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(善光寺参詣と善光寺道)
善光寺
参詣
と善光寺道について トピック(テーマ) ねらい 善光寺
参詣
と善光寺道 岡山県津山市,中 世、近世には全国から善光寺
参詣
の善光寺道が通じていた。善光寺道 について知る。,続群書類従完成会/編 続群書類従完成会 1928年 宴曲集 善光寺修行(しゅぎょう)は善光寺
参詣
,出版社 出版年 新更科紀行 田中欣一/著 信濃毎日新聞社 2008年 1/3 善光寺
参詣
,発行機関 信濃毎日新聞社(データベース) 年月日 2018.6.6 2/3 善光寺
参詣
/ 善光寺
参詣
と善光寺道
戸隠善光寺往来
(『戸隠善光寺往来』と女性)
『戸隠善光寺往来』と女性 『戸隠善光寺往来』は、長年善光寺に
参詣
したいと願っていた母親を連れて善光寺,に
参詣
することになった人に、かつて戸隠に
参詣
した人が、参考にと紀行文を寄せるという、書簡の形式になっています,長年善光寺に
参詣
することを願いながらも果たせず、晩年を迎える女性は少なくなかったのです。,そうした母の悲願をかなえようと、老母を伴って善光寺に
参詣
する「孝行息子」も、また少なくありませんでした,の日記によれば、宣長の母勝(当時58歳)は、宝暦12年(1762)閏4月、親類縁者ら11人で善光寺に
参詣
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(女流の信仰物語、善光寺への女旅日記)
遊女千手(せんじゅ)前 虎御前の
参詣
熊谷蓮生坊と玉鶴姫 東路日 記 小田宅子 沓掛なか子 佐藤兄弟母供養塔, 平家物語 善光寺縁 起 二条の善光寺
参詣
1 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺史研究,小林計一郎/著 信濃毎日新聞社 2000.5 内容紹介 「遊女千手(せんじゅ)前の哀切なる
参詣
伝説,」「虎御前の
参詣
」「熊谷蓮 生坊と玉鶴姫」 等、善光寺
参詣
と女人信仰の話が載っている。,1 論題名 善光寺と女性
参詣
―長野市箱清水― 著者名 小林計一郎 雑誌名 社会と伝承 巻号頁数 6巻3
戸隠善光寺往来
(十返舎一九と信濃)
文化11年(1814)には、木曽から松本に入り、穂高、大町、新町、稲荷山を通って善光寺に
参詣
し、越後へ,文政元年(1818)には、越後から善光寺に
参詣
し、大笹街道を通って草津温泉に抜けました。,また、甲州から諏訪、松本を経て善光寺に
参詣
する『金草鞋(かねのわらじ)』第13編(文政3年)も生まれました,善光寺参りの文学は、『続膝栗毛』と『金草鞋』がありますが、どちらも江戸から中山道、北国街道を経て善光寺に
参詣
,『戸隠善光寺往来』は、一九が初めて江戸住人のために書いた善光寺
参詣
案内です。
戸隠善光寺往来
(往来物)
その中に、寺社の
参詣
案内書の体裁をとった一連の往来物があります。 ,江戸では雑司ヶ谷(鬼子母神)詣で、堀之内祖師(妙法寺)詣でなどの流行によって、それらの
参詣
案内の往来物,こうした流れの中で、遠方の寺社への
参詣
案内の往来物も登場しました。
戸隠善光寺往来
(一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置)
江戸を出た弥次郎兵衛と喜多八の2人は、伊勢神宮に
参詣
し、四国の金毘羅から安芸(あき)の宮島まで足を延ばし,、帰りに木曽路を通って善光寺に
参詣
し、ようやく江戸に帰着しました。,2人の旅は伊勢
参詣
に始まり、善光寺
参詣
に終わったと言ってよいでしょう。
信州善光寺御堂額之写
([現代訳])
信州善光寺のご本尊は、ありがたくも三国伝来の尊像でいらっしゃるので、全国津々浦々より老若男女が足を運び
参詣
,2人が不思議に思っていたところ、山門の内で女房が姿を現し、夫から子供を受け取って、善光寺如来の御前に
参詣
,(絵)「尾州田中村与右衛門」 尾州田中村与右衛門が、4人連れで善光寺へ
参詣
して、帰る途中、木曽の,しておりましたが、今年は病気になって家業も忙しくなり、
参詣
することができませんでした。,そのため、またまたこのたび
参詣
いたしましたところ、ご来迎を拝見いたしました。
戸隠善光寺往来
([現代訳])
私は先年、戸隠山
参詣
の折、道のあらましを紀行文に書き留めましたので、ご参考として差し上げます。 ,堂塔の立派なことは比べるものがなく、天下無双の霊場であり、
参詣
者はみな深く信仰して、信心を怠ることがない,前夜宿泊した
参詣
者が堂内に充満して、潮の湧くように念仏を唱え、どんな無知下劣な人でも感涙を催さない者はないだろうと,私はそれから戸隠に
参詣
したいという願いがあって、荒町、牟礼、柏原を通ってまっすぐ行く道は北国街道なので
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(善光寺の御開帳・出開帳)
・出開帳 ねらい キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 平成27年の御開帳
参詣
者,1 書名 著者名 出版社 出版年 御開帳 御回向 出開帳 三都開帳
参詣
人 善光寺 回向院 篠,半日閑話」で、「今日より両国回向院において信 内容紹介 州善光寺如来開帳、一国の人狂せしが如く
参詣
群集
善光寺独案内
(『善光寺独案内』に収録された伝説)
死者は死の直後、いったん信州善光寺に
参詣
するという観念が全国的にあります。,その場合、死者の枕元に供える枕飯は、死者が善光寺に
参詣
するための弁当だと言われます。
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
上方のほうから善光寺へ
参詣
する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい,、甲州(山梨県)の元善光寺へ
参詣
し、そこから塩尻宿へ出て、この道へ来ています(塩尻からここまで2里)。
戸隠善光寺往来
(『戸隠善光寺往来』の内容)
善光寺町の繁栄は、道中のどの宿場や城下にも見られなかった特別なもので、長旅をして善光寺にたどりついた
参詣
者
戸隠善光寺往来
([翻刻])
僕 先年戸隠山
参詣
之砌、道路之荒増記 行ニ留置候間、為御心 (改頁) ,僕自後戸隠へ
参詣
之志願候而、荒町、 牟礼井を打過、従柏原 (改頁) 直道は
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(十返舎一九の『続膝栗毛』)
安芸宮島を
参詣
した後、草津から中山道に入り、木曽路 を通り洗馬から善光寺街道に入り、草津、高崎を経て江戸,江戸期の戯作者十返舎一九(1765~1831)が、母の多年の心願に応え て、先年信州善光寺・戸隠
参詣
,三国一の善光寺の由来を尋ねて、さらに戸隠
参詣
を志す。新町・牟礼・柏原宿から左に折れて戸隠を目指す。
諸国道中商人鑑
(2 『中山道道中商人鑑』の成立)
中山道道中商人鑑』の成立 文化文政期は江戸・大坂などの都市の繁栄、商人や文人の全国的な交流、出版教育の普及、寺社
参詣
,「序辞」には文政八年乙酉冬とあり、中山道木曽路と東海道からはじめて、次第に東国・北国・神仏
参詣
の道まで
戸隠善光寺往来
(口絵)
この位置に口絵があるのは、
参詣
案内の往来物には一般的なことです。
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
西国四国信州不残、寛 保二壬戌天八月廿二日平林氏と〓す、 平林氏は俗称善五右衛門といふ、百姓にて、所々
参詣
善光寺独案内
(『善光寺独案内』の広告)
実際に、病気平癒を祈願するために善光寺に
参詣
する人は少なくなかったのです。
木曾山林学校
(吾等が天職)
御爺さんにつれられて約20丁ばかり隔だって居るあの鎮守の森の八幡宮に
参詣
に行った。
信州善光寺御堂額之写
([解説])
善光寺の本尊は阿弥陀如来で、極楽往生を祈るのが本来ですが、実際には病気平癒など切実な願いで
参詣
する人が
松本藩庄内組大庄屋御用留
(5、「御用留」にみる善光寺大地震の記録)
者無之」、「地震ニ付筑摩神社江只今ヨリ御祈祷被仰付候」、28日「夜九ツ時大ゆり」、29日「地震ニ付善光寺
参詣
人死失之者書上
松本藩庄内組大庄屋御用留
(1、御用留)
諸村への連絡の例では、たとえば2月28日に、「殿様埋橋御塚江、以来今朝四ツ時御
参詣
之儀被仰出」「両村へ
善光寺道名所図会
(○筑摩 苅屋原)
このあたりは山間の小さな村で、みな風俗は質朴で堅実な人びとが多く、諸国から善光寺へ
参詣
する旅人が絶えることなく
パスファインダー
(善光寺の物語・紀行文・文学)
巻六の「横田川原合戦」巻七の「清水冠者」巻十の 「千手前(せんじゅのまえ)」は失意の女性の善光寺
参詣
,臼井良作 雑誌名 長野 巻号頁数 第84号 3 論題名 近代の旅日記にみる善光寺
参詣
善光寺独案内
([現代訳])
苅萱法師はここに住み、善光寺に毎日
参詣
した。,源頼朝公
参詣
の時に、駒が踏み抜いたため、ここより駒を返したのでこの名が付いたといわれる。 ,皇円阿闍梨が遠州桜が池からこの池に来て、如来に
参詣
するという。 ,祭神 応神天皇 例祭 3月1日
参詣
者が群集する。 子どもが馬のくつをかぶって参拝する。,四月中旬は杏が花盛りで、大勢の人が
参詣
する。
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
一 上方から江戸へ向かうとき、別所の北向山に
参詣
するためには、中山道洗馬宿から松本へ出て、保福寺峠を越,一 東国から来て善光寺
参詣
し、別所北向山を
参詣
するためには、海野宿から長瀬通りで別所へ3里あまりです。,諏訪形の荒神を
参詣
するには、大屋の下、茂沢の舟(注12)で千曲川を渡ります。,一 諏訪方面から善光寺
参詣
にいく途中で別所へ立寄る道を示します。
犀川を下る記
(3.千曲川通船)
(「小布施町史」P427) しかし、寛政11年(1799)に善光寺御開帳
参詣
帰りの人たちを長沼港から
善光寺独案内
([翻刻])
源頼朝公
参詣
の時に、 駒のふみぬきたるゆへ、此処より 駒を返したるより其名ありと。,皇円阿闍梨、 遠州さくらが池より此池によ りて如来へ
参詣
あるといふ。,祭神 応神天皇 例祭三月一日
参詣
群集す。 小児馬の くつをかむりて 社参す。,健久八年善光寺御
参詣
の時、 此所を御所に造り給ふ故、今に至 中御所といふと。,(商標)中島屋孝助 善光寺御
参詣
ノ諸君御丁寧に御案内仕候。
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(花街権堂の歴史)
長野市史考 小林計一郎/著 吉川弘文館 1969.4 第三部「善光寺
参詣
者・善光寺町の文化」の中に、「
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(信濃の絵解き)
西光寺 往生寺 善光寺 釈迦 堂 涅槃図 当麻曼荼羅 当麻曼陀羅 観経曼荼羅 熊野観心十界曼 荼羅
参詣
曼荼羅
地震後世俗語之種
([翻刻])
是今の御堂にして諸国より
参詣
夥しく、前 代未聞の群集にて善光寺の街はいふも更なり、 近辺まても旅宿,かゝる旧地の霊場なれハ 年増日にまして繁昌し、諸国よりの奉納寄附の しな/\善美を尽し、
参詣
の諸人,しかるか中にも当処はいふも 更なり、東南西北の駅路近辺まても利潤格外に して、
参詣
群集なるハ一山の,是虚説にして取るに たらすといへとも、爰に三月二十四日已に御囘向盛 にして諸国
参詣
の旅人幾千人,の旅人も群集すといへとも、是 こそ善光寺
参詣
のみやけといふ其品なし。
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(信州の「道」)
背景 著者名 西山克己 雑誌名 長野県歴史館紀要 巻号頁数 第20号 2 論題名 道中記にみる伊勢
参詣
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)
朝曇 上天気ニ成 (○中略) 昼後天神様御山ニ而目出度祭礼 相済上町下町休戸子供
参詣
御神酒, 七月廿五日 曇天 追々天キ宜 子供遊 一弐百文 千とせや江払 御神酒代 上ノ山天神様江
参詣
,亀屋店 (○中略) 七月廿七日 終日曇天 先ハ天キよし 今日御射山御祭亭主役人一同
参詣
,り会所万屋也 手習子供十五人計来習申候 (○中略) 八月七日 快晴 両社明神様江
参詣
仕候序,中略) 八月十五日 曇 天気漸持コタエ 夜ニ入ふり出ス 早朝北小野両社江
参詣
仕候帰
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
『古今著聞集』 源頼朝が上洛した時、四天王寺に
参詣
された。,○外陣には畳100畳ほどを敷いてあり、
参詣
の貴賤の人々はこの場所で礼拝(らいはい)する。,その他古雅な練り歩くものがたくさんあって、たいそう賑やかで、諸国からの
参詣
者が多い。,その後、常陸国(ひたちのくに)へ行かれる時、当山に
参詣
して、堂照坊にご逗留の間に戸隠に
参詣
された帰りに,
参詣
の人々で宿坊へ入る人は、ここで案内をする。
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
、別所より長瀬通り海野宿へ出て、追分宿まて九里也、 (改頁) 一東国より善光寺
参詣
,ても八幡へかゝりても] 善光寺迄十里、すべて十三里余、本街道善光寺迄十二里なり、 一諏訪より善光寺
参詣
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
弘法大師四国八十四番の観音・ 釈迦・阿弥陀・観音・勢至等を安置せり、 ○外陣に畳凡百畳程を敷き、
参詣
,伊勢宇治慶光院上人、] ○社家斎藤氏の宅[同南に並ぶ、下総守と号、] ○法然上人旧跡[正信坊にあり、上人如来へ
参詣
,、其後常陸国へ御通りの (改頁) 節、当山へ御仏詣堂照坊に御逗留の間、戸隠へ御
参詣
,坊第二十一世源阿大蓮教智比丘の代なり、]聖人横曽根正信坊・鹿島順信坊を召連ら れ、当山如来へ御
参詣
,なり、]○二天門[先年焼失して礎のみ残れり、] 東の方 制札あり、[松代侯より建、]西の方番所あり、
参詣
パスファインダー
(長野市中央通り(善光寺表参道)の移り変わり)
もともとこの道は、善光寺の
参詣
者だけでなく、大名行列も通る北国街道であった。
地震後世俗語之種
([現代訳])
これが今の御堂で、諸国からの
参詣
者はたいへんな数に上り、前代未聞のにぎわいで善光寺の街はいうまでもなく,このような古くからの霊場ですから、年増し日増しに繁昌し、諸国からの奉納・寄付の品々は善美を極め、
参詣
の,そうした中でも当地は、言うまでもなく東西南北に通じる街道が近辺までもことさらに便利で、多くの
参詣
者が集,善光寺
参詣
の土産というものがありません。,これは当山御開帳に遠国からご
参詣
の皆様の、お子さんお孫さんへのお土産です。
『長野史料』索引
([翻刻])
人五 鳥田仁右エ門 独見録 寛政中松代侯ブランド薬師
参詣
地震後世俗語之種
([翻刻])
御回向なりとて 遠国を隔てゝ
参詣
の旅人幾千人、市町に命 を失ひぬれハ、此上誰ありてか遠国を隔てゝ参,依テ後代尚不尽ナルヘシ]所に 遠近諸国
参詣
の旅人引もきらす爰に群集す。,改頁) (改頁) (改頁) 69 当日諸方より奉納物夥鋪、亦
参詣
,改頁) 70 十月十八日午の刻御遷座相済、御法事御開帳、 諸人押合へし合
参詣
,#160; 犀川の平水と村山村の高低を見競図畧 此図を爰に出すハ、去ル夏の頃、此邑なる荒 神堂に
参詣
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
り鳳来 寺秋葉山其外
参詣
五十四日之往反ニ而目出度下向 同行ハ休戸三 郎兵衛殿木曽久米右衛門殿扇,や留蔵殿拙共ニ四人 一此
参詣
留主ニ姉おかね[おかぢ改名]伊奈部屋(ママ)升や中村由介殿娵ニ北殿村,正金三拾八両ニ佐五 左衛門殿江売払借用等御払被成候 (○中略・鉄三郎ノ記事、文化十三年西国寺社
参詣
,歌書抔にて御慰み被成御座候処同三年同様ニ御暮被成同 四年の春頃より次第ニ御弱ク其冬の十月頃北方両社江
参詣
,御志 シにて杖にて御出掛大出山幸江御立寄暫く御咄休み御馳走ニ成ら せらるゝ内ニ向ふの道を案し
参詣
地震後世俗語之種
([現代訳])
御開帳ということで遠国から
参詣
の旅人が無数に町中で命を落としましたので、これから遠方からは誰も
参詣
するとは,それによって後世にも伝わるでしょう〉その場所に、遠近の諸国からの
参詣
の旅人が引きも切らず集まりました。,弘化4年丁未10月18日四ツ時(10時頃)御輿が出発し、万善堂の御仮屋から御本尊がお帰りになる時の
参詣
者群集,(日記から抜き出しました) 当日あちこちから奉納の品は夥しい数に上り、また
参詣
の人々が群れをなして,押し合いへし合い
参詣
する人々は古今未曽有の大群集でした。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([現代訳])
戸隠山 戸隠山に
参詣
するには、南面より入山し、大門・仁王門を過ぎると、奇石怪岩は苔むして、松や杉の,親鸞聖人はこの霊場に度々
参詣
された。,伝えられていることによると、親鸞聖人は当寺へご
参詣
になり、塔頭の僧坊願証院(堂照坊)に逗留されている間,善光寺南門の堂照坊願証院は、その昔親鸞聖人が
参詣
された時の宿坊である。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
それによれば、昨年(弘化4年)の夏に村山村(長野市篠ノ井山布施)の荒神堂(三宝寺)に
参詣
した時、裏の少
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
〇高祖親鸞聖人此霊場に度々
参詣
したまひけり。, (改頁) (改頁) (改頁) 16 伝に曰、聖人当寺へ御
参詣
,〇善光寺南門堂照坊願証院ハ、往昔高祖 親鸞聖人御
参詣
の宿坊なり。
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
前五穀就并火難災難除 御祈祷被 仰付、郡御奉行 始出役いたし候村々之者 共、最寄之社江勝手次第
参詣
可致候,方へ相認メ即刻為持伝右衛門ニ、 廿六日七ツ半頃遣し、神主より 請取書別ニ有之ル 一善光寺へ
参詣
,、以上、 金井 三月廿九日 右今町へ直ニ遣ス 一地震ニ付、善光寺
参詣
人,、御領分格別之 痛ニも無之、難有儀奉存候、 右者御領分惣代として、同役 之内伊勢・鹿嶋へ
参詣
致,内々相 伺候処、至極 寄特之儀ニ付、其旨可申上候、 然者追而御沙汰ニて存寄、尤之 義
参詣
可致候
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
江戸時代後半には、「図会」にあるように、富裕な町人や善光寺
参詣
の旅人の休息地としてにぎわいました。,奥には穂高神社があり、およそ60余州に285座の格社なので、善光寺へ
参詣
する人も、この神社に参拝するでしょうから
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
村々の人たちも最寄の神社へそれぞれに勝手に
参詣
するように、各組の村々と寺社にも漏れのないように連絡すること,より上条へ、即刻に継ぐ、 (改頁) 殿様が埋橋(うずはし)の御塚へ今朝一〇時頃に御
参詣
,へ認め、即刻に伝右衛門に持たせる、二十六日五時頃に遣し、神主よりの請取書は別にある、 一、善光寺へ
参詣
,をして差し上げるから請け取ること、金井より、三月二十九日 右を今町へ直ちに遣す 一、地震につき、善光寺
参詣
人,などにおいて、死亡人の取調べがあり、来月六日に大町村の弾誓寺で、施餓鬼を執行することを仰せ付けられたので、
参詣
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」)
しかへる (○中略) 五月四日 朝やけ天気 ハツ半時より雨ふり 南風吹込 北小野両社
参詣
仕候
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
罷成候段相聞候間、遂詮議往還筋相応 之商売品を定メ、其余ハ制禁申付候、嶋田村八幡前 寺社領家並商之義者、
参詣
賑之,箇以上馬荷物等在方 ニて買留、他所江送荷仕候義有之由、迷惑仕候御事 一嶋田村八幡前寺社領家並之義ハ、八幡宮
参詣
為賑商売,享保十三申年別段 御免許有之候由、 其砌町方へも御触渡し之趣承知仕奉畏候、右場所商物之儀 者、誠ニ八幡宮
参詣
為賑
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