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元禄時代 軽口はなし
([解題])
元禄
時代 軽口はなし /
元禄
時代 軽口はなし [原本の目録]
元禄
時代 軽口はなし 解題 元高校教師 高木保和 校訂者,上田萬年は「はしがき」に「東京帝國大学(現東京大学)本」から自ら抄出し、標題は江戸時代の「
元禄
時代軽口,上田萬年はこの種の文学の潮流の中心は「
元禄
・天明」の時代にあったと考察している。 ,『輕口露がはなし』5巻は
元禄
4(1691)年刊の「咄本」。
本朝桜陰比事
([解題])
本朝桜陰比事 巻三 本朝桜陰比事 巻四 本朝桜陰比事 巻五 [原本の目録] 本朝桜陰比事 巻一(
元禄
,2年(1689)刊) [原本の目録] 本朝桜陰比事 巻二(
元禄
2年(1689)刊) [原本の目録], 本朝桜陰比事 巻三(
元禄
2年(1689)刊) [原本の目録] 本朝桜陰比事 巻四(
元禄
2年(1689,)刊) [原本の目録] 本朝桜陰比事 巻五(
元禄
2年(1689)刊) [底本の目録] 本朝桜陰比事,
元禄
2(1689)年刊の「本朝桜陰比事」は雑話物として分類される疑獄話、いわゆる裁判に関わる話を集録した
『長野史料』索引
([翻刻])
西町、西之門、阿弥陀院 川北拾五ヶ村戸数人別帳 人二 一一三 信濃十郡高附帳[
元禄
十五年, 天明凶作后ノ米価 天 一〇七 善光寺御入料帳 仏三
元禄
十五年,弘化未年遊女通ノ件 人三 一三 (改頁) 13 市役覚
元禄
五年,(改頁) 16 善光寺別当伝 御造営入料帳
元禄
ヨリ,仏五 十夜仏由来 人三 善光寺御朱地引分ノ件 人六
元禄
五年
童訓学要抄
([序])
改頁)4 学分之捷径計堂之階梯 不 有数而不倦之尽者何以有丁 寧詳淳如此 邪学者以近莫 忽之云
元禄
乙亥三月朔旦路
松本藩庄内組大庄屋御用留
(2、松本藩筑摩郡庄内組)
折井家所蔵の庄内組組鑑によると(この組鑑は、
元禄
末年から宝永初年頃のものと推定されています)、庄内組の
パスファインダー
(善光寺縁起)
その
元禄
5年版善光寺縁起を現代語訳したもの。 善光寺縁起の内容を知るための基本的な本である。,資料リスト 1 書名 著者名 発行者 出版年 善光寺如来縁起―
元禄
五年版 小林一郎/訳 銀河書房,1985.3 坂内直頼著の
元禄
五年版善光寺縁起を翻刻し、現代語訳を付けてあ 内容紹介 る。
寛保二壬戌歳満水記
([解説])
原は寛文6年(1666)に生まれ、
元禄
年間(1688~1703)に信濃国絵図調整に携わり、享保10年(
御伽百物語 1ノ巻 2ノ巻 3ノ巻
([解題])
中国の怪談奇談集を典拠としながらも、
元禄
時代の文化や事件、有名人物の動向などが豊富に盛り込まれている。,巻1の1剪刀師(はさみし)竜宮に入る 天下泰平の
元禄
となり、北野天満宮では改修後の遷宮が行われるとあって
童訓学要抄
([解説])
初めに「洛下 昌陽軒 繍梓」とあり、巻末に「
元禄
八乙亥歳六月穀旦 中村孫兵衛梓」とある。,京の昌陽軒が編集し、
元禄
8年(1695)に中村孫兵衛から出版されたことがわかる。
松代まちあるきマップ
(39阿弥陀山東光寺)
現仁王門は
元禄
十六年、万人講によって勧進寄進されたもの。
松本藩庄内組大庄屋御用留
(3、大庄屋と折井家)
庄内組の場合も、
元禄
期から幕末維新期まで、白板村の折井家が代々つとめています。
宿継要書留
([解説])
文書のほとんどが争論の記録で、寛文期(1661~1673)・
元禄
期(1688~1704)・宝永期(1704,①正保3(1646)年 飯田藩脇坂氏より市田問屋に渡された7品の定書 ②
元禄
7(1694)年 ,
元禄
6(1693)年伊那街道の16か宿は、宿継の荷物の励行を願い出ました。
武家百人一首
([解説])
では、伊藤氏によれば、寛文六年(1666)のものが最も古く、ついで、寛文十二年(1672)の重刷板、
元禄
十六年,跋文には「
元禄
十六歳六月上旬 渋川清右衛門」と記される。,すなわち、底本は
元禄
十六年(1703)の後刷本をもとに新刻したものを補刻した一書で、奥付には「書画一筆
パスファインダー
(善光寺の火災と復興)
「現本堂は、
元禄
5年(1692)に計画され、途中で火災があったりして手間 取った末、宝永4年(1707,この造営事業は
元禄
内容紹介 13年を境として、明白に二つの時期にわけられる。
武家百人一首
([凡例])
同本は天保二年(1831)刊(新刻、跋文には
元禄
十六年・1703の年紀がある)の大本一冊(タテ25.5cm
信州飯田町家控
([翻刻])
被仰付候 一上下横町商売竪町より賑ハ敷繁昌、肴店盛んニ成 竪町衰微のやうニ成行候ニ付、町中相談之上
元禄
, (改頁) 八千四百六拾四人家数〆三千拾壱軒 一御領分中金銀銭札遣ひ被仰付、
元禄
十七申年二月,料方ハ御代官へ被上、 公儀へ上納仕候様様ニ被仰付、飯田 御領分御改有、古来之酒株五十三株ニ御定、
元禄
, 成人倫通路不相成事 (改頁) 43 愛宕坂出崎之東片側の茶屋ハ、
元禄
年中,ニ建 同頭之茶屋ハ
元禄
の初にたつ、野底茶屋上飯田 村之内、別府村も少し有、但し川端ハ
元禄
年
パスファインダー
(近世北信濃の酒造)
元禄
・享保ころの酒造家の 営業の様子や酒造米の供給先などがわかる。
パスファインダー
(松本城下町の移り変わり)
旧市町村編1 松本市/編 松本市 1995.3 内容紹介 本書は史料編で、松本城下町の町絵図(
元禄
期
『花街百人一首』
([序文])
といふ、水の谷庄左衛門といふ客根引すといひつたふ、 はつ雪や 誰か誠も ひとつ夜着 四代 高尾
元禄
四年,高尾あり、同七年の板本「草摺引」に言く、いつぞやのわつらひより古郷へお帰りのよししるしあれば、此君、
元禄
五,あさのといふ大身の人、見受すといふ、 上草履 ちんばにはくや ほとときす 五代 高尾 此君、
元禄
十二,につゞく全盛の太夫なり、菱川師信(ママ、宣)遊女の画は高尾、薄雲のみゑがきてほかほかの遊女はかゝすといふ、
元禄
十三辰年七月
信州飯田町家控
([現代訳])
一
元禄
6(1693)年6月19日夜子刻(12時頃)、番匠町北側の権右衛門家より出火し、隣家は類焼した。,一
元禄
10(1697)年3月27日、堀親常が公江戸表において逝去された。,その上
元禄
11(1698)年10月また改めがあり、前々の5分1造るように仰せ付けられました。,愛宕坂出崎の東片側の茶屋は、
元禄
年中に建てられ、同頭の茶屋は
元禄
の初に建てられました。,但し川端は
元禄
年中に建て始めました。
パスファインダー
(貞享3年(1686)の加助騒動)
南安曇郡三郷村教育委員会 南安曇郡三郷村教育委員会 1996.3 天和4年(1684)から貞享の5年間と
元禄
絵本東名物鹿子 二
([翻刻])
はじめ親仁方の歌舞伎役者であったが、
元禄
(1688-1704)初年には大坂で作者として認められており、,
元禄
13年(1700年)江戸市村座へ下り、翌年に《持統天皇都移》《傾城乳母桜》で当りをとった(『改訂新版,
元禄
年間(1688~1704)に浅草の山谷(さんや)辺りで多く製造されたところからいう(デジタル大辞泉,
元禄
(1688~1704)のころ、小松屋喜兵衛が吉原の遊女幾世を落籍して妻とし、その名をつけて売り出した
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(岩村田町)
農隙)工商・医・雑業 民業女: 農桑補助/(余間)絹綿を針織 その他特記ワード: 往昔大井郷/
元禄
パスファインダー
(南・北佐久の文学)
出版年 巻号頁数 1 サイト名 URL 概要 2 サイト名 URL 概要 佐久地方に於ける
元禄
度
信濃名勝詞林
(信濃の記)
元禄
13年(1700)、大坂から北上して佐渡に滞在し、その後、南下して京都にいたるまでの紀行「入日記(
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
([解説])
[解説] [目録] 伊那市教育委員会 大澤佳寿子 『内藤家十五世紀』は、
元禄
4年(1691)から
浅間焼覚帳
([翻刻])
申上相仕舞申候、 (改頁) 一当御城主様御入部之次第、 一
元禄
拾五年午
浅間焼覚帳
([現代訳])
元禄
一五年(一七〇二)午年に小諸藩主となり、小諸へやってきた。
おらが春
([現代訳])
[現代訳] 長い年月の俳風の変化も、
元禄
時代に至って正しい雅(みやび)が次第に定まって以来、諸氏の趣,惟然坊は
元禄
時代の一奇人で、一茶坊は現代の一奇人である。
旧上田藩学制沿革取調書 全
([翻刻])
を招致し、文武頗る盛なりしか、未 学校を設立するニ及はさりし、貞享三年ニ武州岩槻ニ 移封せられ、
元禄
十年又但州出石,安原霖寰墓碑銘 先生、諱貞平字伯亨、称太郎、別号霖寰、世隠于農圃于江 州高島県、考諱小治字仲武、妣熊谷氏、
元禄
戊寅三月四日
〔上田の獅子舞 房山獅子 春秋庵白雄伝〕
(上田の獅子舞)
となり、之を城祭と称す、然れとも 城祭の称は、町民の私に唱ふる処にして、元来ハ祇園祭礼なるは論なし、
元禄
時代
宿継要書留
([翻刻])
市田 問屋 此書付ハ
元禄
公事之節,御公儀様江御取上ニ相成候 一
元禄
七甲戌年八月中馬追共、伊奈 街道十六ケ宿及論事ニ、其節江戸,伊奈海道問屋 令牢舎畢、向後諸色商荷物 中馬可付通一切不妨之為後証 裁許之趣申記之、三方江下置者也
元禄
七年,新馬与申所由、筑摩郡村々より訴上、 御吟味之上、通馬・継馬双方可為勝手 次第旨御裁許有之、寛文・
元禄
之, (改頁) 毛ヲ以定候儀ニ付、右助成を以て御年貢相納 候由之申分ケ者難相立、寛文・
元禄
之
地震後世俗語之種
([現代訳])
元禄
元年(1688)(実際には
元禄
5年)初めて如来堂建て替えを願い出て諸国で寄付を募りました。,
元禄
12年(正しくは
元禄
11年)(1698)戊寅、現在の場所で地鎮祭をして、普請が始まりました。,同14年(正しくは
元禄
13年)(1700)庚辰7月21日、下堀小路より出火し、南風が激しく吹いて普請中,
元禄
16年未の8月(実際には翌年3月)改元されて、宝永4年(1707)亥まで5年がかりで建立されました
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
小諸大変次第書 爾時城主牧野内膳正様御代也 大殿様牧野周防守様越後国与板と申所より
元禄
十六年午九月御拝領当所
善光寺独案内
([現代訳])
この門の伝来は、記録によれば、善光寺の火災は治承3年3月24日に落雷によって焼失してから、
元禄
13年7,年号は「
元禄
十五載次壬申夏五月瑞祥」とある。後ろに槻の大樹が2本ある。
月と梅
([翻刻])
ごゝろを配るふとんの四隅かな 可市庵逸淵 寒月のまことを月の光りかな 惺庵西馬
元禄
宿継要書留
([現代訳])
一
元禄
7(1694)甲戌年8月中馬追いたちと、伊奈街道の16宿と争論となった。,一
元禄
7戌(1694)年右のような訳なので、宿々は困窮し成り立たなくなると、飯田・飯島問屋両人が江戸表,寛文・
元禄
の御裁許はその時 取上げになり、右御裁許通り守って中馬渡世をしてきました。,寛文・
元禄
の御裁許書は、宝永御裁許の時 御取上げになっているので、御沙汰には及ばない。,一飯島町は
元禄
13辰年まで問屋を立て、宿役高163石余を御引されてきたが、どのようなわけでが子細は良くわからないが
畸人百人一首
([本文])
名高き人也、とはるゝもの哥は匂ふ宮と薫大将の浮舟の君をおもひ給へる趣きなるべし 三蛙文集に
元禄
十,さながら去来(こそ)の ゆきぞのこれる 【頭注】 寺井玄渓は、京都(みやこ)に住し医なりしが、
元禄
十三年,けるものなり、生質小鳥をこのみ、うぐひすの音をきく事をよろこび、かつ又、細工はことの外器用なる人なり、
元禄
,こてふともなれ 法華三昧をつとめて いせのあまの 拾ふにあらぬ 我戒も みがけば玉に かはらざりけり
元禄
三年正月,後悔して呼かへし、竹本義太夫と改、芝居を勤さしむ、師匠義太夫は筑後掾といひ、慶安四年に生れ、延宝より
元禄
頃世
上田の早苗
([翻刻])
焼失したれハ、享保 の例によりて大久保山林の良材を下され家宅を建られたり、 ○上田町報時鐘[
元禄
年間仙石越前守新調, (改頁) 22 一丈五尺厚サ四寸直径二尺八寸 銘
元禄
十四辛巳歳九月吉日
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
越後国与板藩主であった大殿様(祖父)の牧野周防守様が、
元禄
十六年九月に小諸藩主となってから四十二年目の
童訓学要抄
([巻之下])
読者 宜ク心ヲ用フベシ 童訓学要抄巻之下終 (改頁)52
元禄
八乙亥歳六月穀旦 中村孫兵衛梓
俳諧八翁六百題発句集
([翻刻])
作字鬼哭信哉俳諧者十七字 之短謌也其言蕑而其意有余 至於感鬼神化風俗豈但嘲弄 」 風月而巳哉
元禄
年間芭蕉翁,
元禄
の正風、往々離れて、既に 中頃邪路に落入らむ、とせしを四方に 英名の宗匠出て、又々昔時の正雅
武家百人一首
([翻刻])
たかきをもらさす、うたにほまれある人をも捨かたくかきあつめ武士百の名をあらはし侍らんためならんかし
元禄
十六歳六月上旬, 渋川清右衛門 *
元禄
十六年は西暦1703年 (改頁) [奥付] 十二月異名 (省略) 書画一筆
秀雅百人一首
([本文])
、贈答の歌を江戸の古跡によせて詠じけるは世の英傑なりと、そのころ沙汰せらるゝ、家の集を梨本集といふ、
元禄
十一年,佐玄龍に学び、のち一家をなして書名あり、芭蕉に俳をまなびて其角、嵐雪と交はりふかく、俳号を暁雲といふ、
元禄
十一年,の人なり、洛南稲荷のやしろの祠官となりて、博学にして日本紀、万葉集そのほか類学をつたへて大に発明す、
元禄
年間
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
相成候由、七十年已来谷ニ成人論不通用 愛宕山出崎 東片側之茶屋者
元禄
年中,ニ建 坂頭之茶屋
元禄
の初ニ建 (改頁) 茶屋町上下 山村之内古来
俳人名家録
([翻刻])
元禄
七年十月十二日浪花橋(ママ)居におゐて終命。年五十二歳。遺骸ハ江州粟津義仲寺に埋む。
『花街百人一首』
([本文_頭注])
やさいうをなどひさくをもつていふ、むかしは吉原によき井戸なし、砂利場とたんぼの井戸両所より水を汲入しが、
元禄
小倉百しほ染
(小倉百しほ染 乾[本文])
やがて、これがびらりと前頭部に垂れる「びらり帽子」に変わり、さらに
元祿
(一六八八~一七〇四)頃から紫縮緬
御城下古法并市場古法書抜書集
([現代訳])
愛宕山へ自由に上り下りできたという、70年来谷になり人も通らない 愛宕山出崎 東片側の茶屋は
元禄
年中,に建てられた 坂頭の茶屋
元禄
の初めに建てられた 茶屋町上下 山村の内でむかしからだんだんできてきた
長野県師範学校生徒修学旅行概況
(長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])
其後 織田の将毛利河内守秀頼之に居る、後豊臣氏を経て徳川氏に至りても、屡々替代あ りしか
元禄
四年内藤丹後守清枚
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