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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
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秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
真田氏
上田領
・沼田領の石高 「秀吉と真田」の目次はこちら 関ケ原合戦のあった慶長五年(一六〇〇),までの真田昌幸の知行高、つまり
上田領
の石高は「三万八千石」とされていた。,しかし、この
上田領
つまり信濃国小県郡一円の石高は江戸時代初期以降は約六万五千石とされている。 / 真田氏
上田領
・沼田領の石高
明治3年歎願書
([解説])
上田騒動の原因は数多くあげられますが、その大きな一つに、信州全域および
上田領
内に流入した贋金にあります,領民の救済への助力―囲い米(越後米)・上納米 藩が明治政府に報告した明治3年の記録によると、
上田領
内,この書付は、
上田領
民の生活が、明治初年においてすでに世界史の動きと直結していたことがわかる史料としても,現在、
上田領
内はこのような状況に陥っていると「歎願書」に記されています。
明治3年歎願書
([現代訳])
そのうちの 7、8割は信濃国のものであり、さらにその多くが
上田領
管内の損失となっております。 ,代金(横浜の商人と契約を結ぶ前に上田地域の蚕種製造業者へ前貸ししてある)のみでは、塩尻組内はもちろん
上田領
,商売は
上田領
内のことですから、恐れ入りますが規則を今よりさらにただしていただき、本邦第一の名誉がますます
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
しかし、
上田領
は先に家康から約された通り信幸に与えられ、真田家は領地もそのままに存続することができた。, 慶長五年(一六〇〇)八月二十一日 真田信幸(伊豆守)の沼田領は、徳川に敵対した父昌幸の信州
上田領
,明二十四日、こちらを発って小県郡(全域が
上田領
)を攻めるので、そちらへ出張するようにと沼田城の信幸に申,これが真田家文書中に伝わっているのは、真田氏の沼田領・
上田領
経由で大坂まで届けられるはずのところ、信幸
蚕かひの学
([解説])
・
上田領
上塩尻村の塚田与右衛門は、上田小県地域では最も早い養蚕書といわれる『新撰養蚕秘書』を宝暦七年(
原町問屋日記(嘉永6年)
([解説])
取集帳には、
上田領
上青木村の人々が、合わせて籾十五俵(九石)を上田藩に献上したことが詳しく(村民ひとり
パスファインダー
(長野県の災害)
長野県/編 出版社 長野県史刊行会 出版年 1905年5月 内容紹介 近世の
上田領
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
もっとも上州沼田領は昌幸の長男信幸が、父の
上田領
(小県郡)とは独立した形で支配を展開することになる。
パスファインダー
(小島大治郎)
キーワード 鋳物師屋、鍋大、
上田領
常田村、国分寺八日堂縁日、鍋釜、善光寺梵 鐘、小島左門太、埴科郡西条村六工社
パスファインダー
(千曲川・犀川と水害)
出版社 長野県史刊行会 出版年 1973 内容紹介 寛保の大洪水関係史料(
上田領
パスファインダー
(西洋音楽の導入)
来航、イギリス軍隊、軍楽隊、赤松小三郎、英国歩兵練法、英国 楽譜、上田藩軍隊、上田藩西洋式軍事訓練、
上田領
武石村
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([解説])
上田領
内で実際に亡くなった人は何人いたのでしょうか。
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
七月二十四日、家康は信幸の忠節を「奇特千万」と賞し(写真)、続いて二十七日には、小県郡(
上田領
)は親の
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
三月四日か五日の一日、
上田領
の田中宿を一日見分されました。
小県郡民謡集
(成人謡)
(依田窪中武 石村のみ
上田領
、死米(しにごめ 注12)碎米(くだけまい 注13)を除き年貢米を改むるを
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
武石は山間の大村落で昔は
上田領
であった 八ヶ村に別れ、武石は其の総称であった。
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