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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
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『長野史料』索引
([翻刻])
西町、西之門、阿弥陀院 川北拾五ヶ村戸数人別帳 人二 一一三 信濃十郡高附帳[
元禄
十五年, 天明凶作后ノ米価 天 一〇七 善光寺御入料帳 仏三
元禄
十五年,弘化未年遊女通ノ件 人三 一三 (改頁) 13 市役覚
元禄
五年,(改頁) 16 善光寺別当伝 御造営入料帳
元禄
ヨリ,仏五 十夜仏由来 人三 善光寺御朱地引分ノ件 人六
元禄
五年
松本藩庄内組大庄屋御用留
(2、松本藩筑摩郡庄内組)
折井家所蔵の庄内組組鑑によると(この組鑑は、
元禄
末年から宝永初年頃のものと推定されています)、庄内組の
パスファインダー
(善光寺縁起)
その
元禄
5年版善光寺縁起を現代語訳したもの。 善光寺縁起の内容を知るための基本的な本である。,資料リスト 1 書名 著者名 発行者 出版年 善光寺如来縁起―
元禄
五年版 小林一郎/訳 銀河書房,1985.3 坂内直頼著の
元禄
五年版善光寺縁起を翻刻し、現代語訳を付けてあ 内容紹介 る。
寛保二壬戌歳満水記
([解説])
原は寛文6年(1666)に生まれ、
元禄
年間(1688~1703)に信濃国絵図調整に携わり、享保10年(
松代まちあるきマップ
(39阿弥陀山東光寺)
現仁王門は
元禄
十六年、万人講によって勧進寄進されたもの。
松本藩庄内組大庄屋御用留
(3、大庄屋と折井家)
庄内組の場合も、
元禄
期から幕末維新期まで、白板村の折井家が代々つとめています。
宿継要書留
([解説])
文書のほとんどが争論の記録で、寛文期(1661~1673)・
元禄
期(1688~1704)・宝永期(1704,①正保3(1646)年 飯田藩脇坂氏より市田問屋に渡された7品の定書 ②
元禄
7(1694)年 ,
元禄
6(1693)年伊那街道の16か宿は、宿継の荷物の励行を願い出ました。
パスファインダー
(善光寺の火災と復興)
「現本堂は、
元禄
5年(1692)に計画され、途中で火災があったりして手間 取った末、宝永4年(1707,この造営事業は
元禄
内容紹介 13年を境として、明白に二つの時期にわけられる。
信州飯田町家控
([翻刻])
被仰付候 一上下横町商売竪町より賑ハ敷繁昌、肴店盛んニ成 竪町衰微のやうニ成行候ニ付、町中相談之上
元禄
, (改頁) 八千四百六拾四人家数〆三千拾壱軒 一御領分中金銀銭札遣ひ被仰付、
元禄
十七申年二月,料方ハ御代官へ被上、 公儀へ上納仕候様様ニ被仰付、飯田 御領分御改有、古来之酒株五十三株ニ御定、
元禄
, 成人倫通路不相成事 (改頁) 43 愛宕坂出崎之東片側の茶屋ハ、
元禄
年中,ニ建 同頭之茶屋ハ
元禄
の初にたつ、野底茶屋上飯田 村之内、別府村も少し有、但し川端ハ
元禄
年
パスファインダー
(松本城下町の移り変わり)
旧市町村編1 松本市/編 松本市 1995.3 内容紹介 本書は史料編で、松本城下町の町絵図(
元禄
期
パスファインダー
(近世北信濃の酒造)
元禄
・享保ころの酒造家の 営業の様子や酒造米の供給先などがわかる。
信州飯田町家控
([現代訳])
一
元禄
6(1693)年6月19日夜子刻(12時頃)、番匠町北側の権右衛門家より出火し、隣家は類焼した。,一
元禄
10(1697)年3月27日、堀親常が公江戸表において逝去された。,その上
元禄
11(1698)年10月また改めがあり、前々の5分1造るように仰せ付けられました。,愛宕坂出崎の東片側の茶屋は、
元禄
年中に建てられ、同頭の茶屋は
元禄
の初に建てられました。,但し川端は
元禄
年中に建て始めました。
パスファインダー
(貞享3年(1686)の加助騒動)
南安曇郡三郷村教育委員会 南安曇郡三郷村教育委員会 1996.3 天和4年(1684)から貞享の5年間と
元禄
パスファインダー
(南・北佐久の文学)
出版年 巻号頁数 1 サイト名 URL 概要 2 サイト名 URL 概要 佐久地方に於ける
元禄
度
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(岩村田町)
農隙)工商・医・雑業 民業女: 農桑補助/(余間)絹綿を針織 その他特記ワード: 往昔大井郷/
元禄
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
([解説])
[解説] [目録] 伊那市教育委員会 大澤佳寿子 『内藤家十五世紀』は、
元禄
4年(1691)から
浅間焼覚帳
([翻刻])
申上相仕舞申候、 (改頁) 一当御城主様御入部之次第、 一
元禄
拾五年午
浅間焼覚帳
([現代訳])
元禄
一五年(一七〇二)午年に小諸藩主となり、小諸へやってきた。
おらが春
([現代訳])
[現代訳] 長い年月の俳風の変化も、
元禄
時代に至って正しい雅(みやび)が次第に定まって以来、諸氏の趣,惟然坊は
元禄
時代の一奇人で、一茶坊は現代の一奇人である。
宿継要書留
([翻刻])
市田 問屋 此書付ハ
元禄
公事之節,御公儀様江御取上ニ相成候 一
元禄
七甲戌年八月中馬追共、伊奈 街道十六ケ宿及論事ニ、其節江戸,伊奈海道問屋 令牢舎畢、向後諸色商荷物 中馬可付通一切不妨之為後証 裁許之趣申記之、三方江下置者也
元禄
七年,新馬与申所由、筑摩郡村々より訴上、 御吟味之上、通馬・継馬双方可為勝手 次第旨御裁許有之、寛文・
元禄
之, (改頁) 毛ヲ以定候儀ニ付、右助成を以て御年貢相納 候由之申分ケ者難相立、寛文・
元禄
之
地震後世俗語之種
([現代訳])
元禄
元年(1688)(実際には
元禄
5年)初めて如来堂建て替えを願い出て諸国で寄付を募りました。,
元禄
12年(正しくは
元禄
11年)(1698)戊寅、現在の場所で地鎮祭をして、普請が始まりました。,同14年(正しくは
元禄
13年)(1700)庚辰7月21日、下堀小路より出火し、南風が激しく吹いて普請中,
元禄
16年未の8月(実際には翌年3月)改元されて、宝永4年(1707)亥まで5年がかりで建立されました
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
小諸大変次第書 爾時城主牧野内膳正様御代也 大殿様牧野周防守様越後国与板と申所より
元禄
十六年午九月御拝領当所
善光寺独案内
([現代訳])
この門の伝来は、記録によれば、善光寺の火災は治承3年3月24日に落雷によって焼失してから、
元禄
13年7,年号は「
元禄
十五載次壬申夏五月瑞祥」とある。後ろに槻の大樹が2本ある。
宿継要書留
([現代訳])
一
元禄
7(1694)甲戌年8月中馬追いたちと、伊奈街道の16宿と争論となった。,一
元禄
7戌(1694)年右のような訳なので、宿々は困窮し成り立たなくなると、飯田・飯島問屋両人が江戸表,寛文・
元禄
の御裁許はその時 取上げになり、右御裁許通り守って中馬渡世をしてきました。,寛文・
元禄
の御裁許書は、宝永御裁許の時 御取上げになっているので、御沙汰には及ばない。,一飯島町は
元禄
13辰年まで問屋を立て、宿役高163石余を御引されてきたが、どのようなわけでが子細は良くわからないが
上田の早苗
([翻刻])
焼失したれハ、享保 の例によりて大久保山林の良材を下され家宅を建られたり、 ○上田町報時鐘[
元禄
年間仙石越前守新調, (改頁) 22 一丈五尺厚サ四寸直径二尺八寸 銘
元禄
十四辛巳歳九月吉日
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
越後国与板藩主であった大殿様(祖父)の牧野周防守様が、
元禄
十六年九月に小諸藩主となってから四十二年目の
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
相成候由、七十年已来谷ニ成人論不通用 愛宕山出崎 東片側之茶屋者
元禄
年中,ニ建 坂頭之茶屋
元禄
の初ニ建 (改頁) 茶屋町上下 山村之内古来
御城下古法并市場古法書抜書集
([現代訳])
愛宕山へ自由に上り下りできたという、70年来谷になり人も通らない 愛宕山出崎 東片側の茶屋は
元禄
年中,に建てられた 坂頭の茶屋
元禄
の初めに建てられた 茶屋町上下 山村の内でむかしからだんだんできてきた
長野県師範学校生徒修学旅行概況
(長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])
其後 織田の将毛利河内守秀頼之に居る、後豊臣氏を経て徳川氏に至りても、屡々替代あ りしか
元禄
四年内藤丹後守清枚
『説諭要略』巻一
([ルビ・注記])
元禄
一二年(一六九九)~天明二年(一七八二)。高島藩士の子として江戸に生まれる。篆書にすぐれる。
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