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戸隠善光寺往来
(善光寺)
戸隠善
光
寺往来 / 善
光
寺 善
光
寺についての歴史的な説明は、当時の百科事典『和漢三才図会』に沿っています。 / 善
光
寺
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
善
光
寺道名所図会 / ○水内 善
光
寺 3 登リ丹波嶌ヘ一里なり、越後の方へ下るにハ、善
光
寺より荒町ヘ一里、 牟礼へ,5 塩尻 善
光
寺本尊ハ一
光
三躯也、是を新に摸鋳しけるは、尾張国熱田の 僧定尊法師霊夢,を放ちて照し給ヘバ、又釈尊
光
明をはなち、二尊の
光
明にて 閻浮檀金を照し給ヘバ、不思議なるかな、此金忽,を 放ち給ふに、家内白昼の如し、善
光
祈誓申けるハ、有難き御利生、 訶を以て演がたし、願くハ此
光
明を,、 ○
光
明常燈[御厨司の宝前にあり、不消の燈明といふ、其はじめ善
光
の願によつて、如来の
光
明をうつし給 / ○水内 善
光
寺
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
善
光
寺道名所図会 / ○水内 善
光
寺 3左 ○水内善
光
寺 上りは丹波島へ1里である。,善
光
寺如来がこの地にお移りになってから、地名もまた変化して、地域の総称を善
光
寺というようになったのであろう,『塩尻』 善
光
寺本尊は一
光
三尊である。,放ってそれを照らされたので、お釈迦様もまた
光
を放ち、この二仏の
光
で閻浮檀金を照らしたので、不思議なことにこの,その
光
はすぐに如来の頭にもどり、如来があらためて眉間(みけん)から
光
を放たれると、その
光
は香と油の火となってあたりを / ○水内 善
光
寺
善光寺独案内
(『善光寺独案内』の広告)
善
光
寺独案内 / 『善
光
寺独案内』の広告 『善
光
寺独案内』には、末尾に長野市の商店の広告が大量に掲載されています。,これらの薬は、「善
光
寺の霊薬」「善
光
丸」「善
光
堂」などの文字からも、善
光
寺の知名度を生かして、参拝者向,実際に、病気平癒を祈願するために善
光
寺に参詣する人は少なくなかったのです。,中でも、「岩間水」「雲切
光
明香」「明治水」といった目薬類の広告が目に付きます。,こうした中に、善
光
寺信仰の一面を見ることができます。 / 『善
光
寺独案内』の広告
善光寺独案内
(明治時代の長野の観光案内書)
善
光
寺独案内 / 明治時代の長野の観
光
案内書 [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎 『善
光
寺独案内』は、明治30,善
光
寺のある長野市は、全国から旅行者が集まるため、善
光
寺とその周辺の案内書が必要でした。,これに続いて登場した長野の観
光
案内書が、明治30年10月発行の『善
光
寺独案内』でした。,活版印刷による善
光
寺とその周辺の案内書は、明治33年の御開帳に合わせて出版された『善
光
寺案内』(村松清陰著,同年には、善
光
寺のみを深く掘り下げた『善
光
寺名所図会』(石倉重継著)が登場しています。 / 明治時代の長野の観
光
案内書
戸隠善光寺往来
(『戸隠善光寺往来』と女性)
戸隠善
光
寺往来 / 『戸隠善
光
寺往来』と女性 『戸隠善
光
寺往来』は、長年善
光
寺に参詣したいと願っていた母親を連れて善
光
寺,これには、善
光
寺が女性の信仰を集める寺であったことが背景にあります。,長年善
光
寺に参詣することを願いながらも果たせず、晩年を迎える女性は少なくなかったのです。,そうした母の悲願をかなえようと、老母を伴って善
光
寺に参詣する「孝行息子」も、また少なくありませんでした,の神崎右京(当時62歳)は、老母(当時84歳)の願いをかなえるため、息子の田宮と交代で母を背負って善
光
寺 / 『戸隠善
光
寺往来』と女性
戸隠善光寺往来
(『戸隠善光寺往来』の内容)
戸隠善
光
寺往来 / 『戸隠善
光
寺往来』の内容 江戸から善
光
寺への道中 江戸から追分(軽井沢町)までは中山道、追分から,善
光
寺までは北国街道です。,善
光
寺町では、仏都としての繁栄ぶりに「驚歎」しています。,全国から人の集まる善
光
寺町の繁栄は、道中のどの宿場や城下にも見られなかった特別なもので、長旅をして善
光
寺,にたどりついた参詣者に善
光
寺のありがたさを実感させる
光
景でした。 / 『戸隠善
光
寺往来』の内容
善光寺独案内
(『善光寺独案内』に収録された伝説)
善
光
寺独案内 / 『善
光
寺独案内』に収録された伝説 『善
光
寺独案内』の特色の一つに、他の本にはない珍しい伝説をたくさん,善
光
寺の境内でも、そのいわれを書いた絵入りの一枚刷りが売られていました。,これに対して本書は、善
光
寺の周辺に全く別の「牛に引かれて善
光
寺参り」の伝説があったことを示しています。,死者は死の直後、いったん信州善
光
寺に参詣するという観念が全国的にあります。,善
光
寺の鐘 漢文で書かれた5巻本の善
光
寺縁起に、「竜女洪鐘献上之事」として、これとほぼ同様のことが / 『善
光
寺独案内』に収録された伝説
善光寺道名所図会
(『善光寺道名所図会』の構成)
善
光
寺道名所図会 / 『善
光
寺道名所図会』の構成 5巻5冊からなる『善
光
寺道名所図会』は、中山道洗馬宿から善
光
寺道を各宿駅,を経て善
光
寺に至ります。,さらに善
光
寺から北国街道を江戸に向い、碓氷峠に至る間の各宿駅ごとに名所古蹟がまとめられています。 ,善
光
寺如来に関する伝承をはじめ縁起の詳細を記し、善
光
寺でおこなわれて来た年中行事や関係の寺社その他の名所古蹟,善
光
寺から飯縄原を経て戸隠山に入り、中院・宝
光
院・奥院の古蹟や祭礼のようすを見聞記録しています。 / 『善
光
寺道名所図会』の構成
善光寺道名所図会
(善光寺道(北国脇往還))
善
光
寺道名所図会 / 善
光
寺道(北国脇往還) 江戸時代には善
光
寺へ向かう道筋は、たいてい善
光
寺道といわれていましたが、とくに,に出、篠ノ井追分(しののいおいわけ)で北国街道に合流し、丹波島(たんばじま)で犀川を渡って水内郡の善
光
寺町,(長野市)へ至る19里半(約180キロメートル)の道筋を北国往還(おうかん)または善
光
寺道と呼んでいました,北国街道も善
光
寺道と呼ばれていましたが、さらに越後・佐渡まで至るので北国街道というのが一般的でした。,松本は、親町(おやまち)三町の本町・中町・東町などを善
光
寺道通りに定めました。 / 善
光
寺道(北国脇往還)
戸隠善光寺往来
(一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置)
戸隠善
光
寺往来 / 一九の作品中の『戸隠善
光
寺往来』の位置 『戸隠善
光
寺往来』は、文政5年(1822)に出版されました。,の2人は、伊勢神宮に参詣し、四国の金毘羅から安芸(あき)の宮島まで足を延ばし、帰りに木曽路を通って善
光
寺,2人の旅は伊勢参詣に始まり、善
光
寺参詣に終わったと言ってよいでしょう。,『伊勢参宮往来』と『戸隠善
光
寺往来』の出版は、『道中膝栗毛』の総まとめであったとも言えるものでした。,「万福百工往来」「勇略木曽往来」「勇烈新田往来」「弓勢為朝往来」「義経勇壮往来」「頼朝武功往来」「頼
光
山入往来 / 一九の作品中の『戸隠善
光
寺往来』の位置
善光寺案内
([解説])
善
光
寺案内 / [解説] [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎 明治時代の善
光
寺御開帳に合わせて出版された、善
光
寺,明治15年 『善
光
寺如来略縁起』『信州善
光
寺御堂額之写并ニ霊験記』 明治21年 『善
光
寺如来伝記図絵,』『善
光
寺如来霊験実録』 明治27年 『善
光
寺如来略縁起』『善
光
寺和讃』『善
光
寺如来由来讃歌』等,こうした中で、明治33年の御開帳に出版された『善
光
寺案内』は、これまでの出版物とは違う、観
光
案内書です,これは善
光
寺御開帳の参拝が、従来の信仰目的から観
光
目的へと変化しつつあることを意味しています。
善光寺独案内
(著者三上真助)
善
光
寺独案内 / 著者三上真助 『善
光
寺独案内』の著者三上真助は、経歴等がよく分かりません。,明治時代の長野市大門町は、善
光
寺のすぐ門前にあって大旅館が立ち並んでいましたが、長野市の商業の中心地でもありました,』(明治14年) 出版は明治10年代前半に集中しているようですが、実際は明治30年代まで善
光
寺,の境内図や善
光
寺土産の絵紙などを発行していました。,そうした流れの中から『善
光
寺独案内』が生まれたのです。
戸隠善光寺往来
(十返舎一九と信濃)
戸隠善
光
寺往来 / 文化11年(1814)には、木曽から松本に入り、穂高、大町、新町、稲荷山を通って善
光
寺に参詣し、越後へ,これが、『木曽街道続膝栗毛』第6編(文化12年)、第7編(文化13年)、『従木曽路善
光
寺道続膝栗毛』第,文政元年(1818)には、越後から善
光
寺に参詣し、大笹街道を通って草津温泉に抜けました。,善
光
寺に参詣する「江戸っ子」の善
光
寺参りコースではありませんでした。,『戸隠善
光
寺往来』は、一九が初めて江戸住人のために書いた善
光
寺参詣案内です。
善光寺独案内
([翻刻])
善
光
寺独案内 / (改頁) 善
光
寺独案内 豊斎如真編輯 各位善
光
寺まゐりをなされるに、 何処の,善
光
寺如来衆生済度の御姿也。,大に8 驚き、いかんともせんかたな く善
光
寺夲堂へ届け、勤番の 計にて返を造り、善
光
寺へ引,是善
光
寺七塚の一といふ。 ,――― 善
光
寺の霊薬 農商務省登録商標 一名善
光
寺のめぐすり (商標) 雲切
光
明香 貝入
善光寺独案内
([現代訳])
善
光
寺独案内 / 苅萱法師はここに住み、善
光
寺に毎日参詣した。,善
光
寺如来が衆生を済度するお姿である。,大変驚いたが、いかんともしがたく善
光
寺本堂へこのことを届け出て、勤番の案でそりを造り、善
光
寺へ引いていった,浄土宗 蓮生法師開基 本尊 阿弥陀如来 善
光
寺七院の一つ。善
光
寺本堂より南へ30丁にある。 ,これは善
光
寺七塚の一つという。
善光寺道名所図会
(はじめに)
善
光
寺道名所図会 / はじめに 善
光
寺道名所図会 巻一 善
光
寺道名所図会 巻二 善
光
寺道名所図会 巻三 善
光
寺道名所図会, 巻四 善
光
寺道名所図会 巻五 [目録] 善
光
寺道名所図会 巻一 [目録] 善
光
寺道名所図会, 巻二 [目録] 善
光
寺道名所図会 巻三 [目録] 善
光
寺道名所図会 巻四 [目録] 善
光
寺道名所図会
戸隠善光寺往来
([翻刻])
戸隠善
光
寺往来 / [翻刻] 戸隠善
光
寺往来 4 内々承候得は、御母公 多年之御心願ニ而、今 般信州善
光
寺江,丹波嶋ハ 往時甲越之戦場、斎 (改頁) 9 川を打越、善
光
寺町ニ,杖を止見候得ハ、商家旅 泊軒を交、殊ニ繁昌の 地令驚歎、仏都之
光
景左茂可有歟。,夫善 (改頁)
光
寺之来由ハ、欽明 天皇十三年、本尊如 来従百済雖渡来、,本願は本 田善
光
。因茲為寺号。
善光寺道名所図会
(目録)
善
光
寺道名所図会 / 目録 2左 目録 ○善
光
寺駅 北国街道 美和神社 時丸の塚 如来堂 三門 二王門,月葢長者説 百済王説 (改頁) 3 本朝来現 聖徳太子説 本多善
光
説, 難波掘江 伊奈郡ニ寺建立 檀越略系 堂内年賀式
光
明常燈 戒檀廻 法然上人旧跡 親鸞聖人旧蹟, 笹字名号 善
光
寺四号 鏡の御影 年中行事 寺領 元録造営録 善
光
寺紀行 苅萱堂 血脉頂戴, ぶらんど薬師 山吹の瀬 長原温泉 善
光
寺七社 同七橋 同七清水 同七井 同七塚 栗田刑部城趾
戸隠善光寺往来
([現代訳])
戸隠善
光
寺往来 / [現代訳] 内々にお聞きしたことによれば、お母上の長年の願いをかなえるため、このたび信州善
光
寺へ貴殿,山」と歌に詠まれた浅間山の麓の宿場で、まっすぐに行けば京街道・木曽街道で、右の方を小諸宿に出れば、善
光
寺,犀川を越え、善
光
寺町に到着して、見れば、商店と旅籠(はたご)が軒を連ね、まことに繁盛の地で、仏都の
光
景,そもそも善
光
寺の由来は、欽明天皇13年、本尊の阿弥陀如来が百済から渡来したが、あえて信仰しようとする者,発願は本田善
光
で、それによって寺号とした。
戸隠善光寺往来
(口絵)
戸隠善
光
寺往来 / 上段に遠景として「水内郡芋井郷善
光
寺」の図があり、下段に近景として丹波島の渡しを渡る舟が描かれています,綱が3本あることは、『地震後世俗語之種』(『善
光
寺大地震図会』)などの図とも一致しています。,諸国を巡って善
光
寺をめざす僧でしょう。 上下の図の間には、「舟渡しハ斎(犀)川といふ。
パスファインダー
(善光寺参詣と善光寺道)
善
光
寺参詣と善
光
寺道について トピック(テーマ) ねらい 善
光
寺参詣と善
光
寺道 岡山県津山市,、ず いぶん遠くからでも信濃善
光
寺へ向かう道は善
光
道と呼ばれていた。,中 世、近世には全国から善
光
寺参詣の善
光
寺道が通じていた。善
光
寺道 について知る。,」を歩く 善
光
寺街道協議会/編 善
光
寺街道協議会 2014年 「『善
光
寺道名所図会』は美濃国今尾,(しゅぎょう)は善
光
寺参詣の旅の意味で、鎌倉から善
光
寺 内容紹介 への道行を示しています。 / 善
光
寺参詣と善
光
寺道
善光寺道名所図会
(「名所図会」の刊行)
善
光
寺道名所図会 / 今でいう街道筋の観
光
ガイドブックですが、史書や伝承をいくついか引用し、地誌として、また歴史書としても活用,文化元年(1804)に、『木曽路名所図会』6巻が刊行されましたが、天保期になって、善
光
寺道の宿駅を中心,に名所古蹟社寺を遊歴して記録にとどめようとまとめられたのが『善
光
寺道名所図会』です。
信州善光寺御堂額之写
([解説])
信州善
光
寺御堂額之写 / 善
光
寺の境内や門前で、参拝土産として販売されたものです。,江戸時代の善
光
寺は、本堂に絵馬を奉納する習慣がありました。,「御堂額」とは、善
光
寺の本堂に奉納された絵馬のことです。,善
光
寺に奉納された絵馬には様々な種類がありますが、『信州善
光
寺御堂額之写』に紹介されているのは、主に善
光
寺如来,現在この絵馬は善
光
寺史料館に展示されています。
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
善
光
寺道名所図会 / 入口に分れ道あり、石標に[右京いせ道、左伊奈諏訪道]松本の方より来 る人の左右なり、凡上方筋より善
光
寺,へ参るに多くハ中山道妻籠宿の橋場より右 へ入り、飯田の城下へかゝり、甲州の元善
光
寺へ参り、夫より塩尻宿,の右脇に立石あり、 (改頁) 22右 両太神宮へ四十八度、善
光
寺
パスファインダー
(善光寺縁起)
善
光
寺縁起 トピック(テーマ) 善
光
寺縁起 ねらい 善
光
寺縁起は、善
光
寺の,善
光
寺絵伝も制作され、絵解きされた。その内容と、善
光
寺縁起の種類等に ついて調べる。,元善
光
寺 天竺 インド 百済 朝鮮半島 月蓋長者 如是姫 聖明王 難波の堀江 本田善
光
本多善
光
善佐,絵解き 善
光
寺絵伝 皇極 天皇 善
光
寺縁起ものがたり 坂内直頼/著
光
竜堂 2009.4,「解説」で、善
光
寺縁起の構造、善
光
寺縁起と女性、善
光
寺縁起の諸 本について述べている。 / 善
光
寺縁起
信州善光寺御堂額之写
([現代訳])
信州善
光
寺御堂額之写 / 明るくなり、前を1人の老人が川を渡りながら、私は善
光
寺の者だと言われました。,に参詣し、7日間お籠りをしたところ、満願の暁に、善
光
寺如来が
光
り輝き来迎される様をありありと拝見したと,心残りに思っていたところ、ある日昼寝して起き、善
光
寺の方を伏し拝みました。,、善
光
寺如来が
光
明を放ち来迎されるのを拝見しました。,、御境内で実際の善
光
寺如来様を3度拝み申し上げました。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(普光寺村)
普
光
寺村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):飯綱町(いいづなまち) 明治初期:普
光
寺村,(ふこうじむら) 幕末から明治初期:普
光
寺村 幕末から明治初期(よみ):ふこうじむら 『長野県町村誌,岑/華厳坊/大比羅/強狼/論所 川: 小井戸川/鳥居川/上原堤 渡・堰: 芋川堰/倉井堰/普
光
寺堰,/神明社/飯綱社/秋葉社 寺: 性空山普
光
寺/華厳山祖雲院/南俣山阿弥陀寺 学校: 周済学校,機織/縫針/養蚕 その他特記ワード: 論所草野 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 普
光
寺村 / 普
光
寺村
信州善光寺御堂額之写
([翻刻])
信州善
光
寺御堂額之写 / [翻刻] 信州善
光
寺 1 常 智 院 永代宿坊 信州善
光
寺御堂額之写, 静嘉堂梓 (改頁) 2 抑信州善
光
寺御本尊ハ、忝も,夫吉蔵二才になる子をふところにいれて 善
光
寺へいそぎけるに、たんバしまより女房のすがた うす/\見,一人川をわたりながら、われハ善
光
寺のものといゝ たまふ。,これ 善
光
寺の御本尊ならんとはい礼し、又々御礼参り致し候。
パスファインダー
(善光寺地震)
善
光
寺地震 トピック(テーマ) 善
光
寺地震 ねらい 弘化4年(1847)3,される善
光
寺大地震 が発生した。, 旧上水内郡 旧上高井郡 第四章「弘化四年 の善
光
寺地震」 2 書名 善
光
寺大地震,銀河書房 1985.12 善
光
寺地震の記録。,著者名 雑誌名 長野 出版年 1986年5月 巻号頁数 127号 3 論題名 善
光
寺地震と善
光
寺役所 / 善
光
寺地震
戸隠善光寺往来
(往来物)
戸隠善
光
寺往来 / 「道中膝栗毛」で知られた戯作者、十返舎一九の『戸隠善
光
寺往来』も、その一つです。
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
善
光
寺道名所図会 / 、室賀峠 を越[刈谷原へ出ても八幡へかゝりても] 善
光
寺迄十里、すべて十三里余、本街道善
光
寺迄十二里,なり、 一諏訪より善
光
寺参詣の節、別所へ廻らんには、和田嶺を越、長久保宿より腰越へ出、砂原を 越,、別所より善
光
寺へ十里、都て廿二里なり、本街道諏訪より和田長久保上田通り同く二十二里なり、 出浦古記,・樋 口次郎兼
光
を軍奉行と定、十万の軍勢を差越さる、追々に筑摩郡 迄取たり、小県・佐久を平定, 受取べしとて、暫く野陣して休息す、[今も此所を御所の平と云、]夫より山越に 陣を取る、[手塚
光
盛
善光寺道名所図会
(○筑摩 洗馬)
善
光
寺道名所図会 / ○筑摩 洗馬 16左 洗馬から郷原(善
光
寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里,)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う善
光
寺道,昭和7年(1932)の大火で洗馬宿の大部分を焼失しましたが、善
光
寺道との分岐の石標・邂逅(おおた)の清水
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(伺去真光寺村)
伺去真
光
寺村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:伺去真
光
寺村,(しゃりしんこうじむら) 幕末から明治初期:伺去真
光
寺村 幕末から明治初期(よみ):しゃりしんこうじむら,家治村/立石/西山/東中村/中村/西中村/大久保/小江戸/鶴沢/五十返/尾名沢/岩坂/道下/宮袖/真
光
寺,/堂前/五輪原/横吹/前林/真
光
寺平/清水/鳥屋峯/真
光
寺田/袖/大平/菖蒲池/中尾/平中山/鎧田/小丸山,槻木平橋/御城返橋/駒沢橋 道路: 北国脇往還 社: 白山神社/社宮司社 寺: 富興院/真
光
寺 / 伺去真
光
寺村
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
善
光
寺道名所図会 / 11時ごろ、木曽御嶽、戸隠の方から
光
物が来たように見えると、浅間峯の北東の間から山が鳴り崩れ、沼が湧き,5日夜3時ごろ、浅間山から黒雲が生じ、その中で1丈ばかりの
光
物がくるくると回り稲妻のようでした。,この嶺から東を眺めると、武蔵・下総・常陸・上野の山々、筑波山・日
光
山などが特に高く見えます。 ,境内の岩壁に見える白布状の縞模様から「牛にひかれて善
光
寺まいり」の伝説が生まれました。 ,老婆はこれを追いかけ善
光
寺へ到達、はからずも善
光
寺まいりをすることとなりました。
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
善
光
寺道名所図会 / 刈谷原へ出ても、八幡方面経由でも)善
光
寺までは10里です。 ,すべて13里あまり、本街道、善
光
寺までは12里です。,別所から善
光
寺まで10里、すべてで20里となります。,と樋口次郎兼
光
を軍奉行とし、10万の軍勢を遣わしました。,(注16)
光
盛の名は『源平盛衰記』と『平家物語』に出てきます。
パスファインダー
(善光寺史の研究)
1 書名 著者名 出版社 出版年 善
光
寺史の研究 善
光
寺史研究は古くから数多く行われてきた。,善
光
寺史研究の成果をまとめた1,000ページを超える大冊で、善
光
寺史 研究の基本書。,序章、第1章善
光
寺略史、第2章善
光
寺の造営、第3章 寺を支えた人たちと寺の経営、第4章善
光
寺参り、第5,章善
光
寺仏と新 内容紹介 善
光
寺、第6章善
光
寺信仰さまざま、第7章現在の善
光
寺及び充実した 史料編から,2 書名 著者名 出版社 出版年 善
光
寺史研究 善
光
寺史研究会/編 善
光
寺史研究会 1922年 / 善
光
寺史の研究
パスファインダー
(草創期の善光寺)
草創期の善
光
寺 トピック(テーマ) 草創期の善
光
寺 ねらい 善
光
寺仏、善
光
寺,キーワード 概要を知るための ツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 善
光
寺仏 善
光
寺,しょう) 若麻績東人 善
光
寺瓦 善
光
寺史 [上・下] 坂井衡平/著 東京美術 1969 善
光
寺史研究,序章、第1章善
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寺略史、第2章善
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寺の造営、第3章 内容紹介 寺を支えた人たちと寺の経営、第4章善
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寺参,り、第5章善
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寺仏と新 善
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寺、第6章善
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寺信仰さまざま及び充実した史料編から構成されて いる。 / 草創期の善
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寺
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
善
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寺道名所図会 / 上方のほうから善
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寺へ参詣する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい,、甲州(山梨県)の元善
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寺へ参詣し、そこから塩尻宿へ出て、この道へ来ています(塩尻からここまで2里)。
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
善
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寺道名所図会 / 遍照山
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明院。松本入口長沢川のわきにある袖が池の傍にあります(馬喰町)。,当日未明から初市立といって、遠近の人びとが着飾って袖を連ねて群参する
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景は、じつに初春の寿喜といえます,図の上方に放
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寺山(城山)が書かれ、その右側に松本城が書かれています。,さて、鎌倉時代前期の建暦元辛未年(1211)に、聖人越後の国府を立て、善
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寺へ参籠して関東へ赴きました,江戸時代後半には、「図会」にあるように、富裕な町人や善
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寺参詣の旅人の休息地としてにぎわいました。
善光寺道名所図会
(○筑摩 会田)
善
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寺道名所図会 / 会田宿は、この険路を控えた南麓に置かれ、善
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寺道と上田・明科・筑北の各方面へ向かう道が出会う、交通の要衝,岩井堂は、善
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寺街道の立峠下の岩山にあり、信濃三十三番観音中第20番の札所です。
善光寺道名所図会
(○安曇 大町)
善
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寺道名所図会 / 横川・白池[越後の境なり、]を 経て、越後の糸魚川へ出るなり、又大町辺より右へ入り、戸隠通り善
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寺
善光寺道名所図会
(○筑摩 苅屋原)
善
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寺道名所図会 / 宿にいたる、此辺ハ山間の小邑なれば、す へての風俗質朴にて、堅実なる山賎のみ多くつどひ、諸国より善
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善光寺道名所図会
(○安曇 大町)
善
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寺道名所図会 / また、大町あたりから右へ入り、戸隠通り善
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寺へ出ますが、普通の往還ではないので、引き返して、本街道松本
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(善光寺四十九霊地)
善
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寺四十九霊地 トピック(テーマ) 善
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寺四十九霊地 ねらい 何を善
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寺四十九霊地,キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 長野市 善
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寺 四十九霊地 四十九名所,:善
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寺と長野の七名所:長野郷土史研究会テキス トブック 小林一郎,小林玲子/著
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竜堂 2018.2,内容紹介 これまで善
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寺七名所、善
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寺四十九名所と呼ばれてきたものは、本 来は善
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寺四十九霊地,善
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寺をはじめ信濃の名所などを取材しその風土と 歴史を伝える。 / 善
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寺四十九霊地
善光寺道名所図会
(○筑摩 岡田)
善
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寺道名所図会 / 参道は善
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寺街道に面した所に一の鳥居があって、左右に欅(けやき)の大樹があり、西に向って松並木が150
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(善光寺本堂の建築)
善
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寺本堂の建築 トピック(テーマ) ねらい 善
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寺本堂の建築 宝永4年(1707),こうした善
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寺の建築につ いて調べる。,善
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寺/編 善
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寺 1989 内容紹介 昭和59年から平成元年にかけて行われた大修理完了の,善
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寺 心とかたち 伊藤延男 他/編 第一法規出版 1991年 1991 内容紹介 善
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寺全般,の建築様式の変遷 小林計一郎/著 長野 1990.1 第194号 善
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寺本堂昭和大修理完成記念号 善
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寺本堂 / 善
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寺本堂の建築
善光寺道名所図会
(○佐久郡小諸)
善
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寺道名所図会 / ) 35 風の如く神社仏堂を揺崩し、四ッ半時頃木曽御岳又戸隠山の方より、
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,をたてゝ震動雷電す、二番の泥火石は百丈余も高く打揚、青竜の乱れ たる如く、一時に闇夜となり、火石の
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は,先に手鞠の如く見へ、砂石雨のごとく降る、同五日夜八 半頃浅間山より黒雲生じ、その中に一丈ばかりの
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物,といひ慣しけると日本 書紀に見へたり、此嶺より東を眺れバ、武蔵・下総・常陸・上野の山々、筑波 山・日
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山
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(親鸞聖人と善光寺)
親鸞聖人と善
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寺 トピック(テーマ) 親鸞聖人と善
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寺 ねらい 浄土真宗の,開祖親鸞聖人の善
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寺との関わりについて。,他力本願を唱 えた親鸞が聖徳太子に魅かれて善
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寺詣りをしたのかを考える。,キーワード 善
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寺 親鸞聖人 聖徳太子 他力本願 自力本願 親鸞松 堂照坊 笹字の名号 関山神社,著者名 出版社 出版年 善
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寺まいり 五来 重/著 平凡社 1998 信州善
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寺と聖徳太子 / 親鸞聖人と善
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寺
松代まちあるきマップ
(45照光山乾徳寺)
45照
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山乾徳寺 松代案内 45 ,;照
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山乾徳寺 乾徳寺 写真をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,照
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山乾徳寺(しょうこうざんけんとくじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦如来。,上州沼田城主時代の真田信政が、改愚和尚を開山として二男信守の菩提を弔うため建てた寺が照
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寺。,乾徳院(信弘)照
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院(信守)天眞院(幸弘)慈眼院(幸弘生母)等の位牌も安置されている。 / 45照
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山乾徳寺
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