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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(上田町)
上田町
地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:
上田町
(うえだまち,月窓寺/本陽寺/妙光寺/浄念寺/金昌寺/浄楽寺/大輪寺/海禅寺/呈蓮寺 学校: 師範支校/松平学校/
上田町
学校,農/商/兼業/縫織 その他特記ワード: 常田荘 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵)
上田町
/
上田町
別所温泉誌
(《附近の名勝舊蹟の一斑》)
《附近の名勝舊蹟の一斑》
上田町
からはじまり神社、寺、古戦場、川、山、最後はほかの村にある温泉が紹介
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(築地村)
子檀岳/コクサギ岳 川: 浦野川/産川 渡・堰: 臀子堰/米倉池 橋: 産川橋 道路:
上田町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(村松郷)
コクサギ嶽/三ツ頭山 川: 浦野川 渡・堰: 上堰/柿ノ木堰 橋: 大沖澤橋 道路:
上田町
分県之建白
(ひとつの長野県に)
ひとつの長野県に統合されて1年3か月後の10年11月に、長野県は、早くも「本国全地ノ中央」にちかい
上田町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(別所村)
山王田橋/和子橋/湯川橋/大門橋/大師湯橋/久我湯橋/石湯橋/萩取橋/硯石橋 道路: 松本より
上田町
道
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(弘崎村)
水野沢 橋: 続ケ橋/一倉田和橋 道路: 長野町より松本道/大岡村より新町村道/安曇郡大町より
上田町
道
別所温泉誌
([解説])
当時、
上田町
にあった印刷所は、上田活版社(活版・銅版・石版)、長谷川活版所(活版)、中沢活版所(活版)
上田案内
([解説])
〇官衙公署 トップに
上田町
役場、所在地は原町一丁目とある。,〇学校
上田町
立、小県郡立、長野県立、私立の八校が名を連ねている。,まさに、「蚕都上田」状態の
上田町
であったことがわかる。 ,〇付録の「
上田町
政一班及び小県郡統計概表」からは、明治四十年前後の町勢と郡勢がわかる。
(株)第十九銀行と諏訪製糸業
(資金供給源の(株)第十九銀行略史)
第十九銀行は、1877・明治10年11月8日、
上田町
100番地(現、株式会社八十二銀行上田支店地籍)に
原町問屋日記(嘉永6年)
([解説])
『原町問屋日記』には、以後もペリー来航に対応する
上田町
人の姿が記されていくが、農民の対応についても上田市立博物館
扶桑之蚕6巻
([解説])
日本で初めての蚕業を学ぶための中等教育機関が
上田町
に誕生したのである。,編集発行は上田の高島諒多、発行所(蚕文社)も、印刷所(長谷川活版)も
上田町
である。
(株)第十九銀行と諏訪製糸業
([ルビ・注記])
同行は明治十年十一月、第十九国立 銀行と称し小県郡
上田町
に創立せられたるものな り。,七百七十三個所 (四十四年六月現在) (改頁) ●本支店所在地 本 店 長野県小県郡
上田町
,長野県長野市大門町 諏訪支店 長野県諏訪郡平野村岡谷 野沢支店 長野県南佐久郡野沢町
上田町
,然して之が貯蔵の要求に応ぜんが為め、 信州に起りたる倉庫業の先駆者を、小県郡
上田町
に 設立せられたる,長野県諏訪郡平野村 (電話長一二〇番) 岡谷停車場より約十町 同 会社上田支店 長野県小県郡
上田町
パスファインダー
(龍野周一郎と大同団結運動)
中の一人龍野周一郎 (
上田町
)らが結成した中信倶楽部は、大井憲太郎や中江兆民、影山英 子、小山邦太郎らを
パスファインダー
(米騒動)
2 長野県史刊行会 信毎書籍 1989.3.31 長野県下の飯田町(飯田市)、松本市、長野市、
上田町
パスファインダー
(長野県の5つの国立銀行)
長野県では、第14国立銀行(松本町、1887年開業、以下同 様)、第19国立銀行(
上田町
、1877年)
小県郡民謡集
(凡例)
かわにし)地方にありては中塩田(なかしおだ)村を、河東地方にありては県(あがた)村を、上田平地方にありては
上田町
(株)第十九銀行と諏訪製糸業
([ルビ・注記])
ノ略歴史 株式会社第十九銀行ハ今ヲ去ルコト三十年以前明治十年十一月第十九国立 銀行ノ名ヲ以テ信州
上田町
,ニ開業シタリ当時
上田町
ハ朱判稀無双等ノ名称 ヲ以テ座繰生糸(提糸)ヲ横浜ニ輸出シ其名全国ニ嘖々(さくさく,非売品) 明治三十九年六月十日発行 発行兼 箕輪五助 著述者 長野県小県郡
上田町
浅間焼覚帳
([現代訳])
騒動勢はそこから下り、伊勢山村へ行き、
上田町
へ行こうとしたが、伊勢山村の役人が川久保河原で待ち受け、四
浅間山
(第三編 浅間山変異記)
岩村田へ打ち入り・・・野澤に乱入、隅屋甚五右衛門を散々に潰し・・・小諸城下へ・・・田中から海野へ・・・
上田町
上田の早苗
([翻刻])
サセラレシナリ、 一城下町ハ海野村原村等ヨリ移住シタルヨリ町名ヲ其本居ノ名ヲ付タルナリ、 此
上田町
割家地,ハ古ノ府庁、国衙ノ所在タリシハ論 ナク本郡タルヲ知レリ、然トモ今其所在地ヲ逸シタレトモ、恐ラクハ
上田町
近辺,横町下丁原町上町悉く焼失したれハ、享保 の例によりて大久保山林の良材を下され家宅を建られたり、 ○
上田町
報時鐘
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
奉迎者は道の両側に整列して絶間なし、
上田町
は流石(さすが)五万石の城下丈け有りて、戸々国旗を立て紅燈(,当路者(とうろしゃ 枢要な地位にある人)の苦心少なからざりしが、当時
上田町
の学校[町民子弟の学校なり、,は御巡幸当時に有りては一町数ケ村に分れ居たりが常盤木の如き今は
上田町
の中にあり]ノ田中某ト云フ旅店ヲ尋,思ふに当時生産力有り志気振ひ居たりしは小諸
上田町
附近にして、長野は只参詣人多き梢々大なる宿場たるに止まり,[
上田町
成澤伍一郎氏は初刊以來の東京日々新聞を蔵せらるゝ由聞き、其閲覧を求めけるに約二十年以前の分は失
寛保二壬戌歳満水記
([現代訳])
7軒ノ内流家3軒、潰家4軒 柴町末在郷分 一家4軒皆流家、同所下屋敷之内1軒流家
上田町
寛保二壬戌歳満水記
([翻刻])
一家七軒ノ内流家三軒、潰家四軒 柴町末在郷分 一家四軒皆流家、同所下屋敷之内壱軒流家
上田町
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
半ば頃であったか、增田先生から、一寸(ちょと)来てくれ との、言付けであったか、早速を尋ねした処、
上田町
,(注1)小河滋次郎は文久三年、
上田町
に上田藩奥医師金子 宗元の次男として生まれた。
むしくら日記
(1巻 元)
一、居家潰三軒 一、同断半潰一軒 西念寺々中 一、居家潰四軒
上田町
熊太屋敷
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