機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 9件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(筑摩村)
筑摩
村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):松本市(まつもとし) 明治初期:
筑摩
村(
つかま
むら,(よみ):しょうないむら/うずはしむら/
つかま
むら/なかばやしむら/さんざいむら/こじまむら/かまだむら,あがたづか)/県宮(あがたのみや)/丹波塚/山家(やまべ)道/耳聞/中林(なかばやし)/大矢塚/塚間(
つかま
,(
つかま
)神社/深志神社/大宮社/諏訪社/神明社/天満社/野々宮社/神明社/鎮守両社/若宮社/県宮(あがたのみや,松平虎千代墓/水野信濃守元和墓/水野信濃守元和室常子墓/饅頭塚/劔墳/県墳/鬼塚/国司塚/古墳/信濃国束間(
つかま
/
筑摩
村
安曇・筑摩両郡旧俗伝
([現代訳])
安曇・
筑摩
両郡旧俗伝 / [現代訳] 安曇・
筑摩
両郡旧俗伝 「信府統記」第十七
筑摩
・安曇両郡旧俗伝 一、わが信濃の国のなかで,そのいわれがはっきりしないこともあり、きちんと書くことはむずかしい、そのため、しばし筆をとることをやめたが、ここにまた
筑摩
,(
つかま
)・安曇(あずみ)の両郡において、昔から伝わる風俗や習慣の記録が少なくない、それらの話は詳細がわからないことも,を繋ぎとめておく石などもある、一説によれば、信濃の国の十二郡の (改頁) 中でも
筑摩
,(
つかま
)八幡宮の社人が伝えてきたことだ、
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
○
筑摩
松本 24 松本は、岡田へ1里、浅間温泉へ18町の地です。,金峯山牛伏寺普賢院威徳坊(
筑摩
郡内田村にあり、真言宗で高野山に属します)。 ,大昔は束間(
つかま
)の温泉といい、また、山部(やまべ)の湯ともいいました。,(注)束間(
つかま
)の湯は、『日本書紀』に、天武天皇が「束間の湯」に入るために行宮(あんぐう)の造営を,この「
つかま
の湯」は現在の浅間温泉もしくは美ヶ原温泉にあたるといわれています。 / ○
筑摩
松本
違作書留帳
(3、江戸時代の神戸村)
江戸期から明治期までの村名で、
筑摩
郡(
つかま
ぐん)に属しました。 ,明治2年(1869)に伊那県、同4年に
筑摩
県に所属し、同7年に笹下村(ささげむら)の一部となります。
『説諭要略』巻一
([ルビ・注記])
明治二年(一八六九)伊那県に勤務し、同四年一一月
筑摩
県参事から権令となる。,明治維新後
筑摩
県が設置されると庶務課に勤務した。,第三十回 28
筑摩
県管下。設立ノ学校。五百余校アリ。,村内学校へ献金 仕度(
つかま
つりたく)。賤婦(せんぷ)ノ志願ハ子ヲ養育スルノ外ニ出テス。,第五十回 39
筑摩
県管内。各校元資金。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([翻刻])
這囘(コノタビ)ノ大変最甚キモノ水内(ミヌチ)更級(サラシナ)ニシテ、上ハ
筑摩
(
ツカマ
)安曇(アヅミ)
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
筑摩
神社の神主が26日に、郷御目附へ罷り出るとのお達しがあった。 ,27日、このたび詮義があり、来月五日に宮本神明宮・
筑摩
八幡宮、同七日に保高明神、五穀就ならびに火難災難除,(改頁)
筑摩
神社へ御祈祷について御出役、御奉行渡辺半太左衛門様、御手代松田五六太夫殿。,
筑摩
(
つかま
)村の庄次郎が忌中なので、中林兵三郎と埋橋伝右衛門へ万事世話方を申しつける。,聞かされた、正月二十三日、藤井澄之助・藤森善太夫 (改頁) 別紙 手紙にて啓上
つかま
つる
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
○別所温泉 4左 40代天武天皇白鳳年間、信濃国の束間の湯(
つかま
のゆ)(注1)に行幸したときのことです,信濃国
筑摩
郡まで平定、さらに小県・佐久を平定しようとし、村々から案内人を呼び寄せました。,(注1)
筑摩
の湯ともいいます。
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
是よりは長野県の警部、群馬県の警部に代りて御先導仕(
つかま
つ)る。,明治四年(1872)
筑摩
県権参事。同年十二月長野県権参事に転任。,
筑摩
県においては明治六年(1873)五月
筑摩
県師範講習所を松本開智学校内に開設した。,明治四年(1871)伊那県が廃止となり新たに設けられた
筑摩
県参事に就任し、明治六年(1873)三月、
筑摩
県権令,
筑摩
県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した。
/ 1ページ