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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (筑摩村)

筑摩村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):松本市(まつもとし) 明治初期:筑摩村(つかまむら,(よみ):しょうないむら/うずはしむら/つかまむら/なかばやしむら/さんざいむら/こじまむら/かまだむら,あがたづか)/県宮(あがたのみや)/丹波塚/山家(やまべ)道/耳聞/中林(なかばやし)/大矢塚/塚間(つかま,(つかま)神社/深志神社/大宮社/諏訪社/神明社/天満社/野々宮社/神明社/鎮守両社/若宮社/県宮(あがたのみや,松平虎千代墓/水野信濃守元和墓/水野信濃守元和室常子墓/饅頭塚/劔墳/県墳/鬼塚/国司塚/古墳/信濃国束間(つかま / 筑摩村
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([現代訳])

安曇・筑摩両郡旧俗伝 / [現代訳] 安曇・筑摩両郡旧俗伝 「信府統記」第十七 筑摩・安曇両郡旧俗伝 一、わが信濃の国のなかで,そのいわれがはっきりしないこともあり、きちんと書くことはむずかしい、そのため、しばし筆をとることをやめたが、ここにまた筑摩,(つかま)・安曇(あずみ)の両郡において、昔から伝わる風俗や習慣の記録が少なくない、それらの話は詳細がわからないことも,を繋ぎとめておく石などもある、一説によれば、信濃の国の十二郡の     (改頁)   中でも筑摩,(つかま)八幡宮の社人が伝えてきたことだ、
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

○筑摩 松本 24    松本は、岡田へ1里、浅間温泉へ18町の地です。,金峯山牛伏寺普賢院威徳坊(筑摩郡内田村にあり、真言宗で高野山に属します)。    ,大昔は束間(つかま)の温泉といい、また、山部(やまべ)の湯ともいいました。,(注)束間(つかま)の湯は、『日本書紀』に、天武天皇が「束間の湯」に入るために行宮(あんぐう)の造営を,この「つかまの湯」は現在の浅間温泉もしくは美ヶ原温泉にあたるといわれています。   / ○筑摩 松本
違作書留帳 (3、江戸時代の神戸村)

江戸期から明治期までの村名で、筑摩郡(つかまぐん)に属しました。  ,明治2年(1869)に伊那県、同4年に筑摩県に所属し、同7年に笹下村(ささげむら)の一部となります。
信濃名勝詞林 (犀川を下る)

高井地方史研究会 寺島正友 30 犀川(さいがわ)を下る   松本君平(くんぺい)【注1】   筑摩,に足を留むる三日、或る時は殷富門院(いんぷもんいん)【注2】か「わきかへりもえてそ思ふうき人は束間(つかま,の途(みち)をは取らて犀川(さいがわ)を下りて見んと同行の人と便舟に搭してけり犀川(さいがわ)は源を筑摩,【注3】 古くは「束間(つかま)の温湯」と呼ばれ、日本書紀にも記された歴史ある温泉地。
『説諭要略』巻一 ([ルビ・注記])

明治二年(一八六九)伊那県に勤務し、同四年一一月筑摩県参事から権令となる。,明治維新後筑摩県が設置されると庶務課に勤務した。,第三十回   28  筑摩県管下。設立ノ学校。五百余校アリ。,村内学校へ献金  仕度(つかまつりたく)。賤婦(せんぷ)ノ志願ハ子ヲ養育スルノ外ニ出テス。,第五十回   39  筑摩県管内。各校元資金。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([翻刻])

這囘(コノタビ)ノ大変最甚キモノ水内(ミヌチ)更級(サラシナ)ニシテ、上ハ筑摩(ツカマ)安曇(アヅミ)
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

筑摩神社の神主が26日に、郷御目附へ罷り出るとのお達しがあった。     ,27日、このたび詮義があり、来月五日に宮本神明宮・筑摩八幡宮、同七日に保高明神、五穀就ならびに火難災難除,(改頁)   筑摩神社へ御祈祷について御出役、御奉行渡辺半太左衛門様、御手代松田五六太夫殿。,筑摩(つかま)村の庄次郎が忌中なので、中林兵三郎と埋橋伝右衛門へ万事世話方を申しつける。,聞かされた、正月二十三日、藤井澄之助・藤森善太夫     (改頁)   別紙 手紙にて啓上つかまつる
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

○別所温泉 4左    40代天武天皇白鳳年間、信濃国の束間の湯(つかまのゆ)(注1)に行幸したときのことです,信濃国筑摩郡まで平定、さらに小県・佐久を平定しようとし、村々から案内人を呼び寄せました。,(注1)筑摩の湯ともいいます。
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

是よりは長野県の警部、群馬県の警部に代りて御先導仕(つかまつ)る。,明治四年(1872)筑摩県権参事。同年十二月長野県権参事に転任。,筑摩県においては明治六年(1873)五月筑摩県師範講習所を松本開智学校内に開設した。,明治四年(1871)伊那県が廃止となり新たに設けられた筑摩県参事に就任し、明治六年(1873)三月、筑摩県権令,筑摩県では教育の普及に尽力し、県内を巡回し学制前に郷学校百数十校を設置した。
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