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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸) 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十三年(一五八五)になり、,再度の沼田引渡し命令を拒絶し、いよいよ徳川軍の攻撃を受けそうになってから、真田昌幸は援軍を得るために上杉景勝,信繁は実質的な証人だったとはいえ、上杉景勝は信繁に知行地を与え、昌幸が被官として差上げると言ったというとおり,上杉景勝は、右の誓詞で昌幸に、沼田・吾妻・小県等のほか、「屋代一跡」も給付するとしている。,上杉景勝の起請文(きしょうもん)が記す内容、および『藩翰譜』等の記すところと、この文書の内容とは合致することからみても / 上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸)
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

今度は秀吉も家康の真田討伐を承認し、さらには上杉景勝に真田支援の禁止を命じてまでいる。,八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした,これは真田を上杉景勝が庇護しており、景勝から秀吉への働きかけが強かったことによるとみられる。  ,家康が秀吉の下へ出仕した後、秀吉が、昌幸の身分の扱いに付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

慶長五年(一六〇〇)八月二十一日  真田信幸(伊豆守)の沼田領は、徳川に敵対した父昌幸の信州上田領および上杉景勝,史料解説> 「真田信幸宛徳川秀忠書状」   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)八月二十三日  上杉景勝討伐,八月二十三日 秀忠(花押)      真田伊豆守殿   宇喜多秀家等宛上杉景勝書状 <史料解説,> 宇喜多秀家等宛上杉景勝書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)八月二十五日  「会津中納言,」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛・長束正家という西軍中枢に宛てた書状。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (倉科村)

農間伐薪/炭焼 民業女: 養蚕/生糸/機織 その他特記ワード: 和名抄に倉科郷/村上氏/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (森村)

物産2: 酒 民業男: 農間伐薪 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 村上氏/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (東寺尾村)

薪取り 民業女: 養蚕/織縫 その他特記ワード: 寺尾氏/村上義清/寺尾伝左衛門/山崎の戦い/上杉景勝
秀吉と真田 (真田・小笠原・木曽、家康の与力に)

しかし、秀吉は特に昌幸については、上杉景勝の与力扱いから外しただけで、実質的には直臣化したといってよい
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (西船山村)

真田織 民業男: 農間伐薪 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 村上氏/村上義清/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (豊栄村)

縫織 その他特記ワード: 関屋村/牧内村/桑根井村/平林村/村上氏/真田一徳斎幸隆/小山田昌辰/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (東船山村)

うちひも) 民業男: 農間伐薪 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 村上氏/村上義清/上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (東条村)

その他特記ワード: 東条村/田中村/加賀井村/東条遠江守/村上氏/真田一徳斎幸隆/小山田昌辰/上杉景勝
秀吉と真田 (秀吉の死と家康の上杉征伐)

これについで家康がねらったのが上杉景勝であった。
秀吉と真田 (真田昌幸、徳川と断交へ)

重臣で沼田城代であった矢沢頼綱らが、北条方からの使者を成敗、つまり斬殺するという事件も起こしており、上杉景勝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (松代町)

/清野伊勢守/東条左衛門/西条治部/村上義清/甲陽軍艦/真田一徳斎/高坂弾正忠昌宣/山本道鬼斎晴行/上杉景勝
秀吉と真田 (徳川方への攻勢)

徳川方への攻勢 「秀吉と真田」の目次はこちら  真田昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

家康(内府)が会津の上杉景勝征討の軍を起こしたのは誓詞や太閤の置目(遺言)に背くものであり、相談して「,さらに、この点は忘れられている向きが多いが、昌幸の上杉景勝への恩義の思いも強かったものと考えられる。,結局この真田再征は秀吉の意向により中止となっているのだが、これは上杉景勝が真田を庇護しており、景勝から
秀吉と真田 (家康重臣石川数正の秀吉への寝返り)

これについて昌幸は、上杉景勝の重臣直江兼続に宛てた十一月十七日付けの書状で、「甲州・佐久郡・諏訪郡主に
善光寺道名所図会 (○筑摩 青柳)

甲州が没落し、小笠原貞慶(さだよし)が帰城の後もなお小県(ちいさがた)郡の真田氏等に味方して、越後の上杉景勝
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

そのため、上杉景勝領となっていた北信濃四郡を除く、家康配下の信濃の諸領主は根こそぎ関東へ移されることになる
秀吉と真田 (豊臣氏関係遺品)

信幸は北国囗部隊の一員として、前田利家・上杉景勝らと上州碓氷郡松井田城を攻撃中であった。
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

なお、これに見える信幸の花押は上杉景勝初期の花押に大変よく似ている。
秀吉と真田 (昌幸の秀吉への接近)

上杉景勝が真田昌幸に宛てた誓詞の中に「春松太夫」という名が見えるのだが、これは上方から信濃へも訪れていたむ
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

武田信玄・上杉謙信が争奪戦をくり返したことで有名な地であるが、ここは信長横死直後の六月中に謙信の後継者上杉景勝
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

また、その築城開始の報に接した上杉景勝は早速それに対する妨害を北信濃の配下の将士に命じている。
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

先に出した家康弾劾状が着いたかを聞き、家康の上杉景勝征討のための出陣を非難するとともに、大坂城西の丸にいた,まず、上杉景勝への飛脚の世話を依頼するとともに小室(小諸)・ふかせ(深志、松本)・川中島・諏訪の仕置は
秀吉と真田 (小田原出陣)

その軍勢は、真田昌幸三千人、上杉景勝一万人、前田利家一万人で、計二万三千人というものであった。
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