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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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犀川を下る記 (3.千曲川通船)

3.千曲川通船 (1)通船の始まり  千曲川通船計画は、寛延2年(1749)水内郡権堂村瀬兵衛ら4,人が、坂木陣屋に千曲川・犀川の通船を願い出たのが最初でしが、福島・川田・丹波島・矢代各宿の反対で沙汰止,また、「天保12年(1841)善光寺町の厚連ら二人が通船10艘を用いることが許され、これが千曲川最大の,この会社は明治7年に千曲川犀川通船会社となり、飯山から上田までの区間を、魚・塩・肥料などの荷物や人を輸送,その後も千曲川を使って長野と新潟を船運で結ぶ計画が幾度かなされましたが実現に至りませんでした。   / 3.千曲川通船
パスファインダー (千曲川・犀川と水害)

資料リスト 雑誌 千曲川・犀川と水害 千曲川・犀川は人々の生活に密着した大河だが大きな,寛保2年 千曲川大洪水 戌の満水 千曲川の自然、荒れる千曲川 用 水と上下水道 渡船と通船 自然堤防と,2 書名 著者名 出版社 出版年 千曲川一世紀の流れ:明治26年測量図と今 千曲川・犀川治水史研究会,:千曲川第1期改修工事竣工50年記念 著者名 建設省北陸地方建設局千曲川工事事務所/編 出版社,千曲川・犀川の自然、荒れる千曲川、用水と上下水道、渡船と通船、自 然堤防と人、民俗、たたかいの / 千曲川・犀川と水害
パスファインダー (中山道千曲川往還橋)

中山道千曲川往還橋 トピック(テーマ) 中山道千曲川往還橋 ねらい 江戸時代,、中山道の塩名田宿と御馬寄村の間には千曲川往還橋 と呼ばれる橋が架けられていました(ごく一時期、船で渡,キーワード 中山道、塩名田宿、御馬寄村、千曲川、往還橋、中津橋、川越し、 船渡し 概要を知,第二部歴史編第四章第八節三の「千曲川往還橋と橋組合」で、千 曲川の利用、架橋方式の変化、保守、井形渡しの,(千曲川往還橋関係年表あり) 中山道筋千曲川 川越しものがたり 〔シリーズ「浅科村の歴史2」 〕 小林 / 中山道千曲川往還橋
朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) ([現代訳])

朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) / 后妃も船で開善寺へ避難した、開善寺滞 留中、満姫が病で亡くなった、誠に大きな変事とい える、その後千曲川,の川普請が行われ、寺尾村の西へ堀川を掘り、 千曲川本流から分水させた、そのため以後松代城は水難が無くなった,、この分水の 策は小隼人(原八郎五郎)一生涯の大きな功績といえる、〔昔は千曲川は城のケイシャ の前,れ、 柴村の裏へ流れていた〕分水の時は、城の構への川(外堀替りの川)へも水が多 くきた、神田川の千曲川合流箇所
朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) ([解説])

朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) / 藩では、松代城及び城下の水害を防ぐため、原八郎五郎の献策を受け、千曲川本瀬の流れを付け替える「瀬直し(,この漫録には題がないため、「千曲川の改修工事」と仮にタイトルをつけました。
パスファインダー (江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事)

江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための,ツール 資料リスト 雑誌 江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事 台風などの豪雨により,特に、令和元年1 0月12日の台風19号により、千曲川流域は大被害を受けた。,信濃の巨流 千曲川 建設省北陸地方建設局千曲川工事事務所 その他/編 財団法人河川情報センター 1993.2.24,千曲川・犀川 地名に見る 川と人の営み 国土交通省千曲川河川事務所/企画 国土交通省千曲川河川事務所 / 江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事
朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) ([翻刻])

朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) / 寺尾村の西へ堀川を穿 ち分水せし故其以後松城水難なし、此分水の 策小隼人生涯の大功といへり[昔は千曲川城
パスファインダー (延徳沖の水害と治水)

延徳沖の水害と治水 トピック(テーマ) 延徳沖の水害と治水 ねらい 千曲川,の東側に位置する延徳沖(小布施町・中野市)は、千曲川洪水の たびごとに水害にみまわれていた。,明治初期に上今井地籍千曲川瀬直 し工事を行ったものの根本的解決とはならず、その後も水害は続いた。,2 書名 著者名 出版社 出版年 中野市千曲川水系治水史 中野市千曲川水系治水史編纂委員会 ほおずき,資料リスト 1 書名 千曲川 一世紀の流れ 著者名 出版社 千曲川・犀川治水史研究会
犀川を下る記 (おわりに)

は既に姿を消し、現在、観光用として残っているのみですが、宿継ぎ駅や中馬の廃止、犀川通船、天竜川通船、千曲川通船,<参考文献> ※「信濃の青竜 犀川」(建設省北陸地方建設局千曲川工事事務所 平成6年) ※「信州新町史,下伊那史」第8巻(下伊那郡教育会 平成18年) ※「小布施町史」(小布施町史刊行会 昭和50年) ※「千曲川一世紀,の流れ-明治26年測量図と今」(千曲川・犀川治水史研究会 2003年) ※「飯山市誌」(飯山市誌編纂専門委員会, 平成7年) ※「千曲川のスケッチ」(島崎藤村 岩波書店 1943年)によった。
パスファインダー (信州の通船(川の道))

発達する以前、江戸時代後期から明治、大正時代 にかけて木材や各種物資、さらに人を大量に運ぶ手段として千曲川,千曲川 千曲川通船 松代藩川船 塩 運賃 犀川通船 天竜川通船 渡船 榑木流し  木曽川 尾張藩 木曽式伐木運材法,千曲川一世紀の流れ:明治26年測量図と今 千曲川・犀川治水史研究会/編 信濃毎日新聞社 2003.12,信濃の青竜 犀川:犀川上流直轄河川改修着手四十年記念 建設省北陸地方建設局千曲川工事事務所/編 建設省北陸地方建設局千曲川工事事務所,千曲川の通船 江口善次/著 信濃 1954.12 第3次6, 723-726 1/2 信州
割田家文書 ([解説])

史料1 史料2 史料3 史料4 史料5 [目録] 山田家資料館 寺島正友  上水内郡笠倉村は、千曲川,小高い山や丘陵が両側から迫って崖を成している所を、千曲川は蛇行して流れている。,そのため、上流で大雨になると流れを堰き止め、いっきに千曲川の水量が増すことになった。,家居は千曲川沿いに連なっており、田畑も千曲川近くのくぼ地に位置しているため、度重なる千曲川の水害に苦しめられてきた,千曲川から田畑までは二丈ほどの高低差があるので、合わせて三丈、一〇㍍ほど千曲川の水位が増したことになる
パスファインダー (市川谷の鮭漁)

市川谷の鮭漁 トピック(テーマ) ねらい 市川谷の鮭漁 かつて、信濃国では日本海へ流れでる千曲川,しかし、同じ千曲川水系であっても、その流域地形など の違いにより、魚猟方法は大きく異なっていた。,そこで、北信濃千曲川流 域に位置する市川谷の漁法などの様相について調べ、鮭漁が人々の生 活にどのように,2 書名 著者名 出版社 出版年 定本 千曲川 神津良子 郷土出版 2003.7.23 内容紹介,新聞 3 サイト名 特定非営利活動法人新潟水辺の会 鮭の遡る信濃川・千曲川の復活 URL
犀川を下る記 (はじめに)

宮下明彦  長野県は日本列島の中央高地を占め、高山に源を発する大河は「流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川,これらの河川は、日本海、太平洋へと注いでおり、江戸時代後期から明治期は犀川通船、天竜川通船、千曲川通船
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([解説])

また「シノ井川」(篠井川)沿いの「陰徳沖」(延徳沖)(中野市)も、千曲川から入り込んで濃い青が塗られています,岡田川が千曲川に合流する横田付近では、ややさかのぼった地点まで千曲川が氾濫しています。,激流は千曲川を越えて松代城下にまで達しました。,東方は川田・綿内(長野市若穂)から福島・相之島(須坂市)など千曲川右岸に浸水しましたが、やはり扇状地のため,これに対して「陰徳沖」(延徳沖)(中野市)は千曲川の旧流路の水田地帯で、深く浸水しました。
パスファインダー (「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害)

インターネット情報 「戌の満水」(寛保2年の洪水)による小諸の被害 いわゆる「戌の満水」によって千曲川流域,戌の満水 寛保2年 洪水 8月1日(八朔) 千曲川 小諸 松井川 中沢川 本町 六供 田町 浅間山麓,1 書名 寛保2年の千曲川大洪水「戌の満水」を歩く 著者名 出版社 出版年 信濃毎日新聞社出版局,/編 信濃毎日新聞社 2002.8 国土交通省千曲川工事事務所が長野県立歴史館と共催で取り組んだ,内容紹介 千曲川の見直しの一つとして「寛保の洪水」を取り上げ、流域の被災地 を訪ねて全容
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([現代訳])

[現代訳] 八月一日に雨が降り出して千曲川が急に満水し、日暮れには押切の土橋に達した。,しかし、千曲川の水は思いのほか水位が上昇して、村々に押し入った。 ,上流では流されて死んだ人が何人いるのか、四、五日の間は毎日五人、十人と数知れないほど千曲川を流れてきた,牛出は千曲川端に村があったが、大水で家が流されたりしたので、今の場所に移った。  
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (跡部村)

p2738に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 子ノ神/下町屋/上町屋/町屋先 川: 千曲川,/用水溝/千曲川川除 道路: 松本より上野国富岡への通路 社: 諏訪社/熊野社/伊勢社/八幡社
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (島河原村)

/洲崎/屋敷/道祖神/中堀/舟窪/小フケ/三角/宮脇/天白/市坂/鷹ノ巣/日向山/御牧原 川: 千曲川,/鹿曲(かくま)川/小相沢川/東村石堤 橋: 千曲川橋/小相沢川橋 道路: 北国道より中仙道への
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (黒彦村)

p1449に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 古屋敷/荒屋/黒彦川原/中村/町尻 川: 千曲川,生糸/斜子 その他特記ワード: 允恭(いんぎょう)天皇/黒彦王/白彦王/若宮/須坂/千本柳/黒彦/千曲川洪水
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([現代訳])

現代訳] 恐れながら願書をもってご訴訟申し上げます 一、当八月一日の夜中から二日の朝まで大満水で、千曲川,押しぬかれ、石砂が押し込み、家財・雑物は残らず押し流され、食べ物は全くなく、これまでの当村の住宅地は千曲川,そのような交通の要衝ですが、右に申し上げたように四つの川の川端なので、千曲川の洪水の節は、当村の住宅地,そこで千曲川岸の、南は大石川のところから、北は中畑村境まで、残らず堤防工事をお願いしたい。
寛保二戌年水害御届書 ([翻刻])

 先達申上候通、私在所信州  松代従去月廿七日雨降続同  廿九日夜中大風雨當朔日従  未之刻千曲川,・犀川其外川々  満水千曲川定水ニ二丈五尺余  増水仕、城内并侍屋鋪・町家  損失之覚 一、本丸二丸三丸并居宅床上三尺
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([解説])

延徳沖は、千曲川の自然堤防の背後にある氾濫原(後背湿地)であり、中野(夜間瀬川)扇状地と小布施(松川),延徳沖の西側を流れる千曲川へは、犀川をはじめとする長野盆地の水が大量に集まってくる。,そのため、いったん増水した千曲川の流水が篠井川を逆流すると、延徳沖一帯は水没した。,そのため、川西の長沼等が主張する通り、延徳沖は千曲川水害を最小限にくい止めるための、遊水池の役目を果たしていた,寛保二年には、五月に千曲川満水があり麦作がすべて泥腐りしてしまった。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (布下村)

/宮裏下/道祖神/氷沢/原畑/巻淵/岩下/丈子原/水出/十二川原/馬飼原/高岩下/布岩下 川: 千曲川,渡・堰: 十二川原堰 橋: 千曲川橋 道路: 川西より小諸道 社: 諏訪社/天照皇子大神
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (向八幡村)

/村西/乙中村/前久保/堰尻/小瀧/剣崎/下土合/上土合/土手内/小中島/大川端/巳新田 川: 千曲川,川除堤防一ノ堤/二ノ堤/三ノ堤/四ノ堤/五ノ堤/六ノ堤 渡・堰: 用水堰/六ケ村堰/溜池 橋: 千曲川船橋
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (栗林村)

(おおいけひら)/鰻沢(うなぎさわ)/川原(かはら) 山: 鰻沢山(うなぎさわやま) 川: 千曲川,: 農(のう)/ネコ 民業女: 農桑(のうそう)/木綿布(もめんふ) その他特記ワード: 千曲川瀬直工事
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (東寺尾村)

屋敷/城下/扇平/金井平/権現堂裏 山: 城山/鳥打峠/金井山 川: 関谷川/藤沢川/蛭川/千曲川,/千曲川堤防 橋: 大橋 道路: 鳥打峠 社: 八幡社/富士浅間社/愛宕社/秋葉社/天神社
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (梓山村)

むかうのたいらやま)/横川山/下ノ小路山/梓原山/坂ノ上山/堀山/金平山/檜小屋山/戦場ケ原山 川: 千曲川,/梓川/千曲川除/梓川堤防/梓川川除 道路: 武州道 社: 金峯山神社 寺: 泉龍寺 古跡
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (蓮村)

滝原/五里/立道/南善寺/堀越/大柳/沓掛(くつかけ)/落尻/焼畑 山: 城山/宝蔵山 川: 千曲川,/宮沢川/上川原堤/上河原川除 渡・堰: 用水堰/向平溜池 橋: 千曲川舟橋/宮沢橋/駒立橋
善光寺道名所図会 (○小県郡田中)

右に流れる千曲川のむこうに、布引観音が見えます。左は浅間山のふもとになります。  ,(注1)東御市本海野北屋敷の白鳥神社は、千曲川の北岸、海野宿の東の入り口にあります。,ここに記された白鳥川原は、白鳥神社前の千曲川原であると推定されています。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (下中込村)

新町/橋場/佐太夫町/三ツ家/三ツ石/前林/権現堂/石神/杉ノ木/原/深堀/辰之口/樋村 川: 千曲川,/滑津川/田子川/千曲川堤 渡・堰: 深堀用水堰/大用水/棒堰用水 橋: 滑津橋/権現堂橋/石神橋
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

上田地域では被害が続出し、千曲川の満水は以後もしばらく続きます。,千曲川左岸の小牧村にある瀧澤助右衛門(問屋日記を書いた人)の田畑は冠水し土砂も多少流れ込んだのでしょう,下塩尻村地区は千曲川下流坂城町との境、大日向以下は真田地域です。,・千曲川東の松代地域は大きな被害を受けたのですが、松代領ですからその状況はくわしく書かれていません。,・千曲川筋で流死した人々の遺体は秋和村の正福寺へ埋葬するよう、上田藩主が申しつけました。
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([翻刻])

] 1      乍恐願書を以御訴詔申上候御事 一当八月朔日之夜中より二日之朝迄大満水ニ而、千曲川,御巡見様御通被遊候節ハ御  宿茂被 仰付候儀ニ御座候、人馬附送仕所ニ右申上候通り  四ケ所之川端ニ而、  千曲川出水之節,八百両余並御人足三千人余被 下置丈夫ニ御普請  被 仰付、 御慈悲を以只今迄村居相立罷有候所ニ、  此度之満水ニ而村東ハ千曲川
浅間山 (第五編 浅間山の地質及び岩石)

北東には榛名山・赤城山、東南には妙義山・荒船山及び秩父の山々、南には八ヶ岳・蓼科山が連なり、佐久平を千曲川,第三紀層や第四紀層が千曲川流域に見られると記しています。  
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (塩名田村)

/広ケ町/上町田/町田/原/入道/船久保/上川原/野岸/新町/赤坂/洞口/居屋敷/下川原 川: 千曲川,上川原石積川除/川端石積川除/屋敷囲石積川除 渡・堰: 用水堰(湯川を分派)/常木用水 橋: 千曲川舟橋
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (高野町村)

榎田/宮ノ本/雁明/吹上/小山/抜井/北沢/奥日影/日影/三本木/城ノ後 山: 八ヶ嶽 川: 千曲川,/北沢川/抜井川/千曲川除堤 渡・堰: 前堰/立会堰/抜井堰/外川原堰/小山堰/日影堰/北沢堰/宮裏堰
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([翻刻])

六七尺迄押ほり申候、二日夜明方ニハ松川之  水ハ所々へ押出し候故、水勢よハくなり申候、  左候へ共千曲川水以之外,ほどの水ニ候、扨又上ミ  ハ佐久郡所々川々小諸上田辺、小懸郡埴科郡  更科(ママ)郡川々不残満水、千曲川下,四五日之内まいにち     (改頁)      65    五人十人つゝ千曲川, 東山きハへ五六軒出、是も其時之事、草間村  宮坂之上へに三四軒、是も其時より、牛出村是者  千曲川,改頁)    日用を送り飢人御救ニ罷成候間、何分ニも  高役人足御赦免奉願上候、尚又千曲川
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (網掛村)

山: 三水城山/上手山/五狭山/狐落山/前山/□櫛山/三頭山/下入山/上入山/鳩峯山 川: 千曲川,/福沢川/住居耕地囲い千曲川除堤/不動瀑布 渡・堰: 網掛堰/薬師前ノ池/芟塚ノ池/岡村ノ池/町浦
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (御馬寄村)

ハマイ場/白土/川端/田中島/菱池沢/宮田/三反田/袖ノ田/土手/起シ/的場/上木戸/流鏑馬 川: 千曲川,石突(いしづき)川/倉瀬石堤/十二川原石堤 渡・堰: 用水五本木堰/荻窪大池/菖蒲池 橋: 千曲川船橋
寛保二戌年水害御届書 ([現代訳])

在所・信州 松代は、7月27日より雨降りとなり、 29日夜には大風雨、8月1日午後2時頃から 千曲川,千曲川は定水より約7m57cm 増水し、松代城内並びに侍屋敷、町家に以下のような 被害が出しましたので
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (押羽村)

いしはら)/柳原(やなぎはら)/水窪(みずくぼ)/新曳向(しんひきむえ)/芦原(あしはら) 川: 千曲川,(ちくまがわ)/千曲川除堤(ちくまかわよけつつみ) 道路: 須坂町に達する道路(すざかまちにたっするどうろ
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

一 千曲川東の松代も被害を受け洪水になりました。,一 千曲川筋からの流死者は秋和の正福寺へ無縁塚を建てて埋葬するよう、上田藩主様がお指図しました。  
小諸洪水流失改帳 ([解説])

[解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,小諸町は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,町へは浅間山麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。,これは、小諸町を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
寛保二年大洪水余禄 ([解説])

[解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,小諸町は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,町へは浅間山麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。,これは、小諸町を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
小諸大変書 ([解説])

[解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,小諸町は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,町へは浅間山麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。,これは、小諸町を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
寛保二年小諸大洪水変地絵図(1) ([解説])

[解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,小諸町は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,町へは浅間山麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。,これは、小諸町を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2) ([解説])

[解説] [目録] 小諸市古文書調査室 斉藤洋一  千曲川流域において、一地域単位で「戌の満水」,小諸町は浅間山の南西側の山麓に位置した城下町で、山麓を下りきったところを千曲川が東南から北西方向へ流れている,町が小諸城より高い位置にあり、城から急坂や断崖を下ると、そこが千曲川になる。,町へは浅間山麓から蛇堀川・松井川(東沢川とも呼ばれている)・中沢川などが注ぎ、千曲川へ流れ込んでいる。,これは、小諸町を流れ下った土石流が千曲川へ流れ込んだ様子を描いた絵図で、これによって対岸の「かざはや」
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (滋野村)

大庭脇/クネ添/大ノ田 山: 横笹山/東籠ノ登山/西籠ノ登山/所澤峯/三方ケ峯/台ケ池山 川: 千曲川,/深沢川/大石澤/奈良原澤 渡・堰: 深澤堰/道端池/驛場池/上平池/アマ池 橋: 千曲川橋/
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (常盤村)

/鋤柄/碇/道添/大窪/土夫/長峰越/山添/北山根/長嶺/今沢/小梅/窪 山: 長嶺 川: 千曲川,飯山入道氏重/上倉重安/権兵衛林/北小丸林/家裏林/南小丸林/大塚家裏林/新田家裏林/北林/長嶺芝野/千曲川岸葭野
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (高柳村)

2巻 p2727に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 金山/前堀/大柳 川: 千曲川
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (鍛冶屋村)

かじやむら 『長野県町村誌』 2巻 p2732に掲載 該当ページを見る キーワード 川: 千曲川
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