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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (岩下村)

雄鴻岳/地蔵嶺/傍部山/太郎山 川: 千曲川/神川瀬澤川 橋: 神川橋/瀬澤橋 道路: 北国往還
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

(たんばじま)で犀川を渡って水内郡の善光寺町(長野市)へ至る19里半(約180キロメートル)の道筋を北国往還,江戸時代の公式文書や記録類には北国往還と記され、これが正しい名称ですが、いまも沿道に残る石の道標などには
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (吉村)

/観音山 川: 隈取川 渡・堰: 田子池/古池/弁天池/新池 橋: 隈取橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (小玉村)

一里塚/牛首 川: 鳥居川/八蛇川 渡・堰: 小玉堰/用水堰/蛇ヶ谷/馬止め清水 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (中御所村)

九反/吉原/下河原 川: 裾花川/裾花の土堤 渡・堰: 漆田堰/宮川堰/計渇堰 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (妻科村)

/八幡堰/南八幡堰/古川堰/山王堰 橋: 鶴ヶ橋/華相橋/千代ヶ橋/吾妻橋/常磐橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (田子村)

湖子水堰/八幡平堰/馬浸堰/田子池/観音池/堤平池 橋: 深沢橋/地蔵橋/下湖沢橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (若里村)

計渇堰/土城堰/宮田堰/宮川堰/姫塚堰/糀屋堰/中堰/漆田堰/四ヶ郷堰 橋: 船橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (会田村)

田溝/前田溝/上川原溝/前川原溝/境ノ尾溝/中川原溝/輪知場溝 橋: 橋名なし/大橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (稲田村)

上蓑ヶ谷池 橋: 他力橋/砂田橋/中沢橋/中沢小橋/中の小橋/五郎橋/四郎橋/境橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (徳間村)

谷地池 橋: 今沢橋/大橋/寺田橋/中橋/追分橋/松葉橋/榎田橋/番場橋/三反田橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (坂木村)

その他特記ワード: 村上義清(むらかみよしきよ)/武田晴信(たけだはるのぶ)/陣屋(じんや)/北国往還駅
善光寺道名所図会 (○埴科郡坂木)

(注4)中之条村の中央、北国往還から30メートル程西に入ったところに、幕府の中之条代官所が置かれていました,(注1)善光寺方面から鼠村へ向かうと千曲川は北国往還の右側になります。
浅間山 (第二編 浅間山)

次に、浅間山の裾に並ぶ「浅間三宿」の軽井沢・沓掛・追分を北国往還の宿として紹介しています。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長野町)

大峯山 川: 湯福川 渡・堰: 鐘鋳堰/用水溜池 橋: 蓬莱橋/淀ヶ橋 道路: 北国往還
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (追分村)

: 神池ノ瀑布 渡・堰: 上堰/下堰/神ノ池(血ノ池) 橋: 昇進橋 道路: 中山道/北国往還
戸隠善光寺往来 ([翻刻])

   (改頁)      8   直に行は京街道木 曽道、左之方小諸江 出候得は、善光寺其 外北国往還也
戸隠善光寺往来 ([現代訳])

の麓の宿場で、まっすぐに行けば京街道・木曽街道で、右の方を小諸宿に出れば、善光寺そのほか北国に向かう北国往還
むしくら日記 (2巻 亨)

今以猶一丈程も水溜居候次第ニ而、損地等之儀は     (改頁)    中々凡之見極も不行届、北国往還丹波嶋宿辺, より千曲川・犀川落合之辺ハ一円之乱瀬ニ相成、  丹波嶋宿并北国往還川田宿・福嶋宿之三  宿前条之次第,、末々御収納御国益を失ひ、不容易儀、迚も御 救不被下置候而ハ何共可仕様無御座、且又右大地震 ニ而北国往還丹波島村渡船場
むしくら日記 (4巻 貞)

千曲川領内普請   所延長四万八百四拾三間余有之、莫太之普請所、   自力ニ及兼、就中丹波嶋宿之儀は北国往還筋,被下候由、五ヶ村ニ而ハ凡二千 石程も可有之様子之由、    中野御支配 地震潰村々多有之、中ニも北国往還牟礼,40    普請所延長四万八百四拾三間余有之莫太  之普請所自力ニ及兼、就中丹波嶋宿之儀は  北国往還筋
むしくら日記 (1巻 元)

  殊ニ村方ニ者出火も有之、其上山中筋山抜崩犀川へ押   埋、水湛、追々致充満、勿論流水一切無之、北国往還
宿継要書留 ([翻刻])

  (改頁)      84   一同国同郡苅谷原村・会田村・岡田村問  屋訴上候者、三ケ村共北国往還之馬継
宿継要書留 ([現代訳])

一同国同郡苅谷原村・会田村・岡田村問屋が訴えたのは、3か村とも北国往還の馬継場で、同様の高札はあり、御用
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

しかし、「横吹八丁」といわれた横吹山の山腹を通る山街道は、北国往還の非常な難所で、加賀の殿様も徒歩で通
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