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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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戸隠善光寺往来 (善光寺)

戸隠善光寺往来 / 善光寺 善光寺についての歴史的な説明は、当時の百科事典『和漢三才図会』に沿っています。 / 善光寺
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

善光寺道名所図会 / ○水内 善光寺 3   登リ丹波嶌ヘ一里なり、越後の方へ下るにハ、善光寺より荒町ヘ一里、 牟礼へ,5     塩尻  善光寺本尊ハ一光三躯也、是を新に摸鋳しけるは、尾張国熱田の  僧定尊法師霊夢,を放ちて照し給ヘバ、又釈尊光明をはなち、二尊の光明にて 閻浮檀金を照し給ヘバ、不思議なるかな、此金忽,を 放ち給ふに、家内白昼の如し、善光祈誓申けるハ、有難き御利生、 訶を以て演がたし、願くハ此光明を,、 ○光明常燈[御厨司の宝前にあり、不消の燈明といふ、其はじめ善光の願によつて、如来の光明をうつし給 / ○水内 善光寺
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

善光寺道名所図会 / ○水内 善光寺 3左   ○水内善光寺  上りは丹波島へ1里である。,善光寺如来がこの地にお移りになってから、地名もまた変化して、地域の総称を善光寺というようになったのであろう,『塩尻』  善光寺本尊は一光三尊である。,放ってそれを照らされたので、お釈迦様もまた光を放ち、この二仏の光で閻浮檀金を照らしたので、不思議なことにこの,その光はすぐに如来の頭にもどり、如来があらためて眉間(みけん)から光を放たれると、その光は香と油の火となってあたりを / ○水内 善光寺
善光寺独案内 (『善光寺独案内』の広告)

善光寺独案内 / 『善光寺独案内』の広告 『善光寺独案内』には、末尾に長野市の商店の広告が大量に掲載されています。,これらの薬は、「善光寺の霊薬」「善光丸」「善光堂」などの文字からも、善光寺の知名度を生かして、参拝者向,実際に、病気平癒を祈願するために善光寺に参詣する人は少なくなかったのです。,中でも、「岩間水」「雲切光明香」「明治水」といった目薬類の広告が目に付きます。,こうした中に、善光寺信仰の一面を見ることができます。 / 『善光寺独案内』の広告
善光寺独案内 (明治時代の長野の観光案内書)

善光寺独案内 / 明治時代の長野の観光案内書 [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  『善光寺独案内』は、明治30,善光寺のある長野市は、全国から旅行者が集まるため、善光寺とその周辺の案内書が必要でした。,これに続いて登場した長野の観光案内書が、明治30年10月発行の『善光寺独案内』でした。,活版印刷による善光寺とその周辺の案内書は、明治33年の御開帳に合わせて出版された『善光寺案内』(村松清陰著,同年には、善光寺のみを深く掘り下げた『善光寺名所図会』(石倉重継著)が登場しています。 / 明治時代の長野の観光案内書
戸隠善光寺往来 (『戸隠善光寺往来』と女性)

戸隠善光寺往来 / 『戸隠善光寺往来』と女性 『戸隠善光寺往来』は、長年善光寺に参詣したいと願っていた母親を連れて善光寺,これには、善光寺が女性の信仰を集める寺であったことが背景にあります。,長年善光寺に参詣することを願いながらも果たせず、晩年を迎える女性は少なくなかったのです。,そうした母の悲願をかなえようと、老母を伴って善光寺に参詣する「孝行息子」も、また少なくありませんでした,の神崎右京(当時62歳)は、老母(当時84歳)の願いをかなえるため、息子の田宮と交代で母を背負って善光寺 / 『戸隠善光寺往来』と女性
戸隠善光寺往来 (『戸隠善光寺往来』の内容)

戸隠善光寺往来 / 『戸隠善光寺往来』の内容 江戸から善光寺への道中  江戸から追分(軽井沢町)までは中山道、追分から,善光寺までは北国街道です。,善光寺町では、仏都としての繁栄ぶりに「驚歎」しています。,全国から人の集まる善光寺町の繁栄は、道中のどの宿場や城下にも見られなかった特別なもので、長旅をして善光寺,にたどりついた参詣者に善光寺のありがたさを実感させる光景でした。 / 『戸隠善光寺往来』の内容
善光寺独案内 (『善光寺独案内』に収録された伝説)

善光寺独案内 / 『善光寺独案内』に収録された伝説 『善光寺独案内』の特色の一つに、他の本にはない珍しい伝説をたくさん,善光寺の境内でも、そのいわれを書いた絵入りの一枚刷りが売られていました。,これに対して本書は、善光寺の周辺に全く別の「牛に引かれて善光寺参り」の伝説があったことを示しています。,死者は死の直後、いったん信州善光寺に参詣するという観念が全国的にあります。,善光寺の鐘  漢文で書かれた5巻本の善光寺縁起に、「竜女洪鐘献上之事」として、これとほぼ同様のことが / 『善光寺独案内』に収録された伝説
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

善光寺道名所図会 / 『善光寺道名所図会』の構成 5巻5冊からなる『善光寺道名所図会』は、中山道洗馬宿から善光寺道を各宿駅,を経て善光寺に至ります。,さらに善光寺から北国街道を江戸に向い、碓氷峠に至る間の各宿駅ごとに名所古蹟がまとめられています。  ,善光寺如来に関する伝承をはじめ縁起の詳細を記し、善光寺でおこなわれて来た年中行事や関係の寺社その他の名所古蹟,善光寺から飯縄原を経て戸隠山に入り、中院・宝光院・奥院の古蹟や祭礼のようすを見聞記録しています。   / 『善光寺道名所図会』の構成
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

善光寺道名所図会 / 善光寺道(北国脇往還) 江戸時代には善光寺へ向かう道筋は、たいてい善光寺道といわれていましたが、とくに,に出、篠ノ井追分(しののいおいわけ)で北国街道に合流し、丹波島(たんばじま)で犀川を渡って水内郡の善光寺町,(長野市)へ至る19里半(約180キロメートル)の道筋を北国往還(おうかん)または善光寺道と呼んでいました,北国街道も善光寺道と呼ばれていましたが、さらに越後・佐渡まで至るので北国街道というのが一般的でした。,松本は、親町(おやまち)三町の本町・中町・東町などを善光寺道通りに定めました。 / 善光寺道(北国脇往還)
戸隠善光寺往来 (一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置)

戸隠善光寺往来 / 一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置 『戸隠善光寺往来』は、文政5年(1822)に出版されました。,の2人は、伊勢神宮に参詣し、四国の金毘羅から安芸(あき)の宮島まで足を延ばし、帰りに木曽路を通って善光寺,2人の旅は伊勢参詣に始まり、善光寺参詣に終わったと言ってよいでしょう。,『伊勢参宮往来』と『戸隠善光寺往来』の出版は、『道中膝栗毛』の総まとめであったとも言えるものでした。,「万福百工往来」「勇略木曽往来」「勇烈新田往来」「弓勢為朝往来」「義経勇壮往来」「頼朝武功往来」「頼光山入往来 / 一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置
善光寺案内 ([解説])

善光寺案内 / [解説] [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  明治時代の善光寺御開帳に合わせて出版された、善光寺,明治15年 『善光寺如来略縁起』『信州善光寺御堂額之写并ニ霊験記』  明治21年 『善光寺如来伝記図絵,』『善光寺如来霊験実録』  明治27年 『善光寺如来略縁起』『善光寺和讃』『善光寺如来由来讃歌』等,こうした中で、明治33年の御開帳に出版された『善光寺案内』は、これまでの出版物とは違う、観光案内書です,これは善光寺御開帳の参拝が、従来の信仰目的から観光目的へと変化しつつあることを意味しています。
善光寺独案内 (著者三上真助)

善光寺独案内 / 著者三上真助 『善光寺独案内』の著者三上真助は、経歴等がよく分かりません。,明治時代の長野市大門町は、善光寺のすぐ門前にあって大旅館が立ち並んでいましたが、長野市の商業の中心地でもありました,』(明治14年)    出版は明治10年代前半に集中しているようですが、実際は明治30年代まで善光寺,の境内図や善光寺土産の絵紙などを発行していました。,そうした流れの中から『善光寺独案内』が生まれたのです。
戸隠善光寺往来 (十返舎一九と信濃)

戸隠善光寺往来 / 文化11年(1814)には、木曽から松本に入り、穂高、大町、新町、稲荷山を通って善光寺に参詣し、越後へ,これが、『木曽街道続膝栗毛』第6編(文化12年)、第7編(文化13年)、『従木曽路善光寺道続膝栗毛』第,文政元年(1818)には、越後から善光寺に参詣し、大笹街道を通って草津温泉に抜けました。,善光寺に参詣する「江戸っ子」の善光寺参りコースではありませんでした。,『戸隠善光寺往来』は、一九が初めて江戸住人のために書いた善光寺参詣案内です。
善光寺独案内 ([翻刻])

善光寺独案内 / (改頁)   善光寺独案内     豊斎如真編輯 各位善光寺まゐりをなされるに、   何処の,善光寺如来衆生済度の御姿也。,大に8  驚き、いかんともせんかたな  く善光寺夲堂へ届け、勤番の  計にて返を造り、善光寺へ引,是善光寺七塚の一といふ。  ,――― 善光寺の霊薬 農商務省登録商標 一名善光寺のめぐすり (商標) 雲切光明香    貝入
善光寺独案内 ([現代訳])

善光寺独案内 / 苅萱法師はここに住み、善光寺に毎日参詣した。,善光寺如来が衆生を済度するお姿である。,大変驚いたが、いかんともしがたく善光寺本堂へこのことを届け出て、勤番の案でそりを造り、善光寺へ引いていった,浄土宗 蓮生法師開基  本尊 阿弥陀如来 善光寺七院の一つ。善光寺本堂より南へ30丁にある。  ,これは善光寺七塚の一つという。
善光寺道名所図会 (はじめに)

善光寺道名所図会 / はじめに 善光寺道名所図会 巻一 善光寺道名所図会 巻二 善光寺道名所図会 巻三 善光寺道名所図会, 巻四 善光寺道名所図会 巻五   [目録] 善光寺道名所図会 巻一 [目録] 善光寺道名所図会, 巻二 [目録] 善光寺道名所図会 巻三 [目録] 善光寺道名所図会 巻四 [目録] 善光寺道名所図会
戸隠善光寺往来 ([翻刻])

戸隠善光寺往来 / [翻刻] 戸隠善光寺往来      4 内々承候得は、御母公 多年之御心願ニ而、今 般信州善光寺江,丹波嶋ハ 往時甲越之戦場、斎      (改頁)      9   川を打越、善光寺町ニ,杖を止見候得ハ、商家旅 泊軒を交、殊ニ繁昌の 地令驚歎、仏都之光 景左茂可有歟。,夫善      (改頁)   光寺之来由ハ、欽明 天皇十三年、本尊如 来従百済雖渡来、,本願は本 田善光。因茲為寺号。      
善光寺道名所図会 (目録)

善光寺道名所図会 / 目録 2左    目録 ○善光寺駅 北国街道 美和神社 時丸の塚   如来堂  三門   二王門,月葢長者説 百済王説      (改頁)      3    本朝来現 聖徳太子説 本多善光説, 難波掘江  伊奈郡ニ寺建立 檀越略系 堂内年賀式 光明常燈  戒檀廻  法然上人旧跡 親鸞聖人旧蹟, 笹字名号  善光寺四号 鏡の御影 年中行事 寺領  元録造営録 善光寺紀行 苅萱堂 血脉頂戴, ぶらんど薬師 山吹の瀬 長原温泉 善光寺七社  同七橋  同七清水 同七井  同七塚  栗田刑部城趾
戸隠善光寺往来 ([現代訳])

戸隠善光寺往来 / [現代訳] 内々にお聞きしたことによれば、お母上の長年の願いをかなえるため、このたび信州善光寺へ貴殿,山」と歌に詠まれた浅間山の麓の宿場で、まっすぐに行けば京街道・木曽街道で、右の方を小諸宿に出れば、善光寺,犀川を越え、善光寺町に到着して、見れば、商店と旅籠(はたご)が軒を連ね、まことに繁盛の地で、仏都の光景,そもそも善光寺の由来は、欽明天皇13年、本尊の阿弥陀如来が百済から渡来したが、あえて信仰しようとする者,発願は本田善光で、それによって寺号とした。
戸隠善光寺往来 (口絵)

戸隠善光寺往来 / 上段に遠景として「水内郡芋井郷善光寺」の図があり、下段に近景として丹波島の渡しを渡る舟が描かれています,綱が3本あることは、『地震後世俗語之種』(『善光寺大地震図会』)などの図とも一致しています。,諸国を巡って善光寺をめざす僧でしょう。  上下の図の間には、「舟渡しハ斎(犀)川といふ。
善光寺道名所図会 (「名所図会」の刊行)

善光寺道名所図会 / 今でいう街道筋の観光ガイドブックですが、史書や伝承をいくついか引用し、地誌として、また歴史書としても活用,文化元年(1804)に、『木曽路名所図会』6巻が刊行されましたが、天保期になって、善光寺道の宿駅を中心,に名所古蹟社寺を遊歴して記録にとどめようとまとめられたのが『善光寺道名所図会』です。
パスファインダー (善光寺参詣と善光寺道)

善光寺参詣と善光寺道について トピック(テーマ) ねらい 善光寺参詣と善光寺道 岡山県津山市,、ず いぶん遠くからでも信濃善光寺へ向かう道は善光道と呼ばれていた。,中 世、近世には全国から善光寺参詣の善光寺道が通じていた。善光寺道 について知る。,」を歩く 善光寺街道協議会/編 善光寺街道協議会 2014年 「『善光寺道名所図会』は美濃国今尾,(しゅぎょう)は善光寺参詣の旅の意味で、鎌倉から善光寺 内容紹介 への道行を示しています。 / 善光寺参詣と善光寺道
信州善光寺御堂額之写 ([解説])

信州善光寺御堂額之写 / 善光寺の境内や門前で、参拝土産として販売されたものです。,江戸時代の善光寺は、本堂に絵馬を奉納する習慣がありました。,「御堂額」とは、善光寺の本堂に奉納された絵馬のことです。,善光寺に奉納された絵馬には様々な種類がありますが、『信州善光寺御堂額之写』に紹介されているのは、主に善光寺如来,現在この絵馬は善光寺史料館に展示されています。  
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

善光寺道名所図会 / 入口に分れ道あり、石標に[右京いせ道、左伊奈諏訪道]松本の方より来 る人の左右なり、凡上方筋より善光寺,へ参るに多くハ中山道妻籠宿の橋場より右 へ入り、飯田の城下へかゝり、甲州の元善光寺へ参り、夫より塩尻宿,の右脇に立石あり、      (改頁)      22右     両太神宮へ四十八度、善光寺
信州善光寺御堂額之写 ([現代訳])

信州善光寺御堂額之写 / 明るくなり、前を1人の老人が川を渡りながら、私は善光寺の者だと言われました。,に参詣し、7日間お籠りをしたところ、満願の暁に、善光寺如来が光り輝き来迎される様をありありと拝見したと,心残りに思っていたところ、ある日昼寝して起き、善光寺の方を伏し拝みました。,、善光寺如来が光明を放ち来迎されるのを拝見しました。,、御境内で実際の善光寺如来様を3度拝み申し上げました。
信州善光寺御堂額之写 ([翻刻])

信州善光寺御堂額之写 / [翻刻] 信州善光寺      1        常 智 院       永代宿坊 信州善光寺御堂額之写,       静嘉堂梓     (改頁)      2     抑信州善光寺御本尊ハ、忝も,夫吉蔵二才になる子をふところにいれて 善光寺へいそぎけるに、たんバしまより女房のすがた うす/\見,一人川をわたりながら、われハ善光寺のものといゝ たまふ。,これ 善光寺の御本尊ならんとはい礼し、又々御礼参り致し候。  
パスファインダー (善光寺縁起)

善光寺縁起 トピック(テーマ) 善光寺縁起 ねらい 善光寺縁起は、善光寺の,善光 寺絵伝も制作され、絵解きされた。その内容と、善光寺縁起の種類等に ついて調べる。,元善光寺 天竺 インド 百済 朝鮮半島 月蓋長者 如是姫 聖明王 難波の堀江 本田善光 本多善光 善佐,絵解き 善光寺絵伝 皇極 天皇 善光寺縁起ものがたり 坂内直頼/著 光竜堂 2009.4,「解説」で、善光寺縁起の構造、善光寺縁起と女性、善光寺縁起の諸 本について述べている。 / 善光寺縁起
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (普光寺村)

普光寺村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):飯綱町(いいづなまち) 明治初期:普光寺村,(ふこうじむら) 幕末から明治初期:普光寺村 幕末から明治初期(よみ):ふこうじむら 『長野県町村誌,岑/華厳坊/大比羅/強狼/論所 川: 小井戸川/鳥居川/上原堤 渡・堰: 芋川堰/倉井堰/普光寺堰,/神明社/飯綱社/秋葉社 寺: 性空山普光寺/華厳山祖雲院/南俣山阿弥陀寺 学校: 周済学校,機織/縫針/養蚕 その他特記ワード: 論所草野 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 普光寺村 / 普光寺村
パスファインダー (善光寺地震)

善光寺地震 トピック(テーマ) 善光寺地震 ねらい 弘化4年(1847)3,される善光寺大地震 が発生した。, 旧上水内郡 旧上高井郡  第四章「弘化四年 の善光寺地震」 2 書名 善光寺大地震,銀河書房 1985.12 善光寺地震の記録。,著者名 雑誌名 長野 出版年 1986年5月 巻号頁数 127号 3 論題名 善光寺地震と善光寺役所 / 善光寺地震
戸隠善光寺往来 (往来物)

戸隠善光寺往来 / 「道中膝栗毛」で知られた戯作者、十返舎一九の『戸隠善光寺往来』も、その一つです。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

善光寺道名所図会 / 、室賀峠  を越[刈谷原へ出ても八幡へかゝりても] 善光寺迄十里、すべて十三里余、本街道善光寺迄十二里,なり、 一諏訪より善光寺参詣の節、別所へ廻らんには、和田嶺を越、長久保宿より腰越へ出、砂原を  越,、別所より善光寺へ十里、都て廿二里なり、本街道諏訪より和田長久保上田通り同く二十二里なり、 出浦古記,・樋   口次郎兼光を軍奉行と定、十万の軍勢を差越さる、追々に筑摩郡   迄取たり、小県・佐久を平定,  受取べしとて、暫く野陣して休息す、[今も此所を御所の平と云、]夫より山越に   陣を取る、[手塚光盛
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

善光寺道名所図会 / ○筑摩 洗馬 16左    洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里,)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う善光寺道,昭和7年(1932)の大火で洗馬宿の大部分を焼失しましたが、善光寺道との分岐の石標・邂逅(おおた)の清水
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

善光寺道名所図会 / 11時ごろ、木曽御嶽、戸隠の方から光物が来たように見えると、浅間峯の北東の間から山が鳴り崩れ、沼が湧き,5日夜3時ごろ、浅間山から黒雲が生じ、その中で1丈ばかりの光物がくるくると回り稲妻のようでした。,この嶺から東を眺めると、武蔵・下総・常陸・上野の山々、筑波山・日光山などが特に高く見えます。  ,境内の岩壁に見える白布状の縞模様から「牛にひかれて善光寺まいり」の伝説が生まれました。  ,老婆はこれを追いかけ善光寺へ到達、はからずも善光寺まいりをすることとなりました。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

善光寺道名所図会 / 刈谷原へ出ても、八幡方面経由でも)善光寺までは10里です。  ,すべて13里あまり、本街道、善光寺までは12里です。,別所から善光寺まで10里、すべてで20里となります。,と樋口次郎兼光を軍奉行とし、10万の軍勢を遣わしました。,(注16)光盛の名は『源平盛衰記』と『平家物語』に出てきます。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

善光寺道名所図会 / 上方のほうから善光寺へ参詣する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい,、甲州(山梨県)の元善光寺へ参詣し、そこから塩尻宿へ出て、この道へ来ています(塩尻からここまで2里)。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (伺去真光寺村)

伺去真光寺村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:伺去真光寺村,(しゃりしんこうじむら) 幕末から明治初期:伺去真光寺村 幕末から明治初期(よみ):しゃりしんこうじむら,家治村/立石/西山/東中村/中村/西中村/大久保/小江戸/鶴沢/五十返/尾名沢/岩坂/道下/宮袖/真光寺,/堂前/五輪原/横吹/前林/真光寺平/清水/鳥屋峯/真光寺田/袖/大平/菖蒲池/中尾/平中山/鎧田/小丸山,槻木平橋/御城返橋/駒沢橋 道路: 北国脇往還 社: 白山神社/社宮司社 寺: 富興院/真光寺 / 伺去真光寺村
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

善光寺道名所図会 / 遍照山光明院。松本入口長沢川のわきにある袖が池の傍にあります(馬喰町)。,当日未明から初市立といって、遠近の人びとが着飾って袖を連ねて群参する光景は、じつに初春の寿喜といえます,図の上方に放光寺山(城山)が書かれ、その右側に松本城が書かれています。,さて、鎌倉時代前期の建暦元辛未年(1211)に、聖人越後の国府を立て、善光寺へ参籠して関東へ赴きました,江戸時代後半には、「図会」にあるように、富裕な町人や善光寺参詣の旅人の休息地としてにぎわいました。
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

善光寺道名所図会 / 会田宿は、この険路を控えた南麓に置かれ、善光寺道と上田・明科・筑北の各方面へ向かう道が出会う、交通の要衝,岩井堂は、善光寺街道の立峠下の岩山にあり、信濃三十三番観音中第20番の札所です。
善光寺道名所図会 (○安曇 大町)

善光寺道名所図会 / 横川・白池[越後の境なり、]を 経て、越後の糸魚川へ出るなり、又大町辺より右へ入り、戸隠通り善 光寺
善光寺道名所図会 (○安曇 大町)

善光寺道名所図会 / また、大町あたりから右へ入り、戸隠通り善光寺へ出ますが、普通の往還ではないので、引き返して、本街道松本
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

善光寺道名所図会 / 宿にいたる、此辺ハ山間の小邑なれば、す へての風俗質朴にて、堅実なる山賎のみ多くつどひ、諸国より善光
パスファインダー (善光寺史の研究)

1 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺史の研究 善光寺史研究は古くから数多く行われてきた。,善光寺史研究の成果をまとめた1,000ページを超える大冊で、善光寺史 研究の基本書。,序章、第1章善光寺略史、第2章善光寺の造営、第3章 寺を支えた人たちと寺の経営、第4章善光寺参り、第5,章善光寺仏と新 内容紹介 善光寺、第6章善光寺信仰さまざま、第7章現在の善光寺及び充実した 史料編から,2 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺史研究 善光寺史研究会/編 善光寺史研究会 1922年 / 善光寺史の研究
パスファインダー (草創期の善光寺)

草創期の善光寺 トピック(テーマ) 草創期の善光寺 ねらい 善光寺仏、善光寺,キーワード 概要を知るための ツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺仏 善光寺,しょう) 若麻績東人 善光寺瓦 善光寺史 [上・下] 坂井衡平/著 東京美術 1969 善光寺史研究,序章、第1章善光寺略史、第2章善光寺の造営、第3章 内容紹介 寺を支えた人たちと寺の経営、第4章善光寺参,り、第5章善光寺仏と新 善光寺、第6章善光寺信仰さまざま及び充実した史料編から構成されて いる。 / 草創期の善光寺
善光寺道名所図会 (○筑摩 岡田)

善光寺道名所図会 / 参道は善光寺街道に面した所に一の鳥居があって、左右に欅(けやき)の大樹があり、西に向って松並木が150
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

善光寺道名所図会 / )      35      風の如く神社仏堂を揺崩し、四ッ半時頃木曽御岳又戸隠山の方より、光,をたてゝ震動雷電す、二番の泥火石は百丈余も高く打揚、青竜の乱れ  たる如く、一時に闇夜となり、火石の光は,先に手鞠の如く見へ、砂石雨のごとく降る、同五日夜八  半頃浅間山より黒雲生じ、その中に一丈ばかりの光物,といひ慣しけると日本 書紀に見へたり、此嶺より東を眺れバ、武蔵・下総・常陸・上野の山々、筑波 山・日光山
パスファインダー (善光寺四十九霊地)

善光寺四十九霊地 トピック(テーマ) 善光寺四十九霊地 ねらい 何を善光寺四十九霊地,キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 長野市 善光寺 四十九霊地 四十九名所,:善光寺と長野の七名所:長野郷土史研究会テキス トブック 小林一郎,小林玲子/著 光竜堂 2018.2,内容紹介 これまで善光寺七名所、善光寺四十九名所と呼ばれてきたものは、本 来は善光寺四十九霊地,善光寺をはじめ信濃の名所などを取材しその風土と 歴史を伝える。 / 善光寺四十九霊地
パスファインダー (善光寺本堂の建築)

善光寺本堂の建築 トピック(テーマ) ねらい 善光寺本堂の建築 宝永4年(1707),こうした善光寺の建築につ いて調べる。,善光寺/編 善光寺 1989 内容紹介 昭和59年から平成元年にかけて行われた大修理完了の,善光寺 心とかたち 伊藤延男 他/編 第一法規出版 1991年 1991 内容紹介 善光寺全般,の建築様式の変遷 小林計一郎/著 長野 1990.1 第194号 善光寺本堂昭和大修理完成記念号 善光寺本堂 / 善光寺本堂の建築
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

善光寺道名所図会 / 入口左側に仏眼山法善寺[曹洞派、寺領八石]の黒門の脇に庚申の祠反 古塚等あり、又宿中程北裏の山手に麻績山光明寺
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

善光寺道名所図会 / なり、天正十壬午年、再び  小笠原右近大夫貞慶入城なり、此砌深志を改て松本と称せらる、 ○遍照山光明院, 往生決定の領解を究めたり、此時法名を釈了智と賜ふ、扨建暦  の元辛未年、聖人越後の国府を立、善光寺,同国波田といふ所に殊勝の阿弥陀仏の霊像おはしけるを乞  求て、当山の本尊と成し玉ふ、又太子堂の本尊は放光の,渉り.成相新田より穂高村に至る、奥に穂高神社まします、凡六十余州に二百八十五  座の格社なれバ、善光寺,蛇橋といふ小川の橋を越  して島々村なり、酒造家などありて、山間の一邑なり、此村の山の中  腹に三光石
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