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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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伊那の中路 わがこころ (伊那の中路)

伊那の中路 わがこころ / 伊那の中路 画像をクリックすると原本の高精細画像が表示されます。,『伊那の中路 わがこころ』より「伊那の中路」 [目録] 伊那の中路 長野県図書館協会 宮下明彦,「伊那の中路」は天明3年(1783)2月に故郷三河を出発して信濃に入った菅江真澄が、信濃の街道附近、滞留先等,「伊那の中路」はこの旅日記を収録した『菅江真澄遊覧記』第一巻の冒頭に出てくる。,生涯出生については他人に語らなかったが、宝暦4年(1754)三河渥美郡牟呂村(愛知県豊橋市)に生まれたと / 伊那の中路
伊那県布令書 ([解説])

伊那県布令書 / 伊那県の県庁は、伊那郡飯島の旧陣屋に置き、北小路俊昌を知事に任命しました。,伊那県の管轄地域は、はじめ飯島役所管轄下の伊那三十六カ村にかぎられていました。,この御影役所から新しい文書が幕府領であった小県郡高梨村にも廻され、その中の一つに『伊那県布令書』が含まれていたのです,明治二年六月、高梨村を含む小県郡幕府領の村々では、『伊那県布令書』をうけ、連名で『組合取極書』をつくりました,その後、高梨村内のみの定めも文書にしていますので、明治維新期には、伊那県→小県郡内の村々→個々の村の順
伊那繁昌記 ([解説])

伊那繁昌記 / [解説] [目録] 松川町資料館 伊坪達郎  『伊那繁昌記』は明治43年8月5日に発行されています,発行兼編集人は、長野県下伊那郡上郷村の吉川源美と同鼎村の志田啓太郎となっています。,このころいろいろな金融機関があったようで、百十七銀行・飯田貯蓄銀行・伊那銀行・八幡商業銀行などの名前が,また飯田・下伊那の当時の名士たちがたくさんのっており、活躍していた人々について知ることができます。,明治以降の飯田・下伊那については、まだまだ分かっていないことが多くあります。
パスファインダー (飯田・下伊那の蚕糸業)

飯田・下伊那の蚕糸業 トピック(テーマ) 飯田・下伊那の蚕糸業 ねらい キーワード,伊那谷のかいこ(伊那谷を描く4) 平沢清人/文 伊那史学会 1970 飯田・下伊那の江戸時代から昭和期,協同の礎伊那谷の天龍社 蚕と絹の歴史 下伊那生糸販売利用農業協同組合連合会天龍社/編 下伊那生糸販売利用農業協同組合連合会天龍社,飯田市の養蚕建築についてその特徴を図・写真を用いてまとめている 明治期一養蚕農民の村落生活 -下伊那郡喬木村宇佐美家,2004 5-3~14、7-3~13、9-11~21 昭和恐慌下の地域養蚕組織ー長野県下伊那郡山吹村北駒場集落 / 飯田・下伊那の蚕糸業
パスファインダー (飯田・下伊那の満蒙開拓移民)

飯田・下伊那の満蒙開拓移民 トピック(テーマ) 飯田・下伊那の満蒙開拓移民 ねらい,キーワード 多くの人たちが満洲開拓移民として行った飯田下伊那の当時の状況 や、現地での苦労や戦後,満洲移民の村 -信州泰阜村の昭和史ー 小林弘二/著 筑摩書房 1977.5 内容紹介 下伊那郡,満洲移民 齋藤俊江/著 飯田市歴史研究所年報15 2017 15-139~157 松島自由移民送出と下伊那郡町村長会,と事例ー 島崎友美/著 信濃 2013,3 3-1~24 下伊那郡町村長会の満洲視察(上)・(中)・( / 飯田・下伊那の満蒙開拓移民
パスファインダー (信州飯田・下伊那の百姓一揆・騒動)

信州飯田・下伊那の百姓一揆・騒動 トピック(テーマ) 信州飯田・下伊那の百姓一揆・騒動,の百姓一揆 平沢清人 伊那史学会 1965 江戸時代に飯田・下伊那に起こった主な百姓一揆を取り上げ、その,5節) 下伊那教育会/編 下伊那誌編纂会 2006.3 飯田・下伊那の主な百姓一揆・騒動を江戸時代初期,) 伊那史料叢書刊行会/編 伊那史料叢書刊行会 1923.8 文化12年に起こされた紙問屋一揆について,1~7,3-3~7、4-1~3 養蚕業の発展と伊那郡飯田町の二分金騒動 平沢清人/著 信濃 1954 / 信州飯田・下伊那の百姓一揆・騒動
伊那の中路 わがこころ (わがこころ)

伊那の中路 わがこころ / 『伊那の中路 わがこころ』より「わがこころ」 [目録] わがこころ 長野県図書館協会 宮下明彦,真澄遊覧記刊行会、『菅江真澄遊覧記1』、新編信濃史料叢書第一〇巻 概要 菅江真澄は天明三年の春から信濃国筑摩郡に
分県之建白 (信濃国から二つの県へ)

明治元年(1868)8月2日、あちこちにちらばっていたそれまでの信濃国の幕府領を管轄するために伊那県が,東信・北信の伊那県を独立させて中野県としました。,南信の伊那県は、いままでどおりの伊那県となります。  ,藩から県になったのは12県で、伊那県と「長野県」をあわせて14の県となりました。  ,郡でいえば、安曇・筑摩・伊那・諏訪の信濃国四郡と、吉城(よしき)・大野・益田(ました)の飛騨国(ひだのくに
宿継要書留 ([解説])

16宿との争論の裁許書  ③宝永3(1706)年  伊那郡中馬と筑摩郡中馬との争論の裁許書  ④慶安,宝永3(1706)年筑摩郡の中馬が伊那郡の中馬を訴えるということがありました。,伊那郡の中馬は、筑摩郡の中馬を新馬と呼び、自らの優位性を主張したが、裁許により同じように自由にできることになりました,宝暦10年になり、上伊那の中馬村々は下伊那の中馬村々にはたらきかけ、江戸へ訴え出る準備を始めました。,(二)』(市立飯田図書館・伊那史学会  1969年発行)  ④『新編 伊那史料叢書(五)』(伊那史料刊行会
パスファインダー (江戸時代信州飯田町の火災)

丸太 縄  お助け小屋 火消人足 纏(まとい) 早火消 手配 飯田藩 問 屋 1 書名 下伊那史,/編 下伊那誌編纂会 2006.3 飯田町の火災一覧、被災者への対応、飯田町の消防組織、飯田町出火,飯田町の出来 事のまとめ 勤向書上帳 (飯田・下伊那史料叢書 近世史料編2) 飯田市歴史研究所/編,サイト名 URL 概要 1966 8-26~27 江戸時代飯田町の火事と消防 平沢清人/著 伊那,長野県市町村史誌等目次情報データベース http://misuzu-mokuji.net/ 長野県下伊那郡
パスファインダー (天竜川・木曽川と水害)

天竜川 木曽川 三峰川 三六災害 じゃぬけ 諏訪湖 大西山 遠山 川 通船 伊那谷の土石流と満水:三六災害,周年 松島信幸/編集 飯田市美術博物館 1991.12 1961 (昭和36) 年の6月末, 伊那谷,1991年は「三六災害」の30周年にあ たり、 伊那谷自然友の会と飯田市美術博物館では、ガイドブック,『伊那 谷の土石流と満水』を発行した。,内容紹介 近世から近代の伊那谷の災害と凶作について取り上げる。
信濃国村名尽 ([解説])

慶応四年(1868)八月二日、信濃国には県庁を伊那郡飯島に置いた伊那県が生まれました。,伊那県の管轄区域は、はじめ伊那郡の三十六カ村に限られていましたが、明治元年(1868)から二年にかけて,その後、明治三年九月十七日には、東北信の伊那県は分離して中野県となりました。
明治2年 組合取極書 ([解説])

したがって、明治新政府のもとで、1868年に「伊那県」の一部となりました。,のちに「中野県」を経て「長野県」となる伊那県は、小県郡の旧幕府領ほかを治めるため、旧中之条代官所を中之条局,(埴科郡坂城町中之条)としました。  ,明治維新期には公務が多く、小県郡の鹿教湯温泉と埴科郡坂城町中之条の間を、徒歩で頻繁に通っています。,この組合取極書は、明治元年10月に出された「伊那県布令書」や冠婚葬祭についての布令書などを受けて、組合村
犀川を下る記 (おわりに)

巻歴史編 Ⅱ近世(松本市 平成7年) ※「松本市史」第2巻歴史編 Ⅲ近代(松本市 平成7年) ※「下伊那史,」第8巻(下伊那郡教育会 平成18年) ※「小布施町史」(小布施町史刊行会 昭和50年) ※「千曲川一世紀
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (飯田町)

北主税町/愛宕町/伝馬町/桜町/馬場町/中ノ町/江戸町 川: 谷川 橋: 谷川橋 道路: 伊那街道,1-4 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 飯田町史/長野県下伊那郡
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (中洲村)

舟渡溝 渡・堰: ヒヤ池 橋: 大曲橋/今橋/久保田橋/城道橋/舟渡橋/舟渡溝 道路: 伊那街道,/甲州西街道/伊那脇往還 社: 諏訪上社/大国主社/中部屋社/御社宮司社/八龍社/国常立命社/八幡社,: 掲示場/温泉/村会所/製糸市場 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 中洲村村図 諏訪郡各村図
分県之建白 (分県之建白[全文])

十六、人口百〇六万ニ達シ、面積ノ広キ戸ロノ 稠キ皇国中又殆ント其比ヲ見ス、明治元 年伊那県・名古屋藩取締所及,トナリ、同三年伊那県 ノ外更ニ中野県ヲ置カル、他ノ十三藩庁 前年ノ如シ、同四年六月中野県ヲ廃シテ,、殊ニ十三藩ノ中竜岡 藩ヲ併合ス、同年七月先キノ十二番ヲ廃 シテ十二県トシ、十一月更ニ十二県及ヒ伊那,、筑 摩県ニ在テハ今日ノ東西筑摩・南北安曇・ 上下伊那・諏訪ノ七郡及ヒ飛弾(ママ)国一円タ リ、,                             三十四年五ケ月                   下伊那郡神稲村三百九拾七番地
別所温泉誌 (《温泉の沿革及び考証》)

さらに、筑摩郡や伊那郡、高井郡などにも「七久里」と呼ばれる湯があるが、「此別所温泉を當国七久里の温泉なりと
パスファインダー (二・四事件)

ちながら、新教・教労運動に参加していった岩田は、免職後『村 の経済六十年史』を著し、恐慌で疲弊した南佐久郡田口村,5 書名 著者名 出版社 出版年 修身科・無産者児童教程―長野県教労(二・四事件)―の下伊那地区,に 関する資料 今村治郎 教労下伊那地区に関する資料刊行会 1973.9 内容紹介 教労下伊那地区,昭和7 年に下伊那地区が作成した原案が、検討のため上伊那地区に手渡し た。,しかし、教育 課程の自主編成は下伊那支部の外には青森支部しかなく、極めて重要 な実践であった。
分県之建白 (分県の建白)

明治元年は、伊那県・名古屋藩取締所と14藩・1預所・5支配所が統治している所でした。,2年に伊那県と13藩となり、3年には伊那県のほかに中野県が置かれ、ほかの13藩は前年のとおりでした。,7月の廃藩置県で、12の藩を廃止して12の県とし、11月には12の県と伊那県を廃止して長野県の管轄を拡,筑摩県では、今日の東筑摩・西筑摩・南安曇・北安曇・上伊那・下伊那・諏訪の七郡と飛騨の国一円でした。,月                下伊那郡神稲村 松尾千振 35歳7か月                
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (川岸村)

夏明/駒沢/鮎沢/橋原 山: 横山 川: 天竜川/天竜川堤 橋: 大橋/前橋 道路: 伊那街道,昌福寺/真福寺 学校: 小学新倉学校/小学駒沢学校 古跡・名勝: 高尾山城址/峯畠堀/川岸蛍/三郡眺望,掲示場/仮事務所/唐沢山/本林 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 川岸村(図) 諏訪郡一村限明細絵図
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

の命令による上田築城の開始 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十一年(一五八三)一月には、小県郡南部依田窪地方,家康は、三月には「佐久小県の逆心」の徒の討伐のためとして、昌幸に近く出馬する旨を伝えるとともに、南信濃伊那郡,これと連動してか、やはりその三月に昌幸は上杉方の最前線虚空蔵山(こくぞうさん)(小県郡・現上田市と埴科郡坂城町,このとき家康が出陣を命じたとみてよい下伊那の下条氏に対して城普請の苦労をねぎらうとともに、早期の完成を,下条氏は家康配下の当時の伊那の最有力の士でもあったが、その状況からして、この普請とは間違いなく上田築城普請
パスファインダー (信州の民話・伝説)

南信編では、諏訪、 上伊那、下伊那の各地域に伝わる212話を収録 3 書名 著者名 出版社 出版年,6 書名 著者名 出版社 出版年 信濃奇勝禄:筑摩郡:安曇郡水内郡:佐久郡小県郡:諏訪郡伊那郡
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長谷村)

長谷村 地域 南信 市町村名 現在(令和2年):伊那市(いなし) 明治初期:長谷村(はせむら,大東林/唐松林/揚盧木峯林/峯林/雑木林 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 長谷村(図) (伊那郡一村限明細絵図
『説諭要略』巻一 ([解説])

筑摩県権令永山盛輝と『説諭要略』    明治四年(一八七一)十一月二十日、筑摩県が設置され、長官には元伊那県大参事永山盛輝,明治五年五月五日、筑摩県学校が開校、七月までに安曇・筑摩郡に一〇校の小校が設立された。,永山権令は七年三月二十二日から六〇日間の日程で諏訪・伊那郡、八年八月三十一日から十一月にかけて安曇・筑摩郡,、飛騨三郡を説諭して回っている。  ,諏訪・伊那郡下二三〇校の説諭巡回には、高遠藩出身で学務掛の長尾無墨、師範講習所教員飯田正宣、同予科生徒四人
秀吉と真田 (沼田領の分割裁定)

この替え地については信州伊那郡で与えられており、天正十七年十一月に信幸が上伊那箕輪の地を家臣に給した宛行状
パスファインダー (信州の通船(川の道))

下伊那史[第8巻]:江戸中期、後期 下伊那郡教育会/編 下伊那教育会 2006.3 信濃の風土と歴史
違作書留帳 (3、江戸時代の神戸村)

江戸期から明治期までの村名で、筑摩郡(つかまぐん)に属しました。  ,明治2年(1869)に伊那県、同4年に筑摩県に所属し、同7年に笹下村(ささげむら)の一部となります。
『説諭要略』巻一 ([ルビ・注記])

第三十二回   30  権令伊那郡。山本村(注1)へ到リ。其泊所へ。,(3)現下伊那郡阿智村。 (4)天子などが自らその場に臨むこと。,(2)現下伊那郡高森町。 (3)現下伊那郡飯田市。 (4)現下伊那郡喬木村。,(4)現上伊那郡中川村。 (5)現上伊那郡中川村。 (6)大将の家柄。     ,諏訪伊那両郡ヲ巡  廻シテ。説諭ノ緒ニ就キ。
パスファインダー (時報)

県内では14郡中上田・小県郡をトップに、ついで上伊那郡と続く。,3 書名 著者名 長野県飯田下伊那の満洲移民関係資料目録 齊藤俊江/著 出版社 不二出版,青年会・団による発行が中 心だが、飯田下伊那地域は農会による編集発行が特徴である。
寺子屋師匠の日記 (概要)

「当家初代好古堂芝産一代記 全 小沢和徳誌焉」[目録] 元長野県立歴史館 青木隆幸  小沢家は伊那郡小野村,(現上伊那郡辰野町)で近世半ばから明治初まで3代にわたり手習師匠を務めた家である。
明治2年 組合取極書 ([現代訳])

[現代訳] 明治二 己巳年        六月 組合取極書      小県郡       高梨村,   新しい世になったので、古いしきたりを改めるという趣旨のご布令書が、伊那県(後の長野県)から,このたびは、伊那県からのご布令も出されましたので、村の者が皆で取決めを守るよう、それぞれが印を押し、取決書
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長地村)

石臼坂溜池/鳴沢溜池/滝ノ前溜池/北久保溜池/中堤溜池 橋: 大橋/十四瀬橋 道路: 中山道/伊那街道,出早雄森/小萩森/権現森/赤渋山/尼堂原 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 長地村(図) 諏訪郡各村図
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (金沢村)

宮川大橋/赤井沢橋/金川橋/中河原橋/垢離取橋/宮沢橋/大早川橋/小早川橋 道路: 甲州街道/伊那街道,郵便局/鉱山(金山・鉛山・蠟石山) 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 金沢村(図) 諏訪郡各村図
木曾山林学校 (1.木曽ノ天然)

       1.木 曽 ノ 天 然   抑々(そもそも)木曽の地たる信濃国の西南隅に位し、東は上下伊那郡,に接し、西は濃飛両国に隣り、南は下伊那郡及恵那山に拠(より)て美濃国に連り、北は東筑摩・南安曇の2郡及飛騨国,地勢高峻四境を回繞(かいじょう:めぐらす)し、郡中亦(また)、山陵ノ蜿蜒(えんえん:うねりまがっているさま,駒ヶ岳は伊那郡に接して東南に峙(そばだ)ち高さ8千尺、御嶽と相対峙して所謂(いわゆる)木曽の峡谷を形成
パスファインダー (宗良親王と信濃)

後醍醐天皇 尊澄法親王 南北朝 征東将軍 信濃宮 上野親王 足利 尊氏 高師泰 足利義詮 井伊城 伊那郡大河原,類書に下伊那教育會編、信濃毎日 新聞社、1940刊もある。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (木祖村)

/土橋/大川端/栗谷橋/川原橋/八坂橋/小林橋/下村橋/ウケ場橋 道路: 中山道/支道飛州往還/伊那郡,7-1 5 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 木祖村誌/西筑摩郡誌
パスファインダー (中野騒動2)

中野騒動2 トピック(テーマ) 中野騒動2 ねらい 明治3年12月19日に高井郡高井野村農民,上田騒動 松代騒動 須坂騒動 府藩県三治制 高石和道 大塚徳政 中野県 高井野村 法運寺 篠塚弾正台  伊那県商社事件,について、もはや豪農と半プロレタリアとの決定的 な対立・反逆関係のみにおいては把握しきれないと主張し、伊那県,www.okadanouen.com/takaino/nakanosoudou.html 大正2年(1913年)に長野県上高井郡教育会,から出版された『長野縣上 高井郡誌』の「中野騒動」に関する記事と、金井明夫氏が『高井』に寄稿 された「
パスファインダー (佐久市跡部の踊り念仏2)

国重要無形民俗文化財 佐久市跡部 踊り念仏 一遍上人 4月第1日 曜日 西方寺 佐久郡伴野荘 小田切の,南無阿弥陀仏 和讃 鉦 太鼓 跡部踊り念仏保存会 国連教育科学文化機関(ユネスコ)無形文 化遺産 風流踊り 下伊那郡阿南町,鎌倉時代中期、公安2年 (1279年)に時宗の開祖一遍上人が、佐久郡伴野荘に来て、小田切の 里で踊り念仏,佐久市の「跡部の踊り念仏」 や下伊那郡阿南町の「和合の念仏踊り」を含む23都府県の37件で構成 されている,口絵写真―国重要文化財 紙本著色一遍上人絵詞伝 佐久編集部/編 佐久 2009.3 第56号 南佐久郡旧野沢町跡部
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (筑摩地村)

川: 入田川/前田川 橋: 諏訪道橋/会吉橋/前田橋/上田橋/上ノ橋/川島橋 道路: 伊那街道,6-31 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌/東筑摩郡誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (奈良井村)

洞沢橋/クルミ沢橋/下矢瀬尾橋/上矢瀬尾橋/矢立沢橋/桂の橋/栃窪橋/トメの橋 道路: 中山道/伊那越川入道路,-1 3 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 奈良川村誌/西筑摩郡誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (大桑村)

/北沢山/長通り山/木賊山/大鈴ヶ山/小川本谷山/ニ之沢山/一之沢山/薬師ヶ沢山 川: 木曽川/伊那川,モの官林/宮ノ尾林/中西官林 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 大桑村誌/西筑摩郡誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (宮川村)

茅野中河原溝/中河原溝/川除堤塘 橋: 建倉橋/宮川橋/安国寺橋/茅野橋 道路: 甲州街道/伊那街道,製糸場/鉱山(金山・蠟石山・鉛山) 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 宮川村(図) 諏訪郡各村図
信州飯田町家控 ([現代訳])

[現代訳] 信州飯田城下町屋の覚え 一信濃国下伊那郡郊戸庄飯田郷六本杉長姫城は、下伊那の一城で、一里東,小田原より直ちに御入郡し、知行高は伊那一郡114ケ村8万石でした。,この内上伊那で10000石、下伊那で40000石、5000石は上総国長良郡一ノ宮にありました。  ,それは、城廻り46ケ村で、北は赤須(駒ケ根市)東は供野(下伊那郡豊丘村)南は下瀬(飯田市下瀬)までです,石、伊那郡分惣高合50000石で、このほか5000石は上総国長柄郡一之宮で御知しています。  
信州飯田町家控 ([翻刻])

改頁)     (改頁)      2           信州飯田城下町屋覚 一信濃国下伊那郡郊戸庄飯田郷六本杉長姫城下, との上意ニて、羽柴称号豊臣の姓を被下、小田原より  直ニ御入郡御知行高伊那一郡百十四ケ村八万石一円,御軍功有御帰陣乃時於途中ニ  御病死  文禄二巳年より京極修理大夫源高知公御知行高  拾弐万石伊那郡高八万石并木曽妻籠添生,一慶長六丑年より小笠原兵部大輔源秀政公  御知行高五万石、此秀政公下総石古河より御移り  下伊那郡五万石,   下伊那四万石 五万(千)石ハ上総国長良郡一ノ宮ニて  御領知被成候 一寛永十四丁丑年飯田御領惣検地被仰付御改
パスファインダー (桜井常五郎)

資料リスト インターネット情報 桜井常五郎 慶応4年2月、「岩倉殿官軍嚮導隊」として小県郡和田村,(現長和町)へ 「年貢半減」「残納年貢免除」を触れた佐久郡春日村(現佐久市)出身の 桜井常五郎は、その,1 書名 信州佐久・小県の「御一新」:年貢半減令と伊那県御影局の政治手法 (信濃史学会研究叢書)
信濃国諳射図記 ([解説])

次に郡名が挙げられています。,明治初期、佐久・水内・高井・伊那はまだ上・下の二つに分けられていないこと、信濃国が長野県と筑摩県に分かれていたことがわかります,続いて各郡の大きな町が連記されていますが、ここからは藩政時代の名残を感じます。  ,『信濃國村名尽』『國勢變革提要 全』『読法略解三字経』『信濃國小縣郡年表』などです。  ,尚志が没する明治十七年(一八八四)まで執筆を続けた『信濃國小縣郡年表』は、今でも歴史を研究する人々に利用
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (塩尻村)

/棚ノ木池/大石原池/三岳池 橋: 田川橋/緑並橋/鍋中橋/金井橋/外田橋 道路: 中山道/伊那街道,6-30 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌/東筑摩郡誌
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([現代訳])

安曇・筑摩両郡旧俗伝 / [現代訳] 安曇・筑摩両郡旧俗伝 「信府統記」第十七 筑摩・安曇両郡旧俗伝 一、わが信濃の国のなかで,、昔から今日に至るまで、その事跡を見聞したことは、この「信府統記」の「郡境諸城の記」などに載せたが、大昔,くことはむずかしい、そのため、しばし筆をとることをやめたが、ここにまた筑摩(つかま)・安曇(あずみ)の両郡において,とした次第である、まさに、信じて昔を好むの意味にちかいだろう、     (改頁)   一、大昔、郡の,崎から湖が入るので塩崎といい、その潮は伊奈(伊那)郡へ流れる、塩尻(しおじり、塩尻市)の名もここからはじまった
宿継要書留 ([現代訳])

か村中馬ならびに同国筑摩郡松本町商人と、同国伊那街道16か宿問屋と継馬についての争論があった。,伊奈街道の村井より根羽迄16宿と中馬の争論の覚 一寛文13(1673)丑年5月、伊那郡中馬方惣代の宮木村,筑摩郡のうち、86か村が中馬荷物の付替えに支障があると、伊那街道馬継の松嶋・宮木・北殿村問屋役人を相手取,宝永3戌年筑摩郡の中馬を伊那郡より新馬と言われると、筑摩郡村々より訴え出て、御吟 味の上、通馬・継馬双方自由,中馬稼をしているのは、諏訪・筑摩・伊那・安曇・ 小県・更科・埴科・高井8郡に678か村あります。
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