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秀吉と真田
(真田氏の動静)
秀吉と
真
田 /
真
田氏の動静 「秀吉と
真
田」の目次はこちら この間の
真
田氏の動きを知る史料としては、まず慶長四年閏三月二十五日,そして、何よりもこれで注目されることは、この書状が
真
田氏宛での秀忠書状としては初めてのものであり、徳川氏,これに続いては慶長五年三月の信幸宛て昌幸書状がある(
写
真
)。,このような状況下で、
真
田父子も家康の上杉討伐令に応じたのであった。 ,
真
田信幸宛同昌幸書状 <史料解説>
真
田信幸宛同昌幸書状
真
田宝物館蔵 慶長五年(一六〇〇 /
真
田氏の動静
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
秀吉と
真
田 / (なつか)正家等より七月十七日付けの書状が届けられた(
写
真
)。,
真
田昌幸宛長束正家等連署状 <史料解説> 「
真
田昌幸宛長束正家等連署状」
真
田宝物館蔵 ,七月二十四日、家康は信幸の忠節を「奇特千万」と賞し(
写
真
)、続いて二十七日には、小県郡(上田領)は親の,領地であるから、異議なく信幸に与えると約している(
写
真
)。 ,
真
田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「
真
田信幸宛徳川家康書状」
真
田宝物館蔵 慶長五年 / 東西に分かれた
真
田父子
秀吉と真田
(家康の関東移封と真田昌幸・信幸)
秀吉と
真
田 / 家康の関東移封と
真
田昌幸・信幸 「秀吉と
真
田」の目次はこちら 天正十八年(一五九〇)七月の小田原,
真
田領はここに確定することとなる。 ,沼田領については前にみたように前年十一月の時点で既に返してやる旨を昌幸に伝えていたものでもあった(
写
真
,これと比べ
真
田氏は秀吉の裁量により優遇されたものだった。,
真
田信之(信幸)画像 <史料解説> 「
真
田信之(信幸)画像」
真
田宝物館蔵 衣冠束帯姿の信之像 / 家康の関東移封と
真
田昌幸・信幸
秀吉と真田
(家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)
秀吉と
真
田 / 家康の
真
田再征進発と秀吉による懐柔 「秀吉と
真
田」の目次はこちら 話は前後するが、秀吉が家康の出仕,今度は秀吉も家康の
真
田討伐を承認し、さらには上杉景勝に
真
田支援の禁止を命じてまでいる。,秀吉は表面的には九月末まで
真
田討伐を唱えているのだが、ひそかに家康と
真
田の手打ちを模索していた模様であった,付いて、上杉景勝へ断りをすませてから、昌幸に上洛するよう促したのは十一月二十一日付けの書状であった(
写
真
,
真
田昌幸宛羽柴秀吉書状 <史料解説> 「
真
田昌幸宛羽柴秀吉書状」
真
田宝物館蔵 天正十四年 / 家康の
真
田再征進発と秀吉による懐柔
秀吉と真田
(伏見城普請)
秀吉と
真
田 / (
写
真
)。,までとされた間の主な業務は石材の運搬・石垣築造であったが、その間には木曽よりの用材の運搬も命ぜられている(
写
真
,このときの秀吉の奉行や普請奉行からの幾つかの通達の内の一通、文禄三年正月十八日付け書状(
写
真
)の宛名には,また、後の昌幸書状(
写
真
)の内容より見て、伏見城下には
真
田氏の屋敷があったことは確かだが、それも昌幸・, 御宿所
真
田昌幸・信幸・幸村宛佐久間甚四郎等連署状 <史料解説>
真
田昌幸・信幸
秀吉と真田
(徳川方への攻勢)
秀吉と
真
田 / 徳川方への攻勢 「秀吉と
真
田」の目次はこちら
真
田昌幸は、上杉景勝そして秀吉との提携もなり、徳川軍,それも神尾宛てのもの(
写
真
)のように佐久郡の地を給するとしているものが多い。,神尾淡路守宛
真
田昌幸宛行状 <史料解説> 「神尾淡路守宛
真
田昌幸宛行状」 上田市立博物館蔵,なお、現在は宛名部分が欠損していて「神」しか見えないが、昔の
写
しにより宛名は判明する。,武田氏滅亡後、
真
田氏に仕えたわけだが、慶長五年に昌幸が失脚して、信之(信幸)の代になってからは
真
田家を
秀吉と真田
(北条の兵、名胡桃城を奪取)
秀吉と
真
田 / 北条の兵、名胡桃城を奪取 「秀吉と
真
田」の目次はこちら ところが、秀吉の裁定に違犯する事件が間もなく,
真
田の属城とされた名胡桃(なぐるみ)城を、北条氏邦の配下で沼田城へ入った猪俣(いのまた)邦憲が攻め、乗,)へ、まずは使者を出して知らせるよう指示している(
写
真
)。 ,
真
田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「
真
田信幸宛徳川家康書状」
真
田宝物館蔵 天正十七年,十一月十日 家康(花押)
真
田源三郎殿
秀吉と真田
(小田原出陣)
秀吉と
真
田 / 戦況について、昌幸はしばしば秀吉の下へ報告し、秀吉からもそれに応えて、小田原の戦況を知らせてきている(
写
真
,四月十一日の書状(
写
真
)では、小田原城は二重三重に取り囲み、鳥の通いもできないほどで、篭城の者共も正体,また、同月十四日の書状(
写
真
)では、小田原攻めの軍勢は充分なので(小田原へと急ぐ必要はない)心静かに松井田城攻,この折、四月二十九日の秀吉の返書(
写
真
)には、農民の帰住を堅く申し付けるよう、また、東国の風習としての,
真
田信幸宛豊臣秀次書状 <史料解説> 「
真
田信幸宛豊臣秀次書状」
真
田宝物館蔵 天正十八年
秀吉と真田
(神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き)
秀吉と
真
田 / 神川合戦(第一次上田合戦)と秀吉の動き 「秀吉と
真
田」の目次はこちら 上田城に拠(よ)った
真
田昌幸,その後の対陣中に
真
田昌幸は上杉氏を通じて秀吉と接触し、全面的に支援する旨を伝えられている。,
真
田昌幸画像 <史料解説> 「
真
田昌幸画像」 柘植弌郎氏蔵 上田市立博物館保管 上田や松代,
真
田氏上級家臣河野家伝来品。,しかし、本画像を含め、
写
しと見られる他の画像は、いずれも顔を若返らせて描いており、享年六十五であった「
秀吉と真田
(沼田領の分割裁定)
秀吉と
真
田 / ここで氏規は
真
田氏の沼田領と氏直の上洛を引き換えにしようとした。,これにつき
真
田信幸に上田から沼田までの案内と伝馬人足を出すように命じている(
写
真
)。,このときの秀吉の裁定は、上州の
真
田領のうち沼田城を含む三分の二の地を北条領とし、三分の一は
真
田領として,残し、
真
田の減少分の替地は家康より渡すべし、というものだった。,
真
田信幸宛豊臣秀吉朱印状 <史料解説> 「
真
田信幸宛豊臣秀吉朱印状」
真
田宝物館蔵 天正十七年
松代まちあるきマップ
(14真田宝物館)
14
真
田宝物館 松代案内 14 ,
真
田宝物館
真
田宝物館
写
真
をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,
真
田宝物館
真
田家歴代の宝物を展示、歴史資料を収蔵 松代
真
田家十二代
真
田幸治が、昭和四十一年(一九三六,)、九代藩主幸教の母が住んだ
真
田邸(城外御殿)とともに、当時の松代町に寄付した貴重な歴史資料を収蔵。,常設展、特別企画展も聞かれており、
真
田十万石の歴史を遡ることができる。 / 14
真
田宝物館
秀吉と真田
(北条氏討伐へ)
秀吉と
真
田 / とするとともに、北条が裁定違犯をしたからには、「本知」つまり元々の領地沼田は昌幸に与える旨を述べている(
写
真
,関白太政大臣の任にあり国政を一身に預る者として、北条を是非とも誅伐しないわけにはいかない旨を通告している(
写
真
,その大義名分を
真
田が提供した形となったわけである。 ,
真
田昌幸宛豊臣秀吉書状 <史料解説> 「
真
田昌幸宛豊臣秀吉書状」
真
田宝物館蔵 天正十七年,三分の一ハ
真
田に仰せ付けられ候条、其の中にこれ在る城をバ
真
田相拘(かか)ふべきの由仰せ定められ、右の北条
松代まちあるきマップ
(35真如山萬法寺)
35
真
如山萬法寺 松代案内 35 ,;
真
如山萬法寺 万法寺
写
真
をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,
真
如山萬法寺(しんにょざん まんぽうじ) 宗派/浄土
真
宗本願寺派 本尊/本尊/阿弥陀如来 / 35
真
如山萬法寺
松代まちあるきマップ
(38真田林大鋒寺)
38
真
田林大鋒寺 松代案内 38 ,;
真
田林大鋒寺 大鋒寺御霊屋 大鋒寺御霊屋 大鋒寺
写
真
をクリックすると、フルサイズの画像,
真
田林大鋒寺(さなだりん だいほうじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 万治元年(一六五八,)、初代藩主
真
田信之(さなだのぶゆき=
真
田幸村(信繁)の実兄)の隠居所跡に、長国寺八世観国が信之の遺言,での遊猟(ゆうりょ)を禁止した。寺から東寺尾村までは松並木が続き、藩によって保護されていた。境内には
真
田信之 / 38
真
田林大鋒寺
松代まちあるきマップ
(30真田山長国寺)
30
真
田山長国寺 松代案内 30 ,;
真
田山長国寺 長国寺 長国寺 長国寺
真
田家墓所 長国寺幸村大助供養塔
写
真
をクリック,
真
田山長国寺(しんでんざん ちょうこくじ) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 松代藩
真
田家,天文年間、戦国
真
田家初代当主
真
田幸隆が、伝為晃運(でんいこううん)禅師を開山として、「
真
田山長谷寺(しんでんざんちょうこくじ,墓所には
真
田家歴代の墓碑、
真
田幸村・大助親子の供養塔、戦国
真
田三代(幸隆、昌幸、信綱)の供養塔などが並 / 30
真
田山長国寺
秀吉と真田
(家康の命令による上田築城の開始)
秀吉と
真
田 / (千曲川の支流依田川流域)の諸士がこぞって徳川に、直接的には
真
田に反旗を翻した。,これについて従来は「
真
田昌幸が築城」と当然のように言われてきた。,この時点での
真
田氏独力での築城は、到底無理でもあった。,宮下善七郎宛
真
田昌幸感状 <史料解説> 「宮下善七郎宛
真
田昌幸感状」 関口清造氏蔵 上田市立博物館保管,なお、原文は
写
真
のとおり「正月」だけで「閏」がついていないが、これは三島暦を使っていたため。
パスファインダー
(立川文庫、真田十勇士)
立川文庫、
真
田十勇士 トピック(テーマ) 立川文庫、
真
田十勇士 ねらい かつての,
真
田三勇士
真
田七勇士
真
田十勇士 穴山小助 海野六郎 筧十蔵 霧隠才蔵 猿飛佐助 根津甚八 三好為三入道,立川文庫の主な読者は、小中学生や丁稚奉公中の少年たちで、忍術 ブームに便乗した活動
写
真
(映画),・
真
田幸村。,発行機関 信濃毎日新聞社(データベース) 年月日 2018.5.6 2 記事
写
真
集 / 立川文庫、
真
田十勇士
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
秀吉と
真
田 / 沼田の信幸にも小県攻めに向かうので、そちらへ出張するように命じ(
写
真
)、他の諸将へは「
真
田表仕置きのため,言わず「
真
田表」を攻める、と
真
田を地名のように使っている。 ,
真
田信幸宛徳川家康書状 <史料解説> 「
真
田信幸宛徳川家康書状」
真
田宝物館蔵 慶長五年,(下略)
真
田信幸宛徳川家康書状 <史料解説>
真
田信幸宛徳川家康書状
真
田宝物館蔵,九月朔日 家康(花押)
真
田伊豆守殿
真
田父子上田籠城図 <史料解説>
真
田父子上田籠城図
松代まちあるきマップ
(47真光(信広)山 林正寺)
真
光(信広)山 林正寺 林正寺 林正寺
写
真
をクリックすると、フルサイズの画像,
真
光(信広)山の山号が残る。明治年間の火災で寺は長い間庫裏だけだったという。,昭和二十七年(一九五二)、長国寺から松代藩
真
田家二代藩主
真
田信政の御霊屋を移し、本堂とした。,そのため沼田
真
田家によるお家騒動が勃発。これを裁いた信之も、同年十月に亡くなった。,
真
光寺夜泣き石「岩船地蔵」は、子供の夜泣き止めに効用があるとして信仰された。 / 47
真
光(信広)山 林正寺
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
秀吉と
真
田 / という豊臣家奉行の面々はもちろん、総大将に担ぎ出された毛利輝元や宇喜多秀家、そして大谷吉継のものもある(
写
真
,このおりの三成からの最初の書状は七月晦日付のものだった(
写
真
)。,
真
田昌幸宛長束正家等連署状 <史料解説> 「
真
田昌幸宛長束正家等連署状」
真
田宝物館蔵 , 御宿所
真
田昌幸宛宇喜多秀家書状 <史料解説> 「
真
田昌幸宛宇喜多秀家書状」
真
田宝物館蔵,;
真
田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状 <史料解説>
真
田昌幸・信幸・幸村宛石田三成書状
真
田宝物館蔵
松代まちあるきマップ
(7真田勘解由家 さなだ かげゆけ)
;
真
田勘解由家 さなだ かげゆけ
真
田かげゆ邸
真
田かげゆ邸屋敷神
写
真
をクリック,
真
田邸、
真
田公園と歴史の道を歩き、文武学校を過ぎた広小路の右手、腰板張、白壁の塀が続く松代藩重鎮の家。,切妻、桟瓦、平入で、外壁は
真
壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は海鼠壁。,覆屋棟に六連銭の
真
田家表紋と雁金、洲浜の同裏紋の瓦を載せる(国登録有形文化財)。,なお、
真
田勘解由家は、二代藩主
真
田信政の長男・勘解由信就を始祖とする
真
田家の分家。 / 7
真
田勘解由家 さなだ かげゆけ
松代まちあるきマップ
(24真松館(山岸家住宅長屋門))
24
真
松館(山岸家住宅長屋門) 松代案内 24 ,;
真
松館(山岸家住宅長屋門) 山岸家(しょうしん館)
写
真
をクリックすると、フルサイズ,
真
松館(山岸家住宅長屋門) 土蔵づくりの長屋門で、大正時代後期の建物。,住宅長屋門の奥にある牛乳処理場は、明治初期開業の松
真
舎牛乳店を引き継いだ山岸のぶが、昭和九年に建設。 / 24
真
松館(山岸家住宅長屋門)
松代まちあるきマップ
(3真田邸(松代城跡附新御殿跡))
3
真
田邸(松代城跡附新御殿跡) 松代案内 3 ,;
真
田邸(松代城跡附新御殿跡)
真
田邸
真
田邸
真
田邸
写
真
をクリックすると,
真
田邸は。,その後、隠居した幸教の住まいとなり、明治維新後は
真
田家私邸(別邸)として使われた。,#160; 一般160円、小・中学生60円
真
田宝物館 / 3
真
田邸(松代城跡附新御殿跡)
パスファインダー
(真田氏研究の基本史料・古記録)
真
田氏研究の基本史料・古記録 トピック(テーマ)
真
田氏研究の基本史料・古記録,編 信濃史料刊行会 1977
真
田家御事蹟稿 本書は「
真
田家8代目藩主で英名の高い幸貫(ゆきつら,3 書名 著者名 出版社 出版年
真
武内伝 乾ノ巻 坤ノ巻 竹内軌定/著 山岸重郷(手
写
) 1815,2 書名 著者名 出版社 出版年
真
田通記
真
田町教育委員会/編
真
田町教育委員会 1982,
真
田氏時代における織豊系城郭上田城の再検討 倉澤正幸 信濃 3次67巻9号
真
田氏と南信 藤沢好古 信濃 /
真
田氏研究の基本史料・古記録
木曾山林学校
([本文])
真
本校新校舎全景/旧校舎/標本室 (注 このページの
写
真
は原本ビューワ3コマ参照) 初代松田校長,) 本校講堂/全校生徒 (注 このページの
写
真
は原本ビューワ5コマ参照) 苗圃/測量実習 (注, このページの
写
真
は原本ビューワ6コマ参照) 農業ノ実習/演習林/測樹実習 (注 このページの
写
真
,は原本ビューワ7コマ参照) 寄宿舎及苗圃/柔道部/標本 (注 このページの
写
真
は原本ビューワ8コマ,ノ状況/円盤投/砲丸投 (注 このページの
写
真
は原本ビューワ10コマ参照)
善光寺案内
([解説])
『善光寺案内』の特色の一つに、
写
真
が掲載されていることがあります。,いずれも明治時代の善光寺周辺を
写
した、貴重な
写
真
です。,中でも、「駒入橋ヨリ仁王門ヲ望ム」というキャプションの付いた
写
真
には、明治24年に焼失した仁王門が
写
っています,この
写
真
が明治24年以前に撮影されたことが分かります。,この
写
真
は明治33年版と39年版に掲載されていますが、45年版では他の
写
真
に置き換えられています。
地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の諸本)
真
田宝物館本 長野市松代町の
真
田宝物館が収蔵する
写
本です。,
真
田宝物館本と国立国会図書館本は共通点が多く、親子関係にあると思われます。 ,この
写
本を書
写
したのが芹田村荒木(長野市若里)の二川亭柳霞であることは、1―24の記述から分かります。,国立国会図書館本や
真
田宝物館本も、同様に原本を第7冊まで書
写
しています。,また
真
田宝物館本の絵とともに、独自の表現が多いようです。この2本は同系統です。
地震後世俗語之種
(『地震後世俗語之種』の諸本)
真
田宝物館本 長野市松代町の
真
田宝物館が収蔵する
写
本です。,
真
田宝物館本と国立国会図書館本は共通点が多く、親子関係にあると思われます。 ,この
写
本を書
写
したのが芹田村荒木(長野市若里)の二川亭柳霞であることは、1―24の記述から分かります。,国立国会図書館本や
真
田宝物館本も、同様に原本を第7冊まで書
写
しています。,また
真
田宝物館本の絵とともに、独自の表現が多いようです。この2本は同系統です。
パスファインダー
(蚕室造りの家と養蚕農家)
内容紹介 「蚕室―人の住まいに優先―」を、塩尻市桟敷の野村家気抜き屋根付 き土蔵造り蚕室の
写
真
,城下村・武石村、長和村、青木村の 内容紹介 蚕室づくりの家と製糸組合依田社の迎賓館だった依水館などを
写
真
入,、東御市、上田市街地の蚕 室づくりの家と信州大学繊維学部講堂および資料館などを
写
真
入りで 紹介。,なかでも清水金左衛門の項では彼が 考案した蚕室の設計図と現存していた(先ごろ取り壊した)
写
真
が載って,6分野中の「民家」の項に多数の農家の平面図・断面図・建物・
写
真
が 内容紹介 載っている。
信州善光寺御堂額之写
([現代訳])
信州善光寺御堂額之
写
/ 出来事を、目の当たりに見聞きしていない人々に伝えて、現世から来世にわたる仏恩を知らせたく思い、雛形として
写
したものです,雨は降りあたりは
真
の闇になって、川に流されそうに思われたので、2人が善光寺の方を伏し拝んだところ、何となく
松代まちあるきマップ
(20平林山本誓寺)
#160;20 平林山本誓寺 本誓寺(1) 本誓寺(2)
写
真
,平林山本誓寺(へいりんざん ほんせいじ) 宗派
真
宗大谷派 本尊 瀬踏阿弥陀如来 建保元年年,二十四輩の第十番で、室町時代には、
真
宗信濃三箇寺の一つとされた。,
真
蹟名号、石摺り名号(石に彫った名号、印刷し信徒に配った)をいまに伝える。,初代藩主
真
田信之の制札(禁制)、自画自賛の寿像、初代藩主
真
田信之が命名、八代藩主幸貫が墨書した寺号「
真
田園
松代まちあるきマップ
(48松操山典廏寺)
#160; 松操山典廏寺 典厩寺 典厩寺 典厩寺閻魔堂 典厩寺閻魔 典厩寺
写
真
,典廏信繁を尊敬する
真
田昌幸は、次男の名を信繁と命名。
真
田幸村がその人である。,
真
田家の武家寺であり、典厩信繁の墓の横の小さな墓は、同じ名の幸村(信繁)を秘かに弔ったとする小説もある,川中島合戦三〇〇年の万延元年(一八六〇)、
真
田幸貫の発願で閻魔堂を建立。,山門は
真
常院殿(三代藩主
真
田幸道)の霊屋の門を移した。
上田の早苗
([解説])
上田という地名を苗字とする中世上田氏についての検討から始まって、
真
田氏、上田城の築城ほかについて、伝承,この
写
本自体は、序文に見えるように大正2年(1913)に、やはり上田の人で「花月文庫」で知られる飯島茂経,(保作、花月)が筆
写
したものです。
松代まちあるきマップ
(44関谷山西楽寺)
#160;44 関谷山西楽寺 西楽寺 西楽寺本堂 西楽寺
真
田信重御霊屋,西楽寺
真
田信重御霊屋
写
真
をクリックすると、フルサイズの画像が表示されます。,村松氏が帰依し、天正二年(一五七四)に堂宇を建立、西楽寺と名付け中興。その後火災で焼失したが、松代藩
真
田家初代藩主
真
田信之,古風で洗練された匠の技を感じさせる。冬至には、夕日が霊屋の屋根の宝珠の
真
うしろに沈む。
松代まちあるきマップ
(45照光山乾徳寺)
#160; 45 照光山乾徳寺 乾徳寺
写
真
,上州沼田城主時代の
真
田信政が、改愚和尚を開山として二男信守の菩提を弔うため建てた寺が照光寺。,照光山乾徳寺とした。五代信安が茶湯料十石余を寄進、七代幸弘からの奉納も受け現在に至る。風流感得の人・
真
田勘解山家,の菩提寺で、信弘(乾徳院)の父・勘解由家系流の宝篋印塔、同家箏曲八橋流(市指定無形文化財)再興の祖・
真
田志,乾徳院(信弘)照光院(信守)天
眞
院(幸弘)慈眼院(幸弘生母)等の位牌も安置されている。
パスファインダー
(長野市の映画館)
映画、劇場、芝居小屋、活動
写
真
、シネコン、シネマコンプレックス、芸 能、権堂 1 書名 長野,URL 概要 1 記事 発行機関 年月日 2 記事 発行機関 年月日 長野市内映画館を
写
真
,活動
写
真
漫評 信濃毎日新聞社(データベース) 1897.7.10 ※長野市での活動
写
真
の初上映の作品
松代まちあるきマップ
(36杵渕山福徳寺)
36 杵渕山福徳寺 福徳寺 福徳寺護摩堂
写
真
,杵渕山福徳寺(きねぶちさん ふくとくじ) 宗派/
真
言宗 本尊/本尊/地蔵菩薩 永享二年杵渕村,その不動明王と大日如来を安置する護摩堂は三代藩主・
真
田幸道が建立。
松代まちあるきマップ
(42白鳥神社)
42 白鳥神社 白鳥神社入口 白鳥神社 白鳥神社神馬
写
真
,
真
田家が上田から松代へ移封の年=元和八年(一六二二)、
真
田信之が祈願所の開善寺を松代に移し、次いで寛永元年,伝承では
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田信之の駕籠の上に白い鳥が舞い降り、信之と共に松代に移りたいと訴えたという。,海野郷(東御市海野)の白鳥神社は、日本武尊の他、
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田宗家とされる滋野氏の祖、清和天皇の皇子貞元親王・貞保親王
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(丸岡秀子)
3 書名 著者名 出版社 出版年 ひとすじの道を生きる:
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集 丸岡秀子の仕事 丸岡秀子
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集編集委員会,/編 ドメス出版 2000.5.25 内容紹介 秀子の
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集で、
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から秀子の活動・交友などを
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(25旧前島家住宅)
#160;25 旧前島家住宅 旧前島家住宅 旧前島家住宅
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,旧前島家住宅 旧前島家住宅は、初代民部左衛門以来、上田・松代藩を通し代々
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田家に仕えている中級武士,慶長五年(一六〇〇)、
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田昌幸・幸村(信繁)父子が九度山蟄居の際、家臣十六名が昌幸に従って高野山に随行,作左衛門は、昌幸が没した慶長十六年に、
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田信之のもとに帰藩、その子孫が前島の家を継いだ。
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(39阿弥陀山東光寺)
#160; 39 阿弥陀山東光寺 東光寺 東光寺
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,阿弥陀山東光寺(あみださんとうこうじ) 宗派
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言宗 本尊 釈迦牟尼仏 尼巌山の麓にある,その昔は
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言宗で、龍華山密蔵院 東光山蓮(練)光寺と称し、等覚院・満蔵院などの脇坊もあった。
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(16矢澤家表門)
; 16 矢澤家表門 矢澤家表門
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,矢澤家は
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田家重代の筆頭家老を務めてきた家で、初代矢沢綱頼は昌幸の叔父。,沼田城を落とすなど昌幸の戦いを支えた、戦国
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田家の重鎮。
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(17松代藩鐘楼(まつしろはんしょうろう))
17 松代藩鐘楼(まつしろはんしょうろう) 鐘楼 鐘楼
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,井楼(せいろう)式高櫓形鐘楼で、元和八年(一六二二)年に松代藩
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田家初代藩主・
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田信之が設置。
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(28功徳山 願行寺)
#160; 28 功徳山 願行寺 願行寺 願行寺
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,神科伊勢山(現上田市)、
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田、上田表を経て、元和八年、
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田氏に従って松代に移ったという。
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(32芳谷山 梅翁院)
#160; 芳谷山 梅翁院 梅翁院 梅翁院右京の墓 梅翁院童謡歌碑
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,ほうこくざん ばいおういん) 宗派/曹洞宗、本尊/釈迦牟尼如来 寛永十九年(一六四二)、
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田信之側室,天蓋は、
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田家御霊屋から移したもの。本堂の右手に魚濫観音祈願殿。
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(田中芳男)
田中義信/著 田中芳男の胸像制作等を願う市民会議 2008.6.29 田中芳男の特徴あることを多くの
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,飯田市美術博物館の展示に合わせ、田中芳男の代表的な取り組みを 紹介するとともに、作成した図鑑などの
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,内容紹介 長野県立歴史館の展示に合わせ、田中芳男の取り組みとともに時代の 動きを多くの図・
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,貴重な資料群 ジャパンサーチ https://jpsearch.go.jp/ 「田中芳男」で検索すると
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(40無漏山実相院)
#160; 40 無漏山実相院 実相院 実相院
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,松代藩
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田家二代藩主信政は、上州沼田城藩主の時代から長巌和尚への帰依も篤く、同師から法名を貰う。
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(北国街道小諸宿)
塩川友衛 信毎書籍出版センター 1997.4 内容紹介 本陣の描かれた絵図や現存する建物の
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,など絵図や
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を多く使 い、宿場町の歴史を伝える。,信濃毎日新聞社 1981.4 内容紹介 北国街道の紹介で、小諸城三ノ門や本陣などのカラー
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(信州の山城を歩く)
内容紹介 城郭の中から、著者が信濃国の各地域を代表する60城を厳選し、縄張 図・鳥瞰図・断面図や多数の
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,
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や地形図、縄張図などの資料を付 して解説する。,ベスト50を歩く 河西克造/編 サンライズ出版 2013.4 青柳城、山家城、埴原城など50の山城を
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(43金剛樹山 開善寺)
43 金剛樹山 開善寺 開善寺 開善寺経蔵 開善寺経蔵
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,金剛樹山 開善寺(こんごうじゅざん かいぜんじ) 宗派/
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言宗智山派、本尊/地蔵菩薩 ,元和(げんな)八年(一六二二)、
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田信之の松代移封の際に、房山(上田市)にあった海善寺(海禅寺)を、松代
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