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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (秀吉の死と家康の上杉征伐)

景勝は慶長四年九月に帰国していたが、会津百二十万石へは前年に越後から移されたばかりであり、新領国の経営,そこで、家康は出兵を決定、諸大名に豊臣政権の統率者として会津出陣を指令し、自らも六月大坂城を出発した。
原町問屋日記(安政6年 6・7月) ([翻刻])

罷越候處御勘定御奉行様松本左右衛門様小川忠左衛門様御一統御出ニ而被仰聞候者今般神奈川交易御免ニ付紀州会津上田産物三家交易御願立,         一棕呂皮 一蜜かん 一九年母 一生蝋          一干藻類 一葛 一陶器類 一茶 一 会津様御産物
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (岩野村)

韮崎沖/中道沖/芦原沖 山: 妻女山 川: 千曲川/ヒビ池 道路: 北国脇往還 社: 会津比売神社
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

会津攻めの途上、宇都宮に滞陣していた秀忠は八月二十三日に、明日出馬すると諸方に通知している。,〇〇)八月二十一日  真田信幸(伊豆守)の沼田領は、徳川に敵対した父昌幸の信州上田領および上杉景勝の会津領,仍って信州口・会津口境目手置き等丈夫に申し付けらるるの由尤もに候。,史料解説> 宇喜多秀家等宛上杉景勝書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)八月二十五日  「会津中納言,家康の会津遠征を中断しての引き上げを「敗軍」と言うなど、意気盛んな様がうかがえる。
松代まちあるきマップ (33尼巌山浄福寺)

豊臣秀吉にも重用され、朝鮮の役にも活躍したが、上杉氏の会津移転の際、急死した。
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

また沼田越えで会津へ向かう使者の案内も依頼している。,会津との連携を取る上でも真田氏の存在は西軍にとって重要だった。,真田氏沼田領と上杉氏会津領とは峠(尾瀬)越えで接してもいたのである。  ,残る弐人は会津への書状共遣はし候条、其の方より慥(たしか)なるもの御そへ候て、ぬまた越えに会津へ遣はされ,一此の飛脚早々ぬまた越えに会津へ御通し候て給はるべく候。
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

東西に分かれた真田父子 「秀吉と真田」の目次はこちら  こうして徳川家康の命に従い、会津遠征の軍に,「真田昌幸宛長束正家等連署状」   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇)七月十七日  家康の会津遠征軍,家康(内府)が会津の上杉景勝征討の軍を起こしたのは誓詞や太閤の置目(遺言)に背くものであり、相談して「,吉継は、やはり家康の命に応じて会津遠征に参加しようとしていた。
パスファインダー (更埴地方古代からの神社等)

水別神社 粟狭神社 坂城神社 中村神社 玉依比賣命(たまよりひめ のみこと)神社 祝(はふり)神社 会津比賣神社出早雄神社
パスファインダー (浅岡一)

また、長野県を去った後の経歴、会津の 白虎隊を悼んだ「飯盛山懐古」の漢詩も掲載されている。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([翻刻])

令造遣諸国三河国 八脛(ハキ)長橋・水内曲橋・木襲梯(キソノカケハシ)・遠江国浜名橋・会津闇(クロ)
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([現代訳])

諸国に派遣して、三河国八脛長橋・水内曲橋・木襲梯(きそのかけはし)・遠江国浜名橋・会津闇川橋・兜岩猿橋
小県郡民謡集 (成人謡)

○會津殿様米の飯過る百に五連のひ葉(注3)がよい。 ○會津殿様力が強い二十三萬石お差し上げ。,○會津殿様田樂おすき城の生燒(なまやけ)味噌だらけ。
秀吉と真田 (小田原出陣)

ついで秀吉は会津に赴き、奥羽諸大名を帰服させた。これで秀吉による全国統一の達成がなった。
信濃名勝詞林 (碓氷紀行)

彫付たる石ふみたてり余吾將軍【注5】の墓也とかしかはあれと余吾將軍の事は越後國蒲原郡岩屋村にそのかみ會津侯
北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝 全 ([翻刻])

其後大赦(たいしゃ) を蒙(こふむ)りしか、其の末葉(ばつやう)なる者、延喜の末年奥州(おうしう)会津,玆(こゝ)に会津(あいづ)の里(さと)に程近(ほどち)かき安賀寿村なる河瀬(かはせ) 源(げん)右衛門,を)につき千代平が、「そ の生霊(いきりゃう)のたゝりあり余所(よそ)のうわさを聞(き)きたるに、会津,一時(いっとき)も早(はや)く会津(あいづ)へ行(ゆ)き、笹丸方(さゝまるかた)へ云(い)ひ 入(い,急(いそ)ぎましょう」と いひければ、打連(うちづ)れて会津へ赴きける。
善光寺独案内 ([翻刻])

     (改頁)      38      仝 裏田町 (商標)醤油味噌醸造本店   会津屋号
むしくら日記 (4巻 貞)

御領中にて千八十一軒、押埋の家三百十 七軒、押埋の上流失七軒、水押潰九軒、半分流失七 軒也、 ○会津侯御届
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