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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
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秀吉と真田
(伏見城普請)
伏見城
普請 「秀吉と真田」の目次はこちら 秀吉は天正十九年(一五九一)甥の秀次を関白に就任させ、,こうして太閤となった秀吉が、京都郊外伏見に築いた城が
伏見城
である。,この
伏見城
普請には、朝鮮へ渡海しなかった東国大名が主に動員されており、真田父子も普請役を割り当てられている,また、後の昌幸書状(写真)の内容より見て、
伏見城
下には真田氏の屋敷があったことは確かだが、それも昌幸・,真田宝物館蔵 文禄二年(一五九三)十二月十七日 秀吉の奉行長束(なつか)正家等が京都郊外の
伏見城
普請 /
伏見城
普請
秀吉と真田
(真田氏の動静)
これによると、家康が伏見の自邸から
伏見城
へ移ったことを信幸が江戸の秀忠に報じていた。,家康が
伏見城
から大坂城へ移ったのは前年九月だった。,<史料解説> 真田信幸宛同昌幸書状 真田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇)三月十三日
伏見城
下
秀吉と真田
(秀吉の死と家康の上杉征伐)
秀吉の死と家康の上杉征伐 「秀吉と真田」の目次はこちら 秀吉は慶長三年(一五九八)八月十八日、
伏見城
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
そのため軍役量、具体的には朝鮮の役、
伏見城
普請等への動員の負担が軽くてすんだとも言える。
秀吉と真田
(上田城の大改修)
また、これには、
伏見城
普請への参加の経験や、やはり秀吉の城であった大坂城、聚楽第などでの見聞も当然あずかっていたこととみられる
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
しかし、信幸についても、これ以後は父昌幸と同様、秀吉の直臣扱いとしたことは、その後の
伏見城
普請への動員
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
家康の留守居を追い出し、替って毛利輝元がそこへ入ったこと、また、やはり家康の留守居鳥居元忠が守っていた
伏見城
,このほかには、
伏見城
を攻略した等の報告や今後の軍略等について述べている。
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