろう。本表では,なるべく長期にわたる同一分類方法に基づいた数値を集めることに努めたため,『北海道庁統計書』に依拠して作表した場合が少なくない。
 ここでは,衛生統計表のなかから市民生活の動向を浮き彫りにしていると思われるものをいくつか選んで簡単な解説を加えることにする。
 
法定伝染病
 法定伝染病は,前述したように1880年の太政官布告第34号「伝染病予防規則」で,コレラ,腸チフス,赤痢,ジフテリア,発疹チフス,天然痘の6種が指定され,1897年制定の法律第36号「伝染病予防法」では,ペストと猩紅熱が追加されて8種となった。さらに1911年にはパラチフスが,22年(大11)には疫痢と流行性脳脊髄膜炎が,46年(昭21)には日本脳炎が加わり,12種となった。
 札幌市におけるこれら伝染病の発生状況を第279表でみると,まず目につくのは1886年(明19)のコレラ患者の発生と死亡数で,区内80人の患者のうち57人が死亡するという大変恐ろしい結果をもたらした。政府の初期の衛生政策は,コレラ対策として進められた側面が強い。前述した1880年の「伝染病予防規則」も,1877,79年のコレラの流行が契機となって定められた。
 また,1892年も多数の患者を出しているが,これは天然痘の流行によるもので,区内1049人の患者,392人の死者,札幌郡では319人の患者,131人の死者を出して翌年になって終息をみた。この場合,区役所では患者を避病院に隔離,消毒を行い,この期に種痘の普及に力を入れ,一戸ごとに巡回して種痘の徹底につとめた。しかし,患者の衛生知識の欠如から,しばしば天然痘隠匿患者が発見されるありさまであった。次の資料がそれを物語っている。
 
  天然痘の蔓延 当区に於ける天然痘は益々蔓延の姿あるより札幌区役所にては日々医員及び吏員を派出し戸々に就いて種痘を執行し昨今は南四五六条東二三丁目辺を巡回され居る由なるが昨日は南六条東二丁目辺にて七名の天然痘隠匿者を発見したるよし(北タイ 1893.10.29)
 
 このため,札幌区長林悦郎は同年11月16日付で次のような諭示を出している。
 
  当区内天然痘発生以来次第に蔓延目下其勢益猖獗ヲ極メ患者ハ避病院ニ入院隔離ノ法ヲ執リ或ハ相当ノ家屋ニ自宅療養セシメ他ノ健康者ハ再三種ヲ問ハス臨時種痘ヲ執行シテ専ラ予防消毒ニ従事シ病毒ヲシテ他郡ニ伝播セサル様夫々厳重ニ執行シ撲滅ヲ期スルノ際区内患者中ニ在ツテ区外各町村ニ移転スルガ如キコトハ万々之レアル可ラザル筈ナルモ若シ誤ツテ患者家族ノ不注意ヨリ未ダ全ク治癒セザル者又ハ患者ノ軽症ナルヲ以テ他ノ侵害ヲモ顧慮セス患者ヲ率ヒテ他郡ニ移転スルガ如キコトアリテハ折角施行ノ予防消毒モ其効ナキノミナラス右等ハ適々伝播ノ媒介タルヲ免レズシテ実ニ容易ナラザルモノトス抑痘毒ハ痘漿痘痂中ニ含レルハ勿論一枚ノ弊衣モ無数ノ人衆ヲ犯セルハ往々其例少カラス伝染力ノ強烈ハ遥カニ他病ノ上ニ出ツルモノナレバ此際患者ヲ他郡村ニ移転スルガ如キハ勿論区内ト雖トモ係員ノ指図ナクシテ妄リニ他ニ移スコトナキ様注意スヘシ
      明治廿五年十一月十六日     札幌区長 林 悦 郎
 
 以上のように,天然痘の伝染力の強いこと,避病院への隔離,消毒の徹底,種痘執行を説き,伝染病患者の都市から地方への波及を懸念し,患者の他郡村への移転禁止を呼びかけた。また,関場不二彦札幌病院院長も『北海タイムス』紙上に「疱瘡の話」を掲載,都市をも破滅に導く伝染病の恐しさを一般の人びとに説いた(北タイ 1892.11.19)。天然痘の大発生により,北海道庁,札幌区ともに伝染病予算を使い果たしてしまい,大幅に臨時予算の要請に至っている。
 明治期に伝染病が流行した背景として,人びとの伝染病をはじめとする衛生思想の乏しさや,貧困,環境衛生の遅れなどが考えられる。天然痘流行に際しても,患者の隠匿,疱瘡除けの祈祷などの神事さえも行われたり,札幌区長の諭示がどの程度徹底されたか不明である。特に,天然痘の場合死亡率が高かったため,患者側が避病院への隔離を拒否したり,種痘員の説得を拒否したため,患者数,死亡者数を一層高める結果を招いた。
 全般にいえることであるが,当時の政府の側と一般の人びととの間には衛生に対する認識の隔たりがみられ,伝染病患者を多く出す要因ともなった。当時の政府の伝染病対策は,伝染病発生時の消毒と隔離に重点がおかれ,上下水道の整備といった衛生環境の改善はあまり重要視されなかった。このため,腸チフス,赤痢などの消化器伝染病対策は遅れに遅れ,昭和戦前はもとより戦後になってもしばしば大流行をきたした。上下水道が完備しない時期にあって,農村部では飲料水などの生活用水を自然流水に依存していたり,便所が汲み取り式なのは当然な上に,その糞便が肥料として農業の重要な役割を担っているといった衛生環境下におかれていた。おまけに都市住民の糞便が近郊農村に有料で引き取られるといった社会・生活環境におかれていたので,都市部の伝染病の発生がすぐさま農村部に伝染するといった,感染の条件が何時も温存されていることになり,ひとたび流行がおこると,都市部から農村部へと大流行する必然性をもっていたといえよう。
 戦後加わった指定伝染病で,小児マヒは札幌市では1956年(昭31)に早くも63人の患者,死者3人を出した。やがて,1960年には夕張をはじめ全道各地で集団発生をみ,患者数1587人,死者106人(北海道年鑑)におよび,札幌市の場合でも患者数131人,死者2人と猛威をふるった。このため政府は,同年アメリカよりソークワクチンを緊急輸入して対応し,女性団体もソ連の生ワクチン輸入運動を展開した。翌61年からは全道で生ワクチンの一斉投与が開始され,62年には生ワクチン100万人分か日本に到着,これにより札幌市でも生後3カ月から13歳未満の13万5000人を対象にワクチンの投与を行った(道新 1962.2.16)。このワクチン投与が効果をあげたためか,73年を最後に発生をみていない。
 
主要死因別死亡者と結核
 札幌市における死亡者の死因を年次別にみると,①脳出血・脳軟化・脳膜炎,②気管支炎および呼吸器病,③結核の3種の死亡者が特に多くみられる。その傾向は明治末期から顕著であり,大正期に入ると第1位結核,第2位気管支炎および呼吸器病,第3位脳出血・脳軟化・脳膜炎と順位は決定的なものとなった。札幌の場合,第1位,第2位のような呼吸器系の病気が死因の第1位となっており,これは人口の集中する地域と関係がありそうである。
 

表1 年齢別/肺結核,肺炎・気管支炎,脳出血・脳軟化死亡割合(1932年)

                       『札幌市統計書』より作成。
 
 次に,肺結核,肺炎・気管支炎,脳出血・脳軟化の3大死因について年齢別にその死亡者数をみたのが表1である。これは1932年(昭7)のものであるが,これによると,肺結核は15~34歳の青壮年層に死亡者数が多いのに対して,肺炎・気管支炎は0~4歳の乳幼児が6割を占め,脳出血・脳軟化は45歳以上の中・高年に死亡者が多いことがわかる。これからもわかるように,肺炎・気管支炎の集中する乳幼児を除けば,結核が最大の死因となり,しかもそれは国の将来を担う若い年齢層をむしばむ慢性伝染病であった。すでに結核は,伝染力の高いことと合わせて死亡率の高いことから1900年代から恐れられ,1901年度の場合総死亡者に対する結核死亡者数が25パーセントを上回ったことから,「札幌は実に世界第一位の肺病地なり」(北タイ 1902.5.8)と,結核に対する喚起を促す発言さえみられた。結核患者の多い理由として,冬期間長期にわたって雪に閉じ込められ,暖房等の関係から家屋の構造が光線や空気の流通等において衛生上良好とは言い難く,呼吸器系の病気の温床と早くから懸念されていた。結核のなかでもとくに肺結核死亡率だけをみたのが表2,グラフ1で,全国,また北海道と比較し極めて高いことが知られる。政府は,1904年(明37)内務省令第1号「肺結核予防ニ関スル件」を出して結核予防に乗り出したが,それは学校,病院,劇場等人の集まるところに痰壷を置くという程度のもので,結核対策が本格化するのは1919年(大8)の「結核予防法」制定以降のこととなる。同法では,健康診断の実施,結核患者が感染の恐れのある職業につくことの禁止,結核を伝染させる恐れのある患者や療養の途のない患者を療養所に入所させることなどが定められていた。国や道・市では積極的に結核予防運動を展開して啓蒙にもつとめた。こうした諸施策の実施により,第一次世界大戦後,結核の死亡率は漸次低下しつつあったが,昭和に入って重工業が大幅に発展する中,再び上昇傾向を示した。これに対して政府は,結核療養所の開設のほか,国民に対して結核予防思想の普及などに対処した。札幌市に隣接する札幌郡琴似町に札幌市立療養所が開所したのは1930年(昭5)10月のことである。とにかく,1925年以来結核死亡率全国一の不名誉を背負わされた札幌市では,1927年の場合でさえ670人の死者を出し,道内市・支庁別でも第1位,人口千人比で4.34といった数字を示し,前途ある青年男女の生命が次々に失われてゆくといった憂慮すべき事態に直面していた(北タイ 1928.6.27)。札幌市立療養所の開設後も結核死亡者数は一向に減少せず,第286表でみるごとく1938年以降1000人を越える最悪の状態にいたっている。戦時下にあって満足な治療方法もない上に,栄養状態の悪化が感染者を,そして死亡者を多く出す結果を招いたと思われる。結局,昭和戦前期にあって結核は,国民の生活水準が低かったこと,伝染病に対する予防と治療に限界があったことなどにより死亡率を下げることはできなかった。本格的撲滅は,戦後になってストレプトマイシンなど抗結核剤が開発されたり,栄養状態の改善など生活水準が向上する時期を待たねばならなかった。
 

表2 肺結核死亡率

               (人口1万人当り/1909~38年)
               『日本帝国統計年鑑』,『北海道庁統計書』より作成。
 

[グラフ] 肺結核死亡率