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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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上田郷友会月報  第壱号 (3 今日まで続く上田郷友会)

上田郷友会月報  第壱号 / 3 今日まで続く上田郷友会 『上田郷友会月報』を発行した上田郷友会とは、どんな組織だったのでしょう。,創立は、組織の建て直しを願って開催された第1回の月例会と『上田郷友会月報』第1号が発刊された1885年,目指して東京に遊学していた金子直躬(小河滋次郎兄)、芦田諧、鴇沢正躬が発起して1878年9月発会した上田医学会,その後、上田学友親睦会、上田学友懇親会(郷友会)などと改称、1884年上田郷友会規則が制定され発足となりました,「各自相奨励し親睦を鞏(きょう)固(こ)ならしむる」ことを目的に「上田地方に縁故ある者」を会員にして発足 / 3 今日まで続く上田郷友会
上田郷友会月報  第壱号 (1 「上田小県地域の生き字引」となっている『上田郷友会月報』)

上田郷友会月報  第壱号 / 1 「上田小県地域の生き字引」となっている『上田郷友会月報』 [目録] 上田小県近現代史研究会 小平千文, 主として近代の上田小県地域の歴史を系統的に鳥瞰できる史料として見逃せない記録史料のひとつが上田郷友会,の月刊誌『上田郷友会月報』です。,そんな『上田郷友会月報』が、実は創刊をめぐっては不思議な歴史を刻んでいます。,上田郷友会もこの号をもって第1号としています。 / 1 「上田小県地域の生き字引」となっている『上田郷友会月報』
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 (上田の獅子舞 房山獅子)

〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 / 上田の獅子舞 房山獅子 画像をクリックすると原本の高精細画像が表示されます 〔上田の獅子舞 房山獅子, 春秋庵白雄伝〕より 上田の獅子舞   房山獅子 [目録] 上田の獅子舞 [目録] 房山獅子,東御市文化財審議会 寺島隆史 上田獅子は、上田市内の旧常田(ときだ)・房山(ぼうやま)の両村に伝,以来、城祭とも呼ばれた上田の祇園祭に際しては、城主居館(現上田高校)前の「広庭」に舞い込んで踊ったものだった,に、南半部は常田村の地に形成されたものでもあり、それ故に上田築城・城下町形成当初から両獅子舞が、上田の / 上田の獅子舞 房山獅子
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 (上田の獅子舞)

〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 / 上田の獅子舞 2 上田の獅子舞 【頭注】 百錬抄に、高倉院天皇承安二年六月十四日、祇園御霊会、,江源武鑑ニ曰、天文年中関東ニ祇園踊はやるト、盆踊七夕踊ノ類ニテ、祇園祭礼ニ踊リタルナラン歟、追考スヘシ 上田祭礼獅子踊,をなして、笛太鼓鉦の拍子を入れ、地固めをなしけるか逐次恒例となり て、毎歳祇園会に常田房山両村[共ニ今上田町,(改頁) 4 を引出し、お山の天王とて青葉を以て山形に作りたるものハ、原町より之を出す、両町は上田市,又ハ参り来てニ作る 上田城を築きたるは天正十壱年なるを、諸書を引証して予か上田沿革誌に説く所の如く / 上田の獅子舞
上田案内 ([解説])

上田案内 / 続いて「上田市街図」と上田城址ほか写真三点。次に、「総説及沿革」からはじまる本文。,上田商業会議所は現在の上田商工会議所の前身であり、明治初年には上田の蚕種組合の事務所が置かれていた所である,まさに、「蚕都上田」状態の上田町であったことがわかる。  ,〇新聞  上田日報と上田新聞、現在は二つともない。,まさに「蚕都上田」「商都上田」である。  
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上田町)

上田町 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:上田町(うえだまち,葭原町/新参町/丸堀町/上常田町/下常田町/鷹匠町/袋町/馬場町/厩裏町/山口村/房山村/本町/舊館/上田舊城郭,/進新学校 古跡・名勝: 花古屋の砦址/上田城址 物産1: 桑/梨/清酒 物産2: 蚕種/,繭/出殻繭/生糸/真綿/上田縞/斜子/紬縞/白紬 民業男: 農/商/工/漁/兼業 民業女: 農,/商/兼業/縫織 その他特記ワード: 常田荘 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上田町 / 上田町
パスファインダー (蚕都上田)

蚕都上田 トピック(テーマ) 蚕都上田 ねらい キーワード 概要を知,上田城下町、上田宿、原町、海野町、幕府老中(上田藩主)松平忠固、 老中阿部正弘、老中堀田、老中井伊直弼,開港後、上田からの生糸輸出量が 増大、上州生糸商人が「上田は信州の横浜であった」と表現するまでに なった,2008 内容紹介 小県上田地域の蚕種業を中心にこの地が「蚕都上田」と呼ばれるように なった,3 書名 著者名 出版社 出版年 上田近代史 猪坂直一他/著 上田市 1970 内容紹介 / 蚕都上田
上田の早苗 ([解説])

上田の早苗 / [解説] [目録] 東御市文化財保護審議会 寺島隆史  上田城下原町の商人で、学者としても知られた,成沢寛経(百合舎主人、1797~1868)が、幕末期に上田を中心とする小県郡の歴史について著わした書。,上田地方の最初のまとまった郷土誌といえるものです。,上田という地名を苗字とする中世上田氏についての検討から始まって、真田氏、上田城の築城ほかについて、伝承,この写本自体は、序文に見えるように大正2年(1913)に、やはり上田の人で「花月文庫」で知られる飯島茂経
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上田原村)

上田原村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:上田原村(うえだはらむら,/製糸/紬縞織/木綿 その他特記ワード: 小泉庄 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上田原村全図,史料ID:3-1 8-58 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 上田市誌 / 上田原村
上田市街全図 ([解説])

上田市街全図 / )(上田街学校・現上田商工会議所)に到着した。,その上田行在所は白亜の殿堂で、3階に露台(バルコニー)が設けられ、明治天皇が上田地域を展望することとなり,其所で上田では町分で今の市役所の所へ上田街学校を新築して之を行在所に充てることになった。,全図には明治11年当時のまだお堀が全て残された上田城の様子や上田城下町の形が描かれており、東側に宗吽寺,(注)花岡百樹 明治10年~昭和21年、上田市出身。古川柳研究に実績。
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

○小県郡上田 17右    海野へ2里、長瀬へも2里です。,特産物としては、上田縞・紬・白紬などがあります。,(注2)上田城下には海野町と原町に問屋がありました。,城下商人や村の豪農商が上田藩の生糸輸出事業を支えていました。,(注5)上田の真田軍が、関が原へ向かう徳川軍を上田城で撃退した戦いです。 / ○小県郡上田
上田の早苗 ([翻刻])

上田の早苗 / [翻刻] 「成沢寛経(上田市人)著      1    上田の早苗          写本一冊 ,」     (改頁)      2   「上田の早苗」       ,  (改頁)      3   上田の早苗一巻 上田原町成沢寛経翁ノ著ナリ、今鷲見氏ノ蔵,写本ヲ借リテ謄写ス、但此写本ノ表紙ニ上田の早苗[其他聞書綴こみ]トアリテ、 イヅレノ章迄ガ上田の,の早苗             百合舎主人編述  上田といへる地名をもちて家の名とせる人諸書に見えたり
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

○小県郡上田 17右   海野へ弐里、長瀬へも二里、松平伊賀守居城にて、五万八千石を領せらる、,   (略)          18左   加賀川 深山数多乃溪水落合て千隈川に入なり、慶長の頃上田勢国 / ○小県郡上田
パスファインダー (上田藩世直し騒動)

上田藩世直し騒動 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るためのツー ル 資料,リスト 上田藩世直し騒動 開港後、全国各地で世直し騒動が展開された。,の全藩一揆「上田騒動」を克明に 綴った民間騒動記「上田騒動右物語」の現代語訳と原文の2部構 成 上田藩農民騒動史,6 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 上田市誌〔14巻〕:新しい社会を求めて 上田史編さん,上田藩の巳年騒動 村野磊三郎/著 信濃 1934 第一次第3巻9号 32-34 上田藩の世直し騒動について / 上田藩世直し騒動
秀吉と真田 (上田城の大改修)

上田城の大改修 「秀吉と真田」の目次はこちら  織田信長の築いた安土城は天正七年(一五七九)にほぼ,天正十三年には一応の完成をみた上田城も、かなり大規模な普請が行われた様子は前にも見た。,しかし、この時点での上田城は石垣はなく、建物も簡素で中世的な実戦本意の城であったとみられる。,そのため真田昌幸もこれにならって、上田城の大改修に乗り出したと考えられる。,その証拠として、上田城跡より出土している金箔瓦や菊花文様の軒丸瓦などの桃山期に特有な瓦が上げられる。 / 上田城の大改修
パスファインダー (長野県上田点字図書館)

』という正史はないが、『上田市 史』下の「第四節 上田盲学校」が、長野県上田点字図書に至る前史を 綴っている,上田市史  下 藤沢直枝/著 上田市/編輯者 上田市 1940 「第四節 上田盲学校」で、長野県上田点字図書,上田市誌近現代編(1)新しい社会を求めて 上田市誌編さん委員 上田市誌刊行会 2002 「第三章 大正,「長野県上田点字図書館前史の定説を正す」 「上田市に点字図書館が設立された理由」「上田市立図書館点字図書,上田慈善会第一期報告書 上田慈善会 上田慈善会 上田慈善会 1900 恤救を求めた上田慈善会の収支表 / 長野県上田点字図書館
上田郷友会月報  第壱号 (2 われらが国を引っ張っていこうという気概の籠った「緒言」)

上田郷友会月報  第壱号 / 上田郷友会を創設し、『上田郷友会月報』という雑誌を発行しようとした願いと目的を記した「緒言」になっています,上田学友親睦会(上田郷友会)を創立した目的は、そうした競争をするためであった。,上田学友親睦会は、松代や松本の上にたち、さらに薩摩や長州、土佐、肥後を「臀下ニ置」いて国の隆盛を果たそうと,何とかして会を維持し、発展させなければならないとして考え出されたのが「雑誌(上田郷友会月報)ヲ発行スル,なお、『上田郷友会月報』は、上田市立図書館によって『上田郷友会月報目録 郷土関係記事索引』(1976年
パスファインダー (信濃(上田)自由大学)

信濃(上田)自由大学 トピック(テーマ) 信濃(上田)自由大学 ねらい なぜ,回想・枯れた二枝:信濃黎明会と上田自由大学 猪坂直一/著 上田市民文化懇話会 1967.3 今日の教育,のあり様にも通じる上田発自由大学の誕生から「枯れる」ま でが綴られている。,著者は上田自由大学事務局。,マルチメディア情報センター https://www.umic.jp/ 「上田を支えた人々 上田人物伝」 / 信濃(上田)自由大学
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

なお、上田城という城名は真田昌幸の命名であり、まだ認知度が低かったためだろう、この後も上田を攻めるとは,上田は中山道からは外れている。秀忠軍の西上をさえぎる地ではなかった。,しかし、この上田合戦の歴史的な意味合いはそれだけのことではなかった。,しかし、結果として西軍は敗れ、昌幸も上田城を明け渡さざるを得なくなる。,九月朔日 家康(花押)      真田伊豆守殿   真田父子上田籠城図 <史料解説> 真田父子上田籠城図 / 徳川秀忠軍の上田攻め
上田郷友会月報  第壱号 ([翻刻])

上田郷友会月報  第壱号 / [翻刻] 明治十八年二月一日発兌  禁売買      2   上田郷友会月報  第壱号  ,上田郷友会     (改頁)      3   上田郷友会月報第一号  目次   ○  緒言,目的ヲ逹スルノ媒介ヲナセハ各郡 邑奨励ノ会ハ决シテ欠如ス可カラサルノモノタリ 余輩ガ先ニ創立セル上田学友親睦会,        第一条    会名 本会ハ之ヲ上田郷友会ト名ツク         第二条    ,ノ者若(もし)クハ上田地方ニ縁故アル者ニ限ル         第四条 会員ヲ分ツテ通常会員及ヒ特別会員
パスファインダー (上田・小県地域の文学)

上田・小県地域の文学 トピック(テーマ) 上田・小県地域の文学 ねらい 風土,上田・小県地域について代表的な 文学作品について調べる。,久米正雄 父の死 不肖の子 有島武郎 信濃日記 葛西善蔵 不能者 タカクラテル 倉田白羊 長谷川一家 上田自由大学,/編 上田市立博物館 1990.1 久米正雄作品集 (岩波文庫) 久米正雄/著 岩波書店 2019.8,1/2 信州地域史料アーカイブ 上田・小県地域の文学 6 書名 「無言館」の庭 / 上田・小県地域の文学
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([解説])

旧上田藩学制沿革取調書 全 / 旧上田藩学制沿革取調書 全 [目録] 東御市文化財審議会 寺島隆史 文部省は明治16年(1883,そして同23~25年には、それをまとめて『日本教育史資料』(24巻9分冊)として刊行しており、上田藩についても,上田図書館「花月文庫」の本書は、奥書よりこの折に旧上田藩主松平忠礼(恭斎)が報告した調査書の写本と知られる,松平氏はその後も転封を重ねた後、3代忠周のとき宝永3年(1706)信濃上田へ入封し、以後は明治維新にまで,上田藩校は文化9年(1812)、現在の上田市立第二中学校の地に開設された。
秀吉と真田 (真田氏上田領・沼田領の石高)

までの真田昌幸の知行高、つまり上田領の石高は「三万八千石」とされていた。,しかし、その領域は上田・沼田間だけでも約百Kmという広大さであった。,支配の拠点が上田盆地の上田城と沼田盆地の沼田城というように二つに分かれるのは、地理的にみても自然であった,元和年間上田城図 <史料解説> 「元和年間上田城図」   上田市立博物館蔵  真田信之(信幸)が,城主だった時代の上田城・城下町の様子を伝える図。 / 真田氏上田領・沼田領の石高
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

上杉方による上田城増築普請 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十三年(一五八五)閏八月、上田城は,遠州(徳川)勢と国分寺(上田市)で一戦を遂げ、敵を千三百余討ち取ったとしている。,そのような情勢下で上田城の普請が多くの上杉方の将士を動員して行われている。,「伊勢崎城」とは、当初の上田城の呼び名で、江戸時代もその異称として使われている。,ここで「御普請」とあるように、この時点での上田城普請は、上杉氏の城郭普請として行われていた。 / 上杉方による上田城増築普請
明治二年八月上田騒動一件書留 ([解説])

明治二年八月上田騒動一件書留 / 明治二年八月上田騒動一件書留 [目録] 東御市文化財審議会 寺島隆史 明治2年(1869)8月に,信濃上田藩領で起こった、領内全域を巻き込んだ大百姓一揆上田騒動の記録。,明治2年8月16日は上田藩知事松平忠礼が新婚の夫人を伴って上田へ帰った日であった。,その日の夜、入奈良本村(現青木村)で掲げられたという檄文に端を発し勢力を急拡大した一揆勢は、17日に上田城下
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

家康の命令による上田築城の開始 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十一年(一五八三)一月には、小県郡南部依田窪地方,このような状況下で天正十一年四月、上田築城普請が開始されたのだった。,いずれにせよ上田築城は、単なる真田氏の居城普請というものではなかった。,上田城から上杉方の最前線の虚空蔵山までの距離は、わずか数㎞しかない。,この上田城の地は上田盆地のほぼ中央に位置しており、小県郡全域を支配するには絶好の地点でもあった。 / 家康の命令による上田築城の開始
パスファインダー (赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助)

赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための,ツール 資料リスト 赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助 薩邸浪士隊による江戸市中擾乱が鳥羽,・伏見の戦いの引き金になった が、その中に上田藩脱藩志士がいた。,激動 の渦中で上田出身の丸山久成、斎藤謙助はどうしたか。,赤報 隊偽勅事件其の一・二・三と事件と上田藩についても詳述している。 / 赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

旧上田藩学制沿革取調書 全 / [翻刻] 2 旧上田藩学制沿革取調 藩内学事上之諸制度 文化八年辛未藩主松平忠済伊賀守文武学校建築,するニ及はさりし、貞享三年ニ武州岩槻ニ 移封せられ、元禄十年又但州出石に移され、宝永三年 又信州上田,天明三年ニ卒せり、六代忠済伊賀守襲封し、 先代忠山之遺蹤を慕ひ、文武を拡張し、晩年に 及て文武学校を上田郭内,、掌書記、侍講読、乙卯携家移上田、寛延 (改頁) 9 己巳今侯襲封、置左右備頤問、宝暦辛巳頑民嗷訴,ニして、安原両人及桂ハ漢学、加藤上野 両人ハ皇漢学、竹内ハ算術ニして、上田郭内の家塾に 教授せしも
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 (春秋庵白雄伝)

〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 / 〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕より春秋庵白雄伝 [目録] 春秋庵白雄伝 二松学舎大学文学部,上田藩士加舎六右衛門の二子也・元文三戊子八月江戸深川の邸に生る(一説元文五年とす)弱冠のとき不幸にして,これは幕末期上田藩儒であった上野尚志の稿本『藤の下露』をかなり参酌した文章で、冤罪、上州舘林の記事は同書,ところが上田の原町には確かに加賀屋を名乗り「文架」と号する白雄系の俳人がいた。,しかし、この事実は、上田の門人小島麦二の自筆「悼鳥酔叟僊化」の一文で否定される。
秀吉と真田 (神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)

神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と真田」の目次はこちら  上田城に拠(よ)った真田昌幸,そのうちの初回、天正十三年(一五八五)の第一次上田合戦=神川(かんがわ)合戦では、閏(うるう)八月二日,の上田城頭の激戦で真田軍が勝利をおさめている。,真田昌幸画像 <史料解説> 「真田昌幸画像」   柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管  上田や松代 / 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([解説])

「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 / 生家は上田市袋町・妙光寺前にあった。  ,永らく文部省に勤務するかたわら、編集発行人として明治18年以来発行し続けた「上田郷友会月報」は上田近代史研究,また、旧藩主松平家の家令の任にあり松平家の財産処分に当たるとともに、蚕糸専門学校の上田誘致、上田郷友会郷里部大会,の開催、上田図書館へ図書の寄贈、小菅訓導市葬等に関わり上田に大きな影響を与えた。  ,宮下翁は昭和20年まで長寿を保ち、上田郷友会幹事、編集発行人として上田郷友会を支え発展に尽くし、上田郷友会育
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 (房山獅子)

〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 / 団扇 (雲形)を左右の手に持ち、浅黄棒筋の上着に裁付草鞋の装束なり、 (改頁) 8 此踊りハ上田城縄張,十人  一警固 [二百ヨ人 上下着用] 一文字ノ□□       右房山獅子 (改頁) 一 上田城古図,ノ如ク、旧常入村ノ地タル諏訪大宮ノ氏子、現時上田町内海野町ノ内戸数百 四十横町百七十九、旧藩内鷹匠町七十六常田町三十九海野町裏四十三新参町,ルモ、起原真田源太左衛門行利后信綱ト改ム塁城ヲ築キ永禄三年居民ヲ役 ス、天正十年昌幸大ニ城郭ヲ営ミ、上田,かゞやくヨイ/\御門ノ脇ニ通ル 天正十年武田氏亡昌幸武威ヲ振ハント欲スルノ意ヲ察スルニ足ル、昌幸ノ子信之上田
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 / 上田郷友会創     立メンバーで、市長当時、上田市民大学を興す。     ,(注1)上田街学校。,我々は書生で身なりも悪いが、我々は上田で、相 当なものである、此(こ)の家から上田へ、養子にいって居,上田藩最後の藩主。,(注1)小河滋次郎は文久三年、上田町に上田藩奥医師金子     宗元の次男として生まれた。
明治二年八月上田騒動一件書留 ([翻刻])

明治二年八月上田騒動一件書留 / [翻刻] 1 明治二年八月 上田騒動一件書留 (改頁) 4 殿様東京ニおいて御婚姻被遊、奥様御同道八月十六日,居家土蔵弐ケ所物置薪屋糀室味噌蔵雪隠迄焼失金百両程白米九斗 玄米壱俵籾麦ニ而十九石豆壱石六升程焼失 上田原村,山浦善右衛門 (改頁) 23 一、居宅土蔵大方損し 東上田村 児玉伝兵衛 一、居宅丸焼雪隠薪物家迄
パスファインダー (小島大治郎)

、鋳物鋳造製糸用汽罐、小島弘 子、キリスト教、上田日本基督公会、小島鉄工所、丸子鉄道、上田温泉 電軌、,別所線、西丸子線、北東線、五島敬太、田沢炭鉱、上田蚕種、上 田繭糸、上田瓦斯、信濃電灯、上田運送、小島育英資金, 人物編「明日をひらいた上田の人々」 著者名 出版社 出版年 上田市誌編さん委員会/編 上田市,上田温泉電軌の項で小島大治郎を上田小県地 域経済界の重鎮・上田温泉電軌の筆頭株主社長として紹介している,4 書名 著者名 出版社 出版年 上田丸子電鉄小誌 合併創立10周年記念 荻原成人/編 上田:上田丸子電鉄
パスファインダー (三吉米熊)

、上田公園の銅像、上田東高等学校、 概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社,出版年 上田市史 下巻 人物誌 藤澤直枝 /著 上田市 1940 内容紹介 万延元年,蚕都信州上田の近代 阿部勇 井川克彦 西川正臣/編著 岩田出版 2011 横浜開港と上田小県地域,三吉米熊 出版社 出版年 上田小県近現代史研究会 2010 内容紹介 上田,6 書名 著者名 出版社 出版年 上田市誌 人物編 上田市誌編さん委員会/編 上田市 2003
明治3年歎願書 ([解説])

上田騒動の原因は数多くあげられますが、その大きな一つに、信州全域および上田領内に流入した贋金にあります,上田小県地域は江戸中期には「上田縞」などの絹織物が高名で、蚕糸業が盛んになっていました。,明治2年の上田騒動があった次の年、丸山平八郎は上田藩庁へこの「歎願書」を提出しました。  ,天保年間、彼の先代から上田藩の御勝手方を勤めることとなり、上田藩の財政立て直しの助力をしていたようです,・上田藩内で製造された蚕種紙を横浜で販売  ・上田藩札の扱い―藩から拝借した5万両分配の斡旋  ・
原町問屋日記(安政6年 6・7月) ([解説])

上田藩の生糸輸出を追ってみよう。  ,上田藩の生糸輸出が本格化する安政六年九月、なぜか急死している。,生糸が外国奉行へ提出した上田の輸出産物候補の筆頭である。,しかも、その直後、中居屋に詰めていた上田商人武蔵屋祐助が秘密裏に横浜から上田へ戻ったというのだ。  ,幕末から明治にかけて、生糸輸出は上田地域を潤す。
パスファインダー (春秋庵加舎白雄(かやしらお))

上田藩士の次男。,明和4年 (1767)初め信州に来て、上田、戸倉、更埴、松代の門人を結束させて明 和6年(1769)姨捨山,俳人 上田藩士 姨捨山 芭蕉句碑 面影塚 明和 安永 江戸日本橋 鉄砲町 春秋庵 別所北向観音芭蕉塚 ,の人物と文化 上田市立博物館/編 上田市立博物館 1986.1 内容紹介 春秋庵加舎白雄,の人びと(上田市誌28(人物編)) 上田市誌編さん委員会/編 上田市 2003.3 上田市の人物の中でも
パスファインダー (二度老中を務めた松平忠固)

上田藩主 松平伊賀守 大阪城代 松平忠優 上田縞 老中 ペリー 日米和親条約 日米修好通商条約 佐幕開国, 堀田正睦 井伊直弼 将軍家定 徳川斉昭 上田藩松平家物語:改題「松平家累代の話」 松野喜太郎/著,郷土出版社 1982 内容紹介 著者松野喜太郎が昭和10年から16年まで6年間にわたり「上田郷友会,上田 藩主松平伊賀守八代の忠固について、大坂城代となり上田縞の販路を 拡大したこと、老中となり佐幕開港,にみる近代の夜明け 上田市立博物館/編 上田市立博物館 1994.1 著者小林利通による調査、研究をまとめて
原町問屋日記(嘉永6年) ([解説])

[解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇 原町問屋日記 「ペリー来航と上田」  上田藩主松平忠優,ここに掲載した『原町問屋日記』から、藩主忠優の国元である上田城下の様子を知ることができる。  ,『原町問屋日記』には、以後もペリー来航に対応する上田町人の姿が記されていくが、農民の対応についても上田市立博物館,取集帳には、上田領上青木村の人々が、合わせて籾十五俵(九石)を上田藩に献上したことが詳しく(村民ひとり,なお、上田藩は嘉永六年八月の段階で、上田城米三百駄を江戸表に送っている。
パスファインダー (猪坂直一)

猪坂直一 トピック(テーマ) 猪坂直一 ねらい 上田自由大学経営担当者でありその,また、『新撰養蚕教本』や『最新養蚕手 引』、『民主主義背の精神』『上田城物語』『上田近代史』など各分野,猪坂直一/著 上田市民文化懇話会 1967 著者は、「大正デモクラシー期の信州の片隅に花咲き,蚕都上田を築き支えた人びと 上田小県近現代史研究会 上田小県近現代史研究会 2010 蚕種業・製糸業,猪坂による「上田自 由大学の回顧」が創刊から第7号まで6回にわたり掲載されている。
パスファインダー (龍野周一郎と大同団結運動)

上田市誌 近現代編(一) 上田市誌編さん委員会/編 上田市・上田市誌刊行会 2002 同誌「大同団結運動,3 書名 著者名 出版社 出版年 上田市誌 人物編 明日をひらいた上田の人びと 上田市誌編さん委員会,/編 上田市・上田市誌刊行会 2003 「大同団結を呼びかけた自由民権運動家」として龍野周一郎を,幻の雑誌と言われた『愛民』の総目録は、『上田近代史だより』上田近代 史学習会/編,第17号と第23号(,市立上田図書館蔵)にまとめられて いる。
パスファインダー (山極勝三郎博士)

概要を知るた めのツール 資料リスト 少年時代の夢を実現し、世界的医学博士になり、ふるさと上田,上田市裏鎌原 山本政策 滝沢末子 松平学校 正木直太朗 小河滋 次郎 勝俣英吉郎 宮下釚太郎 上田郷友会,/編 上田市立博物館 1980.3 内容紹介 黒坂周平、石川好一、嶋村富朗が執筆している。,/編 上田市立博物館 2007.3 内容紹介 日本で初めて人口癌に成功した山極博士の生涯と,信州の生んだ世界の偉人山極勝三郎博士:世界最初の人工ガン成功 上田市立第三中学校/編 上田市立第三中学校
別所温泉誌 ([解説])

[解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇  飯島雪堂の『別所温泉誌』は明治三十三年四月発行にされています,同十三年発行の上野尚志『國勢變革提要』は「木版」ですが、上田活版社の印刷と考えられています。,しかし、三年前の明治十年には伊藤甲造らが上田活版社を設立しています。  ,当時、上田町にあった印刷所は、上田活版社(活版・銅版・石版)、長谷川活版所(活版)、中沢活版所(活版),しかし、『別所温泉誌』は上田ではなく東京日本橋の勝島活版所で印刷されています。
明治天皇御巡幸の折奉りたる地図 ([解説])

)(上田街学校・現上田商工会議所)に到着した。,その上田行在所は白亜の殿堂で、3階に露台(バルコニー)が設けられ、明治天皇が上田地域を展望することとなり,その俯瞰図作成に飯島保作少年が当たった経緯について、花岡百樹(注)は『上田郷友会月報』(第526号)の,其所で上田では町分で今の市役所の所へ上田街学校を新築して之を行在所に充てることになった。,(注)花岡百樹 明治10年~昭和21年、上田市出身。古川柳研究に実績。
パスファインダー (金井正)

金井正 トピック(テーマ) 金井正 ねらい 大正デモクラシー期の上田・小県地域,金井は、一世紀の 歴史を刻む児童自由画教育・農民美術の他に、社会教育の始まりとも いえる信濃(上田)自由大学,著者名 山本鼎 西田幾多郎 山越脩蔵 土田杏村 児童自由画 農民美術 神 川読書会 高倉輝 信濃(上田,)自由大学 『神川』 上田市誌 人物編 明日をひらいた上田の人びと 上田市誌編さん委員会/編集 上田市,マルチメディア情報センター 上田を支えた人々 上田人物伝 https://museum.umic.jp
パスファインダー (正木直太郎)

正木直太郎 トピック(テーマ) 正木直太郎 ねらい 旧上田藩出身の正木直太郎,明治中期、多くの実践のなかで長野県初 の本格的な唱歌教育を上田で推進したことは注目すべきである。,キーワード 上田藩士、正木六郎左衛門 、東京師範学校、能勢栄、井沢修二、上田 松平学校、小県中学校,ふるさと上田人物伝 阿部勇、小平千文、児玉卓文、滝澤正幸/編著 上田市教育委員会 2017 現在,上田市誌 人物編 上田市誌編さん委員会 上田市 2003 サブタイトルには「信州教育進展の礎を
パスファインダー (小河滋次郎)

監獄学 未成年犯罪者 方面委員制度 民生児童委員 地方自治 上 田郷友会月報上田郷友会 岳洋 山極勝三郎,2 書名 小河滋次郎博士のこと 著者名 小河滋次郎博士顕彰会/編 出版社 上田市矯正協会,の人びと(上田市誌 28人物編) 著者名 上田市誌編さん委員会/編集 出版社 上田市,出版年 2003.3 内容紹介 上田市誌人物編に搭載されている。,出版年 明治18年 巻号頁数 小河滋次郎は上田郷友会創立メンバーであり、上田郷友会月報に
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (十人村)

十人村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:十人村(じゅうにんむら,産川峯/シツカソ 川: 産川 渡・堰: 軒民堰/西沖堰/池堰/舌喰池/荒池/甲田池 道路: 上田道,皇子社 学校: 盈進学校 物産1: 大豆/小豆/大根/桑 物産2: 生糸/熨斗糸/真綿/上田縞,/紬縞/春蚕種/夏蚕種/掛合蚕種 民業男: 農桑/養蚕/山稼 民業女: 養蚕/生糸/上田紬/紬縞,史料ID:3-1 8-79 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 上田市誌
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