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原町問屋日記(嘉永6年)
([解説])
原町
問屋
日記(嘉永6年) / [解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇 原町
問屋
日記 「ペリー来航と上田」 上田藩主松平忠優,ここに掲載した『原町
問屋
日記』から、藩主忠優の国元である上田城下の様子を知ることができる。 ,九月十七日になると、奉行から両町の
問屋
(原町
問屋
瀧澤助右衛門・海野町
問屋
柳澤太郎兵衛)が呼び出され、異国船来航対策,十二月に入ると、藩主忠優から両町
問屋
や町年寄に次のような申し渡しがあった。,『原町
問屋
日記』はじめ、村や藩の記録はその様子を伝えている。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([解説])
寛保2年 戌の満水 原町
問屋
日記 / [解説] [目録] 上田歴史研究会 阿部勇 上田地域の「戌の満水」については『原町
問屋
日記』『,海野町
問屋
日記』『信濃国小県郡年表』に書き留められています。,では、寛保二年(一七四二)の戌の満水の被害状況を『原町
問屋
日記』に書き留められた順番に『海野町
問屋
日記,本陣、
問屋
、庄屋の人々も流死しました。,『原町
問屋
日記』の戌の満水記録はさらに続きますが、掲載した史料はここまでです。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([翻刻])
寛保2年 戌の満水 原町
問屋
日記 / 一 田中宿亡所、
問屋
長之助流死、家内之内左太夫無難、不残流死。,流死三百四拾人、馬拾四疋、流潰家弐百七軒 尚御城下之分此外通かゝり候旅人数不 知申候、本陣、
問屋
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記
([現代訳])
寛保2年 戌の満水 原町
問屋
日記 / 一 田中宿は流失し
問屋
の当主(小田中)長之助が流死、当家では左太夫を除いて残らず流死しました。,本陣・
問屋
・庄屋でも流死者がでました。 一 佐久郡は大災害となっています。
原町問屋日記(嘉永6年)
([翻刻])
原町
問屋
日記(嘉永6年) / 付太郎兵衛両人参上候処、御家中面々異国船一件ニ付御用意向差支ニ付金子才覚被成度之処、御勘定奉行も此度ハ両
問屋
江頼入申度先自分
原町問屋日記(安政6年 6・7月)
([解説])
原町
問屋
日記(安政6年 6・7月) / ここからは林之助の『出府日記』と『原町
問屋
日記』から上田藩が生糸を輸出するまでの動きを追う。 ,しかし、その答えとイギリス人が目を付けた品物の謎が【(2)六月二十四日】の『原町
問屋
日記』に記されていた,日本初の輸出生糸についての話題を盛り上げてくれる『原町
問屋
日記』『出府日記』である。
原町問屋日記(嘉永6年)
([現代訳])
原町
問屋
日記(嘉永6年)
原町問屋日記(安政6年 6・7月)
([現代訳])
原町
問屋
日記(安政6年 6・7月)
原町問屋日記(安政6年 6・7月)
([翻刻])
原町
問屋
日記(安政6年 6・7月)
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
過料銭取之事 (改頁) 4 【(朱書)廿五】一□…□年十一月 紙
問屋
青物
問屋
之事, (改頁) 拾三町申合、馬
問屋
ニ而買分仕候、右
問屋
場ニて買分之訳者 品多余り,ケ候義、以 前者拾三町之者共一同ニ
問屋
鬮取にて買分候得共、近 年者猥に罷成、
問屋
場ニて拾三町之者,一文化四卯年十一月四日於本覚寺町役人中被申聞 候、此度 御城下青物
問屋
願人有之候、右
問屋
被,、本一 嶋田屋久四郎殿記録より抜書致し有之候内、又々 抜書ニ致候旨、紙
問屋
之義ハ紙
問屋
記録別記ニ委
宿継要書留
([翻刻])
・大島
問屋
又左衛門・塩尻
問屋
八郎左衛門右三 人被召呼御吟味之上、中馬方 勝手ニ罷成、向後荷物勝手次, 勘左衛門・飯島
問屋
新五郎両人江 戸表ニ而籠舎被 仰付、塩尻
問屋
助右衛門ハ松本籠江被 仰付候,より為申究ニ付、奉驚 尤右四ケ村
問屋
共此義御伺ニ罷出候ニ付、当宿
問屋
伊右衛門義被召出候旨承り候へ,ニ奉存候所、 右両人のもの被召出候ハ全御伺ニ罷出候四ケ村 之
問屋
共、松本
問屋
七郎左衛門・飯田桜町
問屋
伊右衛門, 仰付候、松本町
問屋
之儀者御用 有之候間、相残候様被仰付候、飯田町 宿
問屋
之儀先達而申候通、
問屋
役
御城下古法并市場古法書抜書集
([現代訳])
そこで一切馬
問屋
より売らないように、13町の者たちは馬
問屋
たちと申し合わせた。,ところが市場仲買・馬
問屋
・中馬追・13町で申し合わせ、馬
問屋
で買い分けをすることになった。,他に薪
問屋
を願ったものもある。綿
問屋
の願等もある。,右の塩肴の一件・紙
問屋
古物
問屋
一件の記録は、本町1丁目嶋田屋久四郎殿記録より抜き書をした。,紙
問屋
のことは紙
問屋
記録の詳しいものが別にある。
宿継要書留
([現代訳])
高木伊勢守様より差紙で、飯田
問屋
市右衛門・大嶋
問屋
又左衛門・塩尻
問屋
八郎左衛門の3人が呼び出され、調べの,その上飯田
問屋
勘左衛門・飯島
問屋
新五郎両人は、江戸表において籠舎を仰せ付けられた。,4か村の
問屋
たちが、松本
問屋
七郎左衛門・飯田桜町
問屋
伊右衛門を荷
問屋
のように言いましたので、両人の者たちが,松本
問屋
いずれになっても問題はありませんが、伊右衛門はたいへん勝手になり、4か村
問屋
たちと同じ考えの者,つまり4か村
問屋
たちと当所
問屋
伊右衛門はよく知っていることです。
パスファインダー
(信州飯田・下伊那の百姓一揆・騒動)
原因・状況を知り、江戸時代の 飯田・下伊那の世の中と歴史を知る 百姓一揆 打ちこわし 騒動 千人講 紙
問屋
,から明治初期まで取 り上げ、その概要や特徴を、それまでの研究を基にまとめている 伊那史料叢書 八(紙
問屋
一件,) 伊那史料叢書刊行会/編 伊那史料叢書刊行会 1923.8 文化12年に起こされた紙
問屋
一揆について,市龍江)中原治部右衛門の記録した歎願日記や一揆に関連した基礎的 な史料 飯田町組頭日記(一)-御城下紙
問屋
一件始末記,内容紹介 飯田町の組頭が記録し、のちに清書された飯田町の記録、文化12年に 起こされた紙
問屋
一揆
パスファインダー
(北国街道小諸宿)
出版社 出版年 中山道 追分宿 海野宿 田中宿 参勤交代 加賀藩 佐渡金山 蠟 本陣 脇本陣
問屋
,定本 信州の街道 『定本・信州の街道』刊行会/編 郷土出版社 1991.7 内容紹介 卸
問屋
,宿場の機能は市町と本町で、与良町・荒 町・本町には穀
問屋
や塩
問屋
などがあり、この地方の商業の中心地で
拾八町家並帳
(知久町壱丁目)
ロ 五間一尺 塩ノ屋 太兵衛 六間 ロ 善右衛門扣 ロ 五間一尺 善左衛門扣 十五間五尺
問屋
格
拾八町家並帳
(本町二丁目)
藤次郎扣 イ 三間 知久町 兵次郎扣 七間四尺 ロ 義全 イ 六間 板屋 文次郎扣 十一間
問屋
拾八町家並帳
(桜町壱丁目)
御用屋敷 イ 五間 和泉屋 吉右衛門扣 十間 ロ 四間 槌屋 園左衛門 六間 ロ
問屋
信州飯田町家控
([翻刻])
御城下町衰微致し家持茂所々へ稼ぎに出 女童斗り留守居、年中も家主留守多、町役人足 御勤め難く
問屋
,候、夫故御地頭様へ不被召上町中江 被下候御事 (改頁) 19 三
問屋
,より御願申上候而町中運上、古来より取来候処ニ、
問屋
共之義何も助成無之候間、向後町人付颪候木綿, 古手くり綿小間物惣而かがり荷綿買此分三
問屋
ニ而 売買仕候様ニと願上候処、御家老脇坂新左衛門様御取, 成ニ而願之通り相叶すでニ御書付迄被下候故、黒 瀬より付来候茶多て迄
問屋
へ付込候而平町人至極困
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書
([翻刻])
川除御普請被成下置候ハヽ難有奉存候、 以上、 牧野内膳正領分 中山道望月宿
問屋
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書
([翻刻])
御慈悲を以被為御 聞召分被仰付被下置候ハヽ難有奉存候、 以上、 寛保三亥二月 望月宿
問屋
拾八町家並帳
(本町三丁目)
が開きます (文字の向きをそろえています) 北横町 南横町 辻ばん 十二間三尺四寸
問屋
格
小県郡民謡集
(目次)
おん虎虎一首 お芋やお芋一首 いづくの一首 とんとうし一首
問屋
問屋
一首
信州飯田町家控
([現代訳])
1人で、惣町の
問屋
を勤めるようになりました。,3
問屋
よりお願いし、町中運上を取るようにしてきましたが、
問屋
は何も助成がないので、これからは木綿・古手,伝馬町の
問屋
与三左衛門が勤めます。,その日の市の余り塩は、馬
問屋
へ卸すように近年申し合わせ、馬
問屋
が市場より買い分け、自分の心得で伝馬町へも,今後市場の余り塩を馬
問屋
へ卸すことはしないようにする。
宿継要書留
([解説])
裏表紙を見ると、「飯田
問屋
大原安正」と書かれています。,飯田町の内5町(伝馬町1~2丁目・桜町1~3丁目)の
問屋
(町役人の職)を勤めた大原氏の記録帳であることがわかります,①正保3(1646)年 飯田藩脇坂氏より市田
問屋
に渡された7品の定書 ②元禄7(1694)年 ,宝暦9(1759)年上伊那の北部において、伊那街道の宿場と中馬の荷替
問屋
を持つ村との対立が始まりました
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書
([翻刻])
牧野内膳正領分 中山道望月宿 寛保三癸亥年二月
問屋
諸国道中商人鑑
(2 『中山道道中商人鑑』の成立)
時代はややさかのぼるが、信州上田城下の『原町
問屋
日記』からは、伊勢神宮への参拝が、年々増えていることがわかる,『善光寺之部』の「序」では、国々の諸
問屋
・名のある商工家・その地の名産・適正な値段の店・効きめのある売薬
(株)第十九銀行と諏訪製糸業
(「普通銀行の範疇に入らぬ銀行」)
そのため、銀行の自己資本だけではまかなうことができないことから、日本銀行や三菱銀行、茂木商店など横浜の
問屋
パスファインダー
(信州中馬と伊那街道)
させるようになる様子を学ぶ キーワード 概要を知るた めのツール 資料リスト 中馬 宿場
問屋
,遺跡等の保存状況・公開 施設などを調べてまとめた 6 書名 著者名 出版社 出版年 馬宿・馬
問屋
パスファインダー
(江戸時代の飯田藩と飯田町)
飯田藩 脇坂氏 堀氏 飯田町 13町 5町 地子米 年寄
問屋
庄屋 組頭 商品流通,飯田・下伊那史料叢書 近世史料編1) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会 2009.3 飯田町の
問屋
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(塩野村)
『長野県町村誌』 2巻 p2319に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 上大宮/
問屋
返
諸国道中商人鑑
(4 小田井から本山まで)
現在はわずかに
問屋
場と河原宿周辺に面影が残されている。,五里半九丁」旅籠屋六軒 中山道一の長丁場で難所であった和田峠を控えているため、本陣1、脇本陣2、
問屋
,宿の中央には本陣と脇本陣が置かれ、
問屋
は両家が交代でつとめた。,松本城主小笠原秀政が慶長19年(1614)本山宿の
問屋
役を命じた文書が残されている。
拾八町家並帳
([解説])
町役人は、年寄・
問屋
・
問屋
格・庄屋・庄屋格などで、間口の長さが長かったり、家を何軒か持っていたりします
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(麻績村)
大沖/半前場(はんまいば)/泰殿屋敷/十王堂/天神前沖/向欠ノ下/南北又/寺ノ前/東ノ入/道祖神前/
問屋
屋敷
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(片桐村)
p3585に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 小平/上ノ原/小和田/竹ノ上/牧ケ原/横
問屋
御城下古法并市場古法書抜書集
([解説])
桜井氏は本町2丁目にいて
問屋
役など勤めた桜井氏(板屋)だと思われますが、はっきりとはしません。,文化期には全国的に知られた紙
問屋
騒動も起こっており、それらは関連を持っていると思われます。
善光寺道名所図会
(○小県郡上田)
(注2)上田城下には海野町と原町に
問屋
がありました。
善光寺道名所図会
(○筑摩 郷原)
深さが20メートルもある深井戸の場所は、下
問屋
南・郷福寺入口・お茶屋付近の3ケ所です。
善光寺道名所図会
(○筑摩 青柳)
軒、弘化3年(1846)は旅範屋11・茶屋7・馬士7・かご稼5軒、明治18年(1885)には、宿屋が
問屋
善光寺道名所図会
(○筑摩 洗馬)
慶安4年(1651)に戸数117軒、天保14年(1843)に163軒で、本陣・脇本陣・
問屋
などは中央部
パスファインダー
(江戸時代信州飯田町の火災)
飯田・下伊那史料叢書 近世史料編1) 飯田市歴史研究所/編 飯田市教育委員会 2009.3 飯田町の
問屋
信州浅間焼之事
([解説])
高崎市)によれば、下仁田町(甘楽郡下仁田町)の石井治兵衛の二女で、長じて高崎田町の商家羽鳥勘右衛門(絹
問屋
絵頭入書百性往来童子宝全
([翻刻])
(改頁) 御巡見遵行御伝 馬、御領私領之村々 定大助遠村加助 役并ニ助郷
問屋
人
パスファインダー
(臥雲辰致)
横山栄弥 臥雲山孤峰院 廃仏毀釈 内国勧業 博覧会 岡崎市名誉市民 たっち ときむね 小田多井村 足袋底
問屋
伊那県布令書
([翻刻])
物落しもの等いたし候ハゞ、其旨其時 (改頁) ゝ可訴出事 一 助郷村々は宿方
問屋
寛保二壬戌年金井村戌出水万覚留帳
([解説])
確認されていないが、金井村から10㎞余離れた上田城下で「8月1日午前8時前に巨大な音がした」(『海野町
問屋
日記
パスファインダー
(十返舎一九の『続膝栗毛』)
新町 二方荒神(にほうこ うじん)濡れ縁 もろこし餅 濁り汁 おてしょう鼻毛延高 千久羅坊 狂歌
問屋
小諸洪水流失改帳
([解説])
このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・
問屋
」などが流され、「亡所」になったと
寛保二年大洪水余禄
([解説])
このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・
問屋
」などが流され、「亡所」になったと
小諸大変書
([解説])
このうちの本町が壊滅的な被害を受けたのである(史料には、本町では「本陣・
問屋
」などが流され、「亡所」になったと
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