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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (伏見城普請)

伏見城普請 「秀吉と真田」の目次はこちら  秀吉は天正十九年(一五九一)甥の秀次を関白に就任させ、,こうして太閤となった秀吉が、京都郊外伏見に築いた城が伏見城である。,桃山時代・桃山文化の名は、この秀吉の居城、伏見桃山の地名にちなんでいる。  ,なお、上田の隣の小諸城主仙石秀久は元からの秀吉家臣でもあり、もちろん伏見に屋敷を構えていた。,真田父子の伏見在勤も短くはなかったとみてよい。   / 伏見城普請
秀吉と真田 (真田氏の動静)

これによると、家康が伏見の自邸から伏見城へ移ったことを信幸が江戸の秀忠に報じていた。,これより、まず信幸も伏見にいたことが分かる。,これでは昌幸は帰国中に煩っていた模様であった信幸の病状を問うとともに、伏見の様子を知らせている。,家康が伏見城から大坂城へ移ったのは前年九月だった。,煩っていた信幸の様子を尋ねるとともに、伏見の情況を知らせている。
龍駕の跡 (1明治5年前の巡行)

1明治5年前の巡行 明治天皇の最初の地方巡行は戊辰戦争の鳥羽伏見の戦い直後の慶応4年(1868)3月
赤松小三郎書簡 実母宛 (薩幕一和の提唱と遭難)

「9月3日所用のため伏見に赴き、帰途七つ時(午前4時)東洞院魚棚(ひがしのとういんうおだな)下ル町を過
秀吉と真田 (真田氏上田領・沼田領の石高)

そのため軍役量、具体的には朝鮮の役、伏見城普請等への動員の負担が軽くてすんだとも言える。
秀吉と真田 (秀吉の死と家康の上杉征伐)

秀吉の死と家康の上杉征伐 「秀吉と真田」の目次はこちら  秀吉は慶長三年(一五九八)八月十八日、伏見城
パスファインダー (赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助)

ツール 資料リスト 赤報隊と上田の丸山久成、斎藤謙助 薩邸浪士隊による江戸市中擾乱が鳥羽・伏見,鳥羽・伏見の戦い 西郷隆盛 東山道鎮撫総督 赤報隊 年貢半減令 草莽 相楽総三 奥田元 丸山久成 丸山徳五郎
秀吉と真田 (上田城の大改修)

また、これには、伏見城普請への参加の経験や、やはり秀吉の城であった大坂城、聚楽第などでの見聞も当然あずかっていたこととみられる
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

家康の留守居を追い出し、替って毛利輝元がそこへ入ったこと、また、やはり家康の留守居鳥居元忠が守っていた伏見城,、秀頼様(豊臣)取り立てらるべき儀にあらず候に付いて、各(おのおの)申し談じ、西の丸の留守居追出し、伏見,我等儀御使者見られ候如く、漸く昨日伏見迄罷り上る躰(てい)に候。,伏見の城へは、島津(義弘)・輝元(毛利)・備前中納言殿(宇喜多秀家)・小西(行長)、御鉄炮・弓衆今日取,このほかには、伏見城を攻略した等の報告や今後の軍略等について述べている。
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

しかし、信幸についても、これ以後は父昌幸と同様、秀吉の直臣扱いとしたことは、その後の伏見城普請への動員
パスファインダー (赤松小三郎)

管見 山本覚馬/著 同志社 出版年 1928 鳥羽伏見の戦いが始まって薩摩に捕らえられた山本覚馬
後撰百人一首 ([解説])

文武天皇、聖武天皇を巻頭に配して伏見院、花園院の二首が巻軸を締め括る配列を示していて『後撰百人一首』に
木曾山林学校 ([注記])

明治15年に大日本山林会が創立されると初代会頭(総裁)に伏見宮貞愛親王、初代幹事長に品川弥二郎 が就任
木曾山林学校 (◎第1回木曾山林学校生徒修学旅行記)

其の時に伏見宮貞愛親王(ふしみのみやさだなるしんのう)殿下が時の山林局長心得品川弥二郎氏(注21)を随
後撰百人一首 ([本文])

伏見天皇の第四皇子。学問を好み、書画、和歌などに優れる。,後伏見院御製にたいする返歌。,伏見天皇の第六皇子。尊円流、青蓮院流と称される書法を創出。,(改頁) 69_二条院三河内侍 68_伏見院 68_伏見院 色かはるこゝろの秋の蔦(つた)かづら,【作者】 伏見院(ふしみのいん) 一二六五~一三一七。娯深草天皇の第二皇子、第九十二代天皇。
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

伏見宮のおほんやしなひにて。此寺にいらせられし尼君と。大勧進彼母某とか。おほん導きにて。
寺子屋入門記録「壱番入門記録」 ([翻刻・注記])

  爪印   辰正月二十一日 大横町久米屋金兵衛殿息子 一 当辰九歳 伊藤銀太郎  爪印   同 箕瀬伏見屋伊兵衛殿息子
豆から日記 ([翻刻])

頭巾着て玉川こゆる彼岸哉 さがミ 植ふる 行春の宿屋に並ぶまくらかな 以興 ゆく春や夢の伏見
義烈百人一首 ([翻刻])

せり、其兵乱の騒動に内室まつ子も擒(とりこ)となり守の者あまた付て丹羽家にありしを、秀吉公きこしめされ伏見一,人生死も一寸、また善悪も一寸、万の事皆一寸なり、是をしる者は心に滞ることなしといへり、慶長五年の役に勝俊伏見,となり、長嘯子と号して歌道に遊楽の身なりしを、此内室父祖の勇武を請継て歯がみをなし、夫の武道柔弱にして伏見,詠し哥なり、然るに讒臣の為、御父子の御中不和とならせられ御不興を蒙りてたゞちに虚名を申開んと聚楽より伏見
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

にして三条橋畔ニ於而暗殺せらる、享年三十一(ママ)、実ニ慶応三年 【(付箋)「東洞院五条通 所謂伏見街道
烈女百人一首 ([翻刻])

もの思ひ 越路の末の 白波も 立帰る日の ありとこそきけ 【頭注】 初君は越後の国寺泊の者なるが、伏見院,やかに左近はげしく戦ひ是を防ぐ、久左衛門三好方にありて恋の邪魔なる故、左近を射落し打取り、なほ左近が伏見
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

儀仗兵二小隊四列をなして前後左右より御輦に従ひ奉り、両皇后の御輦(柳原典侍陪乗)続いて後に輾り、有栖川宮、伏見宮,、東伏見宮北白川宮、閑院宮を始め奉り、三條太政大臣、岩倉右大臣、大隈、大木、寺島、山県、西郷井上の文武大臣
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