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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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パスファインダー (上田藩世直し騒動)

上田藩世直し騒動 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るためのツー ル 資料,リスト 上田藩世直し騒動 開港後、全国各地で世直し騒動が展開された。,においても安 政6年の南山一揆から明治3年の中野騒動まで世直し騒動が頻発 したが、その中の代表的騒動であった上田藩世直,大庄屋 村役人 豪農商 チャラ金 二分金の引き換え 米の高値 村役人の選挙 入り札選挙 御用 金免除 上田藩,上田藩の巳年騒動 村野磊三郎/著 信濃 1934 第一次第3巻9号 32-34 上田藩の世直し騒動について / 上田藩世直し騒動
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([解説])

旧上田藩学制沿革取調書 全 / 旧上田藩学制沿革取調書 全 [目録] 東御市文化財審議会 寺島隆史 文部省は明治16年(1883,そして同23~25年には、それをまとめて『日本教育史資料』(24巻9分冊)として刊行しており、上田藩についても,上田図書館「花月文庫」の本書は、奥書よりこの折に旧上田藩主松平忠礼(恭斎)が報告した調査書の写本と知られる,上田藩校は文化9年(1812)、現在の上田市立第二中学校の地に開設された。,本書では、上田藩校の沿革、制度等については無論だが、藩儒やその教員の小伝もかなり詳しく、墓碑銘が採録されている
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

旧上田藩学制沿革取調書 全 / [翻刻] 2 旧上田藩学制沿革取調 藩内学事上之諸制度 文化八年辛未藩主松平忠済伊賀守文武学校建築,他之検束を受る事なく、塾主の随意ニ教授せり、 但、藩之家塾ニ於而ハ、学校創立以来ハ其制規ニ准せり、 旧上田藩立学校取調要項,童蒙訓 五倫五常名義 四書白文 加藤勤訓点 靖献遺言疏義 加藤勤著 (改頁) 43 旧上田藩内家塾取調,古松白鵞 (改頁) 田幡東右衛門 伊藤与一左衛門 船越久大夫 河内含三 広瀬助左衛門 右ハ旧上田藩士,にして時々明笛を 弄し山水を遊覧し、頗る高逸之気象ありし、 (改頁) 此書明治十八年孟冬、我旧上田藩知事恭斎
明治3年歎願書 ([解説])

解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇  明治新政府が発足してまもない明治2(1869)年、上田藩,安政6(1859)年の横浜開港当初から上田藩は積極的に生糸輸出をしました。,天保年間、彼の先代から上田藩の御勝手方を勤めることとなり、上田藩の財政立て直しの助力をしていたようです,平八郎直養も藩の御勝手方となり、幕末維新期の混乱の中、上田藩のために貢献しています。,・上田藩内で製造された蚕種紙を横浜で販売  ・上田藩札の扱い―藩から拝借した5万両分配の斡旋  ・
原町問屋日記(安政6年 6・7月) ([解説])

上田藩の生糸輸出を追ってみよう。  ,幕府老中であった上田藩主松平忠固(忠優を改名)は、この前年すでに老中を罷免されている。,上田藩の生糸輸出が本格化する安政六年九月、なぜか急死している。,明けて六年の正月、中居撰之助を上田藩江戸屋敷に呼び出し、貿易の仕事を依頼する。,三月、林之助らは上田藩江戸屋敷で家老岡部志津馬などと打合せする。
原町問屋日記(嘉永6年) ([解説])

[解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇 原町問屋日記 「ペリー来航と上田」  上田藩主松平忠優,上田藩の家臣に対しては、異国船が浦賀へ来航したので急な出陣もあるかもしれないから、その心構えをしておくように,取集帳には、上田領上青木村の人々が、合わせて籾十五俵(九石)を上田藩に献上したことが詳しく(村民ひとり,なお、上田藩は嘉永六年八月の段階で、上田城米三百駄を江戸表に送っている。
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

(注1)上田藩主松平忠優(ただます)(のち改名し忠固(ただかた))は、『名所図絵』が書かれたころ幕府の,彼は日本の開国・貿易を推進し、上田藩は安政6年の横浜開港当初から、ヨーロッパなどへ生糸を輸出しました。,城下商人や村の豪農商が上田藩の生糸輸出事業を支えていました。
パスファインダー (二度老中を務めた松平忠固)

上田藩主 松平伊賀守 大阪城代 松平忠優 上田縞 老中 ペリー 日米和親条約 日米修好通商条約 佐幕開国, 堀田正睦 井伊直弼 将軍家定 徳川斉昭 上田藩松平家物語:改題「松平家累代の話」 松野喜太郎/著,最後の上田藩主の弟 松平忠厚に光 1/2 松平忠固 発行機関 信濃毎日新聞社 朝刊19
明治3年歎願書 ([現代訳])

特に上田藩内の蚕種紙は最もすぐれた品と称賛されてきました。,このように困っているところ、藩からは、今年の夏に拝借した上田藩内救済通銭札(上田藩札)の引替期限がきたのできびしく,お上様(上田藩第7代藩主松平忠礼)におかれましても、このような状況を思いわずらわれている折でありますから,ご厚意により、上田藩札5万両を拝借するよう言いわたされ、ありがたく分配の世話をしてまいりましたが、はからずも
赤松小三郎書簡 実母宛 (京都で家塾、薩摩藩邸で開塾)

幕府は小三郎の逸材を認め、「開成所教官兼海陸軍兵書取調役」に抜擢しようとして上田藩に交渉してきた。,しかし、上田藩は嫉視からかこれを断り、代わりに小三郎に上田への帰藩を命じてきた。  
パスファインダー (春秋庵加舎白雄(かやしらお))

上田藩士の次男。,俳人 上田藩士 姨捨山 芭蕉句碑 面影塚 明和 安永 江戸日本橋 鉄砲町 春秋庵 別所北向観音芭蕉塚 ,ぬ) 常世田長翠 倉田葛山(かっさん) 鈴木道彦 1 書名 著者名 出版社 出版年 上田藩
明治二年八月上田騒動一件書留 ([解説])

明治二年八月上田騒動一件書留 [目録] 東御市文化財審議会 寺島隆史 明治2年(1869)8月に信濃上田藩領,明治2年8月16日は上田藩知事松平忠礼が新婚の夫人を伴って上田へ帰った日であった。
赤松小三郎書簡 実母宛 (幕末の先覚者赤松小三郎)

幕末の先覚者赤松小三郎 赤松小三郎は上田藩士芦田勘兵衛の二男、天保2年(1831)4月4日、今の上田市木町
パスファインダー (赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助)

丸山久成、斎藤謙助 薩邸浪士隊による江戸市中擾乱が鳥羽・伏見の戦いの引き金になった が、その中に上田藩脱藩志士,1 書名 著者名 出版社 出版年 上田藩松平家物語:改題「松平家累代の話」 松野喜太郎/著 郷土出版社,赤報 隊偽勅事件其の一・二・三と事件と上田藩についても詳述している。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

・川中島、稲荷山、塩崎地域は上田藩松平氏の近親者が納めている領地ですから情報が入り『問屋日記』に記されているのです,・千曲川筋で流死した人々の遺体は秋和村の正福寺へ埋葬するよう、上田藩主が申しつけました。,・上田藩内で流失した家は一一二〇軒ほど、流死者五四〇人余り、流された馬一〇匹ほど、と記されています。
信濃国諳射図記 ([解説])

上田藩士の子として、文化八年(一八一一)に生まれた尚志は、上田藩校「明倫堂」で学び、ペリー来航に際しては
松代まちあるきマップ (15小山田家住宅)

幸村の姉、村松殿は、上田藩真田信之の家臣・小山田茂誠に嫁いでいる。
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 (春秋庵白雄伝)

上田藩士加舎六右衛門の二子也・元文三戊子八月江戸深川の邸に生る(一説元文五年とす)弱冠のとき不幸にして,これは幕末期上田藩儒であった上野尚志の稿本『藤の下露』をかなり参酌した文章で、冤罪、上州舘林の記事は同書
赤松小三郎書簡 実母宛 (薩幕一和の提唱と遭難)

時に上田藩から帰藩の命が頻繁で、東帰に決め、薩摩藩門弟等のために一夕惜別の宴を催したという。
赤松小三郎書簡 実母宛 ([現代訳])

小三郎は嘉永7年(1854)上田藩士赤松弘の養子となった。)   一筆啓上申し上げます。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

一 千曲川筋からの流死者は秋和の正福寺へ無縁塚を建てて埋葬するよう、上田藩主様がお指図しました。  
パスファインダー (西洋音楽の導入)

著者名 出版社 出版年 ペリー来航、イギリス軍隊、軍楽隊、赤松小三郎、英国歩兵練法、英国 楽譜、上田藩軍隊,、上田藩西洋式軍事訓練、上田領武石村、農兵指 導、喇叭指導、正木直太郎、東京師範学校、能勢栄、長野師範学校
パスファインダー (信州の藩学(藩校))

キーワード 松代藩文武学校 松本藩崇教館 上田藩明倫堂 高遠藩進徳館 佐久間象山 阪本天山 正受老人,飯田藩・飯山藩・岩村田藩・上田藩・小諸藩・須坂 藩・諏訪藩・高遠藩・田野口藩・松代藩・松本藩の藩校が取
パスファインダー (正木直太郎)

正木直太郎 トピック(テーマ) 正木直太郎 ねらい 旧上田藩出身の正木直太郎,キーワード 上田藩士、正木六郎左衛門 、東京師範学校、能勢栄、井沢修二、上田 松平学校、小県中学校
信濃国浅間嶽之記 天明騒動記 (天明騒動記)

根津、矢沢、新張、朴屋、布下、小井田、真田、横尾などを経て、神川で上田藩や伊勢山村の人達と対峙し、捕らえられ
パスファインダー (幕末明治期における信州の寺子屋・私塾)

活文は岩門の大日堂では佐久間象山を教え、常田の毘沙門 内容紹介 堂では  八木剛助や上野尚志らの上田藩士
天明三年浅間騒動記 ([解説])

記録では上田藩の対応も書かれている。
宮坂弥五左衛門古記録 ([解説])

また、坂木代官所支配地の多くは上田藩領と松代藩領の境界部に位置するが、この大水害に関する史料がなく、研究
善光寺道名所図会 (○埴科郡坂木)

(注4)『名所図会』が書かれたころ、新町は上田藩塩尻組、現在は上田市常磐城です。
パスファインダー (山極勝三郎博士)

[DVD]うさぎ追いし 篠原高志/脚本 新日本映画社 2017.9 上田藩下級武士の家系で育った
パスファインダー (蚕都上田)

上田城下町、上田宿、原町、海野町、幕府老中(上田藩主)松平忠固、 老中阿部正弘、老中堀田、老中井伊直弼
浅間焼覚帳 ([現代訳])

矢沢旗本領では、赤坂村の酒屋市郎右衛門、上田藩領では真田村の金次郎・横尾村の文七を打ちつぶし、焼き払った,そのうちにこのことが上田藩へ伝わり、藩から役人がやってきて、騒動勢を差し止めた。  
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳 ([解説])

上田藩や松代藩は被害報告書を作成しており、被害の実態が比較的明らかにできるが、祢津知行所には知行所全体
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

昌言はそうした体験をもとに被害の状況をまとめ、8月に幕府の学問所の許可を得、9月には上田藩の許可も得て
上田案内 ([解説])

「小島鉄工場」は、江戸時代から明治初期まで上田藩の鋳物師であり「鍋大」の愛称で親しまれていた。
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

上野尚     志とともに、『上田藩教育沿革史』をまとめ、     明治17年県に提出した。,上田藩最後の藩主。,(注1)小河滋次郎は文久三年、上田町に上田藩奥医師金子     宗元の次男として生まれた。,三月十四日、子爵松平忠禮君(注1)卒去せらる、旧上田藩主な り。  ,(注1)最後の上田藩主まつだいらただなり。安政六年     十歳で家督相続。
地震後世俗語之種 ([現代訳])

○中之条代官所・中野代官所・松本藩・上田藩・同分家・椎谷藩・飯山藩・善光寺の各領地では、救援の手当てが
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