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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (小海村)

/軽井沢山/阿登久良山 川: 千曲川/相木川/溜池/千ヶ滝/石見滝/川除枠立 道路: 甲武上三州道
小県郡民謡集 (炉辺叢書(ろへんそうしょ)の一冊として)

『飛騨の鳥』(川口孫治郎)   『三州横山話』(早川孝太郎)   『古琉球の政治』(伊波普猷)
パスファインダー (信州の道・街道(中南信地域))

東山道、中世の鎌倉街道、近世の中山道、北国 街道、甲州街道、北国街道、いわゆる善光寺道、塩の道、野麦峠、三州,南信州街道物語[1]:街道編(東山道・三州街道・遠州街道・秋葉街道) 長野県下伊那地方事務所/著 南信州街道研究会,2008.3 歴史の道調査報告書[全48巻] 長野県教育委員会/編 長野県教育委員会 1979-1996 三州街道
宿継要書留 ([翻刻])

より之作物与申之、松本売買 之荷物付通り候ニ付去春訴候処、 次荷物証文之通宿次ニ致候故、 尾州・三州,し出シ之、其上松本町ニ而売出し荷 物為宿次由宿問屋是又随申 之、右荷物拾六宿之者買出尾州・ 三州江付通候,り       〆百九拾三駄    三州新城江送り候分 同午年中 一柿〆百駄         ,り     〆九百八拾五駄     (改頁)      飯田三州迄之間江送り候分 同午年中,   右同断 壱斤宛紙袋ニ入、麦ワら色ニ而荷作り申候    たて茶  右同断 筵包ニ而荷作り申候、三州
宿継要書留 ([現代訳])

中馬の者が言うことは、伊那街道のいろいろな商い荷物は、昔から尾州・三州・松本へ通し馬で通行してきた。,継荷物証文の通リ宿継にするため、尾州・三州より七品の荷物の内、付通した900駄程を差し押さえた。,むかしより三州・尾州へ山越で馬を追い、塩荷あるいは魚等付けて来ました。,私たち町方だけでなく、尾州・三州・遠州までが衰微します。,松本町商人たちは近在より付出 された荷物を買い請け、尾州・三州そのほかへ売送りをした。
宿継要書留 ([解説])

中馬の争いはこの後も続き、文政期(1818~1830)になると、三州(愛知県)に起こった三州馬との争いが
パスファインダー (菅江真澄と『伊那のなかみち』)

三河 信濃 飯田城下 三州街道 塩尻市洗馬 洞月(どうげつ)上人 可児(かに)永通 手習師匠 旅日記 
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

入の塔と云、      (改頁)      或が曰、別所常楽寺裏の沢より出現の薬師如来は、今三州鳳来寺,[此証文正徳二年に本堂焼失迄ハ内    陣に納有しが、其外宝物共に此時悉く焼亡す、]    依之三州,   岑の薬師と称し、霊験今に掲焉し、梺に町屋軒を並へて建連ねたり、    但右の古証文焼失せし後ハ、三州
パスファインダー (信州中馬と伊那街道)

ほおずき書籍 1992 中馬による飯田町の繁栄について、いろいろな史料から紹介している 伊那街道(三州街道
パスファインダー (昔の旅人)

長野県文化財保護協会復刊 1982.1 内容紹介 本書には、善光寺道(北国脇往還)・伊那街道(三州街道
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

別所常楽寺の裏の沢から出てきた薬師如来は、現在の三州鳳来寺峯の薬師如来です。その由来です。,如来のおかげで災から逃れたことを機に、三州では山をひらき、寺院から教えを受け、堂を建て、薬師如来を安置,古証文が焼失してから、三州では、ここを鳳来寺と呼ぶようになりました。  
パスファインダー (信州の道・街道(東北信地域))

東山道、中世の鎌倉街道、近世の中山道、北国 街道、甲州街道、北国街道、いわゆる善光寺道、塩の道、野麦峠、三州
御城下古法并市場古法書抜書集 ([翻刻])

然間御領分     (改頁)    往還筋猥に買留め不申候様ニ奉願上候御事 一手前馬ニて、濃州・三州又,塩并肴拾三町江付参候以所申上候覚 一塩并肴拾三町江付来候訳者、往古ニ者本町通当国駒場  村其近所馬、知久町通江三州, おろし候儀者一切無御座候、肴之儀者十三町之者共相対ニ  ておろし売買仕候 一誰によらず尾州・三州,・にんじん・うと・梅   干葡萄・ねぎ・千切大根・尾張大根・鳥魚類     (改頁)     尾州三州遠州, 品々者 御領分往還筋ニ而荷替等之義迄も不相成古法御座候  処、近来在方之者共心得違仕、尾州・三州
御城下古法并市場古法書抜書集 ([現代訳])

し上げた 一塩並びに魚を13町へ付けて来るわけは、かつては本町通は当国駒場村付近の馬、知久町通へは三州,・根羽村・横畑村、番匠町通へは平谷村、松尾町通へは波合村、大横町通りへは三州武節村・津具村そのほかこぼれ,この出所は三州吉田を専らとして付けてきた。尾州名古屋からも付けて来た。,尾州・三州から来る荷物は、むかしから13町の中で自由に商売することができた。,桜町へ免許されている袋茶のことは、三州裏川辺より出た麦から造った小袋へ入れた斤茶である。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

本尊阿弥陀如来 御長ヶ二尺八寸 本堂九間四面〇此寺往昔三州賀茂  源信和尚御作也。  ,改頁)      9    信長公石山の御本坊を責めて合戦に及び、顕如上人大坂御  籠城有し時、三州,是三州の住人五郎大夫が末孫にして、専明寺と同  時に信州に立越当所に住す。
俳諧二重染 ([上巻])

ウラ [三十三丁 ウラ]   三ツ子に教られて浅い瀬 筆勢の はづむ箒や 雪の庭       三州桃鯉
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

相済むに於ては、三州表へ打ち出すべく候。
信州飯田町家控 ([翻刻])

改頁)    上方江御登被成候 一天正十午八月より御城代菅沼大膳亮源定利公知行  五千石、当年三州源君,猶此内ニ而物成拾五石七斗三升九合御城廻り  出来分 一下條領二十八ケ村此方三千七百石余、月原より南ハ三州境
寺子屋入門記録「壱番入門記録」 ([翻刻・注記])

  (改頁)      51 同断 伊勢屋又吉殿息子 一 当辰七歳 小松芳太郎  爪印   同断 三州屋重兵衛殿息子
信州飯田町家控 ([現代訳])

三州源君家康公へ御預りとなり、巡見をされて御城代として菅沼定利公を置かれました。,一下條領28ケ村は3700石余、月原より南は三州境新野村迄   一上伊那箕輪領23ケ村は10000
義烈百人一首 ([翻刻])

強衛門うけがひて城を出て岩壁を伝ひ川に入て水底を潜り鳴子を切難なく忍び出て遥の峠に上り相図の烟を発し三州,は初め宮部善祥坊に仕へて小身なりしが、宮部秀次公を養子として登庸するに及び、宮部の聟として天正十八年三州岡崎五万石,女性なり、此哥は夫佐馬介人質の為、渡さるヽ置土産によみしといふ、後、敵中を馬上にてのりぬけ上がたより三州吉田
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

この寺はその昔、三州賀茂郡月原という所にあって、天台宗だったが、親鸞聖人が関東から都に帰られる途中、三河国矢矧
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

候様、且 又可被申触候、且入札九月中頃ニ候、 以上、   七日 天気   八日 雨    三州鳳来寺
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

三州鳳来寺真言学頭醫王院。 信濃・美濃・近江。
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