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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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木曾山林学校 (21.卒業生一般)

21.卒業生一般 50 出身地  本校創立以来卒業生を出せし事8回、其総数230名、之が出身地別大要,りては西筑摩を最高とし更級(さらしな)、上水内(かみみのち)、下伊那等之に次ぎ、2市16郡即ち全郡各々卒業生,故に其卒業生の郷土に留まりて既修の学芸に関係ある業務に従事すると否とは問はず。,1 出身地及人数  卒業生出身地別人数及他府県人百分率を示せば左表の如し (注 「卒業生出身地別人数及他府県人百分率,卒業生就業状態及待遇を上ぐれば次の如し (注 「卒業生就業状態及待遇」の表は原本ビューワ52コマを参照 / 21.卒業生一般
木曾山林学校 (26.卒業生一覧)

26.卒業生一覧 58 (注 以下第1回から第8回卒業生の表は個人情報保護のため掲載を控えた) / 26.卒業生一覧
木曾山林学校 (卒業生に望む)

卒業生に望む 12           西 澤 静 人(注4)  既に諸君の知らるゝが如く、我長野県木曾山林学校,は、正に創立満20週年、卒業生を出すこと18回、総員617名を数ふるに至れり。,此の時に当り我が校卒業生600余名は、南は南洋・台湾より北は樺太(からふと:現サハリン)に至る各地に拡,さて最愛なる卒業生諸君よ、母校の20週年記念の永年祝賀を表すると共に、内に標本・図書・機械等の設備を完 / 卒業生に望む
長野師範学校は初めて学年・学期を定め、開業式・卒業式を挙行 (長野師範学校卒業証書授与式)

第六 卒業生長野小学生徒ヲ率テ講堂ニ    入ル。此時進行曲ヲ奏ス。,第八 卒業生田村豊穂、脩身ヲ教授ス。 第九 卒業生青柳由平、読方ヲ教授ス。,第十一 卒業生永井総吉、唱歌ヲ教授ス。 第十二 卒業生山本繁治、小林辰之助、体操ヲ教授ス。,第十五 教諭塩谷吟策演述 第十六 卒業生総代小野彪治郎(ひょうじろう)答辞ヲ朗    読ス。,第十七 卒業生総代青木仙松謝辞ヲ述フ。 第十八 大野県令祝辞ヲ述ブ。
木曾山林学校 ([解説])

冒頭第5代校長岡部喜平は、各地に赴いた600名を超える卒業生の活躍で当校が全国に知られ、学校が林学科だけで,また月刊『岐蘇林友』は卒業生が多くなったため、校内負担が過重になる一方、卒業生からの負担金は集まらず、
木曾山林学校 ([本文])

      2      目  次     【第144号】 創立20周年所感        岡部喜平 卒業生,設備.    1、用地    2、建物    3、教授用備品  (4)経済  (5)在校生及卒業生,   6、在学者入費調    7、在学生一人当経費調    8、在校生出身地調    9、卒業生出身地調, (6)職員名簿    1、旧職員一覧    2、表現職員一覧  (7)卒業生名簿  (8
木曾山林学校 (◎証書授与式)

郡参事会員・郵便電信局長・役場員及び生徒父兄・同保証人等にして、松田校長より学事報告及び、生徒父兄及び修業・卒業生徒,授与せられ、手塚教諭より生徒一同に対して勉強の必要を訓示せられ、郡視学・郡参事会員等の祝辞演説に次ぎ、卒業生総代
木曾山林学校 (創立20周年を迎へて所感を述ぶ)

然るに幸にも健全に生長して、明治39年には県立となり、其後益々発展して既に600有余の卒業生を出し、此等,の卒業生が帝国領土内到る所で盛んに活動せる結果、木曾山林の名は世に知れ渡り、今日では百名内外の生徒を募集,我校が盛大となるにつれ、他県から入学する者が年一年と増加し、それに卒業生は長野県に止まらずして、全国の,それで卒業生諸君に御願ひ致した所、満腔の愛校心を発露せられ、記念事業を企てゝ下すつたことは感謝に堪へざる
木曾山林学校 ([解説])

この月刊化はその後大正12年4月まで確実に行われ、全国各地のみならず朝鮮、台湾などに赴任した卒業生たちへも,なお19号の内容は意欲的な教師たちによる原書からの翻訳、林業関係の先端記事、卒業生の任地からの報告及び
木曾山林学校 (学校要覧)

昭憲皇太后御真影を奉戴す 〇同年12月24日徴兵令第13条及文官任用令第3条に依り徴兵猶予1年、志願及卒業生無試験,円宛郡立中交付せらるゝことゝなれり 〇同年10月18日校友会報第1号を発刊す 〇同37年3月第1回卒業生,ビューワ32コマ参照)     (改頁)      33    (五)在校生及卒業生,これについての表は原本ビューワ34コマ参照)     (改頁)   9、卒業生出身地調,(注 これについては第1回~第18回までの卒業生名簿があるが個人情報保護のため掲載を控えた) &
木曾山林学校 (紀念号へ)

山林学校たるの実を具ふるに至りたるは誠に慶賀に堪へざる所にて、在学生の已(すで)に全国的なるは勿論、其卒業生
木曾山林学校 (過去20年より将来の20年へ)

次而(ついで)、之が甲種に変更せられて第1回卒業生の諸君が遠くは九州より島根より続々蝟集(いしゅう:多,吾人は兎に角(とにかく)人並の域に漕附(こぎつけ)て頻々(ひんぴん:しきりに)として輩出する専門諸学校卒業生,専門学校の相続で増加し卒業生は以前余輩等の我校を出てた当時の何十倍にか達する今日、更に今後20年後に於,ける状態を考ふる時、今日卒業生話君の苦心艱難(かんなん:苦しみなやむこと)に想像に難からざる所である。
木曾山林学校 ([解説])

また校長を会長とした校友会が組織され、生徒・職員のみならず林業界や地元関係者も会員となり、さらに卒業生
木曾山林学校 (4.中等程度の林業教育の現状)

試に43年12月末現在、各種程度の学校卒業人員を見るに林学士230余名、高等専門程度の卒業生約500名,、更に甲種程度林学専修科卒業生717名、合計1,447名に達す。,従て卒業生の総数717名中、1校100名以上を算する者奈良・大分の2校(注4-3)にして、200名以上,干与(かんよ:関係する)せる官吏の数は約5千名、之を叙上(じょじょう:上に述べたこと)各種程度の学校卒業生総数,彼の澳国(オーストリア)に於ける各種森林に対する森林保護吏の80%が同国中等程度以下の森林学校卒業生なるに
パスファインダー (与良熊太郎)

信濃教育会出版部 1986.10.20 長野県が教育県といわれてきた要因の一つに長野師範学校の存在 とその卒業生,その卒業生の一人である与良熊太郎に ついて知ることができる。
パスファインダー (1944年東南海地震と長野県)

3 書名 若き日の記録 著者名 長野県飯田中学校第46回卒業生の会 出版社 長野県飯田中学校第,46回卒業生の会 出版年 1985 内容紹介 三菱名古屋航空機製作所道徳工場で飯田中学
木曾山林学校 (6.本校の沿革)

御真影を拝載す ○同 34年12月24日徴兵令第13条及文官任用令第3条により徴兵猶予1年、志願兵及卒業生無試験
木曾山林学校 (20.在学生状況一般)

同一状態にあり、又生徒の戸主或は長男の数、僅かに全員の3割3分にして、実業学校として比較的下位にあるは、卒業生一般,如し (注 「在学生の内戸主及長男の割合」の表は原本ビューワ50コマを参照)) 4 年齢  今、卒業生
分県之建白 (県歌「信濃の国」)

同校の卒業生たちは教壇に立つと「信濃の国」を教え、たちまち全県に普及していきました。
木曾山林学校 (24.木曾山林学校々友会々則)

第4条 本会の為め特に功労ありしものを推挙して名誉会員とす 第5条 本校現職員及び旧職員並に本校卒業生,     第六章  会計 第17条 通常会員及び本校在職中の特別会員は会費として1ヶ月金20銭、本校卒業生
木曾山林学校 (5.中等程度森林教育の方針)

而して其効果に関しては後章卒業生の項に述ぶるが如し。,換言すれば業を卒(お)へたる者は何れの地方に去りて如何なる職務に従事するも措(お)いて問はず、唯卒業生,故に卒業後は官庁其他に奉職して1、2年にして直ちに責任ある森林業務に従事するも、専門学校程度以上の卒業生,第四説  修業年限も3ヶ年にして、且入学並に卒業生徒は現況より推究(すいきゅう:おしきわめる)して、澳国,而して甲種程度林学料卒業生として自家所有林を経済的に管理経営をなさんとせば、労力の繁閑、事業の難易等により
木曾山林学校 (廿周年記念号の終に)

其意を稟(う)けて在校諸子此処に祝意を表し、卒業生諸君各地に其誠意を披瀝し、投稿各処より到る。
木曾山林学校 ([本文])

………………89 20.在学生状況一般……………………………………………………………91 21.卒業生一般,……………106 25.生徒父兄ニ望ム…………………………………………………………108 26.卒業生一覧
「長野県下ノ小学教員二告ル文」 ([解説])

続いて二月に後期が終了のため、卒業証書授与式を実施し、最初の卒業生を小学教育の場へ送り出した。  ,当時自由民権運動の高まりのなかで、長野県師範学校松本支校の十五年十月までの卒業生のうち四四パーセントが
長野師範学校は初めて学年・学期を定め、開業式・卒業式を挙行 ([解説])

続いて二月に後期が終了のため、卒業証書授与式を実施し、最初の卒業生を小学教育の場へ送り出した。  ,当時自由民権運動の高まりのなかで、長野県師範学校松本支校の十五年十月までの卒業生のうち四四パーセントが
木曾山林学校 (◎長野県西筑摩郡立甲種木曾山林学校学則)

#160; て各其科へ入学を許す         但し入学志願者、募集人員に超過するときは本校予科卒業生,したるもの、並に本科第3学年を卒業したるものには左式の証書を附与す         卒 業 証 書 (予科卒業生,             長野県西筑摩郡立甲種木曾山林学校         番号         卒 業 証 書 (本科卒業生
木曾山林学校 ([注記])

すでに《解説》で紹介したとおり、卒業生まで巻き込んだ校友会の刷新更張を提唱し、自らそのリーダーとして力強,  (注41)西野入徳:明治40年3月・第4回卒業の卒業生の文章である。,初代松田校長、2代江畑校長など歴代校長をはじめ、何人かの教諭は農科大学林学科の卒業生であった。
木曾山林学校 (◎林業の方面より観察したる森林教育)

実業学校は官吏養成所に非(あら)らずしては、実業家を養成する所たることは勿論なれども、実業学校の卒業生,森林学校の卒業生が官林業に従事する能力なき時は、不具(ふぐ:不備、そなわらない)の実業家である。,地方経済で設立されたる学校の卒業生は進んで     (改頁)      5  ,; 地方森林業に従事すべき職責あると共に、地方に於ても此種の学校の卒業生を利用せねばならぬ。,学校の卒業生は世の所謂(いわゆる)実業家に及ばないとか、或は学理と実地とが一致しないとかの僻論(へきろん
『小諸義塾と木村熊二先生』 ([解説])

木村毅らによる木村に関する「寄稿」、義塾の歴史や規則・考課簿・職員名簿・門弟名簿などの「塾誌」、元教師や卒業生
パスファインダー (小諸義塾の設立とその後)

小諸義塾と木村熊二先生 小山周次/編 大空社 1996.1 小諸義塾の卒業生がまとめた小諸義塾と
パスファインダー (今村力三郎)

/編集 出版社 専修大学出版局 出版年 2017年3月 人権派弁護士として活躍し、卒業生
木曾山林学校 (柔道の真価)

私が来てから卒業生を4回送りましたが、其内一級2名、二級8名、三級10名、四級五級50名を出しました。
木曾山林学校 (13.修学旅行)

之れ教育の効果をして実際に適合せしめ、軈(やが)て卒業生をして社会に出でゝ後、健闘の準備を与ふる所以(
木曾山林学校 (校友会の起源と岐蘇林友の発達)

幸(さいわい)校長外教官諸氏の豊富なる学識と研究とが毎号発表せられ、卒業生並に在学生諸君の着実なる研究,43年10月吾校創立10周年、其の間多少の変遷あるも、校基益々確く、県立となって、5年目、卒業生を出すこと
木曾山林学校 ([注記])

しかし同校は開校4年で駒場農学校と統合されて東京農林学校となったので、卒業生(13名)を1回出しただけである,江崎はその数少ない卒業生の1人である。
松本繁昌記 上・下 (2人の編輯人)

大正15年7月に郷里松本に帰り、大岩家で自適の生活を送りますが、洌のもとを訪ねる卒業生はあとをたたなかったといいます
木曾山林学校 (◎図書審査官農学士針塚長太郎氏演説)

現在、我全国に於て中学校の数は200校、生徒の数は6万余人、卒業生3,000人許(ばか)り、其他は半途退学
木曾山林学校 (8.長野県立甲種木曾山林学校学則)

  月  日               長野県立甲種木曾山林学校 (割 印) 番号    (卒業生
木曾山林学校 ([注記])

また蘆花は木曾山林学校の卒業生とも関係があり、特に太田喜代松(4回卒)の書いた小説『仮寓』の原稿を読んで
木曾山林学校 (木材の欠乏を憂ふ)

不肖(ふしょう:自分のことを言う謙譲語)明治40年第4回卒業生の一員として今日此の光栄に浴す。
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