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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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浅間山大焼け以来難儀につき見分願い ([現代訳])

[現代訳] (前欠)にごり水が(川あるいは用水路へ)流れ込み、用水を田へかけることができなくなり、不作,昨年の秋は、田方がはなはだ不作で、たびたび救助を願い出たところ、米値段を調節するなどしてくれたので、百姓一同,その後、今年の麦作も例年の半分くらいしか取れない不作で、村々の百姓は困っている。
浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い ([解説])

実際、この年は冷害も加わり不作となった。,しかし、浅間山の大噴火とその後の不作によって、岩村田藩と分知村々が難儀していたことは知ることができる。,が流れ込み、用水に困った村や、用水路が大破し、自力では修復できない村があったこと、黍をはじめ畑作物が不作,だったこと、米も不作が予想されたこと、浅間山大噴火の際、麓の村々から逃げ出してきた人々を支援したことも
御役所より被仰渡御書付之写并請印 ([解説])

実際、この年は冷害も加わり不作となった。,しかし、浅間山の大噴火とその後の不作によって、岩村田藩と分知村々が難儀していたことは知ることができる。,が流れ込み、用水に困った村や、用水路が大破し、自力では修復できない村があったこと、黍をはじめ畑作物が不作,だったこと、米も不作が予想されたこと、浅間山大噴火の際、麓の村々から逃げ出してきた人々を支援したことも
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い ([解説])

実際、この年は冷害も加わり不作となった。,しかし、浅間山の大噴火とその後の不作によって、岩村田藩と分知村々が難儀していたことは知ることができる。,が流れ込み、用水に困った村や、用水路が大破し、自力では修復できない村があったこと、黍をはじめ畑作物が不作,だったこと、米も不作が予想されたこと、浅間山大噴火の際、麓の村々から逃げ出してきた人々を支援したことも
浅間焼覚帳 ([翻刻])

      4    所迄すなふる、大しも程ふる、併此すなハ作ニハあ  たり不申候、右ニ付万作不作,  (改頁)    黍石弐斗、ひへ三石、大豆石弐斗、小豆九斗、秋取仕  舞申候而不作, 作方六分作、田畑共ニ此年穀相場、両ニ米石五升、  其暮ニ至、両ニ米九斗八升直段也、一、午ノ年又不作也,付漸々     (改頁)      10    相しすまり申候、是ハ浅間焼不作,ノ年大火、御天(御殿)迄不  残焼申候、一、辰年ノ江戸大火、并穀そうどう  差おこり、是も浅間焼不作
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い ([翻刻])

飢渇之義者不及申上 □(御)上様御指支之段も奉恐察候ニ付、前条之趣 □(再)応御訴申上候、 □去秋田方之儀、甚不作仕,去冬御石代直段等ニ而 □慈悲被成下置、百姓一同難有奉存候、然ル所当 □麦作亦候半毛ニ有之、打続候不作故
浅間焼覚帳 ([現代訳])

右のような状態だったので、すべての作物が不作で、三分くらいしか収穫できないところや、場所によっては全く,天明六年は天明三年と同じで、またも不作だった。正月から六月まで寒さが強く、雨が降り続いた。,浅間山の噴火によって天明三年は不作だった。そのため穀物の値段が上がり、人々は難儀した。  ,この騒動は、浅間山が噴火し不作になったことから起こった。  ,これも浅間山が噴火して不作となり、穀物の値段が上がったからだった。
明治二年八月上田騒動一件書留 ([解説])

この騒動は幕末維新期の政情不安、諸藩の軍事費増強のための年貢増徴、連年の不作、二分金(チャラ金)不通用
天明三年浅間騒動記 ([解説])

浅間山の大焼けで陽気が不順となり、作物が不作、穀物値段が上がったことなどで、9月29日に騒動が始まった
浅間焼覚帳 ([解説])

次に、本書の内容であるが、天明三年七月の浅間山の大噴火とそれにまつわること、その後の不作による穀物などの
天保飢愁 ([解説])

翌5年(午年)は気候も順調で秋作も十分でしたが、同6年(未年)は夏中雨降りで風も吹き不作でした。
パスファインダー (明治3年(1870)の農民一揆(松代騒動))

明治3年(1870)の農民一揆(松代騒動) ねらい 江戸幕府滅亡後、明治初年の信濃の農民は不作
養蚕往来 ([翻刻])

糞かけてほど なき桑あたふる時ハ 蚕ミな口より青水 運ニ寄と心得、我誤を知ず惣而 蚕を外にし、不作,たるかひこハ、獅子 だけまてハ見事 なれども、舟より して桑くひかね ふそろひになり、ゆく ゆく不作
浅間山 (第三編 浅間山変異記)

《上》は、三年の飢饉について、二年の不作から書きはじめています。,三年になっても不作が続き穀物が高騰し「人民草根を食す」とまで書いています。
違作書留帳 ([翻刻])

一ばいもちよし   赤野良中   あせこしよし   わせひだよし   ゑちこ白葉大よし 〇不作之中,〇九月十一日初而大霜、雪程ふる、 諸作へあたる 手作籾四十三俵余取、上作也、 豆十二俵取、不作,目附可申達候    申十二月十三日 〇我等手作秋もの まめ 十俵余 粟  十俵    一統不作,あきの方      亥子の間 大筋 当酉年一統田方 宜候得ども、木曽川 掛り旱魃ニ而田方 不作致,し、御検見入願 候程之儀、流末村々者 大不作、畑方大豆等 違、粟稗の類違、 前年之村一札ニ而節季
違作書留帳 ([現代訳])

ばいもち」がよい、「赤野良」は中、「あせこし」よい、「早稲飛騨」はよい、「越後白葉」は大いによい、 不作,、風雨順調でよい、 六月七日頃、小麦たゝき、どうしたことか、麦畑が途中からより折れて黄色になり、大不作,九月十一日、初めて大霜、雪降り、諸作物にあたる、手作籾四十三俵あまり取る、上作である、豆十二俵取る、不作,あきの方、亥子の間、大筋、 当酉年は、みな田方はよかったが、木曽川(奈良井川)に掛かる田方は旱魃で不作,のため、御検見入りを願うほどで、流末の村々は大不作、畑方の大豆など凶作、粟稗なども凶作、前年の村は一札
はなの (夏部)

南陵 極楽ハこんな処かはちすさく ハセ 谷三 白雲のわく思ひあり蓮の花 今ザト 香山 出来不作
蚕かひの学 ([翻刻])

るにをしへ て云ハ蚕を大切にし桑をそまつに飼べしとかく人々 ハ桑を大切に蚕をそまっに心得らるゝ故不作
明治二年八月上田騒動一件書留 ([翻刻])

厚御救被成下度思召ニ者候得共、一統も承知之 通り、連年打続莫太之御入費、其上弐歩金不通用、あま つさい今年之不作
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

 手習指南ニ蚕毎年御養被成是も御蔭ニ毎年御当り漸御暮シ方拍子  取よく耕作ハ元来不被成故一粒も不作候得共下女壱人
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