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秀吉と真田
(上田城の大改修)
上田城
の大改修 「秀吉と真田」の目次はこちら 織田信長の築いた安土城は天正七年(一五七九)にほぼ,天正十三年には一応の完成をみた
上田城
も、かなり大規模な普請が行われた様子は前にも見た。,しかし、この時点での
上田城
は石垣はなく、建物も簡素で中世的な実戦本意の城であったとみられる。,そのため真田昌幸もこれにならって、
上田城
の大改修に乗り出したと考えられる。,その証拠として、
上田城
跡より出土している金箔瓦や菊花文様の軒丸瓦などの桃山期に特有な瓦が上げられる。 /
上田城
の大改修
秀吉と真田
(上杉方による上田城増築普請)
上杉方による
上田城
増築普請 「秀吉と真田」の目次はこちら 天正十三年(一五八五)閏八月、
上田城
は,そのような情勢下で
上田城
の普請が多くの上杉方の将士を動員して行われている。,「伊勢崎城」とは、当初の
上田城
の呼び名で、江戸時代もその異称として使われている。,ここで「御普請」とあるように、この時点での
上田城
普請は、上杉氏の城郭普請として行われていた。,つまり、
上田城
は、単なる真田氏の居城としてではなく、当初は徳川方の対上杉の最前線の城郭として、真田が上杉方 / 上杉方による
上田城
増築普請
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
支配の拠点が上田盆地の
上田城
と沼田盆地の沼田城というように二つに分かれるのは、地理的にみても自然であった,元和年間
上田城
図 <史料解説> 「元和年間
上田城
図」 上田市立博物館蔵 真田信之(信幸)が,城主だった時代の
上田城
・城下町の様子を伝える図。,左手の「古城本丸」など
上田城
の中心部は、関ヶ原合戦後破却され、「畠(はたけ)」となり、堀も「ウメホリ(
上田の早苗
([解説])
[解説] [目録] 東御市文化財保護審議会 寺島隆史
上田城
下原町の商人で、学者としても知られた,上田という地名を苗字とする中世上田氏についての検討から始まって、真田氏、
上田城
の築城ほかについて、伝承
原町問屋日記(嘉永6年)
([解説])
ここに掲載した『原町問屋日記』から、藩主忠優の国元である
上田城
下の様子を知ることができる。 ,ペリー艦隊が江戸湾へ姿を現してから十日余りを経た六月十二日、
上田城
下では「唐船浦賀へ来る」との情報が流,なお、上田藩は嘉永六年八月の段階で、
上田城
米三百駄を江戸表に送っている。
パスファインダー
(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
キーワード 概要を知るための ツール 真田氏関係の城址、寺社、文化遺産 実戦の城としての
上田城
,真田氏館跡(御屋敷)天白城跡 砥石城全景 岩櫃城跡 岳山城跡 箕輪城跡 白井城跡 平八石 沼田 城跡
上田城
,墓 真田幸隆平常服画像 真田昌幸画像 真田父子犬伏密談図 真田信之 画像・木像 大蓮院画像 元和年間
上田城
図,墓、砥石城全景、上州我妻郡岩櫃城之図、岳 山城跡 箕輪城跡 白井城跡 平八石、上州利根郡沼田城之図、
上田城
,宮下善七郎宛真田昌幸感状、飯島市之丞宛真田 昌幸感状、宮下太兵衛宛真田昌幸安堵状、信綱寺真田昌幸宛行状、元 和年間
上田城
図
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
このように秀忠は離反した真田昌幸・信繁父子を討つための、信州小県郡
上田城
攻めを名目として、西上の途についたのだった,なお、
上田城
という城名は真田昌幸の命名であり、まだ認知度が低かったためだろう、この後も上田を攻めるとは,にもかかわらず、
上田城
攻略にこだわったのは、右のような出馬の名目を掲げていたためだった。,昌幸・信繁父子は
上田城
に立て籠もり、押し寄せた徳川秀忠軍三万八千を、わずか二千五百という兵で待ち受けた,しかし、結果として西軍は敗れ、昌幸も
上田城
を明け渡さざるを得なくなる。
秀吉と真田
(神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)
神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と真田」の目次はこちら
上田城
に拠(よ)った真田昌幸,そのうちの初回、天正十三年(一五八五)の第一次上田合戦=神川(かんがわ)合戦では、閏(うるう)八月二日の
上田城
頭
善光寺道名所図会
(○小県郡上田)
(注2)
上田城
下には海野町と原町に問屋がありました。,(注5)上田の真田軍が、関が原へ向かう徳川軍を
上田城
で撃退した戦いです。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(林之郷)
市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:林之郷(はやしのごう) 幕末から明治初期:
上田城
附村
秀吉と真田
(家康の命令による上田築城の開始)
これは
上田城
普請が真田独自のものではなく、家康の命による徳川軍総体の動きと認識したためとみられる。,
上田城
から上杉方の最前線の虚空蔵山までの距離は、わずか数㎞しかない。,この
上田城
の地は上田盆地のほぼ中央に位置しており、小県郡全域を支配するには絶好の地点でもあった。
秀吉と真田
(豊臣氏関係遺品)
〇〇四年 信濃史料刊行会『信濃史料』第一五~一八巻 上田市誌刊行会『上田市誌歴史編6 真田氏と
上田城
,』 上田市立博物館『金箔瓦の城』 一九九六年 上田市立博物館『郷土の歴史
上田城
』二〇〇三年
松代まちあるきマップ
(22寒松山 大林寺)
本尊/釈迦牟尼如来 天正年間(一五七三~一五九一)、真田昌幸(藩祖信之の父)の夫人寒松院の発願で
上田城
外房山
パスファインダー
(真田信繁(幸村)と大坂の役)
2 書名 真田幸村と大阪の陣:大阪城・
上田城
友好城郭締結記念 著者名 出版社 出版年,大阪城天守閣/編 大阪城天守閣特別事業委員会 2006年 内容紹介 大阪城・
上田城
友好城郭締結記念
上田案内
([解説])
続いて「上田市街図」と
上田城
址ほか写真三点。次に、「総説及沿革」からはじまる本文。,「松平神社」は、旧藩主松平氏を祀るために
上田城
内に建てられたが、現在は「真田神社」と名称を変えている。,明治維新後に
上田城
の櫓が売られ、遊郭の「楼」として使われた。,「
上田城
」の名は、ほとんどの人が知っているであろう。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(上田町)
海禅寺/呈蓮寺 学校: 師範支校/松平学校/上田町学校/進新学校 古跡・名勝: 花古屋の砦址/
上田城
址
秀吉と真田
(真田昌幸、徳川と断交へ)
の目次はこちら 家康は、真田の要請に応じた形で佐久小県の残徒討伐を名目に出陣し、最低限の構にせよ
上田城
パスファインダー
(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
上田市誌 歴史編 [6] 上田市誌編さん委員会/編集 上田市 2002年 第5章真田氏と
上田城
,最新の研究成果が盛り込まれ、真田氏が戦国時代に台頭し発展した経 緯、その選択と決断、上田合戦、
上田城
下町
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([解説])
現在のところ所沢川上流で大規模な山体崩壊の痕跡は確認されていないが、金井村から10㎞余離れた
上田城
下で,上田の記録では、8時過ぎこれらが
上田城
下の千曲川に漂着したという(『伊藤家文書』)。
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
信之(信幸)の代になってからは真田家を辞した模様で、江戸時代はその出身地の名をとった「遠州屋」という
上田城
下町
上田の早苗
([翻刻])
一日本霊異記文忌寸ニ上田三郎ト見エタレドモコレハ聖武天皇ノ御宇ノコトナリ、 一当
上田城
創建,ヘシトナリ、因之天正十二年甲申信州小県郡常田台ト云所ニ 昌幸自ラ縄張ヲ以テ一城ヲ造建シ之ヲ居城トス、
上田城
是,出 サスシテ召ルヽ事謂ナシ、得コソ差上申間敷ト申切ケレハ、神君御腹立アリテ此上ハ 大軍ヲ以テ
上田城
,へ御着陣アリテ本多美濃守忠政[中務太輔忠勝ノ男子伊豆守信幸カ甥ナリ] 并真田伊豆守信幸ノ両人ヲ以テ
上田城
,去程ニ九月十五日濃州関ヶ原ノ一戦ニ上方勢敗北シ、石田ヲ始メ諸将滅亡ノ聞エ アリケレハ、昌幸信繁父子
上田城
パスファインダー
(真田一族と家臣団)
真田氏一門と家臣 [14] 丸島和洋/編 岩田書院 2014.4 真田家臣団の基礎研究、
上田城
下
諸国道中商人鑑
(2 『中山道道中商人鑑』の成立)
時代はややさかのぼるが、信州
上田城
下の『原町問屋日記』からは、伊勢神宮への参拝が、年々増えていることがわかる
パスファインダー
(猪坂直一)
また、『新撰養蚕教本』や『最新養蚕手 引』、『民主主義背の精神』『
上田城
物語』『上田近代史』など各分野
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
これを受けて、真田氏は昌幸・幸村は西軍に付くべく
上田城
へ引き返し、信幸はとどまって東軍に味方することになった,景勝は徳川軍の
上田城
攻めのとき後詰をしてくれただけではない。
宮坂弥五左衛門古記録
([解説])
上田城
下町に残る史料(「伊藤家文書」)によれば、この日上田地域の千曲川の水位が10時頃低下したという。
パスファインダー
(蚕都上田)
上田城
下町、上田宿、原町、海野町、幕府老中(上田藩主)松平忠固、 老中阿部正弘、老中堀田、老中井伊直弼
善光寺道名所図会
(○埴科郡坂木)
(注3)この三村のほか、
上田城
下までの村々は、現在はすべて上田市となっています。
秀吉と真田
(昌幸の秀吉への接近)
上田城
攻めに動員された徳川勢の大半が、信濃小県・佐久から撤退したのは、十月初め頃のことだったとみられる
秀吉と真田
(「真田」の錦絵)
真田氏は信繁(幸村)の父昌幸が自ら築いた
上田城
に拠って、二度にわたり徳川の大軍を破っている。
パスファインダー
(真田氏研究の基本史料・古記録)
真田氏時代における織豊系城郭
上田城
の再検討 倉澤正幸 信濃 3次67巻9号 真田氏と南信 藤沢好古 信濃
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
三成ほか西軍諸将よりの書状 「秀吉と真田」の目次はこちら 七月十七日の檄文に続き、
上田城
の昌幸の
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
上田城
主松平伊賀守様は、千曲川近くの村々へ命じて流死者を収容させ、秋和村の正福寺に無縁塚を建てさせ、法事
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
現存せざるもの十二箇所の中、
上田城
山のニケ所は焼失し、十ケ所は取除かれたるなり。
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