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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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検索結果 : 201件
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戸隠善光寺往来 (善光寺)

戸隠善光寺往来 / 善光寺 善光寺についての歴史的な説明は、当時の百科事典『和漢三才図会』に沿っています。 / 善光寺
善光寺独案内 (『善光寺独案内』の広告)

善光寺独案内 / 『善光寺独案内』の広告 『善光寺独案内』には、末尾に長野市の商店の広告が大量に掲載されています。,これらの薬は、「善光寺の霊薬」「善光丸」「善光堂」などの文字からも、善光寺の知名度を生かして、参拝者向,実際に、病気平癒を祈願するために善光寺に参詣する人は少なくなかったのです。,現在も善光寺境内の「親鸞聖人爪彫の阿弥陀如来」のほこらは、眼病の平癒を祈願する人が絶えません。,こうした中に、善光寺信仰の一面を見ることができます。 / 『善光寺独案内』の広告
戸隠善光寺往来 (『戸隠善光寺往来』と女性)

戸隠善光寺往来 / 『戸隠善光寺往来』と女性 『戸隠善光寺往来』は、長年善光寺に参詣したいと願っていた母親を連れて善光寺,これには、善光寺が女性の信仰を集める寺であったことが背景にあります。,長年善光寺に参詣することを願いながらも果たせず、晩年を迎える女性は少なくなかったのです。,そうした母の悲願をかなえようと、老母を伴って善光寺に参詣する「孝行息子」も、また少なくありませんでした,)の神崎右京(当時62歳)は、老母(当時84歳)の願いをかなえるため、息子の田宮と交代で母を背負って善光寺 / 『戸隠善光寺往来』と女性
戸隠善光寺往来 (『戸隠善光寺往来』の内容)

戸隠善光寺往来 / 『戸隠善光寺往来』の内容 江戸から善光寺への道中  江戸から追分(軽井沢町)までは中山道、追分から,善光寺までは北国街道です。,善光寺町では、仏都としての繁栄ぶりに「驚歎」しています。,全国から人の集まる善光寺町の繁栄は、道中のどの宿場や城下にも見られなかった特別なもので、長旅をして善光寺,にたどりついた参詣者に善光寺のありがたさを実感させる光景でした。 / 『戸隠善光寺往来』の内容
善光寺独案内 (『善光寺独案内』に収録された伝説)

善光寺独案内 / 『善光寺独案内』に収録された伝説 『善光寺独案内』の特色の一つに、他の本にはない珍しい伝説をたくさん,善光寺の境内でも、そのいわれを書いた絵入りの一枚刷りが売られていました。,これに対して本書は、善光寺の周辺に全く別の「牛に引かれて善光寺参り」の伝説があったことを示しています。,死者は死の直後、いったん信州善光寺に参詣するという観念が全国的にあります。,善光寺の鐘  漢文で書かれた5巻本の善光寺縁起に、「竜女洪鐘献上之事」として、これとほぼ同様のことが / 『善光寺独案内』に収録された伝説
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

善光寺道名所図会 / 『善光寺道名所図会』の構成 5巻5冊からなる『善光寺道名所図会』は、中山道洗馬宿から善光寺道を各宿駅,を経て善光寺に至ります。,さらに善光寺から北国街道を江戸に向い、碓氷峠に至る間の各宿駅ごとに名所古蹟がまとめられています。  ,善光寺道からそれて、松本から糸魚川街道(千国道)を安曇郡穂高神社から大町にすすみ、仁科三湖・佐野の里まで,善光寺如来に関する伝承をはじめ縁起の詳細を記し、善光寺でおこなわれて来た年中行事や関係の寺社その他の名所古蹟 / 『善光寺道名所図会』の構成
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

善光寺道名所図会 / ○水内 善光寺 3左   ○水内善光寺  上りは丹波島へ1里である。,善光寺如来がこの地にお移りになってから、地名もまた変化して、地域の総称を善光寺というようになったのであろう,『塩尻』  善光寺本尊は一光三尊である。,考えてみると、善光寺の仏閣はたびたび火災に遭って無常の姿を示したとはいうものの、善光寺如来の徳によって,これを善光寺の御祭礼と言う。 / ○水内 善光寺
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

善光寺道名所図会 / 善光寺道(北国脇往還) 江戸時代には善光寺へ向かう道筋は、たいてい善光寺道といわれていましたが、とくに,宿に出、篠ノ井追分(しののいおいわけ)で北国街道に合流し、丹波島(たんばじま)で犀川を渡って水内郡の善光寺町,(長野市)へ至る19里半(約180キロメートル)の道筋を北国往還(おうかん)または善光寺道と呼んでいました,北国街道も善光寺道と呼ばれていましたが、さらに越後・佐渡まで至るので北国街道というのが一般的でした。,松本は、親町(おやまち)三町の本町・中町・東町などを善光寺道通りに定めました。 / 善光寺道(北国脇往還)
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

善光寺道名所図会 / ○水内 善光寺 3   登リ丹波嶌ヘ一里なり、越後の方へ下るにハ、善光寺より荒町ヘ一里、 牟礼へ,るに、牟礼より柏原・野尻・越後の関川・二《マタ》・関山・二本木・荒井迄を   中山八宿といふ也、又善光寺,にして、本名ハ水内   郡柳原庄芋井郷長野村なり、如来此所に遷座の後、地名もまた   転じて惣名善光寺,と称する成べし、 善光寺より東へ伊勢町・新町・淀が橋を渡り、横山村の次三輪村の南 脇に美和神社立給,より十五丁ほどに有、]三輪村の北脇に時丸の塚とて古墳あり、[善光寺七塚の其一なり、]      ( / ○水内 善光寺
戸隠善光寺往来 (一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置)

戸隠善光寺往来 / 一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置 『戸隠善光寺往来』は、文政5年(1822)に出版されました。,喜多八の2人は、伊勢神宮に参詣し、四国の金毘羅から安芸(あき)の宮島まで足を延ばし、帰りに木曽路を通って善光寺,2人の旅は伊勢参詣に始まり、善光寺参詣に終わったと言ってよいでしょう。,『伊勢参宮往来』と『戸隠善光寺往来』の出版は、『道中膝栗毛』の総まとめであったとも言えるものでした。 / 一九の作品中の『戸隠善光寺往来』の位置
善光寺案内 ([解説])

善光寺案内 / [解説] [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  明治時代の善光寺御開帳に合わせて出版された、善光寺,明治15年 『善光寺如来略縁起』『信州善光寺御堂額之写并ニ霊験記』  明治21年 『善光寺如来伝記図絵,』『善光寺如来霊験実録』  明治27年 『善光寺如来略縁起』『善光寺和讃』『善光寺如来由来讃歌』等,   明治中ごろまでの善光寺御開帳に合わせた出版物は、善光寺縁起など、信仰にかかわるものであったことが,著者村松今朝太郎(清陰)は、御開帳以外の時期には、『善光寺案内』とほぼ同内容の『善光寺土産』(明治36
善光寺独案内 (明治時代の長野の観光案内書)

善光寺独案内 / 年(1897)に長野市大門町の三上真助が著述して発行した、善光寺と長野の案内書です。,善光寺のある長野市は、全国から旅行者が集まるため、善光寺とその周辺の案内書が必要でした。,活版印刷による善光寺とその周辺の案内書は、明治33年の御開帳に合わせて出版された『善光寺案内』(村松清陰著,村松清陰は明治36年に『善光寺土産』も出版しています。,同年には、善光寺のみを深く掘り下げた『善光寺名所図会』(石倉重継著)が登場しています。
善光寺独案内 (著者三上真助)

善光寺独案内 / 著者三上真助 『善光寺独案内』の著者三上真助は、経歴等がよく分かりません。,明治時代の長野市大門町は、善光寺のすぐ門前にあって大旅館が立ち並んでいましたが、長野市の商業の中心地でもありました,』(明治14年)    出版は明治10年代前半に集中しているようですが、実際は明治30年代まで善光寺,の境内図や善光寺土産の絵紙などを発行していました。,そうした流れの中から『善光寺独案内』が生まれたのです。
パスファインダー (善光寺参詣と善光寺道)

善光寺参詣と善光寺道について トピック(テーマ) ねらい 善光寺参詣と善光寺道 岡山県津山市,、ず いぶん遠くからでも信濃善光寺へ向かう道は善光道と呼ばれていた。,中 世、近世には全国から善光寺参詣の善光寺道が通じていた。善光寺道 について知る。,」を歩く 善光寺街道協議会/編 善光寺街道協議会 2014年 「『善光寺道名所図会』は美濃国今尾,(しゅぎょう)は善光寺参詣の旅の意味で、鎌倉から善光寺 内容紹介 への道行を示しています。 / 善光寺参詣と善光寺道
戸隠善光寺往来 (十返舎一九と信濃)

戸隠善光寺往来 / 文化11年(1814)には、木曽から松本に入り、穂高、大町、新町、稲荷山を通って善光寺に参詣し、越後へ,これが、『木曽街道続膝栗毛』第6編(文化12年)、第7編(文化13年)、『従木曽路善光寺道続膝栗毛』第,文政元年(1818)には、越後から善光寺に参詣し、大笹街道を通って草津温泉に抜けました。,善光寺に参詣する「江戸っ子」の善光寺参りコースではありませんでした。,『戸隠善光寺往来』は、一九が初めて江戸住人のために書いた善光寺参詣案内です。
善光寺道名所図会 (はじめに)

善光寺道名所図会 / はじめに 善光寺道名所図会 巻一 善光寺道名所図会 巻二 善光寺道名所図会 巻三 善光寺道名所図会, 巻四 善光寺道名所図会 巻五   [目録] 善光寺道名所図会 巻一 [目録] 善光寺道名所図会, 巻二 [目録] 善光寺道名所図会 巻三 [目録] 善光寺道名所図会 巻四 [目録] 善光寺道名所図会
パスファインダー (善光寺縁起)

善光寺縁起 トピック(テーマ) 善光寺縁起 ねらい 善光寺縁起は、善光寺の,絵解き 善光寺絵伝 皇極 天皇 善光寺縁起ものがたり 坂内直頼/著 光竜堂 2009.4,その元禄5年版善光寺縁起を現代語訳したもの。 善光寺縁起の内容を知るための基本的な本である。,「解説」で、善光寺縁起の構造、善光寺縁起と女性、善光寺縁起の諸 本について述べている。,縁起堂淵之坊本善光寺如来絵伝 若麻績侑孝/監修 淵之坊 2013.12 善光寺淵之坊は縁起堂と称 / 善光寺縁起
パスファインダー (善光寺地震)

善光寺地震 トピック(テーマ) 善光寺地震 ねらい 弘化4年(1847)3,される善光寺大地震 が発生した。, 旧上水内郡 旧上高井郡  第四章「弘化四年 の善光寺地震」 2 書名 善光寺大地震,銀河書房 1985.12 善光寺地震の記録。,著者名 雑誌名 長野 出版年 1986年5月 巻号頁数 127号 3 論題名 善光寺地震と善光寺役所 / 善光寺地震
善光寺独案内 ([翻刻])

善光寺独案内 / (改頁)   善光寺独案内     豊斎如真編輯 各位善光寺まゐりをなされるに、   何処の,善光寺如来衆生済度の御姿也。,大に8  驚き、いかんともせんかたな  く善光寺夲堂へ届け、勤番の  計にて返を造り、善光寺へ引,是善光寺七塚の一といふ。  ,――― 善光寺の霊薬 農商務省登録商標 一名善光寺のめぐすり (商標) 雲切光明香    貝入
善光寺道名所図会 (目録)

善光寺道名所図会 / 目録 2左    目録 ○善光寺駅 北国街道 美和神社 時丸の塚   如来堂  三門   二王門,伊奈郡ニ寺建立 檀越略系 堂内年賀式 光明常燈  戒檀廻  法然上人旧跡 親鸞聖人旧蹟 笹字名号  善光寺四号, 鏡の御影 年中行事 寺領  元録造営録 善光寺紀行 苅萱堂 血脉頂戴  ぶらんど薬師 山吹の瀬 ,長原温泉 善光寺七社  同七橋  同七清水 同七井  同七塚  栗田刑部城趾 横山信濃城跡 塩沢温泉
善光寺独案内 ([現代訳])

善光寺独案内 / 苅萱法師はここに住み、善光寺に毎日参詣した。,善光寺如来が衆生を済度するお姿である。,大変驚いたが、いかんともしがたく善光寺本堂へこのことを届け出て、勤番の案でそりを造り、善光寺へ引いていった,浄土宗 蓮生法師開基  本尊 阿弥陀如来 善光寺七院の一つ。善光寺本堂より南へ30丁にある。  ,これは善光寺七塚の一つという。
戸隠善光寺往来 (口絵)

戸隠善光寺往来 / 上段に遠景として「水内郡芋井郷善光寺」の図があり、下段に近景として丹波島の渡しを渡る舟が描かれています,綱が3本あることは、『地震後世俗語之種』(『善光寺大地震図会』)などの図とも一致しています。,諸国を巡って善光寺をめざす僧でしょう。  上下の図の間には、「舟渡しハ斎(犀)川といふ。
信州善光寺御堂額之写 ([解説])

信州善光寺御堂額之写 / 善光寺の境内や門前で、参拝土産として販売されたものです。,江戸時代の善光寺は、本堂に絵馬を奉納する習慣がありました。,「御堂額」とは、善光寺の本堂に奉納された絵馬のことです。,善光寺に奉納された絵馬には様々な種類がありますが、『信州善光寺御堂額之写』に紹介されているのは、主に善光寺如来,現在この絵馬は善光寺史料館に展示されています。  
パスファインダー (善光寺史の研究)

1 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺史の研究 善光寺史研究は古くから数多く行われてきた。,善光寺史研究の成果をまとめた1,000ページを超える大冊で、善光寺史 研究の基本書。,序章、第1章善光寺略史、第2章善光寺の造営、第3章 寺を支えた人たちと寺の経営、第4章善光寺参り、第5,章善光寺仏と新 内容紹介 善光寺、第6章善光寺信仰さまざま、第7章現在の善光寺及び充実した 史料編から,2 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺史研究 善光寺史研究会/編 善光寺史研究会 1922年 / 善光寺史の研究
パスファインダー (草創期の善光寺)

草創期の善光寺 トピック(テーマ) 草創期の善光寺 ねらい 善光寺仏、善光寺,キーワード 概要を知るための ツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺仏 善光寺,しょう) 若麻績東人 善光寺瓦 善光寺史 [上・下] 坂井衡平/著 東京美術 1969 善光寺史研究,序章、第1章善光寺略史、第2章善光寺の造営、第3章 内容紹介 寺を支えた人たちと寺の経営、第4章善光寺参,り、第5章善光寺仏と新 善光寺、第6章善光寺信仰さまざま及び充実した史料編から構成されて いる。 / 草創期の善光寺
パスファインダー (善光寺四十九霊地)

善光寺四十九霊地 トピック(テーマ) 善光寺四十九霊地 ねらい 何を善光寺四十九霊地,キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 長野市 善光寺 四十九霊地 四十九名所,:善光寺と長野の七名所:長野郷土史研究会テキス トブック 小林一郎,小林玲子/著 光竜堂 2018.2,内容紹介 これまで善光寺七名所、善光寺四十九名所と呼ばれてきたものは、本 来は善光寺四十九霊地,善光寺をはじめ信濃の名所などを取材しその風土と 歴史を伝える。 / 善光寺四十九霊地
信州善光寺御堂額之写 ([現代訳])

信州善光寺御堂額之写 / [現代訳] そもそも信州善光寺のご本尊は、ありがたくも三国伝来の尊像でいらっしゃるので、全国津々浦々,明るくなり、前を1人の老人が川を渡りながら、私は善光寺の者だと言われました。,心残りに思っていたところ、ある日昼寝して起き、善光寺の方を伏し拝みました。,、善光寺如来が光明を放ち来迎されるのを拝見しました。,、御境内で実際の善光寺如来様を3度拝み申し上げました。
戸隠善光寺往来 ([翻刻])

戸隠善光寺往来 / [翻刻] 戸隠善光寺往来      4 内々承候得は、御母公 多年之御心願ニ而、今 般信州善光寺江,     (改頁)      8   直に行は京街道木 曽道、左之方小諸江 出候得は、善光寺其,丹波嶋ハ 往時甲越之戦場、斎      (改頁)      9   川を打越、善光寺町ニ
パスファインダー (善光寺本堂の建築)

善光寺本堂の建築 トピック(テーマ) ねらい 善光寺本堂の建築 宝永4年(1707),こうした善光寺の建築につ いて調べる。,善光寺/編 善光寺 1989 内容紹介 昭和59年から平成元年にかけて行われた大修理完了の,善光寺 心とかたち 伊藤延男 他/編 第一法規出版 1991年 1991 内容紹介 善光寺全般,の建築様式の変遷 小林計一郎/著 長野 1990.1 第194号 善光寺本堂昭和大修理完成記念号 善光寺本堂 / 善光寺本堂の建築
戸隠善光寺往来 ([現代訳])

戸隠善光寺往来 / [現代訳] 内々にお聞きしたことによれば、お母上の長年の願いをかなえるため、このたび信州善光寺へ貴殿,の山」と歌に詠まれた浅間山の麓の宿場で、まっすぐに行けば京街道・木曽街道で、右の方を小諸宿に出れば、善光寺,犀川を越え、善光寺町に到着して、見れば、商店と旅籠(はたご)が軒を連ね、まことに繁盛の地で、仏都の光景,そもそも善光寺の由来は、欽明天皇13年、本尊の阿弥陀如来が百済から渡来したが、あえて信仰しようとする者,聖徳太子が善光寺如来と手紙をやり取りしたり、和歌の贈答があったりしたことが、「風雅和歌集」や「埃嚢抄」
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

善光寺道名所図会 / の入口に分れ道あり、石標に[右京いせ道、左伊奈諏訪道]松本の方より来 る人の左右なり、凡上方筋より善光寺,へ参るに多くハ中山道妻籠宿の橋場より右 へ入り、飯田の城下へかゝり、甲州の元善光寺へ参り、夫より塩尻宿,祠の右脇に立石あり、      (改頁)      22右     両太神宮へ四十八度、善光寺
信州善光寺御堂額之写 ([翻刻])

信州善光寺御堂額之写 / [翻刻] 信州善光寺      1        常 智 院       永代宿坊 信州善光寺御堂額之写,       静嘉堂梓     (改頁)      2     抑信州善光寺御本尊ハ、忝も,夫吉蔵二才になる子をふところにいれて 善光寺へいそぎけるに、たんバしまより女房のすがた うす/\見,一人川をわたりながら、われハ善光寺のものといゝ たまふ。,これ 善光寺の御本尊ならんとはい礼し、又々御礼参り致し候。  
善光寺道名所図会 (「名所図会」の刊行)

善光寺道名所図会 / 文化元年(1804)に、『木曽路名所図会』6巻が刊行されましたが、天保期になって、善光寺道の宿駅を中心,に名所古蹟社寺を遊歴して記録にとどめようとまとめられたのが『善光寺道名所図会』です。
パスファインダー (親鸞聖人と善光寺)

親鸞聖人と善光寺 トピック(テーマ) 親鸞聖人と善光寺 ねらい 浄土真宗の,開祖親鸞聖人の善光寺との関わりについて。,他力本願を唱 えた親鸞が聖徳太子に魅かれて善光寺詣りをしたのかを考える。,キーワード 善光寺 親鸞聖人 聖徳太子 他力本願 自力本願 親鸞松 堂照坊 笹字の名号  関山神社,著者名 出版社 出版年 善光寺まいり 五来 重/著 平凡社 1998 信州善光寺と聖徳太子 / 親鸞聖人と善光寺
パスファインダー (善光寺の火災と復興)

善光寺の火災と復興 トピック(テーマ) 善光寺の火災と復興 ねらい 善光寺,中世における善光寺に関する資料も、その過半数が火 災に関するものであると言ってもよい。,(『善光寺史研究』より) 。,その前期は、善光寺 が独自で本堂造営を企てた時期、後期は、幕府が善光寺のみでは本堂 造営はおぼつかないと,の匠と技:絵で見る善光寺本堂の造営 相原文哉/著 銀河書房 1987年 善光寺本堂の造営について図版も / 善光寺の火災と復興
パスファインダー (善光寺平と渡来人)

善光寺平と渡来人 トピック(テーマ) 善光寺平と渡来人 ねらい 善光寺平には,百済・高句麗・新羅 などの影響を受けた古墳群を紹介しながら、善光寺平は渡来人の聖地 であったことを知る,キーワード  積石塚古墳群 合掌型石室 善光寺 大室古墳 八丁鎧塚古墳 鮎川 古墳群 根塚古墳 ,1/2 信州地域史料アーカイブ 善光寺平と渡来人 雑誌 新聞 4 書名 著者名,内容紹介 謎の寺善光寺の実態をさまざまな資料を駆使して解説。 / 善光寺平と渡来人
パスファインダー (善光寺の御開帳・出開帳)

善光寺の御開帳・出開帳 トピック(テーマ) 善光寺の御開帳・出開帳 ねらい キーワード,ノ井 線 中央線 善光寺史研究 小林計一郎/著 信濃毎日新聞社 2000.5 善光寺史研究の,内容紹介 序章、第1章善光寺略史、第2章善光寺の造営、第3章寺を支えた人た ちと寺の経営、第4章善光寺参,り、第5章善光寺仏と新善光寺、第6章善 光寺信仰さまざま及び充実した史料編から構成されている。,1 書名 御開帳:よくわかる善光寺参り Part2 著者名 善光寺事務局/監修 出版社 / 善光寺の御開帳・出開帳
戸隠善光寺往来 (往来物)

戸隠善光寺往来 / 「道中膝栗毛」で知られた戯作者、十返舎一九の『戸隠善光寺往来』も、その一つです。
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

善光寺道名所図会 / ○筑摩 洗馬 16左    洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里,注)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う善光寺道,昭和7年(1932)の大火で洗馬宿の大部分を焼失しましたが、善光寺道との分岐の石標・邂逅(おおた)の清水
パスファインダー (善光寺の物語・紀行文・文学)

善光寺の物語・紀行文・文学 トピック(テーマ) ねらい 善光寺の物語・紀行文・文学,善光寺の名が、文学作品や文献史料に現れ出すのは平安時代末期か らである。,善光寺に関する文学の道案内をする。,キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 善光寺記行 生身の如来 善光寺縁起 如是姫 ,記行)、生身の如来(善光寺縁起)等を所収している。 / 善光寺の物語・紀行文・文学
パスファインダー (一茶が善光寺について詠んだ句)

一茶が善光寺について詠んだ句 トピック(テーマ) 一茶が善光寺について詠んだ句,ねらい 善光寺を詠んだ句を通して、一茶の信仰心を知る。,善光寺とその周辺に ついて書いた俳文とその現代語訳。善光寺界わいの一茶句碑。,2000.5 内容紹介 「一茶と善光寺」の項がある。,内容紹介 一茶を含む文人墨客95人が詠んだ善光寺 1 論題名 善光寺と一茶 著者名 / 一茶が善光寺について詠んだ句
パスファインダー (善光寺白馬電鉄(善白鉄道))

善光寺白馬電鉄(善白鉄道) トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための ツール,資料リスト 雑誌 善光寺白馬電鉄(善白鉄道) 昭和11年(1936)11月の営業開始,81‐96ページ に「善光寺白馬電鉄」が紹介されている。,小林計一郎に聞く 私の生きた長野の昭和(三)長野電鉄・善光寺白馬 電鉄 小林玲子・小林竜太郎/聞き手・,構成 長野 2005.9 243号56‐59 善光寺白馬電鉄の研究 吉沢誠/著 信濃 1971.7 / 善光寺白馬電鉄(善白鉄道)
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

善光寺道名所図会 / 上方のほうから善光寺へ参詣する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい,、甲州(山梨県)の元善光寺へ参詣し、そこから塩尻宿へ出て、この道へ来ています(塩尻からここまで2里)。
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

善光寺道名所図会 / 会田宿は、この険路を控えた南麓に置かれ、善光寺道と上田・明科・筑北の各方面へ向かう道が出会う、交通の要衝,岩井堂は、善光寺街道の立峠下の岩山にあり、信濃三十三番観音中第20番の札所です。
善光寺道名所図会 (○安曇 大町)

善光寺道名所図会 / また、大町あたりから右へ入り、戸隠通り善光寺へ出ますが、普通の往還ではないので、引き返して、本街道松本
善光寺道名所図会 (○筑摩 岡田)

善光寺道名所図会 / 参道は善光寺街道に面した所に一の鳥居があって、左右に欅(けやき)の大樹があり、西に向って松並木が150
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

善光寺道名所図会 / 十一里余、別所より長瀬通り海野宿へ出て、追分宿まて九里也、      (改頁)   一東国より善光寺参詣,下茂沢の船を渡り、小牧通海野より荒神へ壱里余、  荒神より別所迄弐里余、別所より半過の船を渡り鼠へ出、善光寺迄十里余,、室賀峠  を越[刈谷原へ出ても八幡へかゝりても] 善光寺迄十里、すべて十三里余、本街道善光寺迄十二里,なり、 一諏訪より善光寺参詣の節、別所へ廻らんには、和田嶺を越、長久保宿より腰越へ出、砂原を  越,、別所より善光寺へ十里、都て廿二里なり、本街道諏訪より和田長久保上田通り同く二十二里なり、 出浦古記
パスファインダー (女流の信仰物語、善光寺への女旅日記)

女流の信仰物語、善光寺への女旅日記 トピック(テーマ) ねらい キーワード 概要を知るための,しかし、善光寺は、『善光寺縁起』に月蓋長者という富豪の娘如 是姫(にょぜひめ)の病気を治した話があるように,女性の善光寺信仰、女旅日記等について調べる。,起 二条の善光寺参詣 1 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺史研究 小林計一郎/著,重衡が斬られた後、千手は善光寺にはいって重衡の菩 提を弔ったという。 / 女流の信仰物語、善光寺への女旅日記
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

善光寺道名所図会 / ○筑摩 洗馬 16左   郷原へ壱里半[善光寺道なり、]塩尻へ壱里三十町[中山道筋なり、]京師より
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

善光寺道名所図会 / 一 東国から来て善光寺参詣し、別所北向山を参詣するためには、海野宿から長瀬通りで別所へ3里あまりです。,刈谷原へ出ても、八幡方面経由でも)善光寺までは10里です。  ,すべて13里あまり、本街道、善光寺までは12里です。,一 諏訪方面から善光寺参詣にいく途中で別所へ立寄る道を示します。  ,別所から善光寺まで10里、すべてで20里となります。
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