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秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
家康の関東移封と真田昌幸・
信幸
「秀吉と真田」の目次はこちら 天正十八年(一五九〇)七月の小田原,もっとも上州沼田領は昌幸の長男
信幸
が、父の上田領(小県郡)とは独立した形で支配を展開することになる。,しかし、
信幸
についても、これ以後は父昌幸と同様、秀吉の直臣扱いとしたことは、その後の伏見城普請への動員,真田信之(
信幸
)画像 <史料解説> 「真田信之(
信幸
)画像」 真田宝物館蔵 衣冠束帯姿の信之像,なお、慶長六年以降は、一部例外もあるが、
信幸
は「幸」の字を「之」に改めている。 [目録] / 家康の関東移封と真田昌幸・
信幸
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(真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))
真田三代~幸隆・昌幸・信之(
信幸
)・信繁(幸村) トピック(テーマ) ねらい キーワード,概要を知るための ツール 真田三代~幸隆・昌幸・信之(
信幸
)・信繁(幸村) 歴史上の人物で,真田信繁(幸村) 真田幸隆 真田昌幸 真田信之(
信幸
)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田,人物叢書 新装版) 柴辻俊六/著 吉川弘文館 1996年 1/3 真田三代~幸隆・昌幸・信之(
信幸
,/adeac.jp/shinshu-chiiki/ 2/3 真田三代~幸隆・昌幸・信之(
信幸
/ 真田三代~幸隆・昌幸・信之(
信幸
)・信繁(幸村)
秀吉と真田
(真田氏の動静)
これによると、家康が伏見の自邸から伏見城へ移ったことを
信幸
が江戸の秀忠に報じていた。,これより、まず
信幸
も伏見にいたことが分かる。,これに続いては慶長五年三月の
信幸
宛て昌幸書状がある(写真)。,真田
信幸
宛同昌幸書状 <史料解説> 真田
信幸
宛同昌幸書状 真田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇,煩っていた
信幸
の様子を尋ねるとともに、伏見の情況を知らせている。
秀吉と真田
(沼田領の分割裁定)
これにつき真田
信幸
に上田から沼田までの案内と伝馬人足を出すように命じている(写真)。,
信幸
は昌幸の長男であるが、昌幸にではなく
信幸
に、これを命じたのは、既に真田領のうち上州分については
信幸
,この替え地については信州伊那郡で与えられており、天正十七年十一月に
信幸
が上伊那箕輪の地を家臣に給した宛行状,真田
信幸
宛豊臣秀吉朱印状 <史料解説> 「真田
信幸
宛豊臣秀吉朱印状」 真田宝物館蔵 天正十七年,(一五八九)七月十日 昌幸にではなく
信幸
(源三郎)に宛てたものとしては、初の秀吉書状。
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
そのため、昌幸とその長男
信幸
、次男信繁(幸村)の父子三人による協議がなされた。,[目録]
信幸
は天正十七年に家康の下に出仕していた。,真田
信幸
宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田
信幸
宛徳川家康書状」 真田宝物館蔵 慶長五年,これは
信幸
のその忠義を、家康が「奇特千万」として与えた褒状。,の右の書状に続いて家康が
信幸
に与えたもの。
秀吉と真田
(北条の兵、名胡桃城を奪取)
これについて真田
信幸
より報告を受けた家康は、十一月十日付け書状で、先の沼田城明渡しの両上使(津田・富田,真田
信幸
宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田
信幸
宛徳川家康書状」 真田宝物館蔵 天正十七年,十一月十日 秀吉の裁定により真田方に残された上州の名胡桃(なくるみ)城が、北条の兵に奪い取られた事件を
信幸
秀吉と真田
(伏見城普請)
秀吉の奉行や普請奉行からの幾つかの通達の内の一通、文禄三年正月十八日付け書状(写真)の宛名には昌幸・
信幸
,また、後の昌幸書状(写真)の内容より見て、伏見城下には真田氏の屋敷があったことは確かだが、それも昌幸・
信幸
,蓮華王の茶壷卯の花の茶壷 真田
信幸
宛豊臣氏奉行連署状 <史料解説> 「真田
信幸
宛豊臣氏奉行連署状, 文禄二年(一五九三)十二月十七日 秀吉の奉行長束(なつか)正家等が京都郊外の伏見城普請を
信幸
,
信幸
はこの文禄二年九月、秀吉の命により従五位下(じゅごいのげ)伊豆守に叙任されていた(寛政重修諸家譜ほか
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
沼田の
信幸
にも小県攻めに向かうので、そちらへ出張するように命じ(写真)、他の諸将へは「真田表仕置きのため,しかし、上田領は先に家康から約された通り
信幸
に与えられ、真田家は領地もそのままに存続することができた。,真田
信幸
宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田
信幸
宛徳川家康書状」 真田宝物館蔵 慶長五年,
信幸
はそれぞれの境界の出入口を、しっかり固めさせている、と家康に報告した。,(下略) 真田
信幸
宛徳川家康書状 <史料解説> 真田
信幸
宛徳川家康書状 真田宝物館蔵
秀吉と真田
(上杉方による上田城増築普請)
昌幸の長男
信幸
は沼田方面の家臣に出した書状で、その戦果を簡潔に知らせている(6)。,恩田等宛真田
信幸
書状 <史料解説> 「恩田等宛真田
信幸
書状」 長野市真田宝物館蔵 天正十三年,(一五八五)閏八月十三日 真田昌幸の長男源三郎
信幸
が沼田周辺の家臣宛てに出した書状。,なお、これに見える
信幸
の花押は上杉景勝初期の花押に大変よく似ている。,閏八月十三日
信幸
(花押) 下豊 恩伊(恩田伊賀) 源三郎 木甚(木暮甚之丞)
秀吉と真田
(真田氏上田領・沼田領の石高)
同じく慶長五年までの
信幸
の沼田二万七千石(上州利根郡・吾妻郡)は、江戸前期ごろ三万石であった。 ,これは
信幸
(信之)が相続したときに、加増という形で実際の石高とも言うべき合計九万五千石に直されている。,元和年間上田城図 <史料解説> 「元和年間上田城図」 上田市立博物館蔵 真田信之(
信幸
)が
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(真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)
真田昌幸・信之・幸村宛豊臣氏 普請奉行連書状、真田昌幸宛長束正家等連署状、真田親子犬伏密談 図、真田
信幸
宛徳川家康書状,、真田
信幸
宛徳川家康安堵状、真田昌幸 宛石田三成書状、真田父子上田篭城図、高野山蓮華上院、真田昌幸書,状、真田
信幸
宛本多正信書状、真田幸村画像、真田
信幸
宛昌幸書状、 真田幸村書状、大坂冬之陣・夏之陣図、真田幸村勇戦之図
秀吉と真田
(小田原出陣)
真田
信幸
宛豊臣秀次書状 <史料解説> 「真田
信幸
宛豊臣秀次書状」 真田宝物館蔵 天正十八年,そこより、やはり小田原遠征の途にあった豊臣秀次(秀吉の甥、近江八幡城主)宛てに、
信幸
が出した陣中見舞状,卯月十日(朱印)(豊臣秀吉) 真田安房守とのへ 真田昌幸・
信幸
宛豊臣秀吉書状,<史料解説> 「真田昌幸・
信幸
宛豊臣秀吉書状」 真田宝物館蔵 天正十八年(一五九〇)四月十一日,<史料解説> 「真田昌幸・
信幸
宛豊臣秀吉書状」 真田宝物館蔵 天正十八年(一五九〇)四月十四日
秀吉と真田
(豊臣氏関係遺品)
小田原の役のおり、北条攻めに加わっていた豊臣秀次が、やはり従軍中の真田
信幸
の労をねぎらったもの。,
信幸
は北国囗部隊の一員として、前田利家・上杉景勝らと上州碓氷郡松井田城を攻撃中であった。
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
末尾の条項より、昌幸は
信幸
が徳川方に付いたことは伝えていなかったことが分かる。,一豆州(伊豆守
信幸
)・左衛門尉(幸村)殿、別紙を以って申し入るべく候と雖も、貴殿御心得候て仰せ達せらるべく,伊豆殿(
信幸
)女中改め候間、去年くだり候時、左衛門佐(幸村)方へくやみ候様子までを証跡に申し別儀無く候,豆州(
信幸
)へも苦しからず候はば、御心得候て給るべく候。,「房州」は安房守昌幸、「豆州」は伊豆守
信幸
、「左衛門介」は幸村(信繁)。
秀吉と真田
(神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)
ただし、これは昌幸ではなくその子信之(
信幸
)像とされている。
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
武田氏滅亡後、真田氏に仕えたわけだが、慶長五年に昌幸が失脚して、信之(
信幸
)の代になってからは真田家を
パスファインダー
(長野・更埴地域の文学について(2))
2017.6 内容紹介 窮乏の極にある藩の財政改革に尽力した恩田木工を描く表題作や、真 田
信幸
秀吉と真田
(昌幸最晩年の書状 幸村筆)
昌幸から信之(
信幸
)宛てだが、筆跡・内容から幸村(信繁)の代筆とみてよいもの。
上田の早苗
([翻刻])
カ甥ナリ] 并真田伊豆守
信幸
ノ両人ヲ以テ上田城へ被遣和睦ノ扱アリ、[和睦トハ天正十三年来不和ナリシ故,以テ昌幸返答ニハ、此頃ハ未要害整ハサルニ仍テ御返答昨今延引ノ処、最早手配 調タリ、美濃守ハ縁者、
信幸
,御感ノ余リ別儀ヲ以テ安房 守左衛門佐ノ一命ヲ御助ケアリテ、両人ヲ高野へ遣シ可申旨命セラレケレハ、
信幸
,、其節 上田城郭ハ破却セラレ、尋テ昌幸ノ領地上田并上州沼田ノ地ヲ合セテ高九万石ヲ 改テ伊豆守
信幸
,ニ賜ハリタルニヨリテ、
信幸
ハ上田ニ住居シタレトモ既ニ城郭破却 シタレハ屋敷住居タリ、今戦国ノ中ニ城郭
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(天竜川・木曽川と水害)
三六災害 じゃぬけ 諏訪湖 大西山 遠山 川 通船 伊那谷の土石流と満水:三六災害30周年 松島
信幸
秀吉と真田
(「真田」の錦絵)
幸隆は昌幸の父で、
信幸
・幸村兄弟の祖父にあたる。芳虎は幕末から明治初期に活躍した。
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