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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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木曾山林学校 (◎実験談)

乍併(しかしながら)学理的の試験をした訳でありません。唯事実上の御話であります。,蚊なるものは雌雄の二種ありまして人類を食害するは雌蚊でありまして、雄蚊は決して人類に害をなさぬものであると,云ふ事は動物学者の唱ふる処でありますが、雌蚊は動物の血液を吸収して生活を致すと云ふことであります。,即ち伝染病の媒介をする事でありますが、元来蚊なるものは人類の健否を問はず噛み付くものでありますから、罹病,放つものであります。
善光寺道名所図会 (○安曇 池田)

○安曇 池田 3左   宮本神明宮[宮本村にあり、仁科六十六郷神明の惣社なり、社領黒印廿三石、除地五石,瓊々杵尊 太玉命]四柱相殿  末社[○一ノ宮 ○ニノ宮 ○武山大明神 ○上諏訪 ○下諏訪以上本社の右にあり,内なり、[○稲荷 ○伊豆権現 ○子安 ○白山 ○九頭竜 ○天満宮 ○南宮 ○疱瘡神 以上ニノ鳥居内にあり,、] 拝殿[本社の前廻廊に続、] 神楽[同く前にあり、] 絵馬殿[同西にあり、] 御供所[同東にあり,なり、即前の内大臣 家の御歌あり、板に写して滝の傍に建つ、本書は横川氏に蔵む、
善光寺独案内 ([翻刻])

此尼の石 脾ハ西光寺にあり。猶尼の詠歌なり とて、同寺の什物にあり。,長野大林区署 右側にあり。 長野県監獄署 仝所次にあり。  ,別当大勧進 山門の下、西の方にあり。       前に池ありて蘭干  橋あり。,十三日十四日俄か物行列あり。 神明宮 東之門町四ッ辻にあり。  ,諸病に功あり。 ○立町 栄町の次なり。 長野県庁 左りにあり。 上水内郡役所 右側にあり。
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

掛茶屋が1軒(一の川より出る)あり、傍に芭蕉の句碑あります。,表に芭蕉、塚裏に さゝれ蟹足はい登る清水かな はせを とあります。  嶺に水茶舗があります。,古城虚空蔵山城は裏山の尾根にあり、主郭の東西に土居が残っていて、3郭よりなり2条の空堀や数個の帯曲輪があります,麻績城山は標高940メートルの山上にあり、3郭と数条の空堀、10あまりの帯曲輪があります。,江戸時代まで神宮寺もありました。
善光寺道名所図会 (○小県郡田中)

田中を出て左に摺臼宮というところがあり、木立が茂っています。,ここでは、むかし、洪水があり、山が崩れ、村々を押し流しました。,左の田の中に獅子岩があり、右に兜石があります。,諸村から5丁ほど西に、さかさ藤があります。,そのかたわらに、市神の祠があります。
木曾山林学校 (◎日本産重要針葉樹種子識別法)

が極めて少なくあります。,其色鮮明なる紫黒色で光沢があります。 一、〓《ネズコ》 種子は細長くて平たくあります。,故に羽の長さは殆んど種子の3倍ありまして、色は黄色を帯びて居る紫黒色であります。,種子の色は羽よりも多少濃厚であります。,其羽の尖端に少しく裂け目があり色は見悪(みにく)き紫黒色であります。
善光寺道名所図会 (○小県郡田中)

りに宿役を務るなり、田中を出放れて、左に摺      (改頁)   臼宮とて一村の木立茂りてあり,勧請してするすの宮と称す、右の方千曲川の向ふに布引山見ゆ、左は浅間 山の麓なり、此辺に袮津といふ城山あり,根津甚平鷹術巧手の事ハ、木曽路名所図会に出たり、往て見るべし、 加沢・朴屋・芝生田・深沢[此村に橋あり,藤今に栄へたり と是より南七町はかりに南殿の桜とて、大樹の桜三株あり、此傍に市神の祠あり、 此筋に,星見の井といふあり、此井戸に臨めバ、昼も星の影見ゆる、また鳴子橋とて 一枚石の橋あり、此上を通るに銕
善光寺道名所図会 (○筑摩 岡田)

○筑摩 岡田 24右    松本を立って、中原村・松岡村を過ぎ、下岡田の左に岡田神社があります。,鳥居から並木の松があり、本社まで7町、ほどなく岡田宿に至ります。4町ほど相対して民家が多いです。,宿のはずれに婦人を改める番所があり、松本藩が置いたものです。,登り30町、下り20町で、かりや原峠といいます・10町登ると右に茶屋があり、峠に3軒あります。,(注)岡田宿の北端で鉤(かぎ)の手に曲った所に、享保11年(1726)に新設された口留番所があり、明治
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

民家が多く、宿場の入口に唐松の大樹が2株あります。,「野を横に馬ひきむけよほとゝきす はせを(芭蕉)」という句碑があります。  ,ここに神明宮の森があり、祠の右脇に立石があります。    ,本堂南側に、高さ63センチメートルの自然石に刻んだ芭蕉の句碑があります。,碑面上部に芭蕉翁とあり、芭蕉の「奥の細道」のなかの句が刻まれています。
信濃奇談 (信濃奇談 下)

その処に観音ありて馬の疾を守り、馬の疾ある時にその土の人祈れハかならす効ありといふ。私にいふ。,異端の道を害する周に楊墨あり。漢に老あり。南北朝の間に仏あり。,[長門の国豊満宮の巽にあたりて小山あり。此山に仲哀帝の御墓所とてあり。,名のうさにありとも告て消るはゝ木々 その塚今福岡にあり。,里人あはかんとせしか、大に祟ありしとそ。[ついていふ。塚の北に深沢川あり。
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

乱橋(みだれはし)まで1里12町、そのおいだに立峠(たちとうげ)があります。,同石碑があります。本尊は阿弥陀如来(行基作)、前立正観音(最明寺殿作)。  ,これから5町行って、右側に弘法袈裟掛松という1本の古松があり、奥に無量寺という寺があり、また2町行って,、岩井堂村に弘法大師の古跡があり、岩井堂といいます。,寺宝に桃山時代の過去帳・真田系図・狩野派の屏風などがあります。
善光寺道名所図会 (○筑摩 法橋)

左   間の宿なり、法橋は西条村の小名にて、四丁程相対す、青柳宿へ三 十町なり、未申の山に古城地あり,、鬼熊左衛門尉といひし人の居城 なりしと云、西条より左へ脇道に入て別所村の内に明礬の出る岩山あり、樵,が家に憩ふ、其傍なる舟森山に神 明の宮立給ふ、これハ嘉承二年始て、当国の内七箇所へ伊勢より 勧請ありし,夏木立生茂り、実に一艘の大 船に物を積たるごとき形容なり、神躰は天照大神・春日を祀る、 社の側に歌碑あり,、        (略)          29左   仁熊山の古城地は村より亥の方にあり
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

33右   六町程相対して巷をなす、其余町裏に散在す、稲荷山宿へ三里、 此間猿ケ馬場といふ峠あり,、 宿の入口左側に仏眼山法善寺[曹洞派、寺領八石]の黒門の脇に庚申の祠反 古塚等あり、又宿中程北裏,此宿を立出て十八町行一の川村、是猿が馬場の登り口なり、暫く 登りて左側に、弘法袈裟掛松とて一古松あり,、麓に清泉涌出る、蟹 清水といふなり、掛茶屋一軒[一の川より出る、]傍に芭蕉翁句碑あり、表に芭蕉、,、是筑摩郡・更科郡の境なり、右に猿飛とて 大岩二ッ三ッ見ゆる、十八丁下りて燧石に茶屋あり、名月屋寅蔵
朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) ([翻刻])

後宮も舟にて開善寺へ避給へり、開善寺滞 留中 滿姫君病にて卒し給ふ誠に大変と謂 つべし、其後川普請あり,れたり]分水の砌は城の搆の川へも水多 く来り、神田川の落尻清次(須)町末馬喰町裏に 堀切とて舟渡あり,、其近邊に舟頭の宅もあり     (改頁)   十河守衛[今半蔵] 小幡糺,、妻女山の東の麓に石地 蔵あり、其辺に家四、五宇あり四ッ屋村といへり、 茶店はなけれ共旅人は立寄、,休息の所とす、此石 地蔵は道の傍にあり、前に言如く妻女山を越 土口坂へかゝり雨宮、矢代と行事なり、
木曾山林学校 (西澤教論告別式(こくべつしき:ここでは送別の式のこと))

め、8日午後零時半より雨天体操場に於て告別式を挙行せるが、校長の挨拶に次(つい)で西澤教諭の告別の辞あり,生徒総代の送辞ありて閉式す。夫(そ)れより直に送別会を教場に開く。,先づ研究部長の開会の辞ありて茶菓の饗応あり。,終りに先生の謝辞ありて閉式す。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

、        (略)          26左   ○宮村大明神[城下の辰巳の方にあり,慶長の頃、小笠原侯鎌田村より爰に天神を勧請して、宮村  明神の社壇の北に建並べたまふ、大門先に馬場あり,、]今ハ民家五軒程あり、又少し北の小高き  処に石の小祠ありて、注連縄を引栄て御府といふなり、此辺松林,、所謂讃岐の象頭山の類なるべし、奥の院鉢伏山まて十八町、  権現の社あり、社頭に掛る所の歌二首あり、,、此杉男女の縁を  祈るに験ありとぞ、講堂の阿遮羅王ハ弘法大師の作仏なり、境内に雄鳥  羽の滝あり
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

郷原 21左   村井迄一里半、南北八丁程相対して巷をなす、民家多し、宿の入口 に唐松の大樹二株あり,、巽の方へ壱町バかり列樹の松茂り、朱の鳥 居見へて、稲荷の祠あり、郷原の産上神とす、 ○郷福寺[桔梗山白馬院,惣門等焼失して仮殿なり、句碑有、   野を横に馬〓むけよほとゝきす    はせを 原新田村の入口に分れ道あり,、甲州の元善光寺へ参り、夫より塩尻宿へ出て、此 道へ来るなり、[塩尻より是迄弐里]此側に神明宮の森あり,、祠の右脇に立石あり、      (改頁)      22右     両太神宮へ四十八度、
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

特産物としては、上田縞・紬・白紬などがあります。,六所明神、駒形稲荷、天神は、本社の右にあり、神木である楠の古株と三峰は本社の左にあります。,ほかに、舞殿、朱の鳥居、石橋、手水鉢があります。  ,上田から1里、小県郡白鳥庄国分寺村にあり真言院と号しています。  ,(注2)上田城下には海野町と原町に問屋がありました。
善光寺道名所図会 (○筑摩 法橋)

青柳宿へ30町で、南西の方角の山に古城地があります。鬼熊左衛門尉という人の居城といいます。,西条から左へ脇道に入って別所村のうちに明礬(みょうばん)の出る岩山があります。,仁熊村の医師雅名富迺門真村の家に休憩して、そのわきにある舟森(ふなもり)山に神明の宮があります。,社のそばに歌碑があります。  仁熊山の古城地は、村から北北西の方角にあり、青柳伊勢守の持城です。
信州善光寺御堂額之写 ([現代訳])

念仏を唱えておりましたところ、夜の明けるのにしたがって、仏前の様子がありありと拝見できたので、本当にありがたく,して、穏やかに念仏を唱えながら夜通し拝んでおりますと、明け方、夢ともうつつともなく善光寺如来のご来迎をありありと,ありがたいという言葉ではとても足りません。,い尋ねながら善光寺に参詣し、7日間お籠りをしたところ、満願の暁に、善光寺如来が光り輝き来迎される様をありありと,たいへんありがたく、絵馬をお納めしました。   
寛保二年九月上畑村水災につき当立毛御見捨願 ([現代訳])

はいうまでもなく、家屋敷・家財・食糧・衣類・種物・諸道具・糞・灰まで、残らず流失し、御役所より下された物も全くありません,当八月の大満水によっておびただしい田畑・家財が流失したので、鎌・鍬・諸道具を購入する代金がありません。,そのため田地を開発するすべがありません。,そうすれば大小百姓ありがたく存じます。
善光寺道名所図会 (○小県郡海野)

○小県郡海野 18左   七町程相対して巷をなす、民家多し、町中に溝あり、むかし木曽殿の  侍宇野平四郎幸氏,、小坂多し、      (改頁)      20右     白鳥大明神[海野宿町中左側にあり,]例祭八月十二日、相撲ありて近里遠境の角力取共 寄集り、見物の貴賤群集をなす、上田の士民多し、神主石和氏
善光寺道名所図会 (○下戸倉)

八丁程相対して巷をなす、立場なり、有明山の麓にて、姥捨山ハ西に 見ゆる、上戸倉苅谷原右に見て、笄の渡場あり,を立たる如くなるに、右は千隈川の急流渦巻 て眩暈をなすばかりなり、冠着山西に相対す、ばせを翁の句碑あり,[或曰、此句芭蕉翁ならず、加賀侯の藩中なりと、]  横吹坂を下る、左の谷に地蔵菩の丈五尺計なる石像あり,といふ、その 故は、むかし径弐尺五寸計の鍋蓋程の銕に観音の像を鋳着て、鎖を以て 木の枝につるしてありしが
信濃奇談 (信濃奇談 上)

狐の玉 我藩士に岡田の某といふ人あり。,また吉田氏にも狐の玉あり。その玉を得しやうは岡田氏と同し。猶他州にも是に類する事ありと聞ぬ。,爪に水かきなとありぬ。,寛永年中武州江戸に駿馬あり、耳の下に角を生す。長二寸余あり。,中尾村にも木魂石と名付たる地ありて、是も其声相応せり。 伊勢にも市野瀬谷に鸚鵡石あり。
善光寺道名所図会 (○小県郡海野)

○小県郡海野 18左    道の両側7町ほどがにぎやかな町通りで、民家が多く、町中に溝があります。,白鳥大明神  大明神がまつられている白鳥神社は、海野宿町中の左側にあり(注1)、例祭は8月12日です,相撲があり方々から相撲とりが集まり、見物人が群れを成します。上田の住人が多いです。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([現代訳])

○『扶桑略記』(第22)に次のように書いてあります。,私には願いがあります。,今も北の郡には大沼がたくさんあります。これはそのなごりでしょう。,この地は北に戸隠の険しい山々があり、南には犀川が流れ、西に境川があり、東に裾花川があって、いわば島のようになっています,再び橋を架ける手段はほとんどありません」とのことでした。
善光寺道名所図会 (○安曇 池田)

○安曇 池田 3左    宮本神明は宮本村にあり、仁科66郷神明の惣社です。,末社は、一ノ宮・二ノ宮・武山大明神・上諏訪・下諏訪、以上は本社の右にあります。  ,拝殿は、本社の前廻廊に続き、神楽は同じく前にあり、絵馬殿は同西にあり、御供所は同東にあります。,籠屋は下段の西にあり、二ノ烏居。  ,5右    清音(きよと)の滝は、常光寺村横川氏の裏山にあります。
善光寺道名所図会 (○下戸倉)

上戸倉の苅谷原を右に見て、さらに進むと笄(こうがい)の渡し場(注8)があります。,ここに、松尾芭蕉の句碑があります。    ,横笛坂を下ると、左の谷に高さ5尺の石仏があります。つるし仏といっています。,むかしは、直径2尺5寸ばかりの鍋蓋くらいの鉄に観音の像を鋳着け、鎖で木の枝に吊るしてありましたが、いまは,渡ろうとしましたが、渡し賃を持っていなかったので、髪にさしてあった笄を船頭に渡して通ったという伝承があります
善光寺道名所図会 (○安曇 池田)

この宿の西に近く有明山という高山があります。,西行上人が詠んだといい伝えられている歌があります。  ,また、この地方の霊山として崇敬されており、修験道場でもありました。,「有明山に鉢巻雲が現れると雨になる」の諺にあるように、祈雨を願う山でもありました。
木曾山林学校 (シユリツヒ氏森林学抄訳 『第14号つづき』)

或は他国を支配せる事あり。,又或一国は石炭に富めるを以て薪材は第2位なることあり。,又或国は鉄其他の鉱物に富める故に用材の必要少きことあり。,此問題は各国種々なる特殊の事情ありて決定せらる。,然れども此等の諸国は、多くは海洋に境せる地方にして他の前記の諸国と差異あり。
地震後世俗語之種 (絵の解説)

丹波島宿(丹波島駅)は渡船場の南西にありました。,この札の説明は1-18の左側にあります。,という注記があります。,柱には、「らく書かたく無用」と掲示してあります。江戸時代には本堂の柱や壁に沢山の落書きがありました。,雨漏りを防ぐため、屋根には唐傘も広げてあります。奥には高札が何枚も置いてあります。
木曾山林学校 (創立20周年を迎へて所感を述ぶ)

かゝる中にありて我校が林学科丈で独立せることは大に誇りとする所である。,今の秋(とき:大切な時機)は徒に国立騒(こくりつさわぎ:注2)を為す時ではありません。,我々は内にありて只管(ひたす)ら校風の発揚と内容の充実を計らなければなりません。,、既往の光輝ある歴史は益々耀くでありましやう。,かくて全国有為なる青年は風を望んで蘇門(そもん:注3)に集まるでありましやう。
善光寺道名所図会 (○筑摩 村井)

宿の入口左側に神明の杜があり、ここの本居神です。,ここから西3丁の社の中に椿太明神社があります。,村井を出て富士見橋側に次のような句碑があります。  ,雲にかくれたり  霧しくれ富士を見ぬ日そおもしろき はせを(芭蕉)  この句は、芭蕉翁の袖日記にあり
信州善光寺御堂額之写 ([翻刻])

ふしぎにもありがたく、現当二世のためにとて ゑまを納申候。  ,/\とおかみけれハ、まことに/\ ありかたく、そのまゝをゑまにして、御りやくを 人々に しらせ,ありかたくうれしきのまゝに、 ほうしやをしてこのゑまを あけ申候。     ,あまり/\ありかたく、かくにして納申候。,あまり/\ ありがたく ゑまを あけ申候。  
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

せり        (略)          20左   神明宮[宿をはなれて右手の堤にあり,、当所の産土神とす、天照太神を崇祀る、] 義仲馬洗水[太田の清水といふ、洗馬訳を出て、左の方にあり、,太田村の内な り、木曽義仲馬をあらひしより、今に此名あり、是より十八丁西に元洗馬あり、木曽川 にあづま,大河となり、松本の西にいたり、熊倉の橋辺より犀川といふ、] 肘松 洗馬を出て、塩尻の方へ別るゝ坂口にあり
安曇・筑摩両郡旧俗伝 (2、「信府統記」の内容と史料価値)

2、「信府統記」の内容と史料価値 享保期に書かれた「信府統記」より以前の記録がほとんどありません。,松本領域の歴史を知る江戸時代の村関係史料はいくつかありますが、松本藩がまとめた史料は皆無といってよいでしょう,それだけに、「信府統記」は、藩が独自にまとめた記録であり、その利用価値も高いのです。  
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

があります。  ,座敷湯があります。,安曇郡穂高村にあります、奥宮は穂高岳にあり、ここから行程9里余、本社奥宮ともに東面です。,牛頭天王、子安神、苦宮社、五本杉(井垣の南にあります)、2本杉(大門にあります)。,天満宮(境外北の方天神原にあり、側に高島一翁の筆塚があります)。
天保飢愁 ([解説])

けれども、特別の凶作というほどでもなかったとあります。,数年来の凶作で栄養不良になっていた人が多い中での伝染病であり、折角飢饉をしのいだにもかかわらず、これで,例えば上州吾妻郡大笹村(現嬬恋村)では、110軒程の所で死者167人と聞いたとあります。  ,その一方で、アフリカなどでは飢餓が原因で命を落としている大勢の子どもたちがいるという現実があります。,一茶没後間もない時期でも、既にその知名度  が高かった様子もうかがわれ、興味深いものがあります。
分県之建白 (分県の建白)

ただ政府の方針をうかがい、思いがけない希望を求めるしかありません。  ,南と北が二つに分かれるのは自然の地形によるものであり、その間はそれぞれかけ離れてはいても、深く悩むことはありません,県民からこうした事態を見れば、大いに笑うべきことではありますが、その勢いは止まることがありません。,さらにまた、県庁の位置は、北部の上水内郡長野町にあります。,これを南部とくらべてみれば、その差は天と地のように大きな隔たりがあります。
寛保三年三月復旧方懇願書 ([現代訳])

をもって願い上げ奉る口上の覚え 一、中山道望月新町は、本町(望月宿)に続く村ですが、鹿曲川の対岸にあり,このたび吉田久左衛門様がご見分して下さった節に、お願いしたとおりに堤防工事をしていただければありがたく,ご見分のうえ、堤防工事をしていただければありがたく存じます。,右にお願いしたとおりに工事をしていただければありがたく存じます。
木曾山林学校 (1.木曽ノ天然)

今累年極寒時の平均温度を見るに華氏27、8度(注1-2)の間にあり。,固より食料に乏しく穀芽魚肉多くは之を他に仰ぐと雖(いえども)、而(しかれど)も山谷自ら栗あり松茸あり小鳥,あり岩魚あり。,道程実に20余里、古来十一宿の制あり。,既に彼の名山水あり、而して又此人情風俗の美質あり、見る所接する所皆以     (改頁)      
木曾山林学校 (23.諸種の会合)

するもの (注 「通学生に関するもの」の表は原本ビューワ55コマを参照) 以上列記する処、通学生会あり,、寄宿生会あり、一団としては校友会あり。
松本藩庄内組大庄屋御用留 (1、御用留)

松本市文書館 小松芳郎  近世文書のなかで、ひときわ厚手で綴じがしっかりしているもののひとつに御用留があります,江戸時代の村役入が作成した、いねば公文書であり、当時の様子を知るのに有力な手がかりとなる史料です。,庄内組は松本藩の筑摩郡五組のうちのひとつで、享保十年段階で13か村が組内にありました。,弘化4年1月9日は「大雨」、10日「曇ル」、16日「夜ヨリ雨」、19日「快晴」、28日「快晴暖」とあります,連絡の例では、たとえば2月28日に、「殿様埋橋御塚江、以来今朝四ツ時御参詣之儀被仰出」「両村へ達ス」とあります
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

(注)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う,20左    神明宮は、洗馬宿をはなれた右手の堤にあり、ここの産土神です。,洗馬宿を出て左の方にあり、太田村のなかです。木曽義仲が馬を洗ったので、この名がついています。,ここを流れる木曽川は、中山道の木曽川ではありません(いまの奈良川)。,肘松が、洗馬を出て塩尻の方へ別れる坂口にあります。
木曾山林学校 (◎小川木山祭を視(み)る)

◎小川木山祭を視(み)る 17 明治35年(1902)6月3日の事でありました。,して行きましたが、此日は天気もよし又時節もよいのか、人々の拝観するものが引続いて中々道もせまいくらいでありました,くことが12、3町にして伐木事務所へ着き、それから御神木所在地式場迄は6町許(ばか)りであつて、路が急でありますから,此木は扁柏(ヒノキ)でありまして樹長20メート余りで、2本共同じ大さで周囲が6尺9寸許り、胸高直径2尺,2寸、4間の末口直径1尺7寸許りの木でありました。
木曾山林学校 (◎農業実習地)

◎農業実習地 25 農業の実習は別つて2種として居(お)りますが、一は水田の実習で一は畑の実習であります,あらくすき間があること)なるが為(た)め、水持ち悪しくして往々(おうおう:くり返し起こるさま)乾燥するの憂あり,其種類により甚だしく分蘖(ぶんげつ:注39)したるものは2本より3本4本5本6本位迄あり。,(シロダイズ)  5月22日   大麻(タイマ:麻のこと) 北海道 畑作物は此外に蕪菜(カブナ)ありて,皆充分の生長をなしつゝあり。
善光寺道名所図会 (○筑摩 村井)

    松本ヘ一里半、南北六丁余、相対して巷をなす、民家多く町裏に散在  す、宿の入口左側に神明の杜あり,伊勢両皇太神を勧請して、例祭六月十六日なり、神主永持越中といふ、 ○椿太明神社[是より西三丁社の中に宮あり,祭神猿田彦命、天正十八庚寅年豊臣家の時六石の  地を属せらる、例祭六月十五日なり、村井を出て富士見橋側に句碑あり
上田の早苗 ([翻刻])

上田原町成沢寛経翁ノ著ナリ、今鷲見氏ノ蔵 写本ヲ借リテ謄写ス、但此写本ノ表紙ニ上田の早苗[其他聞書綴こみ]トアリテ, テ、同十二年町割夫々沙汰アリト云々、此説ヲ正トスヘシ、 一一書云、天正十年三月旧主武田勝頼織田家,其後今ノ追手御番所辺へ引移シ、[今按スルニ御番所   後石垣ノ裏ニ六地蔵ノ石像一基アリテ松平隼人家庭,、 一真田村ト原村ノ往来ニいつとう坂ト云坂アリ、是ハ真田一当斎昌幸ノ居館原  村境ニ物見番所アリタル,、今ハ廃して字のみあり、 一上田原の田圃中にさんへい塚といふ古墳あり、大サ径り六間余、但場所は村
明治3年歎願書 ([現代訳])

そのうちの 7、8割は信濃国のものであり、さらにその多くが上田領管内の損失となっております。  ,を受け取り、証人も立ててあります。,事態が眼前にありますので、慈悲の無い返済強要はいたしかねます。,このたび藩内に勧農社を設立する趣旨が出され、ありがたく存じております。,昨明治2年にも囲い米をするようご指示があり、私一人の判断で積み立ててきました。  
木曾山林学校 (造林上の雑感)

たる木曽御料林の伐採後に造林せらるゝ方法の内、1町歩の植付本数6,000本乃至(ないし)極端なるものにありては,1町歩9,000本に及べるものあり。,之等(これら)の原因には種々ありと雖最上(さいじょう:この上ない)注意を要すべきは、実力に欠たる高等学府,      17   ても尚且(なおかつ:それでもやはり)密に失する(しっする:すぎる)感あり,、止む無く北海道・樺太の杉・樅を以て需用を充たしつゝあり。
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