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地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の価値)
また
丹波島
の渡し(1-9)、石堂(1-12)、城山(1-53)などは、当時の善光寺周辺の風景・風俗を描
地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の価値)
また
丹波島
の渡し(1-9)、石堂(1-12)、城山(1-53)などは、当時の善光寺周辺の風景・風俗を描
地震後世俗語之種
(絵の解説)
絵の解説 1-9 「従犀川渡舟善光寺遠見之畧図」(犀川渡舟より善光寺遠見の略図) 現在の
丹波島
橋付近,にあった
丹波島
の渡しを、南から見た図です。,右下に「従
丹波嶌
駅善光寺迄一里」(
丹波島
駅より善光寺まで一里)と書いてあります。,
丹波島
宿(
丹波島
駅)は渡船場の南西にありました。,1-21 犀川の
丹波島
の渡しの船頭が、綱をたぐって舟を渡している絵です。
戸隠善光寺往来
(口絵)
上段に遠景として「水内郡芋井郷善光寺」の図があり、下段に近景として
丹波島
の渡しを渡る舟が描かれています
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(青木島村)
令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:青木島村(あおきじまむら) 幕末から明治初期:青木島村/
丹波島
村
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
([翻刻])
かりの大河こゝに於て水一滴(てき)もらす事なく、下流 いくばくの船渡(せんと)[長井・村山・小市・
丹波島
以下,[於是
丹波島
一小船ヲ用ユト] 同廿九日[戊申]午刻又大に震ひ諸方多く潰(つへゆ)る。,日既に西山に没し、又一道北川原・梅沢・鍛冶・上 氷鉋(ひがな)を浸(ひた)し、
丹波嶋
を南へ廻り、両大塚
犀川を下る記
(3.千曲川通船)
1749)水内郡権堂村瀬兵衛ら4人が、坂木陣屋に千曲川・犀川の通船を願い出たのが最初でしが、福島・川田・
丹波島
善光寺道名所図会
(『善光寺道名所図会』の構成)
ついで善光寺を発して
丹波島
宿から川中島に出て、松代城下の寺社を訪ねて屋代宿に進み、この宿の山王社の祭事
犀川を下る記
(1.犀川通船の盛衰)
善光寺街道)を経由して善光寺まで荷物を運ぶには、「岡田村・刈谷原村・会田村・青柳村・麻績村・稲荷山村・
丹波島
村
地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の諸本)
この人物についての詳細は不明ですが、郷土愛を持った人物らしく、原本にはない
丹波島
渡船場の北側の図(1-
地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の諸本)
この人物についての詳細は不明ですが、郷土愛を持った人物らしく、原本にはない
丹波島
渡船場の北側の図(1-
戸隠善光寺往来
([翻刻])
丹波嶋
ハ 往時甲越之戦場、斎 (改頁) 9 川を打越、善光寺町ニ
善光寺道名所図会
(善光寺道(北国脇往還))
えて更級(さらしな)郡の稲荷山(いなりやま)宿に出、篠ノ井追分(しののいおいわけ)で北国街道に合流し、
丹波島
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
([現代訳])
さすがの大河もここに至って一滴の水も流れず、下流のいくつもの渡船場[長井・村山・小市・
丹波島
等]はその,[これにより
丹波島
の渡しでは小舟を1艘使うようになったということです] 同29日昼12時ころ、また,日が西山に沈むと、もう一つが北川原・梅沢・鍛冶・上氷鉋(長野市川中島町)に流れ込み、
丹波島
の南に回り、
信州善光寺御堂額之写
([現代訳])
夫の吉蔵は2歳になる子を懐に抱いて善光寺へと急ぎましたが、
丹波島
のあたりから女房の姿がうっすらと見えていました,重郎右衛門(ママ)と、甥の太三右衛門が江戸より帰る時、善光寺に参詣しようと一心に思って急ぎましたところ、
丹波島
戸隠善光寺往来
([現代訳])
丹波島
は甲斐の武田と越後の上杉の古戦場。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
右の「
丹波嶋
駅」の北側は干上がった犀川があって、綱を渡した
丹波島
の渡しがあります。
諸国道中商人鑑
(4 小田井から本山まで)
このあと『善光寺之部』は小諸から上田、坂木、戸倉、矢代、しの々井、
丹波島
を通り善光寺に到着、終わりとなる
むしくら日記
(2巻 亨)
今以猶一丈程も水溜居候次第ニ而、損地等之儀は (改頁) 中々凡之見極も不行届、北国往還
丹波嶋
宿辺, より千曲川・犀川落合之辺ハ一円之乱瀬ニ相成、
丹波嶋
宿并北国往還川田宿・福嶋宿之三 宿前条之次第,多分御座候由、 山中辺ハ手遠片寄候故様子難相分候得共、犀川 上手ニ而山崩有之、川巾留切、流水更ニ無之、
丹波嶋
,末々御収納御国益を失ひ、不容易儀、迚も御 救不被下置候而ハ何共可仕様無御座、且又右大地震 ニ而北国往還
丹波島
村渡船場
むしくら日記
(2巻 亨)
北国街道沿いの
丹波島
宿から千曲川・犀川の合流する辺りは一面荒れた瀬になっています。,
丹波島
宿ならびに北国街道川田宿・福島宿の三宿は前条の通りで、人馬の継立ができません。,遠く辺鄙なところで様子がよく分かりませんが、犀川の上手で山崩れがあり、川を押し止めて全く水が流れず、
丹波島
,またこの大地震で北国街道
丹波島
村の渡船場よりおよそ2里半ほど川上の、真田信濃守の領分である平林村の虚空蔵山
むしくら日記
(4巻 貞)
自普請可申付候得共、犀川・千曲川領内普請 所延長四万八百四拾三間余有之、莫太之普請所、 自力ニ及兼、就中
丹波嶋
宿之儀,ニ候処、 人家流失も多分有之、一宿不残四五尺程之泥入、并 北国脇往還川田・福嶋両宿、是又
丹波嶋
宿同様,改頁) 40 普請所延長四万八百四拾三間余有之莫太 之普請所自力ニ及兼、就中
丹波嶋
宿之儀,北国往還筋ニ候処、人家流失茂多分 有之、一宿不残四五尺程之泥入、并北国脇往 還川田・福嶋両宿是又
丹波嶋
宿同様泥
むしくら日記
(1巻 元)
(改頁) 又騒き立て、同様せんを恐れてなり、]又暫し過て柘植嘉兵衛来りて、只今 手付の者
丹波島
,者出火も有之、其上山中筋山抜崩犀川へ押 埋、水湛、追々致充満、勿論流水一切無之、北国往還
丹波島
宿渡船場干上,何分届兼可申哉、且又川中嶋平之者ハ右 湛水何方へ一時ニ押出し可申哉難計与恐怖仕、山 手へ立退罷在、
丹波嶋
宿等,ハ少々つふれも有之由ニ咄承り候得共、 しかと承り不申、大安事申候故、先日飛脚遣し候処、
丹波嶋
川留之由
むしくら日記
(3巻 利)
◯
丹波島
の者は、老人や女子供は山々に引きこもり、あるいは親族のもとへ避難して、わずかに若者30人ばかり,
丹波島
から柴までは1里余りもあるでしょう。
むしくら日記
(1巻 元)
またしばらくすると柘植嘉兵衛が来て、「ただ今、部下が
丹波島
より戻り、洪水が押し寄せるのは間違いないと報告,流言だったのでしょう」と申しますので、
丹波島
まで行くのも意味がないとことと思い、引き返して来ました」とのことでした,上山中筋の山崩れが犀川を押し埋めて、水が溜まってしだいに満水となり、もちろん流水はいっさいなく、北国街道の
丹波島
宿,
丹波島
宿等も同様で、人馬継立などもできずにおります。,もあるという話を聞いておりますが、はっきりとは承らず、大いに心配しております故、先日飛脚を遣わしたところ、
丹波島
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
原村御発輦
丹波島
区会所[旧本陣柳島ひでの邸宅]構内なる御小休所に著御在らせ給ふ。,
丹波島
の船橋(注十)を御板輿(いたごし)を以て越させ給へば千曲と犀との両河合する所に出で給ふ。,〇
丹波島
、柳島ひで邸内に協同新築の御小休所は、取除かれて池畔(ちはん)凄蒼(せいそう ものさびしい)たり,(『坂城町誌』他より) (注十)屋代の渡し・
丹波島
の渡し 徳川幕府は主要な河川には防衛上の意味,(『更埴市誌』他より)
丹波島
橋は、明治六年、
丹波島
船橋会社ができ、四つの瀬に船四十六艘を並べ、その
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
其西を
丹波嶋
といふ。,〇越後より北陸道を経て関東に至るハ、善光寺より犀川を渡り、
丹波嶋
、 又千隈川を越へ、屋代、戸倉
むしくら日記
(3巻 利)
して 取片付もせさりしか、一浪打来るとみしか忽チ押流 して、堂も家屋も行かたしれす成しと云、 ○
丹波嶋
,くるしかりしハ咽喉乾きて絶難かりけれと、かの 泥水一口も呑事能す、是計ハ迷惑せしと申た りしとそ、
丹波島
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([現代訳])
その西を
丹波島
という。,越後より北陸道を経て関東に出るには、善光寺より犀川を渡り、
丹波島
、さらに千曲川を越え、屋代、戸倉、榊(
善光寺独案内
([現代訳])
丹波島
橋 犀川に架けた橋である。長さ300間、渡銭1銭。
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
○水内 善光寺 3 登リ
丹波嶌
ヘ一里なり、越後の方へ下るにハ、善光寺より荒町ヘ一里、 牟礼へ
善光寺独案内
([翻刻])
(改頁)
丹波嶋
橋 犀川かけしはし なり。長サ三百間、渡銭壱銭。
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
(注1)
丹波島
の渡し。,慶長年間北国街道の整備により、
丹波島
の渡しが置かれ、主要な渡しとなる。 ,明治六年(1873)
丹波島
舟橋会社により、46 艘の舟を並べた有料舟橋が架けられる。
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
○水内 善光寺 3左 ○水内善光寺 上りは
丹波島
へ1里である。
地震後世俗語之種
([現代訳])
その激しさをこわごわ見ていますと、
丹波島
まで〈小市から1里川下〉山のような大波が3つ押し寄せて行ったといいます
地震後世俗語之種
([翻刻])
渡船 口は、最も上なるときは裾花川を渡りそれより 南して
丹波島
駅本陣の真北にあたり、最下 なるときは
地震後世俗語之種
([現代訳])
舟着き場は最も川上にあった時は、裾花川の合流点を過ぎてそこから南下して、
丹波島
宿本陣の真北に当たる場所
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