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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
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秀吉と真田
(北条の兵、名胡桃城を奪取)
これについて真田信幸より報告を受けた
家康
は、十一月十日付け書状で、先の沼田城明渡しの両上使(津田・富田,真田信幸宛
徳川家康
書状 <史料解説> 「真田信幸宛
徳川家康
書状」 真田宝物館蔵 天正十七年, 秀吉の裁定により真田方に残された上州の名胡桃(なくるみ)城が、北条の兵に奪い取られた事件を信幸が
家康
,
家康
は裁定の検使津田・富田の二人にまず知らせるように指示し、きっとその両人から秀吉に披露(報告)されるだろう,十一月十日
家康
(花押) 真田源三郎殿
秀吉と真田
(家康の命令による上田築城の開始)
これに対する措置として
家康
は、三月には「佐久小県の逆心」の徒の討伐のためとして、昌幸に近く出馬する旨を,また、この三月には上杉方の海津城将屋代秀正が
家康
に内通し、
家康
より更級郡の宛行(あてが)いを約束されている,しかし、この築城普請は、直接には
徳川家康
の命令で、徳川勢により始められたものだった。,督励する
家康
の書状が二通伝わっている。,また、このおり昌幸は
家康
に救援を要請している。 /
家康
の命令による上田築城の開始
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
東西に分かれた真田父子 「秀吉と真田」の目次はこちら こうして
徳川家康
の命に従い、会津遠征の軍に,この天正十四年には、
家康
自身が真田を討とうとして出陣し、
家康
を取り込みたい秀吉もそれを承認するという、,真田信幸宛
徳川家康
書状 <史料解説> 「真田信幸宛
徳川家康
書状」 真田宝物館蔵 慶長五年,七月二十四日
家康
(花押) 真田伊豆守殿 真田信幸宛
徳川家康
安堵状 <史料解説,> 「真田信幸宛
徳川家康
安堵状」 真田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇)七月二十七日 二十四日
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
もちろん秀忠は
家康
の激怒をかった。,真田信幸宛
徳川家康
書状 <史料解説> 「真田信幸宛
徳川家康
書状」 真田宝物館蔵 慶長五年,信幸はそれぞれの境界の出入口を、しっかり固めさせている、と
家康
に報告した。,それを祝着とする
家康
よりの返書である。,(下略) 真田信幸宛
徳川家康
書状 <史料解説> 真田信幸宛
徳川家康
書状 真田宝物館蔵
松代まちあるきマップ
(14真田宝物館)
重要文化財の「青江の大太刀」、
家康
から拝領の名工粟田口吉光作の短刀、永楽焼十一代目保全の茶碗などお茶道具,の逸品、昌幸所用の「昇り梯子の甲冑」や刀剣類、豊臣秀吉・石田三成・
徳川家康
・武田信玄らの書状、県宝真田家文書
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(屋代村)
綿布・縫針 その他特記ワード: 吾妻鑑/村上氏/屋代氏/屋代左衛門尉(やしろさえもんのじょう)/
徳川家康
秀吉と真田
(「真田」の錦絵)
の陣で
家康
をあと一歩まで追い詰めたという場面。,真田幸村勢の襲撃を受け、葭原に大久保彦左衛門とともに身を隠す
徳川家康
。,幸村が芦叢より
家康
を狙撃しようとしたというシーン。明治十年(一八七七)の作品。,[目録]
家康
大仁村難戦之図 <史料解説> 「
家康
大仁村難戦之図,」 楊斎延一(一八七二~一九四四)画 上田市立博物館蔵 大坂夏の陣に際して、真田幸村が
徳川家康
松代まちあるきマップ
(31送経山西念寺)
その後、松城城主松平忠輝(
徳川家康
の六男)の時代に、同城代だった花井吉成が、中興開基となって寂れた同寺
松代まちあるきマップ
(42白鳥神社)
徳川家康
を祀った久能山東照宮(静岡県)を範とした建物で、鎮座の地は舞鶴山。
パスファインダー
(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
真田信之(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田 沼田 松代 大阪 信玄 秀吉
家康
,内容紹介 目・真田昌幸宛行状・羽柴秀吉書状・豊臣秀吉書状・豊臣氏奉行連書 状・長束正家等連書状・
徳川家康
書状,・
徳川家康
安堵状・石田三成書 状・本多正信書状・真田信之書状等、歴史的に極めて貴重な文書が数
秀吉と真田
(武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)
しかし、九月末には
徳川家康
の意を受けた佐久の依田信蕃(のぶしげ)らの勧誘を受け入れ、
家康
に従属する。,しかも、その講和条件は、真田領の上州吾妻・沼田と北条勢力下の佐久郡・甲州都留(つる)郡とを交換し、
家康
,
家康
も昌幸に対して、吾妻・沼田を引き渡せと、すぐには言い出せなかった。,昌幸は
家康
から現有地のほかは全く空手形同様の宛行状をもらっただけであった。,しかし、昌幸は、
家康
への不信感を抱きつつも、引き続き徳川方として動いていた。
パスファインダー
(真田信繁(幸村)と大坂の役)
大坂冬の陣夏の陣 真田信繁(幸村) 真田は日本一のつわもの 淀の 方 秀頼
徳川家康
真田丸 1,系譜をさぐる 著者名 出版社 出版年 田中誠三郎/著 信濃路 1979年 「御所様(
家康
,大坂両陣では最も
家康
を苦しめ た。苦心の闘将真田幸村の生涯を描く。
パスファインダー
(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
真田昌幸・信之・幸村宛豊臣氏 普請奉行連書状、真田昌幸宛長束正家等連署状、真田親子犬伏密談 図、真田信幸宛
徳川家康
書状,、真田信幸宛
徳川家康
安堵状、真田昌幸 宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院、真田昌幸書
犀川を下る記
(2.天竜川通船)
このように、豊臣秀吉、
徳川家康
が伊那山に着目した開発が天竜川を利用した材木輸送の先鞭となり、天竜川から
善光寺道名所図会
(善光寺道(北国脇往還))
徳川家康
は、軍事的経済的立場から交通路の整備にとりかかり、慶長6年(1601)には東海道を、翌7年には
天明三年浅間騒動記
([解説])
徳川家康
や村上義清などの例をひき、少数の勢が多数に勝ったことを称賛している。
秀吉と真田
(上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))
上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸) 「秀吉と真田」の目次はこちら 天正十三年(一五八五)になり、
家康
,屋代一跡とは、これより前、上杉から離反して
徳川家康
の下に走った屋代秀正の旧領―現千曲市屋代を中心とする
絵本東名物鹿子 二
([翻刻])
徳川家康
の家臣。永禄6年(1563)三河(愛知県)の一向一揆の戦いで負傷し、歩行が不自由となる。,
家康
に命じられ、奉行として江戸小石川上水(のちの神田上水)を完成させ主水(もんと)の名をあたえられた。
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
その後、
徳川家康
が幕府を開くと、これはあの兎のお蔭であると、正月には諸侯に兎のお吸い物を振る舞うこと幕府
上田の早苗
([翻刻])
御宇永正十年小県郡真田ニ生レ、六十 二年ニシテ天正二年生所ニ卒、日五月十九日、真田山長谷寺ノ後山ニ葬ル、 一
徳川家康
公
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