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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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新刻日本百将伝 ([解題])

阿部比羅夫 『新刻日本百将伝』より坂上田村麿 『新刻日本百将伝』より源義仲 『新刻日本百将伝』より武田信玄,、上杉憲実、山名宗全、北條長氏、三浦介義同、今川貞世、北條氏康、太田持資、齊藤道三、そして最後は武田信玄,略歴、時代背景、活躍のエピソード等が記されており、その中から信濃とゆかりが深い坂上田村麿、源義仲、武田信玄
秀吉と真田 (「真田」の錦絵)

~一八八〇)画  上田市立博物館蔵  武田信玄とその有力武将を描いた武田二十四将図の類。,ここには信玄と勝頼を含め二十六人が上げられている。,そのメンバーは、いつの時期にするかでも替わってくるが、これは信玄初期の家臣団を中心にした模様で、真田氏
パスファインダー (飯綱(飯縄)信仰)

その中でも飯綱(飯縄)信仰は、上杉謙信 や武田信玄が信仰したことで知られている。,キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 飯綱高原 飯縄山 飯綱山 上杉謙信 武田信玄
松代まちあるきマップ (39阿弥陀山東光寺)

武田信玄海津城築城時の祈願寺だったとも言われている。
松代まちあるきマップ (27久龍山蓮乗寺)

永禄年間(一五五八~一五七〇)、武田信玄による海津城築城の折、戦乱等で荒廃した海津寺を再建。
松代まちあるきマップ (48松操山典廏寺)

てんきゅうじ) 宗派 曹洞宗 本尊 釈迦牟尼仏 川中島合戦(永禄四年の戦い)で戦死した武田信玄
松代まちあるきマップ (14真田宝物館)

永楽焼十一代目保全の茶碗などお茶道具の逸品、昌幸所用の「昇り梯子の甲冑」や刀剣類、豊臣秀吉・石田三成・徳川家康・武田信玄
善光寺道名所図会 (○下戸倉)

(注8)天文22年、武田信玄に敗れた村上義清の奥方と姫は、越後に落ち延びようとして、この渡しを渡ろうとしましたが
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (里見村)

農桑 民業女: 農桑/紡糸/養蚕/縫食 その他特記ワード: 増ノ原/大島原/大島山林/武田信玄
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

その名をあらわしたのは、昌幸の父幸隆(幸綱)が信濃へ侵攻してきた甲斐の武田信玄に仕えてからのことである,北信濃四郡は、戦国期には「川中島」とも「奥郡」とも総称され、武田信玄・上杉謙信が争奪戦をくり返したことで
パスファインダー (長野市長沼地区)

著者名 出版社 出版年 令和元年10月の千曲川の洪水で大被害を受けた長野市長沼地区は、 武田信玄,長沼太郎 島津氏 川中島の戦 長沼城 武田信玄 長沼藩 佐久間勝 之 佐久間勝友 佐久間勝豊 佐久間勝茲
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

天文21年(1552)に、武田信玄の軍勢が小県(ちいさがた)郡から攻め入り、8月5日から合戦がありました
松代まちあるきマップ (1松代城)

   山城が平城に変わる時代を先駆けた名城で、川中島の合戦時、武田信玄が
パスファインダー (長野・更埴地域の文学について(2))

草川信 夕焼け小焼け 善光寺縁起 風 林火山 山本勘助 井上靖 天と地と 上杉謙信 海音寺潮五郎 武田 信玄
信濃名勝詞林 (信濃下向日記)

夕南方いたつて寒しねぶたき事限りなし松代へ行七ッ時より用意出立道八幡原古戦場なり東南にとり打峠近くみゆ信玄陣取,落合備中守、此方古帳の落合殿とあり]この城跡より山を堀ると米いつる落合備中守のこもれりし城あとなりむかし武田信玄
パスファインダー (生島足島神社)

社殿、お籠り祭りと諏訪神社、御神体、武田信玄の願文、起請文、鉄製 油釜、回り舞台などの項目から生島足島神社
パスファインダー (真田一族と家臣団)

(新人物文庫) 丸島和洋/編 KADOKAWA 出版年 2016年 内容紹介 武田信玄
パスファインダー (諏訪の文学)

新田次郎記念会/編 新人物往来社 2005.2 昭和31年に「強力伝」で直木賞受賞以後、「武田信玄
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

永禄六の年武田信玄の伝馬定書から中山道制定以前から宿があったことは確かである。,武田信玄のいう宿は「古町」と呼ばれ、東北よりの場所である。
パスファインダー (真田三代~幸隆・昌幸・信之(信幸)・信繁(幸村))

真田幸隆 真田昌幸 真田信之(信幸)上田合戦 関ケ原の戦い 真田十勇士 犬伏の陣 上田 沼田 松代 大阪 信玄
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

○川中嶋ハ永録年中、甲斐の武田入道信玄越後の入道謙信と対戦し、双方智      (改頁)    ,信玄怪敷思ひ、彼光明ある所  を尋見給ふに、行西が菴の内より出たる光明也。,信玄奇異の思ひをなし、庵主に向ひて事の様を尋けれバ、庵主行西此年  月有し事とも物語、「即此名号ハ武運長久,の守にして親鸞聖人の御筆也」  と、委しくかたり申けるに、信玄殆歓ひにたへず、「我今戦場に向ふ時武運長,〇武田信玄公諸役免許朱印  異説に曰、佐々木四郎高綱、頼朝公の約諾異変の事を憤り、既に  謀叛を企
パスファインダー (真田氏関係の城址、寺社、文化遺産)

 開善寺 大林寺・大輪寺 願行事 大英寺 白鳥神社 松尾古城之 図、白鳥神社海野系図、真田幸隆宛武田信玄宛行状
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

川中島は永禄年間、甲斐の武田入道信玄と越後の入道謙信が対戦し、双方の智勇の武将たちが討ち死にした大合戦,武田入道信玄は大軍を率いて出陣し、東の方を望み見ると、芝の中から48本の光がたなびいて見えた。,信玄は不思議に思い、その光のある所を捜してご覧になると、行西の庵の中から出ている光であった。,信玄は不思議に思い、庵主に向かって事情を尋ねたところ、庵主の行西はこの年月にあったことを物語り、「この,〇武田信玄公諸役免許朱印  異説によれば、佐々木四郎高綱は頼朝公が約束を違(たが)えたことを憤り、謀叛
木曾山林学校 (2.木曽の歴史)

是より世々相伝へて義康に至る時に、甲州の武田信玄数々(しばしば)辺境を侵し相拒(ふせ)ぐこと数歳なり。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

「武田信玄茶臼山陣趾」や「西条山」の「上杉謙信陣跡」も記されています。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

 終に此所にて往生の素懐を遂られたり、夫より血脈相承して他力易往  の流益繁昌せり、爰に当府武田信玄持城
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

むかし武田信玄の。しひて御扉をひらきたりしに。忽ち目しひたりといふ伝へもはへれは。といなみつれと。
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

ここにこの地が武田信玄の持城だった頃、当山の縁起を聞き、栗林一郷除地諸役免許の朱印を賜りました。  
天明三年浅間騒動記 ([翻刻])

砥石 の城之麓にて此砥石の城には往往昔村上義 (改頁) 29 清御籠城しけるを、甲州より武田信玄数多
信濃名勝詞林 (戸隱山紀行)

(さんちゆう)に紅葉狩(もみちかり)といふ所(ところ)が存在(そんさい)する)また近(ちか)くは武田信玄,賴政和歌二首(よりまさのわかにしゆ)(是(これ)は取(と)り落(お)として忘(わす)れた) 八 武田信玄願狀
上田の早苗 ([翻刻])

為神職之条被為免候、向後急度二男三男抱之者迄、着到可有之条、  仍テ御下知如件、        武田徳栄軒信玄
贈答百人一首 ([本文、奥付])

といふべし、されど進をしりて退をしらず、存を知りて亡をしらざれば亢竜(かうりう)の悔を生ずるもあるべし、武田信玄,をふるつてたゝかひつゝ、ふたりとも兜首を取、大将の実検にそなへける、軍さんじてのち、此事陣中にてもつはら沙汰ありければ、信玄二人
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

永録五年武田四郎勝頼又之に代り、元亀二年勝頼嗣 となるに因り、武田上総介信綱来り代り、天正元年仁科五郎信盛(信玄
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