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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)

寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」 その六 明治元年六月~, もの々直すへて安くなる時 七月廿六日 夜明前より朝雰露ふかし       快晴 朝之間秋冷,のこよひしも つれなき雨に月をかくして 春よりもいかなる事かいはひ日や 神の祭りに雨やふるらん,      のふりくる 世は乱れ人の道まて破るれは 往来のみちも流れ崩る々 もの々ふのいとみ戦ふ,見て 散り残る紅葉もあるを白/\と 冬を知らせし今朝の初雪 又 冬来しといそきて 雪はしらせけり / 寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」
松代まちあるきマップ (8象山神社 象山記念館)

松代まちあるきマップ / 、フルサイズの画像が表示されます。,松代が生んだ幕末・維新の先覚者佐久間象山を祀る。,社殿前のご神木イロハカエデは、初代藩主信之の忠臣鈴木右近の屋敷跡から移植した樹齢三百年以上の古木。,神社には、象山にちなみ知恵と学問の神様として多くの参拝者が訪れている。,がある。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (面替村)

面替村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):御代田町(みよたまち) 明治初期:面替村(おもかえむら,) 幕末から明治初期:思替村 幕末から明治初期(よみ):おもかえむら 『長野県町村誌』 2巻 ,p2174に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 仁桑川原/中仁桑/仁桑上川原/一ノ沢/天狗岩,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 面替村(図) 史料ID:2-1 12-7 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 御代田町誌/北佐久郡誌
木曾山林学校 (12.本校の実習に対する便宜)

12.本校の実習に対する便宜 35 実業学校に対し必要なる設備は元より多々あるべしと雖も、殊に実習地,は最も緊要なる施設の一なるべし。,3回の実習を施行し得るに過ぎざるべく、加ふるに往復の為め多くの日数と精力とを徒費すること多く、元より農業実習,然るに本校は林業に関する教育を施すべき目的を以て設置せられたるものなれば、其位置の如きも有名なる木曽の,教室に居て尚樹種の識別をなし得べきが故に、農業学校に於ける農業実習地よりも却(かえっ)て多くの便宜を得 / 12.本校の実習に対する便宜
木曾山林学校 ([解説])

木曽山林資料館 山口登  第2代校長江畑猷之允は、『木曾山林学校々友会報』の名称を『岐蘇校友』にかえ,それらは中堅技術者が現場の目線でとらえたもので、大いに注目するものがある。,こうしてこの雑誌は内容のあるものになっていった。,なお19号の内容は意欲的な教師たちによる原書からの翻訳、林業関係の先端記事、卒業生の任地からの報告及び,生きいきとした校内ニュースなどである。
『説諭要略』巻一 ([ルビ・注記])

冠婚葬祭  ヨリ大ナルハナシ。然ルニ人民分限(ぶんげん)(注14)ヲ顧(かえりみ)ルヘキニ。,轍ヲ易(かえ)。轅(ながえ)(注2)ヲ改メ。教場ヲ成シタリ。,反(かえっ)テ彼レヲ排シテ。学校ヲ尊奉(そんぽう)セシ  ト云。    ,我業不成(ならずん)ハ誓(ちかっ)テ不帰(かえらず)ト。某ノ学校ニ到  リ。其教師ト協義。,(2)わるがしこい商人。 (3)物品を売って金銭にかえる。       / [ルビ・注記]
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (千栄村)

げろくぼむら/よねみねむら/おおごおりむら 『長野県町村誌』 3巻 p3625に掲載 該当ページを見る,/大平山/茨山/洞白山 川: 米川/楓川/天竜川 渡・堰: 下村渡 橋: 川尻橋/楓橋(かえでばし,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 千栄村(図) 史料ID:6-1 1-24 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 千代村誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (豊栄村)

豊栄村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):栄村(さかえむら) 明治初期:豊栄村(とよさかむら,明治初期(よみ):しらとりむら/ひらたきむら 『長野県町村誌』 1巻 p676に掲載 該当ページを見る,キーワード 字地: 枡沢(ますざわ)/大門/荒井/北沢/白鳥沢/樽川(たるかわ)/上之山/中谷地(,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 豊榮村(図) 史料ID:16-1 1-19 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 栄村史/下水内郡誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (北信村)

北信村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):栄村(さかえむら) 明治初期:北信村(ほくしんむら,明治初期(よみ):あおくらやま/もりむら 『長野県町村誌』 1巻 p681に掲載 該当ページを見る,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 北信村(図) 史料ID:16-1 1-20 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 栄村史/下水内郡誌
善光寺道名所図会 (○埴科郡矢代)

古代、土地をはらい清めて斎場をつくり神につかえ祈る儀式がありました。,蚕種紙に生み付かせた蚕の卵が、春の穀雨の頃に生まれることを「帰る」といいます。,蚕種を採る場合は、蔟に張られた繭から、形の良いものを選び出し、糸に括り、つるしておくと蛾が出てきます。,(注2)蚕をそだてる床です。 (注3)卵からかえったばかりの蚕。,(注4)蚕が脱皮するために、桑を食べることをやめ、眠ったように静かにしている時期のことで、休み、トマリ
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (豊津村)

明治初期:豊津村(とよつむら) 幕末から明治初期:替佐村/笠倉山 幕末から明治初期(よみ):かえさむら,/かさくらやま 『長野県町村誌』 1巻 p570に掲載 該当ページを見る キーワード 字地:,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 豊津村全図 史料ID:16-1 1-2 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 豊田村誌/下水内郡誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (飯田村)

幕末から明治初期(よみ):いいだむら 『長野県町村誌』 1巻 p820に掲載 該当ページを見る,みやまえとおり)/千隈川端(ちくまがわばた)/北屋敷(きたやしき)/南屋敷(みなみやしき)/古屋敷(ふるやしき,千曲川(ちくまがわ)/松川(まつかわ)/百々川(どどがわ)/松川堤防(まつかわていぼう)/同控堤(どうひかえつつみ,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 飯田村(図) 史料ID:13-1 3-14 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 小布施町史/上高井郡誌
違作書留帳 ([現代訳])

、粟一両に一石かえとなる、高直の噂という、 九月九日に大霜が降りる、作物に影響がでる、 九月二十一日頃, 一両 八斗かえ、三月二十六日頃 大豆相場一両につき八斗六升かえ、四月五日頃 粟一両につき一壱石四升かえ,四斗六升かえ、八月十一日 米一両につき八斗二升かえ、八月餅白米一両に六斗五升かえ、八月十四日 白米一両,につき相場九斗かえ、八月二十五日白米一両に九斗八升かえ、     (改頁)   穀類がだんだんと,値が下がっていき、十二月極月 玄米一両に一石四斗かえ、一石五斗かえとも申す、酒も伊那の酒がこちらにはいってきて
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (市川村)

むしうやま/なながまきむら/ひがしおおたきむら 『長野県町村誌』 1巻 p1122に掲載 該当ページを見る,)/下手(しもて)/外水(そとみず)/新田(しんでん)/沖ノ原(おきのはら)/矢垂(やだれ)/蛙橋(かえるばし,やまやしき) 山: 日影山(ひかげやま)/宮ノ上山(みやのうえやま)/水尾山(みずおやま)/小丸山(こまるやま,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 市川村(図) 史料ID:14-1 3-54 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 野沢温泉村史/下高井郡誌
江戸生艶気蒲焼 ([解題])

入れ墨をする、熱狂的なファンが役者の家に押し掛ける風潮にあやかり、踊り子を五十両で雇って家に駆けこませるなどするが,ほかにも、役者や遊女がよくやるふるまいを真似てくだらない演技をするが、世間では「金持ちゆえの欲得でやっている,着物はみんなあげるから命だけはお助けを」と懇願する。  ,艶二郎はそれを聞いて心を入れかえ真人間になる。浮名も他へ行く気もないので艶二郎と夫婦になる。  ,さらに、余りある資産で妄動を重ねる人物の存在と、それを冷ややかに眺める庶民の存在を対照的に描いて現実を
明治5年 議定書 ([解説])

言いかえれば、明治維新期にはすでに新政府がこれを認めざるを得ない土地所有関係になっていた、ということにもなります,維新当初は、年貢を納めるという旧来と同じ土地税制でしたが、明治五年に「壬申地券」が交付されることになりました,この規則は「地券ハ地主タルノ確証」とあり、土地の売買、譲渡のたびに地券を発行することにしています。,同七月になると全国の土地所有者のすべてに地券が発行され、その所有権を保障する、という体制になりました。,地租を徴収することがそのねらいでした。
パスファインダー (大谷幸蔵)

キーワード 概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 絹織物販売,心を入れかえた幸蔵は上田産の絹織物商売で 成功、江戸日本橋に「大黒屋幸蔵」の暖簾をかかげる。,蚕種を輸出するが、蚕種の大暴落にあい最 大の危機に直面する。,打開するため明治3年イタリアに渡り現地で蚕種 販売をはじめる。,で原本画像を見ることができる 1/2 信州地域史料アーカイブ 大谷幸蔵 雑誌
パスファインダー (淀川茂重と研究学級)

トピック(テーマ) 淀川茂重と研究学級 ねらい 「児童の教育は、児童にたちかえり,淀川 の経歴、教育研究の概要について知ることができる。,このとき附属小学校では国定教科書による授業研究行きづまり を打開するため、教科書と時間割の枠をはずし、,、記事論文を探すことができる。,、記事論文を探すことができる。
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

は少なかるべしと思はる。,宿 に戻ったので、女中が、早速に明神様に、を参りなさいま したかと聞くから、往(い)くときも復(かえ,、佐治君は、小兵ではあるが、身 体ががっちりして居るので、甲種たるが当然である。,て居るのである。,、感涙(かんるい)に咽(むせ)びたるも の、多かりしとは、左(さ)もあるべきことである。   / [ルビ・注記]
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (科野村)

:あかいわむら/こしむら/ふかさわむら 『長野県町村誌』 1巻 p1032に掲載 該当ページを見る,たかやしろやまじんぐうじあと)/笠原牧跡(かさはらまきあと)/金堀塚(かなぼりづか)/飛石(とびいし)/抱石(かかえいし,明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 科野村全図 史料ID:14-1 3-37 目録を見る,変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 中野市誌/下高井郡誌
木曾山林学校 (◎林業の方面より観察したる森林教育)

此(この)目的を達するには各種の実業を盛ならしむる外、善い手段はないのである。,何の役にも立たざるべく、軍隊に於て訓錬せられたる精鋭なる兵士にあらざれば、戦場に於て大功を奏する事は出来,却(かえ)って退歩し、公私有の森林は濫伐(らんばつ:乱伐)の弊を蒙(こおむ)り荒廃を来たせり。,短かき期間に僅かなる資本と労力とを費し、可成(なるべく)大なる生産を得るのが林業の本である。,することを得るのである。 / ◎林業の方面より観察したる森林教育
木曾山林学校 (20.在学生状況一般)

相半するの状態にして、従ひて生徒の学力の相違甚しく教授上不便を感ずる事少なからざるも、寧(むし)ろ後者,の多からん事を希望するものにして、諸外邦に於ける実業学校の如きは、入学前一定期間実務に従事したる経歴あることを,したる者との間に顕著なる差違あるを見る。,却(かえっ)て生徒各個操行上に於ける欠缺(けんけつ:不足すること)は年少者に多きを見る。,、卒業生一般の章に於て述ぶるが如く学校の性質上已むを得ざる事情なりとす。
木曾山林学校 (◎実験談)

1、蚊の種類 蚊は何人も知る如(ごと)く人身を苦める処の害虫であります。,蚊なるものは雌雄の二種ありまして人類を食害するは雌蚊でありまして、雄蚊は決して人類に害をなさぬものであると,2、行はれつゝある駆除法及び予防法 斯の害虫を駆除する為には薬品を穢水渟池(わいすいていち:汚れた水がたまっている,従て他の燻煙法(くんえんほう:煙の出る物を燃やしていぶす方法)は其効が少ないのみならず、却(かえっ)て,)するの原因となるものでありす。
違作書留帳 (4、『松本市史』記述の天保の飢饉)

(中略)  丸山角之丞が「違作書留帳」に、「おだやかにして世上静になる」としるすように、天保5年の暮,れに人々はひと息つくことができ、正月をむかえた。,各地で盗人が横行し、「乞食」も多数はいりこんできたため、村の入口に番人をたてる村もあちこちにみられるようになった,天保の飢饉は、人々に家存続のありかたを意識させるものとなった。,しかし荒廃した農村は、角之丞が「元の如くに相成り兼る」としるすように回復することはなかった。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (堺村)

堺村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):栄村(さかえむら) 明治初期:堺村(さかいむら,明治初期(よみ):しくみむら/みづくりむら 『長野県町村誌』 1巻 p1129に掲載 該当ページを見る,こみつくり)/薬師堂(やくしどう)/船場(ふなば)/町裏(まちうら) 山: 幕山(まくやま)/樽山(たるやま,) その他特記ワード: 切明温泉(きりあけおんせん)/和山湯(わやまゆ) 変遷図 変遷図を見る
木曾山林学校 (学術論説)

氏の注入法による木材染色術なる記事の大要を翻訳せし者(注2)にて、固より挿入せる説明図は本紙に転載する,注入法による木材染色術も又防腐剤注入法と同一の径路による者にして、防腐剤に代ゆる種々なる色素を注入して,即ち長さ1米突(メートル)の丸太材は僅(わずか)に3、40分にして満足なる結果を得るのみならず、長大なる,2   同  槭(カエデ)        3―4 同  赤楊(セキヨウ:注4)    3―4 同,然(しか)らざれば一旦注入したる染色液の流出する恐れあるのみならず、材の各部捺染の度を異にする恐れあればなり
パスファインダー (力士雷電(1))

落語や芝居で語り継がれ、伝説も数多く残っている彼の生 きざまを、架空のエピソードもまじえて紹介する。,内容紹介 河出書房新社 1994.6 天明、寛政、化政期、彗星のごとく現われた巨人が相撲をかえた,が載っているかを調べ ることができる。,・記事論文・デジタル資料などか ら探すことができる。,を、図書などから探すことができる。
長野師範学校は初めて学年・学期を定め、開業式・卒業式を挙行 (長野師範学校開業式)

大野県令着坐 一同敬礼 第三 唱歌 松の小陰 見渡セハ 春の弥    生 第四 校長能勢栄(のせさかえ,出テヽ育英ノ責任ヲ帯フルハ即チ流派ナ リ。,(4)中国の甘粛省・陝西省を流れ、潼関で黄河に合流する川。流域には周・秦・漢・唐の旧都がある。,(6)任にあたる。 (7)戒めしばること。 (8)文運。 (9)悪賢い。,(13)事の原因する所。
検地仕法 ([解説])

の丸山角之丞がえがいたこの検地の絵図は、今井村(松本市今井)と古見村(東筑摩郡朝日村)との用水をめぐる紛争解決,鎖川(くさりがわ)用水に依存する今井・古見・小野沢新田(朝日村)・針尾(同)4か村の水をめぐる出入ははやくからはじまっていましたが,、安永8年(1779)には江戸訴訟のすえ、近隣4か村の村役人による仲裁によって一応の解決をみていました,、13年(1829、1830)には江戸の評定所への訴訟合戦を繰りかえしていました。,5月から12月にかけての長期にわたるものでした。  
はなの ([追善連句])

頃 八朗 木耳を一荷売まで旅寝して 碓嶺 同じ願ひをたてる方の子 可中 山風の吹とぎれたる,春の末 文海 垣根の岨(そば)におりるうぐひす 白太 青海苔の匂ひこぼるゝ膳のうへ 天姥,八朗 麻袴終は下濃に着ふるして 碩布 祝ひがましく酒ごのみする 秀雄 鹿追バ追れて帰る月,口癖に鴨よ/\と売ありき 鶴朗 碁盤直せバ壁につかえる 金翠 月の出る山は必ずほのぐらく,浜古 萩に桔梗にこゝろおかるゝ 八麗 渋鮎のさびも中/\美しく 英鳥 畑ふミたる子にも扣せる
パスファインダー (市川谷の鮭漁)

の歴史的関係、及び千 曲川流域における鮭漁について分かりやすく説明している。,の収益に対して課せられる川 役について、四か所の鮭猟場を事例に具体的に説明している。,市川谷の鮭漁 インターネット 情報 雑誌名 公民館報 さかえ 出版年 平成30年7月1,鮭の種類や生活がわかる「サケマス図鑑」、鮭の栄養や加工がわ かる「鮭と食」など情報満載である。,過去の漁業実績や加工品製 造等から、現在も鮭が特別な魚と認識されている様子を検証している。
俳諧二重染 ([下巻])

言い張る意から、物の道理をことさら言い曲げること。,瞽女はものを見る目が優れていることの意か。,(改頁) [八丁 オモテ]   背に腹はかえず 抱花や うしろは修羅の 継子立     角上,(注)「背に腹はかえず」 臓器が詰まったお腹を切られるくらいなら、背中を切られた方がマシだとした意から,稲はみのるほどうつむいて謙虚になり、人は地位が上がり、権力を得ると高慢で尊大になること。
木曾山林学校 (シユリツヒ氏森林学抄訳 『第14号つづき』)

に至りては次ぎの理由によりて森林は保護すべきものか、或は新に森林を造らざるべからざるかを決定する重要なる,勿論(もちろん)一国が森林の間接効能を主眼として森林を仕立つることを勧誘するや否やを考ふるに気候と地勢,、非常に湿気ある北方の諸国にては反(かえっ)て有害なることあり。,『セルビア』、『ルシア』、『スウエデン』及『ノルウエー』は国民が要求するより大面積の森林を有し、英国、,なる行政官は一国の必要とする森林面積を維持せんと講究するや明かなり。
蚕かひの学 ([現代訳])

・以前は四十日余りかけて仕上げたが、近ごろは三十五日ほどで繭にする人が利益を上げている。,・乾いていない蚕種を箱に入れると蚕の卵は孵(かえ)らない。,・給桑と桑止めの日や給桑の量を正確する。 ・三十二日目、三十三日目の夕方には十分な給装をする。,この桑が不足すると糸目が少なくなる。 ・三十四、五日目に繭をつくらせる。  ,漢字の読めない人にもわかるように、との心づかいからであると思われます。
木曾山林学校 (八戸林学士森林行政論)

に当つべきが如(ごと)しと雖も、其権限に至りては両者異る所なく唯前者は比較的重要なる林区を管理するに過,之れを林区署官制(注10)に徴する(:調べる)も小林区署長は単に総管員たる大林区署長の職務を分掌するに,監査員の職名も独逸(ドイツ)帝国内行政の異るに応じ、諸連邦区々に別れ『フオルストマイステル』『フオルストインスペクトール,』『オーベルフオルストマイステル』『フオルストラート』『レギールングラート』等と称す。,より観るときは監査員にあらずして、却(かえっ)て大林区署長の補佐員たるに過ずと謂ふべし。
明治3年歎願書 ([現代訳])

(外国へ蚕種を売り込んでいる横浜の商人は、現在の価格で売買すると)どのようにしても勘定が成り立たないので,取り替える(引き上げる)、というご通告がありました。  ,通常の年でしたらこのようなお願いを申し上げることはありませんが、私をはじめとし、大きな損失を受けている,金を調達できる人がいるでしょうか。  ,藩札引替についてきびしくおっしゃられているところ、申し上げにくく、まことに分をかえりみず、たいへん恐縮
西江部村篠田家文書 ([解説])

残る小前たちも極貧窮となり、他所へ出たり奉公稼ぎに出たりする者が多く、年々人口が減少している。,この間を三期に分けて考えることができる。  ,けれども、年貢を減少させることは「容易ならざる事」なので、精を出してもとの水田にするよう代官所側に説得,のゆるみになるということであった。  ,になったこと、西江部村の名主市左衛門が息子(市左衛門襲名)に代わったこと、文化十三年が一〇か年の定免切りかえの
小学理科生徒筆記代用 ([解説])

理科は実験・観察にもとづく授業が中心で、教科書の記述に過度に頼る授業になることを避けたのである。  ,授業の手がかりが何もなく、生徒にすべて筆記させることは、かえって負担を増大することになるため、教科書ではないが,気候の異なるあり、したがって其材料の季節に適合せざるもの多きは、免るべからず。,また生業の異動あり、其実業に関する者に於て、本来軽重の宜しきを得ざるある」などと、その問題点が指摘されていた,敬意のしるしとしました」と述べている。
秀吉と真田 (北条氏討伐へ)

、北条が裁定違犯をしたからには、「本知」つまり元々の領地沼田は昌幸に与える旨を述べている(写真)。,長文で沼田領をめぐる経緯が詳しく記されている。,然る間、去年御誅罰を加へらるべき処に、駿河大納言(徳川)家康卿、縁者たるに依り、種々懇望候間、条数を以,一先年家康相定めらるる条数、家康表裏の様に申し上げ候間、美濃守御対面成さるる上は、境目等の儀聞こし召し,上野沼田の儀は、北条自力に及ばず、却(かえ)って家康相違の様に申し成し、事を左右に寄せ、北条出仕迷惑の
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

、 一、御改当日は、口留番人・両御殿守と庄屋・勤めていない帯刀の者たちは罷り出ることはひかえること、,、遠方ゆえかとかく延着して差しつかえがあるため、なるべく近くへ申し付けるように仰せ聞かされたので、御通達申,明二十五日朝十時に、印形を持たせ、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、,来る朝十時に、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、申十一月八日、郡所より,来る朝十時に、村役人とともに召し連れ罷り出ること、そのときにこの書付をかえすこと、申十一月八日、郡所より
武家百人一首 ([解説])

しかしながら、多く伝来する写本や版本からは撰者を特定する記事を見出すことはできない。,二十三人の歌を入れかえた程度で、著を称する程でない改竄本である」と、辛辣な評を付している。  ,『武家百人一首』に採択されている和歌の大半は勅撰の二十一代集に入集をみているものである。,都合85首の和歌が勅撰和歌集に入集をみてるのであるが、武家階級が台頭してくるのは平氏政権の平安時代後期以降,のことで、中世期の勅撰和歌集が多くを占めるのはある意味必然と言える。
木曾山林学校 ([注記])

、クワを食べるのをやめ熟蚕(ヒキリという)となる。,このヒキリを手早く拾って繭をつくる巣の中に入れるとき、和紙を重ねて作った軽い紙の盆を用いる。,、このうち組合というのは耳なれない用語であるが、現代の表現でいえばグループとか班ということである。,(注記 14.生徒心得)  (注14-1)控所(ひかえしょ):原本では「扣所」となっているが、現代表記,(注記 15.寄宿舎)  (注15-1)骨牌(カルタ):「カルタ」と読むと、百人一首・いろはガルタ・
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([現代訳])

氏子たちを繁昌させようとしてこのように姿をかえたのだ、小太郎よ、私の背に乗りなさい、この湖を突き破って,その湖の中にある川筋の深い瀬のある所とか、また、山家(やまべ、山辺、松本市入山辺、里山辺)の名は、皆が,山の上に住んでいるからついた名である、ここに船を寄せたので今に船着(ふなつき)と言い伝わり、船を緊いだ,石も今にもある、釣り生業として暮らしている、諸神(しょしん、もろもろの神々)は憐れんでいる、なかでも、,がこれである。
上田案内 ([解説])

「市神社」は、原町と海野町の成立を考える上で重要であるといわれている。  ,地元新聞を長年にわたって発行し続けることのむずかしさを感ずる。  ,が創刊する。,〇旅舎  上田駅前に旅館が集中していることは当然であるが、「市中各所になお数十戸の旅舎が散在」している,真田氏が移封された後、仙石氏、松平氏と城主が変わり明治期をむかえる。
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

荒れることがある千曲川が流れているためである。,現在も町割りの姿が比較的よく残っている宿である。,笠取峠をひかえた芦田宿、増大する物品を運搬するために牛が利用されたのだろうか、中山道にはめずらしい牛宿,したがって現在に至るまで依田川下流にある「古町」に対し「新町」と呼ばれている。  ,桜沢から牛首峠を越え、小野に至るはじめの中山道が、本山を通る路線にこのころ変更されたことを示している。
木曾山林学校 (11.実習)

、殊に林業は其性質上高尚なる学術を応用すること多く、且つ急坂を踏破して劇烈なる労働に従事するを要するを,以て、将来林業の実務に従事すべき技術者を養成するを目的とせる本校に於ては、甚だ複雑なる学科を修得せしむると,共に、困難なる山地の労働に耐へ、且つ繁雑なる実地の業務を処理し得べき技能を養成するに要するが故に、他の,も、平常の実習比較的少く、生徒をして専ら学科に全力を注がしむるを得べきが故に、修学上却(かえっ)て結果,なる実習地を得ること難く、演習林の外は必要なる設備も完全に設置すること能はざるものありと雖も、42年度来着手中
善光寺独案内 ([現代訳])

善光寺如来が衆生を済度するお姿である。,(現在の北野カルチュラルセンター)前に県町へ通じる町がある。電信横町と呼ばれる。,蓬莱橋  鐘鋳川に架かる橋である。古くはかえり橋といった。,右大将源頼朝公が善光寺へ参詣の時、この橋を渡りかけて権堂往生院の池の蓮の花を馬上から見返されたことから、頼朝公のかえり,見給う橋と言ったのを、次第に単にかえり橋と言う習わしになったという。  
おらが春 ([翻刻])

そ苔清水 ゝ   一ッ蚊のたまつてしくり/\かな ゝ   其門に天窓用心ころもかえ ゝ     ,      (改頁)   婦人を替たらましかハ、又幸あらんと、百人は かりも、とり替へ引かえ,ましてつるみたるを殺すハ、罪 深きわさなるへし。   ,目の覚る相図とさため、手かしこく抱き起して、 うらの畠に尿やりて、乳房あてかえは、すハ/\ 吸,、やをら咲ける初花の 泥雨にしほれたるに等しく、側に見る目さへくる しけにそありける。
俳諧二重染 ([上巻])

、かえってその浅知恵を見すかされて物事をやりそこなうことのたとえ。,月夜に釜を盗まれることから、ひどく油断することのたとえ。,他人を自分の思いどおりに操る」の意味でも使われる。,教える立場が逆であるというたとえ。,親が、食物をかんで柔らかくして子供の口に含ませてやる。よく理解できるように丁寧に言い聞かせる。
小倉百しほ染 (小倉百しほ染 乾[本文])

足痛(あしひく)のひき、とする説、「あし」は足ではなく「葦」とする説もある。山や峰などにかかる。,本歌は妻を恋して、悲しげに鳴く鹿だが、しゃっくりをしては恋もいっぺんに醒めてしまう、とまぜかえした。,ざる。「青によし」は奈良にかかる枕詞。ここでは、若菜を入れる竹籠が青々としていること。, いますぐに来るだろうと鳴いて待っている夜に、鐘の音だけが響き渡る。,小倉山の美しい紅葉を詠んだ、貞信公(藤原忠平)の本歌をまぜっかえし、小倉山を「毛のはえた嶺」(豆腐)に
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