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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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秀吉と真田 (真田氏の動静)

秀吉と真田 / 真田氏の動静 「秀吉と真田」の目次はこちら  この間の真田氏の動きを知る史料としては、まず慶長四年閏三月二十五日,そして、何よりもこれで注目されることは、この書状が真田氏宛での秀忠書状としては初めてのものであり、徳川氏,これに続いては慶長五年三月の信幸宛て昌幸書状がある(写真)。,このような状況下で、真田父子も家康の上杉討伐令に応じたのであった。  ,真田信幸宛同昌幸書状 <史料解説> 真田信幸宛同昌幸書状   真田宝物館蔵   慶長五年(一六〇〇 / 真田氏の動静
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

秀吉と真田 / (なつか)正家等より七月十七日付けの書状が届けられた(写真)。,真田昌幸宛長束正家等連署状 <史料解説> 「真田昌幸宛長束正家等連署状」   真田宝物館蔵   ,七月二十四日、家康は信幸の忠節を「奇特千万」と賞し(写真)、続いて二十七日には、小県郡(上田領)は親の,領地であるから、異議なく信幸に与えると約している(写真)。  ,真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   慶長五年 / 東西に分かれた真田父子
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

秀吉と真田 / 家康の真田再征進発と秀吉による懐柔 「秀吉と真田」の目次はこちら  話は前後するが、秀吉が家康の出仕,今度は秀吉も家康の真田討伐を承認し、さらには上杉景勝に真田支援の禁止を命じてまでいる。,秀吉は表面的には九月末まで真田討伐を唱えているのだが、ひそかに家康と真田の手打ちを模索していた模様であった,付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛するよう促したのは十一月二十一日付けの書状であった(写真,真田昌幸宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「真田昌幸宛羽柴秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十四年 / 家康の真田再征進発と秀吉による懐柔
秀吉と真田 (家康の関東移封と真田昌幸・信幸)

秀吉と真田 / 家康の関東移封と真田昌幸・信幸 「秀吉と真田」の目次はこちら  天正十八年(一五九〇)七月の小田原,真田領はここに確定することとなる。  ,沼田領については前にみたように前年十一月の時点で既に返してやる旨を昌幸に伝えていたものでもあった(写真,これと比べ真田氏は秀吉の裁量により優遇されたものだった。,真田信之(信幸)画像 <史料解説> 「真田信之(信幸)画像」   真田宝物館蔵  衣冠束帯姿の信之像 / 家康の関東移封と真田昌幸・信幸
千曲真砂 ([解題])

千曲真砂 / 千曲之真砂 一 千曲之真砂 二 千曲之真砂 三 千曲之真砂 四 千曲之真砂 五 六 [目録], 千曲之真砂 一 [目録] 千曲之真砂 二 [目録] 千曲之真砂 三 [目録] 千曲之真砂 四,[目録] 千曲之真砂 五 六 高井地方史研究会 寺島正友 『千曲之真砂(ちくまのまさご)』は、江戸中期,これらのことから、著者が宝暦3年に編纂を終えた後、交友の文士たちからの要望に応じて自ら再写して贈答し、,その後さらに校正が加えられ転写されたと考えられる。
秀吉と真田 (伏見城普請)

秀吉と真田 / (写真)。,までとされた間の主な業務は石材の運搬・石垣築造であったが、その間には木曽よりの用材の運搬も命ぜられている(写真,このときの秀吉の奉行や普請奉行からの幾つかの通達の内の一通、文禄三年正月十八日付け書状(写真)の宛名には,また、後の昌幸書状(写真)の内容より見て、伏見城下には真田氏の屋敷があったことは確かだが、それも昌幸・, 御宿所     真田昌幸・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状 <史料解説> 真田昌幸・信幸
秀吉と真田 (徳川方への攻勢)

秀吉と真田 / 徳川方への攻勢 「秀吉と真田」の目次はこちら  真田昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍,それも神尾宛てのもの(写真)のように佐久郡の地を給するとしているものが多い。,神尾淡路守宛真田昌幸宛行状 <史料解説> 「神尾淡路守宛真田昌幸宛行状」   上田市立博物館蔵,なお、現在は宛名部分が欠損していて「神」しか見えないが、昔の写しにより宛名は判明する。,武田氏滅亡後、真田氏に仕えたわけだが、慶長五年に昌幸が失脚して、信之(信幸)の代になってからは真田家を
秀吉と真田 (北条の兵、名胡桃城を奪取)

秀吉と真田 / 北条の兵、名胡桃城を奪取 「秀吉と真田」の目次はこちら  ところが、秀吉の裁定に違犯する事件が間もなく,真田の属城とされた名胡桃(なぐるみ)城を、北条氏邦の配下で沼田城へ入った猪俣(いのまた)邦憲が攻め、乗,)へ、まずは使者を出して知らせるよう指示している(写真)。  ,真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   天正十七年,十一月十日 家康(花押)      真田源三郎殿
川柳真田三代記 ([書誌・解題])

川柳真田三代記 / 挿画に「上田城趾」「真田昌幸画像」「真田信之筆蹟」「真田昌幸筆蹟」「『近江源氏先陣館』演劇錦絵。,附詞書」「真田幸村画像」「真田幸村筆蹟」「『張抜筒真田入城』演劇錦絵。,附詞書」の写真を収載している。,これは、江戸時代に流布した実録本(写本)『真田三代記』を受け継ぐのだろうが、川柳を好んだ飯島花月がこよなく,また、松代初代藩主となった真田信之の筆蹟(花押)の写真を掲げたページには、「天正十三年上田築城のとき行
秀吉と真田 (小田原出陣)

秀吉と真田 / 戦況について、昌幸はしばしば秀吉の下へ報告し、秀吉からもそれに応えて、小田原の戦況を知らせてきている(写真,四月十一日の書状(写真)では、小田原城は二重三重に取り囲み、鳥の通いもできないほどで、篭城の者共も正体,また、同月十四日の書状(写真)では、小田原攻めの軍勢は充分なので(小田原へと急ぐ必要はない)心静かに松井田城攻,この折、四月二十九日の秀吉の返書(写真)には、農民の帰住を堅く申し付けるよう、また、東国の風習としての,真田信幸宛豊臣秀次書状 <史料解説> 「真田信幸宛豊臣秀次書状」   真田宝物館蔵   天正十八年
秀吉と真田 (神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)

秀吉と真田 / 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と真田」の目次はこちら  上田城に拠(よ)った真田昌幸,その後の対陣中に真田昌幸は上杉氏を通じて秀吉と接触し、全面的に支援する旨を伝えられている。,真田昌幸画像 <史料解説> 「真田昌幸画像」   柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管  上田や松代,真田氏上級家臣河野家伝来品。,しかし、本画像を含め、写しと見られる他の画像は、いずれも顔を若返らせて描いており、享年六十五であった「
秀吉と真田 (沼田領の分割裁定)

秀吉と真田 / ここで氏規は真田氏の沼田領と氏直の上洛を引き換えにしようとした。,これにつき真田信幸に上田から沼田までの案内と伝馬人足を出すように命じている(写真)。,このときの秀吉の裁定は、上州の真田領のうち沼田城を含む三分の二の地を北条領とし、三分の一は真田領として,残し、真田の減少分の替地は家康より渡すべし、というものだった。,真田信幸宛豊臣秀吉朱印状 <史料解説> 「真田信幸宛豊臣秀吉朱印状」   真田宝物館蔵   天正十七年
秀吉と真田 (北条氏討伐へ)

秀吉と真田 / とするとともに、北条が裁定違犯をしたからには、「本知」つまり元々の領地沼田は昌幸に与える旨を述べている(写真,関白太政大臣の任にあり国政を一身に預る者として、北条を是非とも誅伐しないわけにはいかない旨を通告している(写真,その大義名分を真田が提供した形となったわけである。  ,真田昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「真田昌幸宛豊臣秀吉書状」   真田宝物館蔵   天正十七年,三分の一ハ真田に仰せ付けられ候条、其の中にこれ在る城をバ真田相拘(かか)ふべきの由仰せ定められ、右の北条
秀吉と真田 (家康の命令による上田築城の開始)

秀吉と真田 / (千曲川の支流依田川流域)の諸士がこぞって徳川に、直接的には真田に反旗を翻した。,これについて従来は「真田昌幸が築城」と当然のように言われてきた。,この時点での真田氏独力での築城は、到底無理でもあった。,宮下善七郎宛真田昌幸感状 <史料解説> 「宮下善七郎宛真田昌幸感状」   関口清造氏蔵 上田市立博物館保管,なお、原文は写真のとおり「正月」だけで「閏」がついていないが、これは三島暦を使っていたため。
松代まちあるきマップ (14真田宝物館)

14真田宝物館 松代案内   14   ,真田宝物館 真田宝物館 写真をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,真田宝物館 真田家歴代の宝物を展示、歴史資料を収蔵  松代真田家十二代真田幸治が、昭和四十一年(一九三六,)、九代藩主幸教の母が住んだ真田邸(城外御殿)とともに、当時の松代町に寄付した貴重な歴史資料を収蔵。,常設展、特別企画展も聞かれており、真田十万石の歴史を遡ることができる。 / 14真田宝物館
松代まちあるきマップ (35真如山萬法寺)

35真如山萬法寺 松代案内   35   ,;真如山萬法寺 万法寺 写真をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,真如山萬法寺(しんにょざん まんぽうじ) 宗派/浄土真宗本願寺派 本尊/本尊/阿弥陀如来 / 35真如山萬法寺
松代まちあるきマップ (38真田林大鋒寺)

38真田林大鋒寺 松代案内   38   ,;真田林大鋒寺 大鋒寺御霊屋 大鋒寺御霊屋 大鋒寺 写真をクリックすると、フルサイズの画像,真田林大鋒寺(さなだりん だいほうじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 万治元年(一六五八,)、初代藩主真田信之(さなだのぶゆき=真田幸村(信繁)の実兄)の隠居所跡に、長国寺八世観国が信之の遺言,での遊猟(ゆうりょ)を禁止した。寺から東寺尾村までは松並木が続き、藩によって保護されていた。境内には真田信之 / 38真田林大鋒寺
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

秀吉と真田 / 沼田の信幸にも小県攻めに向かうので、そちらへ出張するように命じ(写真)、他の諸将へは「真田表仕置きのため,言わず「真田表」を攻める、と真田を地名のように使っている。  ,真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「真田信幸宛徳川家康書状」   真田宝物館蔵   慶長五年,(下略)   真田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 真田信幸宛徳川家康書状   真田宝物館蔵,九月朔日 家康(花押)      真田伊豆守殿   真田父子上田籠城図 <史料解説> 真田父子上田籠城図
松代まちあるきマップ (30真田山長国寺)

30真田山長国寺 松代案内   30   ,;真田山長国寺 長国寺 長国寺 長国寺真田家墓所 長国寺幸村大助供養塔 写真をクリック,真田山長国寺(しんでんざん ちょうこくじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 松代藩真田家,天文年間、戦国真田家初代当主真田幸隆が、伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山として、「真田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ,墓所には真田家歴代の墓碑、真田幸村・大助親子の供養塔、戦国真田三代(幸隆、昌幸、信綱)の供養塔などが並 / 30真田山長国寺
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

秀吉と真田 / という豊臣家奉行の面々はもちろん、総大将に担ぎ出された毛利輝元や宇喜多秀家、そして大谷吉継のものもある(写真,このおりの三成からの最初の書状は七月晦日付のものだった(写真)。,真田昌幸宛長束正家等連署状 <史料解説> 「真田昌幸宛長束正家等連署状」   真田宝物館蔵   , 御宿所   真田昌幸宛宇喜多秀家書状 <史料解説> 「真田昌幸宛宇喜多秀家書状」   真田宝物館蔵,; 真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状 <史料解説> 真田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状   真田宝物館蔵
パスファインダー (立川文庫、真田十勇士)

立川文庫、真田十勇士 トピック(テーマ) 立川文庫、真田十勇士 ねらい かつての,真田三勇士 真田七勇士 真田十勇士 穴山小助 海野六郎 筧十蔵 霧隠才蔵 猿飛佐助 根津甚八 三好為三入道,立川文庫の主な読者は、小中学生や丁稚奉公中の少年たちで、忍術 ブームに便乗した活動写真(映画),・真田幸村。,発行機関 信濃毎日新聞社(データベース) 年月日 2018.5.6 2 記事 写真集 / 立川文庫、真田十勇士
松代まちあるきマップ (47真光(信広)山 林正寺)

 真光(信広)山 林正寺 林正寺 林正寺 写真をクリックすると、フルサイズの画像,真光(信広)山の山号が残る。明治年間の火災で寺は長い間庫裏だけだったという。,昭和二十七年(一九五二)、長国寺から松代藩真田家二代藩主真田信政の御霊屋を移し、本堂とした。,そのため沼田真田家によるお家騒動が勃発。これを裁いた信之も、同年十月に亡くなった。,真光寺夜泣き石「岩船地蔵」は、子供の夜泣き止めに効用があるとして信仰された。 / 47真光(信広)山 林正寺
松代まちあるきマップ (7真田勘解由家 さなだ かげゆけ)

; 真田勘解由家 さなだ かげゆけ 真田かげゆ邸 真田かげゆ邸屋敷神 写真をクリック,真田邸、真田公園と歴史の道を歩き、文武学校を過ぎた広小路の右手、腰板張、白壁の塀が続く松代藩重鎮の家。,切妻、桟瓦、平入で、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は海鼠壁。,覆屋棟に六連銭の真田家表紋と雁金、洲浜の同裏紋の瓦を載せる(国登録有形文化財)。,なお、真田勘解由家は、二代藩主真田信政の長男・勘解由信就を始祖とする真田家の分家。 / 7真田勘解由家 さなだ かげゆけ
松代まちあるきマップ (24真松館(山岸家住宅長屋門))

24真松館(山岸家住宅長屋門) 松代案内   24  ,; 真松館(山岸家住宅長屋門) 山岸家(しょうしん館) 写真をクリックすると、フルサイズ,真松館(山岸家住宅長屋門)  土蔵づくりの長屋門で、大正時代後期の建物。,住宅長屋門の奥にある牛乳処理場は、明治初期開業の松真舎牛乳店を引き継いだ山岸のぶが、昭和九年に建設。 / 24真松館(山岸家住宅長屋門)
松代まちあるきマップ (3真田邸(松代城跡附新御殿跡))

3真田邸(松代城跡附新御殿跡) 松代案内   3  ,; 真田邸(松代城跡附新御殿跡) 真田邸 真田邸 真田邸 写真をクリックすると,真田邸は。,その後、隠居した幸教の住まいとなり、明治維新後は真田家私邸(別邸)として使われた。,#160;    一般160円、小・中学生60円  真田宝物館 / 3真田邸(松代城跡附新御殿跡)
パスファインダー (真田氏研究の基本史料・古記録)

真田氏研究の基本史料・古記録 トピック(テーマ) 真田氏研究の基本史料・古記録,編 信濃史料刊行会 1977 真田家御事蹟稿 本書は「真田家8代目藩主で英名の高い幸貫(ゆきつら,3 書名 著者名 出版社 出版年 真武内伝 乾ノ巻 坤ノ巻 竹内軌定/著 山岸重郷(手写) 1815,2 書名 著者名 出版社 出版年 真田通記 真田町教育委員会/編 真田町教育委員会 1982,真田氏時代における織豊系城郭上田城の再検討 倉澤正幸 信濃 3次67巻9号 真田氏と南信 藤沢好古 信濃 / 真田氏研究の基本史料・古記録
木曾山林学校 ([本文])

真 本校新校舎全景/旧校舎/標本室 (注 このページの写真は原本ビューワ3コマ参照) 初代松田校長,) 本校講堂/全校生徒 (注 このページの写真は原本ビューワ5コマ参照) 苗圃/測量実習 (注, このページの写真は原本ビューワ6コマ参照) 農業ノ実習/演習林/測樹実習 (注 このページの写真,は原本ビューワ7コマ参照) 寄宿舎及苗圃/柔道部/標本 (注 このページの写真は原本ビューワ8コマ,ノ状況/円盤投/砲丸投 (注 このページの写真は原本ビューワ10コマ参照)
来目路の橋 ([解説])

来目路の橋 [目録] 長野県図書館協会 宮下明彦 原本は秋田佐竹家旧蔵、辻兵吉蔵 写本内閣文庫・,…慣れた腕でやすやすと乗り下してゆく」と描写している。また、久米路の橋の様子を描写している。,と描写している。,どの日記にも、平凡な民衆の日常生活がきめ細かく暖かい筆で写し取られている。,また、明治政府は従来刊行されていない諸地方の地誌を借り受けて写本を明治8年に写し終えたが、それが現在内閣文庫
善光寺案内 ([解説])

『善光寺案内』の特色の一つに、写真が掲載されていることがあります。,いずれも明治時代の善光寺周辺を写した、貴重な写真です。,中でも、「駒入橋ヨリ仁王門ヲ望ム」というキャプションの付いた写真には、明治24年に焼失した仁王門が写っています,この写真が明治24年以前に撮影されたことが分かります。,この写真は明治33年版と39年版に掲載されていますが、45年版では他の写真に置き換えられています。
伊那の中路 わがこころ (伊那の中路)

原本は秋田佐竹家旧蔵、辻兵吉蔵 写本内閣文庫・国立国会図書館。,いたるところの風物を書き写し、その土地にまつわる故事来歴等に絶えず鋭い観察の目を注いだ。,どの日記にも、平凡な民衆の日常生活がきめ細かく暖かい筆で写し取られている。,また、明治政府は従来刊行されていない諸地方の地誌を借り受けて写本を明治8年に写し終えたが、それが現在内閣文庫,し、日暮れの空を待ち、女の子はお化粧をし、きれいに着飾って大勢集まり、ささらをすって歌をうたう」と描写されている
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の諸本)

真田宝物館本  長野市松代町の真田宝物館が収蔵する写本です。,真田宝物館本と国立国会図書館本は共通点が多く、親子関係にあると思われます。  ,この写本を書写したのが芹田村荒木(長野市若里)の二川亭柳霞であることは、1―24の記述から分かります。,国立国会図書館本や真田宝物館本も、同様に原本を第7冊まで書写しています。,また真田宝物館本の絵とともに、独自の表現が多いようです。この2本は同系統です。
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の諸本)

真田宝物館本  長野市松代町の真田宝物館が収蔵する写本です。,真田宝物館本と国立国会図書館本は共通点が多く、親子関係にあると思われます。  ,この写本を書写したのが芹田村荒木(長野市若里)の二川亭柳霞であることは、1―24の記述から分かります。,国立国会図書館本や真田宝物館本も、同様に原本を第7冊まで書写しています。,また真田宝物館本の絵とともに、独自の表現が多いようです。この2本は同系統です。
菴の春秋 ([解説])

活字本・菅江真澄全集第十巻 随筆(内田武志 宮本常一 編集 菅江真澄 著 未来社 1974年) 菅江真澄,いたるところの風物を書き写し、その土地にまつわる故事来歴等に絶えず鋭い観察の目を注いだ。,どの日記にも、平凡な民衆の日常生活がきめ細かく暖かい筆で写し取られている。,また、明治政府は従来刊行されていない諸地方の地誌を借り受けて写本を明治8年に写し終えたが、それが現在内閣文庫,し、日暮れの空を待ち、女の子はお化粧をし、きれいに着飾って大勢集まり、ささらをすって歌をうたう」と描写されている
パスファインダー (蚕室造りの家と養蚕農家)

内容紹介 「蚕室―人の住まいに優先―」を、塩尻市桟敷の野村家気抜き屋根付 き土蔵造り蚕室の写真,城下村・武石村、長和村、青木村の 内容紹介 蚕室づくりの家と製糸組合依田社の迎賓館だった依水館などを写真入,、東御市、上田市街地の蚕 室づくりの家と信州大学繊維学部講堂および資料館などを写真入りで 紹介。,なかでも清水金左衛門の項では彼が 考案した蚕室の設計図と現存していた(先ごろ取り壊した)写真が載って,6分野中の「民家」の項に多数の農家の平面図・断面図・建物・写真が 内容紹介 載っている。
松代まちあるきマップ (20平林山本誓寺)

#160;20   平林山本誓寺 本誓寺(1) 本誓寺(2) 写真,平林山本誓寺(へいりんざん ほんせいじ) 宗派 真宗大谷派 本尊 瀬踏阿弥陀如来 建保元年年,二十四輩の第十番で、室町時代には、真宗信濃三箇寺の一つとされた。,真蹟名号、石摺り名号(石に彫った名号、印刷し信徒に配った)をいまに伝える。,初代藩主真田信之の制札(禁制)、自画自賛の寿像、初代藩主真田信之が命名、八代藩主幸貫が墨書した寺号「真田園
上田の早苗 ([解説])

上田という地名を苗字とする中世上田氏についての検討から始まって、真田氏、上田城の築城ほかについて、伝承,この写本自体は、序文に見えるように大正2年(1913)に、やはり上田の人で「花月文庫」で知られる飯島茂経,(保作、花月)が筆写したものです。
松代まちあるきマップ (48松操山典廏寺)

#160; 松操山典廏寺 典厩寺 典厩寺 典厩寺閻魔堂 典厩寺閻魔 典厩寺 写真,典廏信繁を尊敬する真田昌幸は、次男の名を信繁と命名。真田幸村がその人である。,真田家の武家寺であり、典厩信繁の墓の横の小さな墓は、同じ名の幸村(信繁)を秘かに弔ったとする小説もある,川中島合戦三〇〇年の万延元年(一八六〇)、真田幸貫の発願で閻魔堂を建立。,山門は真常院殿(三代藩主真田幸道)の霊屋の門を移した。
信州善光寺御堂額之写 ([現代訳])

信州善光寺御堂額之写 / 出来事を、目の当たりに見聞きしていない人々に伝えて、現世から来世にわたる仏恩を知らせたく思い、雛形として写したものです,雨は降りあたりは真の闇になって、川に流されそうに思われたので、2人が善光寺の方を伏し拝んだところ、何となく
松代まちあるきマップ (44関谷山西楽寺)

#160;44   関谷山西楽寺 西楽寺 西楽寺本堂 西楽寺真田信重御霊屋,西楽寺真田信重御霊屋 写真をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,村松氏が帰依し、天正二年(一五七四)に堂宇を建立、西楽寺と名付け中興。その後火災で焼失したが、松代藩真田家初代藩主真田信之,古風で洗練された匠の技を感じさせる。冬至には、夕日が霊屋の屋根の宝珠の真うしろに沈む。
松代まちあるきマップ (45照光山乾徳寺)

#160;  45   照光山乾徳寺 乾徳寺 写真,上州沼田城主時代の真田信政が、改愚和尚を開山として二男信守の菩提を弔うため建てた寺が照光寺。,照光山乾徳寺とした。五代信安が茶湯料十石余を寄進、七代幸弘からの奉納も受け現在に至る。風流感得の人・真田勘解山家,の菩提寺で、信弘(乾徳院)の父・勘解由家系流の宝篋印塔、同家箏曲八橋流(市指定無形文化財)再興の祖・真田志,乾徳院(信弘)照光院(信守)天眞院(幸弘)慈眼院(幸弘生母)等の位牌も安置されている。
松代まちあるきマップ (36杵渕山福徳寺)

 36   杵渕山福徳寺 福徳寺 福徳寺護摩堂 写真,杵渕山福徳寺(きねぶちさん ふくとくじ) 宗派/真言宗 本尊/本尊/地蔵菩薩 永享二年杵渕村,その不動明王と大日如来を安置する護摩堂は三代藩主・真田幸道が建立。
パスファインダー (長野市の映画館)

映画、劇場、芝居小屋、活動写真、シネコン、シネマコンプレックス、芸 能、権堂 1 書名 長野,URL 概要 1 記事 発行機関 年月日 2 記事 発行機関 年月日 長野市内映画館を写真,活動写真漫評 信濃毎日新聞社(データベース) 1897.7.10  ※長野市での活動写真の初上映の作品
松代まちあるきマップ (42白鳥神社)

42   白鳥神社 白鳥神社入口 白鳥神社 白鳥神社神馬 写真,真田家が上田から松代へ移封の年=元和八年(一六二二)、真田信之が祈願所の開善寺を松代に移し、次いで寛永元年,伝承では真田信之の駕籠の上に白い鳥が舞い降り、信之と共に松代に移りたいと訴えたという。,海野郷(東御市海野)の白鳥神社は、日本武尊の他、真田宗家とされる滋野氏の祖、清和天皇の皇子貞元親王・貞保親王
パスファインダー (丸岡秀子)

3 書名 著者名 出版社 出版年 ひとすじの道を生きる:写真集 丸岡秀子の仕事 丸岡秀子写真集編集委員会,/編 ドメス出版 2000.5.25 内容紹介 秀子の写真集で、写真から秀子の活動・交友などを
松代まちあるきマップ (25旧前島家住宅)

#160;25   旧前島家住宅 旧前島家住宅 旧前島家住宅 写真,旧前島家住宅 旧前島家住宅は、初代民部左衛門以来、上田・松代藩を通し代々真田家に仕えている中級武士,慶長五年(一六〇〇)、真田昌幸・幸村(信繁)父子が九度山蟄居の際、家臣十六名が昌幸に従って高野山に随行,作左衛門は、昌幸が没した慶長十六年に、真田信之のもとに帰藩、その子孫が前島の家を継いだ。
松代まちあるきマップ (16矢澤家表門)

;  16   矢澤家表門 矢澤家表門 写真,矢澤家は真田家重代の筆頭家老を務めてきた家で、初代矢沢綱頼は昌幸の叔父。,沼田城を落とすなど昌幸の戦いを支えた、戦国真田家の重鎮。
松代まちあるきマップ (17松代藩鐘楼(まつしろはんしょうろう))

17   松代藩鐘楼(まつしろはんしょうろう) 鐘楼 鐘楼 写真,井楼(せいろう)式高櫓形鐘楼で、元和八年(一六二二)年に松代藩真田家初代藩主・真田信之が設置。
松代まちあるきマップ (28功徳山 願行寺)

#160; 28   功徳山 願行寺 願行寺 願行寺 写真,神科伊勢山(現上田市)、真田、上田表を経て、元和八年、真田氏に従って松代に移ったという。
松代まちあるきマップ (39阿弥陀山東光寺)

#160; 39   阿弥陀山東光寺 東光寺 東光寺 写真,阿弥陀山東光寺(あみださんとうこうじ) 宗派 真言宗 本尊 釈迦牟尼仏 尼巌山の麓にある,その昔は真言宗で、龍華山密蔵院 東光山蓮(練)光寺と称し、等覚院・満蔵院などの脇坊もあった。
松代まちあるきマップ (32芳谷山 梅翁院)

#160;  芳谷山 梅翁院 梅翁院 梅翁院右京の墓 梅翁院童謡歌碑 写真,ほうこくざん ばいおういん) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 寛永十九年(一六四二)、真田信之側室,天蓋は、真田家御霊屋から移したもの。本堂の右手に魚濫観音祈願殿。
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