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(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
真田三代~幸隆・昌幸・
信之
(信幸)・信繁(幸村) トピック(テーマ) ねらい キーワード,概要を知るための ツール 真田三代~幸隆・昌幸・
信之
(信幸)・信繁(幸村) 歴史上の人物で,真田信繁(幸村) 真田幸隆 真田昌幸 真田
信之
(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田,真田源太左 内容紹介 衛門信綱、遂に戦国大名となった真田安房守昌幸、松代の初代藩主真 田
信之
,父 幸隆(幸綱)は助走者としての役割を果たし、昌幸が大名化の基盤を確 立し、嫡男
信之
がその / 真田三代~幸隆・昌幸・
信之
(信幸)・信繁(幸村)
松代まちあるきマップ
(38真田林大鋒寺)
だいほうじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 万治元年(一六五八)、初代藩主真田
信之
,(さなだのぶゆき=真田幸村(信繁)の実兄)の隠居所跡に、長国寺八世観国が
信之
の遺言に従って開創。,
信之
の法号をとって大鋒寺と名づけた。,江戸期は、本尊阿弥陀三尊の左右に
信之
の像と二代藩主信政画像が置かれていたが、明治四年(一八七一)、花の,幸貫像を左、
信之
厨子を右に配した。
松代まちあるきマップ
(22寒松山 大林寺)
) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 天正年間(一五七三~一五九一)、真田昌幸(藩祖
信之
,の父)の夫人寒松院の発願で上田城外房山に建立した大輪寺を、
信之
の松代移封後、この地に移した。,寒松院の墓のほか、
信之
・幸村(信繁)の父昌幸、母寒松院、
信之
、信政などの位牌、藩家老の矢澤、鎌原家、大石蔵之助
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(柴村)
道路: 長野道 社: 柴神社/皇大神社(こうたいじんじゃ) 寺: 山本勘助晴幸墓/真田伊豆守
信之
墓,/大鋒寺(だいほうじ)/阿弥陀堂 学校: 重陰学校 古跡・名勝: 真田伊豆守
信之
墓 物産1:,: 農桑/養蚕/伐薪/藁細工(わらざいく) 民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 真田
信之
松代まちあるきマップ
(42白鳥神社)
真田家が上田から松代へ移封の年=元和八年(一六二二)、真田
信之
が祈願所の開善寺を松代に移し、次いで寛永元年,伝承では真田
信之
の駕籠の上に白い鳥が舞い降り、
信之
と共に松代に移りたいと訴えたという。,滋野氏の祖、清和天皇の皇子貞元親王・貞保親王を祀り、松代では、文化十年(一八一三)に、七代藩主幸専が藩祖
信之
秀吉と真田
(昌幸死去の悔み状)
昌幸死去の悔み状 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田
信之
宛本多正信書状 <史料解説> 「真田
信之
宛本多正信書状,
信之
は父の葬儀をしたいとして家康の側近本多正信に相談した。これはそれについての返事である。,六月十三日 正信(花押) 真田
信之
宛城昌茂書状 <史料解説,> 「真田
信之
宛城昌茂書状」 真田宝物館蔵 慶長十六年(一六一一)六月十六日 これも昌幸逝去,それにしても、
信之
は若いころは大変病気がちであったようで、ここにもよくよく養生してほしいとの言葉が見える
松代まちあるきマップ
(30真田山長国寺)
元和八年(一六二二)、
信之
が上田から松代に移封された際、現在地に移り、真田山長国寺と号した。,明治維新までは、真田家初代藩主
信之
、二代信政(清野の林正寺に移築)、三代幸道、四代信弘、幸道母堂の御霊屋五棟,があり、現在は
信之
(国重要文化財)、幸道(開山堂に移動)、信弘の三廟を残す。,
信之
御霊屋は、表門が禅宗様式の四脚門、母屋は入母屋造、内部は欄間に鳳凰の彫刻、壁・天井は花鳥が描かれている
秀吉と真田
(昌幸最晩年の書状 幸村筆)
昌幸最晩年の書状 幸村筆 「秀吉と真田」の目次はこちら 真田
信之
宛同昌幸書状 <史料解説> 「,真田
信之
宛同昌幸書状」 真田宝物館蔵 年次不詳 三月二十五日 関ヶ原合戦後、真田昌幸・,昌幸から
信之
(信幸)宛てだが、筆跡・内容から幸村(信繁)の代筆とみてよいもの。,<史料解説> 「真田
信之
宛同昌幸書状」 真田宝物館蔵 年次不詳 四月二十七日 昌幸最晩年,
信之
の病気回復を喜ぶ一方で、昌幸自身が病気で困惑している情況を述べている。
松代まちあるきマップ
(28功徳山 願行寺)
藩祖
信之
の近臣、伊木尚正(なおまさ)が、
信之
没後、この寺で出家、庵を構えて主君の菩提を弔っていたが、享保十八年,一七七九)、明治五年(一八七三)、二十四年と江戸~明治にかけ、計四回の大火にあったが、伊木尚正が祀った
信之
影像
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
これは信幸(
信之
)が相続したときに、加増という形で実際の石高とも言うべき合計九万五千石に直されている。,元和年間上田城図 <史料解説> 「元和年間上田城図」 上田市立博物館蔵 真田
信之
(信幸)が,そのため下方中央の濠で囲まれた屋敷に
信之
は住んだ。
秀吉と真田
(神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)
ただし、これは昌幸ではなくその子
信之
(信幸)像とされている。,蓮華定院蔵本は九十歳代の老人に見えることとあわせ、原本はやはり九十三歳という長寿を保った
信之
の晩年の肖像,蓮華定院には
信之
の墓もある。
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(真田氏研究の基本史料・古記録)
出版社 出版年 真田幸貫 河原綱紀 一徳斉殿幸隆 信綱寺殿信綱 長国寺殿昌幸 寒 松院 大鋒院殿
信之
,、信綱寺殿信綱のものが1巻、長国寺殿昌幸関係が全14巻、寒松院殿 昌幸夫人の部が1巻、大鋒院殿
信之
関係,が全て25巻、
信之
夫人関係が 上下2巻、大光院左衛門佐信繁(幸村)の部が4巻、…」である。,この短刀は
信之
が関ケ 原合戦に当たり、二男信政(当時4歳)を質として江戸城に上げたとき、家 康(秀忠),幕府に発覚すれば、真田家 の命取りにもなりかねない関ケ原の戦い前夜の石田方からの密書は、 藩祖
信之
の手
松代まちあるきマップ
(47真光(信広)山 林正寺)
この信政は明暦四年(一六八五)二月、幼い幸道を残し、父
信之
に先立って亡くなった。,これを裁いた
信之
も、同年十月に亡くなった。
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(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
長篠古戦場 丸子城跡 御北之 塚 開善寺 願行寺 高野山蓮華定院 真田庵・真田昌幸墓 長谷寺 信綱寺 真田
信之
霊屋,真田昌幸着用具足 名胡桃城代鈴木主水の墓 真田幸隆平常服画像 真田昌幸画像 真田父子犬伏密談図 真田
信之
,ことに、幸隆-昌幸からはじまって、信綱・昌輝・
信之
・幸村(信繁)に至る 三代の経歴と活躍については、万般,菊花文軒丸瓦、長篠古戦場、丸子城跡 御北之塚、開善寺、願 行寺、高野山蓮華定院 真田庵・真田昌幸墓、真田
信之
霊屋,安堵状、矢沢頼幸宛須田満親書状、神川合戦図、矢沢綱頼宛上 杉景勝書状、真田昌幸宛豊臣秀吉書状、真田昌幸・
信之
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(真田三代の妻妾・子女)
著 信濃路 1979年 内容紹介 真田弾正忠幸隆の妻妾・子女、真田昌幸の妻妾・子女、真田
信之
,KADOKAWA 出版年 1905年7月 内容紹介 真田一族人物事典の章に真田昌幸・
信之
,3 巻、信綱寺殿信綱のものが1巻、長国寺殿昌幸関係が全14巻、寒松院 殿昌幸夫人の部が1巻、大鋒院殿
信之
関係,が全て25巻、
信之
夫人関係 が上下2巻、大光院左衛門佐信繁(幸村)の部が4巻、…」である。
松代まちあるきマップ
(20平林山本誓寺)
初代藩主真田
信之
の制札(禁制)、自画自賛の寿像、初代藩主真田
信之
が命名、八代藩主幸貫が墨書した寺号「真田園
松代まちあるきマップ
(32芳谷山 梅翁院)
ほうこくざん ばいおういん) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 寛永十九年(一六四二)、真田
信之
側室,万治元年(一六五八)、
信之
の死後、右京は剃髪し、その冥福を祈念、寛文十一年(一六七一)に没。
松代まちあるきマップ
(44関谷山西楽寺)
天正二年(一五七四)に堂宇を建立、西楽寺と名付け中興。その後火災で焼失したが、松代藩真田家初代藩主真田
信之
,慶安元年(一六四八)、
信之
が、三男信重の御霊屋(おたまや、国指定重要文化財)を建立。創建当時は極彩色の
松代まちあるきマップ
(43金剛樹山 開善寺)
かいぜんじ) 宗派/真言宗智山派、本尊/地蔵菩薩 元和(げんな)八年(一六二二)、真田
信之
,開善寺経蔵(県宝)は、万治三年(一六六〇)の建立。大仙院風岳春山大禅尼(
信之
の娘)が祈願、天海版一切経六三二三巻
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
真田
信之
(信幸)画像 <史料解説> 「真田
信之
(信幸)画像」 真田宝物館蔵 衣冠束帯姿の
信之
像
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(岩野村)
農桑/養蚕/生糸 その他特記ワード: 金刺貞長/神八井耳命(かんやいみみのみこと)/村上氏/真田
信之
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(屋代村)
その他特記ワード: 吾妻鑑/村上氏/屋代氏/屋代左衛門尉(やしろさえもんのじょう)/徳川家康/真田
信之
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(生萱村)
埴科乃石井 その他特記ワード: 大穴郷/金刺氏/三代実録/村上氏/武田氏/村上景国/須田満親/真田
信之
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(倉科村)
炭焼 民業女: 養蚕/生糸/機織 その他特記ワード: 和名抄に倉科郷/村上氏/上杉景勝/真田
信之
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(西条村)
養蚕/採薪/水車 民業女: 養蚕/製糸/機織 その他特記ワード: 村上氏/西条治部少輔/真田
信之
松代まちあるきマップ
(40無漏山実相院)
盛清の孫・半平幸吉は千五十石の大身で、
信之
の信任が厚かったと伝わる。
松代まちあるきマップ
(21晧月山大英寺)
宗派/浄土宗、本尊/阿弥陀如来 樹齢一五〇年のシダレヤナギに迎えられて入る大英寺は、初代
信之
夫人小松姫
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(東寺尾村)
: 養蚕/織縫 その他特記ワード: 寺尾氏/村上義清/寺尾伝左衛門/山崎の戦い/上杉景勝/真田
信之
松代まちあるきマップ
(15小山田家住宅)
幸村の姉、村松殿は、上田藩真田
信之
の家臣・小山田茂誠に嫁いでいる。
松代まちあるきマップ
(17松代藩鐘楼(まつしろはんしょうろう))
井楼(せいろう)式高櫓形鐘楼で、元和八年(一六二二)年に松代藩真田家初代藩主・真田
信之
が設置。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(西船山村)
民業女: 養蚕/縫織 その他特記ワード: 村上氏/村上義清/上杉景勝/板倉正重/中之条陣屋/真田
信之
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(雨宮村)
の国造(くにのみやつこ)/金刺氏(かなざしし)/村上氏/雨宮孫五郎/清野氏/村上義清/松平忠輝/真田
信之
松代まちあるきマップ
(10象山恵明寺)
開山は中国僧黄檗山二世木庵性韜(もくあんしょうとう/木庵禅師)。初代藩主
信之
の娘見樹院が地蔵堂を建立、
松代まちあるきマップ
(48松操山典廏寺)
かつてこの地にあった旧瑠璃光山鶴巣寺(かくそうじ)跡に、承応三年(一六五四)、真田
信之
の女見樹院が、長国寺八世僦察
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(豊栄村)
関屋村/牧内村/桑根井村/平林村/村上氏/真田一徳斎幸隆/小山田昌辰/上杉景勝/松平忠輝/須田満親/真田
信之
松代まちあるきマップ
(25旧前島家住宅)
作左衛門は、昌幸が没した慶長十六年に、真田
信之
のもとに帰藩、その子孫が前島の家を継いだ。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(東条村)
田中村/加賀井村/東条遠江守/村上氏/真田一徳斎幸隆/小山田昌辰/上杉景勝/松平忠輝/須田満親/真田
信之
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(松代町)
真田一徳斎/高坂弾正忠昌宣/山本道鬼斎晴行/上杉景勝/村上源吾景国/須田相模守満親/松平忠輝/松城/真田
信之
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
武田氏滅亡後、真田氏に仕えたわけだが、慶長五年に昌幸が失脚して、
信之
(信幸)の代になってからは真田家を
松代まちあるきマップ
(8象山神社 象山記念館)
社殿前のご神木イロハカエデは、初代藩主
信之
の忠臣鈴木右近の屋敷跡から移植した樹齢三百年以上の古木。
秀吉と真田
(豊臣氏関係遺品)
] 豊臣秀頼書状 <史料解説> 「豊臣秀頼書状」 真田宝物館 真田
信之
パスファインダー
(真田一族と家臣団)
長篠の役で討死した真田源太左 衛門信綱、遂に戦国大名となった真田安房守昌幸、松代の初代藩主真 田
信之
パスファインダー
(生島足島神社)
慶長15(1 610)年、真田
信之
の寄進により再建された。
パスファインダー
(龍野周一郎と大同団結運動)
5 書名 愛民 著者名 出版社 出版年 寺島
信之
/編 龍野周一郎/発行
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
状持参、役僧役人共、来未三月 より来ル戌二月迄、御料・私領・寺社 領・在町可致巡行候間、迎
信之
輩
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