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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

これは傷みが激しく解読不能のところも多いが「当国衆悉(ことごと)く内府(家康)方であり、ここ元の(気),;     <訓読>   一大閤様御不慮以来内府,(中略)   一当表の儀、仰せを蒙る如く、去月二十一日、内府江戸を打ち立たれ、二十六七時分白河表発向議定,内府は今月四日に小山より江戸へ打ち入られ候。,但し内府上洛議定に候はば、佐竹と相談せしめ、万事を抛(ほう)り関東乱入の仕度油断無く候の条、御心安かるべく
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

去年已(い)来内府(家康)御置目に背かれ、上巻の誓紙を違へられ、恣(ほしいまま)の働きの条々一書先度これを,然れども内府(家康)大坂に在る中、諸侍の心いかにも計り難きに付いて、言発の儀遠慮仕り畢んぬ。,然りと雖も老母江戸へ遣はし候間、内府へ疎略無き分の躰に先づいたし候間、連々公儀如在(じょさい)に存ぜず,一内府置目御ちがへ、十三ケ条書き顕し候。諸人存知に付き、中々不審無き躰(てい)に候事。   ,去年已来内府(家康)御置目に背かれ誓紙違へられ恣の働き是非無く候間、今度各相談じ鉾楯に及び候。
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

家康(内府)が会津の上杉景勝征討の軍を起こしたのは誓詞や太閤の置目(遺言)に背くものであり、相談して「,今度景勝発向の儀、内府公上巻の誓紙并びに大閤様御置目に背かれ、秀頼様見捨てられ出馬候間、各(おのおの),内府公(家康)御違ひの条々別紙に相見え候。
秀吉と真田 (真田氏の動静)

然れば内府様(家康)大坂に御座成され候に付いて、大名・小名悉く伏見の衆大坂へ引き移られ候。
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」)

ヲ以テカ是ニ異 ナラン 今般衆諸侯ヲシテ徳川家 ヲ討シム 其一二ヲ挙レハ因州備前 ノ如キハ徳川内府
烈女百人一首 ([翻刻])

しあづまの 花やちるらん 【頭注】 熊野は遠州池田の駅の宿の倡家のむすめ也、容顔うるはしければ、内府宗盛都,詠ず、宗盛はなはだその至孝を感じ、いとまを給ひ餞別など厚くし給ひしとかや、その後、年月経て平家亡びて内府宗盛捕
違作書留帳 ([翻刻])

               名主 五助   天保七申年九月廿四日  松本御役所   〇従公儀御触  覚 内府様御移徙
違作書留帳 ([現代訳])

上げる、筑摩郡小俣村名主五助、天保七申年九月二十四日、松本御役所へ、 公儀からの御触れ、 覚 内府様
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