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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (真田氏上田領・沼田領の石高)

秀吉と真田 / 真田氏上田領・沼田領の石高 「秀吉と真田」の目次はこちら  関ケ原合戦のあった慶長五年(一六〇〇),までの真田昌幸の知行高、つまり上田領の石高は「三万八千石」とされていた。,しかし、その領域は上田・沼田間だけでも約百Kmという広大さであった。,支配の拠点が上田盆地の上田城と沼田盆地の沼田城というように二つに分かれるのは、地理的にみても自然であった,元和年間上田城図 <史料解説> 「元和年間上田城図」   上田市立博物館蔵  真田信之(信幸)が / 真田氏上田領・沼田領の石高
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 (上田の獅子舞)

〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 / 上田の獅子舞 2 上田の獅子舞 【頭注】 百錬抄に、高倉院天皇承安二年六月十四日、祇園御霊会、,江源武鑑ニ曰、天文年中関東ニ祇園踊はやるト、盆踊七夕踊ノ類ニテ、祇園祭礼ニ踊リタルナラン歟、追考スヘシ 上田祭礼獅子踊,[共ニ今上田町の内ニ入る]より出て、城主の広庭にて踊る也、維新後 数年の後まては年々の祇園会に出たしけるか,(改頁) 4 を引出し、お山の天王とて青葉を以て山形に作りたるものハ、原町より之を出す、両町は上田市,又ハ参り来てニ作る 上田城を築きたるは天正十壱年なるを、諸書を引証して予か上田沿革誌に説く所の如く / 上田の獅子舞
上田郷友会月報  第壱号 (3 今日まで続く上田郷友会)

上田郷友会月報  第壱号 / 3 今日まで続く上田郷友会 『上田郷友会月報』を発行した上田郷友会とは、どんな組織だったのでしょう。,創立は、組織の建て直しを願って開催された第1回の月例会と『上田郷友会月報』第1号が発刊された1885年,年9月発会した上田医学会です。,その後、上田学友親睦会、上田学友懇親会(郷友会)などと改称、1884年上田郷友会規則が制定され発足となりました,「各自相奨励し親睦を鞏(きょう)固(こ)ならしむる」ことを目的に「上田地方に縁故ある者」を会員にして発足 / 3 今日まで続く上田郷友会
秀吉と真田 (上田城の大改修)

秀吉と真田 / 上田城の大改修 「秀吉と真田」の目次はこちら  織田信長の築いた安土城は天正七年(一五七九)にほぼ,天正十三年には一応の完成をみた上田城も、かなり大規模な普請が行われた様子は前にも見た。,しかし、この時点での上田城は石垣はなく、建物も簡素で中世的な実戦本意の城であったとみられる。,そのため真田昌幸もこれにならって、上田城の大改修に乗り出したと考えられる。,その証拠として、上田城跡より出土している金箔瓦や菊花文様の軒丸瓦などの桃山期に特有な瓦が上げられる。 / 上田城の大改修
上田郷友会月報  第壱号 (1 「上田小県地域の生き字引」となっている『上田郷友会月報』)

上田郷友会月報  第壱号 / 1 「上田小県地域の生き字引」となっている『上田郷友会月報』 [目録] 上田小県近現代史研究会 小平千文, 主として近代の上田小県地域の歴史を系統的に鳥瞰できる史料として見逃せない記録史料のひとつが上田郷友会,の月刊誌『上田郷友会月報』です。,そんな『上田郷友会月報』が、実は創刊をめぐっては不思議な歴史を刻んでいます。,上田郷友会もこの号をもって第1号としています。 / 1 「上田小県地域の生き字引」となっている『上田郷友会月報』
秀吉と真田 (上杉方による上田城増築普請)

秀吉と真田 / 上杉方による上田城増築普請 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十三年(一五八五)閏八月、上田城は,なお、上田(神川)合戦の際の上杉勢の具体的な動きについては、景勝自身の出馬は長沼(長野市)までであり、,そのような情勢下で上田城の普請が多くの上杉方の将士を動員して行われている。,ここで「御普請」とあるように、この時点での上田城普請は、上杉氏の城郭普請として行われていた。,つまり、上田城は、単なる真田氏の居城としてではなく、当初は徳川方の対上杉の最前線の城郭として、真田が上杉方 / 上杉方による上田城増築普請
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 (上田の獅子舞 房山獅子)

〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕 / 上田の獅子舞 房山獅子 画像をクリックすると原本の高精細画像が表示されます 〔上田の獅子舞 房山獅子, 春秋庵白雄伝〕より 上田の獅子舞   房山獅子 [目録] 上田の獅子舞 [目録] 房山獅子,東御市文化財審議会 寺島隆史 上田獅子は、上田市内の旧常田(ときだ)・房山(ぼうやま)の両村に伝,以来、城祭とも呼ばれた上田の祇園祭に際しては、城主居館(現上田高校)前の「広庭」に舞い込んで踊ったものだった,に、南半部は常田村の地に形成されたものでもあり、それ故に上田築城・城下町形成当初から両獅子舞が、上田の / 上田の獅子舞 房山獅子
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

秀吉と真田 / このように秀忠は離反した真田昌幸・信繁父子を討つための、信州小県郡上田城攻めを名目として、西上の途についたのだった,なお、上田城という城名は真田昌幸の命名であり、まだ認知度が低かったためだろう、この後も上田を攻めるとは,上田は中山道からは外れている。秀忠軍の西上をさえぎる地ではなかった。,(一六〇〇)八月二十一日  真田信幸(伊豆守)の沼田領は、徳川に敵対した父昌幸の信州上田領および上杉景勝,九月朔日 家康(花押)      真田伊豆守殿   真田父子上田籠城図 <史料解説> 真田父子上田籠城図 / 徳川秀忠軍の上田攻め
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

秀吉と真田 / 家康の命令による上田築城の開始 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十一年(一五八三)一月には、小県郡南部依田窪地方,いずれにせよ上田築城は、単なる真田氏の居城普請というものではなかった。,上田城から上杉方の最前線の虚空蔵山までの距離は、わずか数㎞しかない。,この上田城の地は上田盆地のほぼ中央に位置しており、小県郡全域を支配するには絶好の地点でもあった。,宮下善七郎宛真田昌幸感状 <史料解説> 「宮下善七郎宛真田昌幸感状」   関口清造氏蔵 上田市立博物館保管 / 家康の命令による上田築城の開始
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上田町)

上田町 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:上田町(うえだまち,) 幕末から明治初期:横町/海野町/原町/田町/下鍛冶町/上紺屋町/柳町/木町/鎌原町/葭原町/新参町,/丸堀町/上常田町/下常田町/鷹匠町/袋町/馬場町/厩裏町/山口村/房山村/本町/舊館/上田舊城郭,/柳町/紺屋町/上常田町/下常田町/鷹匠町/厩裏町/旧館/新参町/丸堀町/葭原町/木町/鎌原町/上田旧城郭,/商/兼業/縫織 その他特記ワード: 常田荘 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上田町 / 上田町
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (田上村)

田上村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):中野市(なかのし) 明治初期:田上村(たがみむら,) 幕末から明治初期:田上村 幕末から明治初期(よみ):たがみむら 『長野県町村誌』 1巻 p1043,しみずわき)/川端(かわはた)/一里塚(いちりづか)/笹ヶ峯(ささがみね)/大道下(おおみちした)/大道上(,名勝: 一杯清水(いっぱいしみず)/笠原牧旧地(かさはらまききゅうち)/茶臼山(ちゃうすやま)/紀田上神祠,他特記ワード: 高社山崩壊(たかやしろやまほうかい) 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 田上村全図 / 田上村
パスファインダー (蚕都上田)

蚕都上田 トピック(テーマ) 蚕都上田 ねらい キーワード 概要を知,上田城下町、上田宿、原町、海野町、幕府老中(上田藩主)松平忠固、 老中阿部正弘、老中堀田、老中井伊直弼,開港後、上田からの生糸輸出量が 増大、上州生糸商人が「上田は信州の横浜であった」と表現するまでに なった,2008 内容紹介 小県上田地域の蚕種業を中心にこの地が「蚕都上田」と呼ばれるように なった,3 書名 著者名 出版社 出版年 上田近代史 猪坂直一他/著 上田市 1970 内容紹介 / 蚕都上田
秀吉と真田 (神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)

秀吉と真田 / 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と真田」の目次はこちら  上田城に拠(よ)った真田昌幸,の上田城頭の激戦で真田軍が勝利をおさめている。,その後の対陣中に真田昌幸は上杉氏を通じて秀吉と接触し、全面的に支援する旨を伝えられている。,真田昌幸画像 <史料解説> 「真田昌幸画像」   柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管  上田や松代,真田氏上級家臣河野家伝来品。 / 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上田原村)

上田原村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:上田原村(うえだはらむら,を見る キーワード 字地: 殿海道/塚原/本町/宮本/久保堂/旗塚/三兵/地久/天納/花見堂/上坊住,/下坊住/前田/中島/丁田/畔田/和合/赤口/屋敷田/古町/桜町/五反田/塚田/大越/鴨池/谷口 山,/製糸/紬縞織/木綿 その他特記ワード: 小泉庄 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上田原村全図,史料ID:3-1 8-58 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 上田市誌 / 上田原村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上山田村)

上山田村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):千曲市(ちくまし) 明治初期:上山田村(かみやまだむら,) 幕末から明治初期:上山田村 幕末から明治初期(よみ):かみやまだむら 『長野県町村誌』 1,/大鹿/弥勒寺/水上/城ノ越/住吉/下河原/城山/音平/和合/大窪/扇平/道平/八頭山滝之入山丸山大窪山,藁細工 民業女: 農桑/養蚕/(余間)生糸・縫織 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上山田村,史料ID:11-1 5-1 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 上山田町史 / 上山田村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上飯田村)

上飯田村 地域 南信 市町村名 現在(令和2年):飯田市(いいだし) 明治初期:上飯田村(かみいいだむら,はくしんじ)/長昌寺(ちょうしょうじ)/長久寺(ちょうきゅうじ)/大雄寺(だいおうじ) 学校: 上飯田学校,民業女: 紙撚 その他特記ワード: 坂西氏/湯渡家 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上飯田村之全図 / 上飯田村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上小田切村)

上小田切村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):佐久市(さくし) 明治初期:上小田切村(,かみおたぎりむら) 幕末から明治初期:中小田切村/上小田切村/下小田切村 幕末から明治初期(よみ),しもおたぎりむら 『長野県町村誌』 2巻 p2724に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 上小田切,/十二新田/西上/西下/西日向 山: 大岳 川: 片貝川 社: 諏訪社 寺: 普門寺/,蚕種/御種人参 その他特記ワード: 平賀荘/見沢原 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上小田切村 / 上小田切村
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

秀吉と真田 / 郡の一角、真田(現上田市真田町長(おさ))を苗字の地とする武士であった。,さらに昌幸は武田氏末期の天正八年(一五八〇)には上州沼田城を攻略する。,武田氏の家臣としてではあるが、昌幸は小県に隣接する上州の吾妻郡から利根郡沼田にかけてという上州北部一帯,(上田小県地方)をも手中に収めたのだった。,しかも、その講和条件は、真田領の上州吾妻・沼田と北条勢力下の佐久郡・甲州都留(つる)郡とを交換し、家康 / 武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

○小県郡上田 17右    海野へ2里、長瀬へも2里です。,特産物としては、上田縞・紬・白紬などがあります。,(注2)上田城下には海野町と原町に問屋がありました。,城下商人や村の豪農商が上田藩の生糸輸出事業を支えていました。,(注5)上田の真田軍が、関が原へ向かう徳川軍を上田城で撃退した戦いです。 / ○小県郡上田
善光寺道名所図会 (○小県郡上田)

○小県郡上田 17右   海野へ弐里、長瀬へも二里、松平伊賀守居城にて、五万八千石を領せらる、,   城下の町長く一里八丁相対して巷を成し、繁昌の地なり、産物にハ上 田縞・紬・白紬など近在より織出, 祭神諏訪、末社○六所神明○駒形稲荷○天神、以上本社の右に有、 神木楠の古株○三峯 以上本社の左に有,   (略)          18左   加賀川 深山数多乃溪水落合て千隈川に入なり、慶長の頃上田勢国,分寺を本陣として、廿町程東へ張出し、加賀川に一の柵を搆へしとそ、 加賀川の橋を渡り、大矢村海野新田を / ○小県郡上田
秀吉と真田 (小田原出陣)

秀吉と真田 / その軍勢は、真田昌幸三千人、上杉景勝一万人、前田利家一万人で、計二万三千人というものであった。,上杉勢と木曽を経て進軍してきた前田勢と合流すべく、昌幸が上田から進発したのは三月上旬であった。,前田・上杉・真田・依田の四手で分担し四方から攻めたという。 ,真田昌幸は次いで、城主が逃亡した上野の箕輪城を受取った旨を、秀吉に報じている。,(一五九〇)三月八日  小田原討伐の北国囗隊を命ぜられた真田勢は出発して間もなく、信濃と上野境の碓氷峠 / 小田原出陣
秀吉と真田 (「真田」の錦絵)

秀吉と真田 / ここに取り上げた錦絵は何れも真田氏が描かれた幕末から明治にかけてのものである。  ,真田氏は信繁(幸村)の父昌幸が自ら築いた上田城に拠って、二度にわたり徳川の大軍を破っている。,~一八八〇)画  上田市立博物館蔵  武田信玄とその有力武将を描いた武田二十四将図の類。,~一八八〇)画  上田市立博物館蔵  慶長二十年(一六一五)五月の大坂夏の陣における、幸村の有名な奮戦振,~一八八〇)画  上田市立博物館蔵  右に真田幸村、中央に後藤又兵衛、左に六文銭の陣羽織の真田大助。 / 「真田」の錦絵
秀吉と真田 (沼田領の分割裁定)

秀吉と真田 / ここで氏規は真田氏の沼田領と氏直の上洛を引き換えにしようとした。,これにつき真田信幸に上田から沼田までの案内と伝馬人足を出すように命じている(写真)。,このときの秀吉の裁定は、上州の真田領のうち沼田城を含む三分の二の地を北条領とし、三分の一は真田領として,・富田左近将監、御上使として差し下され候。,然れば、其の地より沼田迄、伝馬六十疋・人足弐百人申し付け、上下共送付すべし。 / 沼田領の分割裁定
秀吉と真田 (真田氏の動静)

秀吉と真田 / 真田氏の動静 「秀吉と真田」の目次はこちら  この間の真田氏の動きを知る史料としては、まず慶長四年閏三月二十五日,の信幸宛て徳川秀忠返書が上げられる。,このような状況下で、真田父子も家康の上杉討伐令に応じたのであった。  ,家康の移った大坂城下へ移転しようとしていた様子など、関ケ原合戦につながる上杉氏征討の軍が起こされる直前,以上。   急度(きっと)申し入れ候。其れ以来御機合如何候哉。心元無く存じ候。 / 真田氏の動静
パスファインダー (上田藩世直し騒動)

リスト 上田藩世直し騒動 開港後、全国各地で世直し騒動が展開された。,の全藩一揆「上田騒動」を克明に 綴った民間騒動記「上田騒動右物語」の現代語訳と原文の2部構 成 上田藩農民騒動史,横山十四男/著 上田小県資料刊行会 1968.4 街道を駆けた信州明治維新 上條宏之/維新解説 柏企画,6 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 上田市誌〔14巻〕:新しい社会を求めて 上田史編さん,上田藩の巳年騒動 村野磊三郎/著 信濃 1934 第一次第3巻9号 32-34 上田藩の世直し騒動について / 上田藩世直し騒動
上田案内 ([解説])

上田案内 / 続いて「上田市街図」と上田城址ほか写真三点。次に、「総説及沿革」からはじまる本文。,上田商業会議所は現在の上田商工会議所の前身であり、明治初年には上田の蚕種組合の事務所が置かれていた所である,まさに、「蚕都上田」状態の上田町であったことがわかる。  ,〇新聞  上田日報と上田新聞、現在は二つともない。,まさに「蚕都上田」「商都上田」である。  
秀吉と真田 (真田昌幸、徳川と断交へ)

秀吉と真田 / を名目に出陣し、最低限の構にせよ上田城も造ってやり、恩を売った形の天正十一年の五月の時点で、真田昌幸に,事件も起こしており、上杉景勝はそれを賞している。,ただし、一旦は上杉方へ再度の従属をしようとした様子の真田方であったが、矢沢など真田勢を上杉方に引き込もうとした,かに上杉氏に従属していた様子でもなかった。,その後の真田氏は、徳川とは断ちながらも全くの敵対というものではなく、徳川・北条・上杉という三大勢力の間 / 真田昌幸、徳川と断交へ
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

秀吉と真田 / これを受けて、真田氏は昌幸・幸村は西軍に付くべく上田城へ引き返し、信幸はとどまって東軍に味方することになった,<史料解説> 真田父子犬伏密談図   佐藤雪洞画  上田市立博物館蔵  西軍より届いた檄文をうけ,景勝は徳川軍の上田城攻めのとき後詰をしてくれただけではない。,天正十三年の上田合戦の時はもちろんだが、秀吉書状によれば、翌十四年の時点でも沼田領の真田持ち分の城の二,結局この真田再征は秀吉の意向により中止となっているのだが、これは上杉景勝が真田を庇護しており、景勝から / 東西に分かれた真田父子
秀吉と真田 (真田幸村と大坂の役)

秀吉と真田 / 真田幸村と大坂の役 「秀吉と真田」の目次はこちら  慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原合戦後、昌幸・信繁,  真田幸村画像 <史料解説> 「真田幸村画像」   柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管,[目録]    真田幸村佩刀 <史料解説> 「真田幸村佩刀」   真田宝物館蔵,松代藩主真田家伝来の品。,鹿角・六連銭文旗指物 <史料解説> 「鹿角・六連銭文旗指物」   上田市立博物館蔵  絹地に鹿角 / 真田幸村と大坂の役
パスファインダー (長野県上田点字図書館)

』という正史はないが、『上田市 史』下の「第四節 上田盲学校」が、長野県上田点字図書に至る前史を 綴っている,上田市史  下 藤沢直枝/著 上田市/編輯者 上田市 1940 「第四節 上田盲学校」で、長野県上田点字図書,上田市誌近現代編(1)新しい社会を求めて 上田市誌編さん委員 上田市誌刊行会 2002 「第三章 大正,「長野県上田点字図書館前史の定説を正す」 「上田市に点字図書館が設立された理由」「上田市立図書館点字図書,上田慈善会第一期報告書 上田慈善会 上田慈善会 上田慈善会 1900 恤救を求めた上田慈善会の収支表 / 長野県上田点字図書館
秀吉と真田 (秀吉の死と家康の上杉征伐)

秀吉と真田 / 秀吉の死と家康の上杉征伐 「秀吉と真田」の目次はこちら  秀吉は慶長三年(一五九八)八月十八日、伏見城,かろうじて家康に対抗しえた前田利家も翌四年閏三月に死去する。,まず、前田利家の子利長に謀反の疑いありとして討伐の兵を出そうとした。,これについで家康がねらったのが上杉景勝であった。,これを陰謀ありとして、慶長五年一月以降、家康は景勝に上洛を促した。しかし、景勝はこれに応じなかった。 / 秀吉の死と家康の上杉征伐
パスファインダー (信濃(上田)自由大学)

信濃(上田)自由大学 トピック(テーマ) 信濃(上田)自由大学 ねらい なぜ, 山越脩蔵 金井正 猪坂直一 土田杏村 高倉輝  1 書名 上田自由大学と地域の青年たち(,回想・枯れた二枝:信濃黎明会と上田自由大学 猪坂直一/著 上田市民文化懇話会 1967.3 今日の教育,著者は上田自由大学事務局。,マルチメディア情報センター https://www.umic.jp/ 「上田を支えた人々 上田人物伝」 / 信濃(上田)自由大学
パスファインダー (上田・小県地域の文学)

上田・小県地域の文学 トピック(テーマ) 上田・小県地域の文学 ねらい 風土,上田・小県地域について代表的な 文学作品について調べる。, 長谷川一家 上田自由大学 新田潤 煙管 片意地な街 映画館のある街 川端康成 牧歌 加藤周一 羊の歌,出版年 内容紹介 2 書名 著者名 出版社 出版年 俳人 加舎白雄と門人たち 上田市立博物館/,編 上田市立博物館 1990.1 久米正雄作品集 (岩波文庫) 久米正雄/著 岩波書店 2019.8 / 上田・小県地域の文学
秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

秀吉と真田 / 上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸) 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十三年(一五八五)になり、,上杉景勝は、右の誓詞で昌幸に、沼田・吾妻・小県等のほか、「屋代一跡」も給付するとしている。,従来『信濃史料』等では上杉方の海津城将須田満親が、八月末に昌幸の重臣矢沢頼幸に出した書状にある「今度御証人,第一次上田合戦(神川合戦)直前の状況、真田氏の上杉氏従属の経過を物語る貴重な史料であるとともに、確かなものはごく,そして、この二人とも第一次上田合戦直前には徳川軍と戦うべく一旦上田へ帰ったとみられるのである。 / 上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸)
上田の早苗 ([解説])

上田の早苗 / [解説] [目録] 東御市文化財保護審議会 寺島隆史  上田城下原町の商人で、学者としても知られた,成沢寛経(百合舎主人、1797~1868)が、幕末期に上田を中心とする小県郡の歴史について著わした書。,上田地方の最初のまとまった郷土誌といえるものです。,上田という地名を苗字とする中世上田氏についての検討から始まって、真田氏、上田城の築城ほかについて、伝承,この写本自体は、序文に見えるように大正2年(1913)に、やはり上田の人で「花月文庫」で知られる飯島茂経
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

秀吉と真田 / そのため、上杉景勝領となっていた北信濃四郡を除く、家康配下の信濃の諸領主は根こそぎ関東へ移されることになる,これに対し、天正十四年に秀吉の命で小笠原・木曽とともに家康に返されたはずの真田昌幸だけは、そのまま上田,にとどまり引き続き小県郡一円を支配し、問題の上州沼田領も旧来の形に復してそっくり与えられた。,もっとも上州沼田領は昌幸の長男信幸が、父の上田領(小県郡)とは独立した形で支配を展開することになる。,家康の配下として信濃から関東へ移された領主は、小諸の依田(芦田・松平)氏は上野藤岡(群馬県)へ、松本の / 家康の関東移封と真田昌幸・信幸
上田の早苗 ([翻刻])

上田の早苗 / [翻刻] 「成沢寛経(上田市人)著      1    上田の早苗          写本一冊 ,  (改頁)      3   上田の早苗一巻 上田原町成沢寛経翁ノ著ナリ、今鷲見氏ノ蔵,写本ヲ借リテ謄写ス、但此写本ノ表紙ニ上田の早苗[其他聞書綴こみ]トアリテ、 イヅレノ章迄ガ上田の, 田太郎佐泰、舎弟上田弥次郎長広等[弘安中の人]其子孫各上田に住す云々、 一古老筆記云、崇徳院御宇 ,ハ破却セラレ、尋テ昌幸ノ領地上田并上州沼田ノ地ヲ合セテ高九万石ヲ  改テ伊豆守信幸ニ賜ハリタルニヨリテ
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

秀吉と真田 / 今度は秀吉も家康の真田討伐を承認し、さらには上杉景勝に真田支援の禁止を命じてまでいる。,八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした,しかし、右の書状と同じ八月七日には、「上よりのあつかい」つまり、秀吉の斡旋で家康は真田攻めを中止している,これは真田を上杉景勝が庇護しており、景勝から秀吉への働きかけが強かったことによるとみられる。  ,家康が秀吉の下へ出仕した後、秀吉が、昌幸の身分の扱いに付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛 / 家康の真田再征進発と秀吉による懐柔
上田市街全図 ([解説])

上田市街全図 / 9月6日、上州松井田駅御発輦、7日~10日、軽井沢~小諸と経由して9月11日午後4時頃上田行在所(あんざいしょ,)(上田街学校・現上田商工会議所)に到着した。,その上田行在所は白亜の殿堂で、3階に露台(バルコニー)が設けられ、明治天皇が上田地域を展望することとなり,其所で上田では町分で今の市役所の所へ上田街学校を新築して之を行在所に充てることになった。,全図には明治11年当時のまだお堀が全て残された上田城の様子や上田城下町の形が描かれており、東側に宗吽寺
割田家文書 (史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事)

割田家文書 / 史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事 乍恐以書付ヲ申上候御事      1 一高百八拾四石七斗三升壱合,     内    九拾五石五斗弐合    田方               水深ヲ壱丈余,   弐拾四表水入申候  右者七月廿九日暮時より雨降り、夜中より朔日一日  大雨ニ而千曲川満水仕、其上山沢,より急ニ水押出し、  川通畑方之内菜大根木綿大豆水入ニ罷成、田方  之内茂水入仕候ニ付、水入之田畑大方書付御注進,尤地窪之場所いまた水引不申候間、水引次第  反別相改追而可奉御見分候、此度水入之分大方  御注進仕候、以上 / 史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事
割田家文書 (史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事)

割田家文書 / 史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事 恐れながら書付をもって申し上げます事 一高百八十四石七斗三升一合,     内    九十五石五斗二合    水田               水深は一丈余り,村道に損害をこうむる 一田畑            田畑に砂泥が入る                ,山の沢より急に水が押出し、川通り畑の菜・大根・木綿・大豆に水が入り、田にも水が入りました。,水の入った田畑の大方を書いてご報告します。 / 史料1 (寛保二年)八月六日 乍恐以書付ヲ申上候御事
秀吉と真田 (真田・小笠原・木曽、家康の与力に)

秀吉と真田 / 真田・小笠原・木曽、家康の与力に 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十四年(一五八六)十月、家康,こうして家康との和議が完全になった中で秀吉は、真田昌幸・小笠原貞慶・木曽義昌という信濃の三将を家康の配下,しかし、秀吉は特に昌幸については、上杉景勝の与力扱いから外しただけで、実質的には直臣化したといってよい / 真田・小笠原・木曽、家康の与力に
上田郷友会月報  第壱号 (2 われらが国を引っ張っていこうという気概の籠った「緒言」)

上田郷友会月報  第壱号 / 上田郷友会を創設し、『上田郷友会月報』という雑誌を発行しようとした願いと目的を記した「緒言」になっています,上田学友親睦会(上田郷友会)を創立した目的は、そうした競争をするためであった。,上田学友親睦会は、松代や松本の上にたち、さらに薩摩や長州、土佐、肥後を「臀下ニ置」いて国の隆盛を果たそうと,編集委員は、山際のほかに小河滋次郎(監獄制度改良と方面委員制度の創設者)、勝俣英吉郎(上田市長)、村上浩,なお、『上田郷友会月報』は、上田市立図書館によって『上田郷友会月報目録 郷土関係記事索引』(1976年
パスファインダー (赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助)

赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための,ツール 資料リスト 赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助 薩邸浪士隊による江戸市中擾乱が鳥羽,・伏見の戦いの引き金になった が、その中に上田藩脱藩志士がいた。,激動 の渦中で上田出身の丸山久成、斎藤謙助はどうしたか。,赤報 隊偽勅事件其の一・二・三と事件と上田藩についても詳述している。 / 赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上村)

上村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):佐久穂町(さくほまち) 明治初期:上村(かみむら,) 幕末から明治初期:上村/上村新田村 幕末から明治初期(よみ):かみむら/かみむらしんでんむら,長野県町村誌』 2巻 p2726に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 大張/影/久保田/,新田/中尾/針ノ木沢/本郷 山: 大岳 川: 湯沢/大岳川/中川/湯沢の滝/白欠の滝 社:,諏訪神社 寺: 明光寺 古跡・名勝: 福田山城址 物産1: 白朮/蒼朮 物産2: 御種人参 / 上村
上田郷友会月報  第壱号 ([翻刻])

上田郷友会月報  第壱号 / [翻刻] 明治十八年二月一日発兌  禁売買      2   上田郷友会月報  第壱号  ,上田郷友会     (改頁)      3   上田郷友会月報第一号  目次   ○  緒言,目的ヲ逹スルノ媒介ヲナセハ各郡 邑奨励ノ会ハ决シテ欠如ス可カラサルノモノタリ 余輩ガ先ニ創立セル上田学友親睦会,        第一条    会名 本会ハ之ヲ上田郷友会ト名ツク         第二条    ,ノ者若(もし)クハ上田地方ニ縁故アル者ニ限ル         第四条 会員ヲ分ツテ通常会員及ヒ特別会員
パスファインダー (村上義清と村上氏)

村上義清と村上氏 トピック(テーマ) 村上義清と村上氏 ねらい 戦国時代最強, 信府統記 村上義 清 信濃源氏 上田原合戦 砥石合戦 村上国清 村上氏旧家臣 出浦 正左エ門清重 村上義豊,その 内容紹介 戦乱を切り抜けて領国を作り上げた武田・上杉・真田たちの知略を尽し た戦いを中世研究の,勤仕、村上・武田の 攻防、川中島合戦等村上氏の興亡が更級埴科地方史の中で述べられ ている。,村上義清の文字の見へる宝篋印塔 栗岩英治 信濃 第1次第1巻06号 上杉憲政と村上義清等の反武田「上信同盟 / 村上義清と村上氏
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([解説])

旧上田藩学制沿革取調書 全 / 旧上田藩学制沿革取調書 全 [目録] 東御市文化財審議会 寺島隆史 文部省は明治16年(1883,そして同23~25年には、それをまとめて『日本教育史資料』(24巻9分冊)として刊行しており、上田藩についても,上田図書館「花月文庫」の本書は、奥書よりこの折に旧上田藩主松平忠礼(恭斎)が報告した調査書の写本と知られる,松平氏はその後も転封を重ねた後、3代忠周のとき宝永3年(1706)信濃上田へ入封し、以後は明治維新にまで,上田藩校は文化9年(1812)、現在の上田市立第二中学校の地に開設された。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上野村)

上野村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:上野村(うえのむら,太郎山/砂原/立山/堀越/ユリ平/上野原/姥懐/丸山/樋ノ口/樋ノ沢/北沢入/沢入/町田/塩川原/宮林,/弥素視(みすみ)/鴻臚館(こうろかん)/矢鼻/足島/塚田/太夫町/沢胯(さわまた)/番匠町/六ッ暮/,柳田/神出口/二反田川原/曽利町/舞台/道場町/大和町 山: 燕岳/大松尾山/天狗岩/雄鴻岳/地蔵嶽,目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 上田市誌 / 上野村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上郷村)

上郷村 地域 南信 市町村名 現在(令和2年):飯田市(いいだし) 明治初期:上郷村(かみさとむら,)(かみさとむら) 幕末から明治初期:別府村/飯沼村/上黒田村/下黒田村/南条村/座光寺村 幕末から,ざこうじむら 『長野県町村誌』 3巻 p3641に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 上黒田,/下黒田/飯沼/南条/別府 山: 野底山/猪尾山 川: 天竜川/松川/野底川/弓矢川/栗沢川/,きょうぞうじ)/太念寺(たいねんじ)/光福寺(こうふくじ) 学校: 島学校/飯沼学校/別府学校/黒田学校 / 上郷村
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