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原町問屋日記(嘉永6年)
([翻刻])
原町問屋日記(
嘉永
6年) / [翻刻] (1)
嘉永
六年六月十二日 一 御会所より使ニ付参候処、御奉行様御達有之、唐船浦賀江来ル風説有之候御尋,9 (2)
嘉永
六年六月十三日 12 一 関東筋異国船騒動ニ而者追々穀物高直ニ可相成,(3)
嘉永
六年九月十七日 一 夕方御奉行様より御使ニ付太郎兵衛両人参上候処、御家中面々異国船一件ニ付御用意向差支
原町問屋日記(嘉永6年)
([解説])
原町問屋日記(
嘉永
6年) /
嘉永
六年六月三日のペリー来航以降、幕府の方針が定まらぬなか、忠優は海防掛に加えられも加えられ、開国論を,
嘉永
六年十二月の『異国船渡来ニ付献納籾取集帳』がその一つである。,なお、上田藩は
嘉永
六年八月の段階で、上田城米三百駄を江戸表に送っている。
原町問屋日記(嘉永6年)
([現代訳])
原町問屋日記(
嘉永
6年) / [現代訳] (2)
嘉永
六年六月十三日 のみ 関東筋ではペリー艦隊来航の騒動による穀物価格の値上がりが
善光寺道名所図会
(著者)
著者 本書は、天保14年(1843)に脱稿し、下絵のままのものは改めて依頼して精画とし、
嘉永
元年(1848,)に校閲を得て、
嘉永
2年9月に美濃屋伊七によって上梓されました。
おらが春
(一茶の著作)
また、
嘉永
元年(1848)には増補された『一茶発句集』(
嘉永
版)も出版されて流布し、一茶の俳句は没後も
赤松小三郎書簡 実母宛
(江戸・長崎遊学)
江戸・長崎遊学
嘉永
元年(1848)、18歳のとき青雲の志を立て、森田斐雄等と江戸に上り、幕臣内田彌太郎,22歳
嘉永
5年には更に下曽根金三郎に従って蘭学・砲術等の教えを受けた。
宮坂弥五左衛門古記録
([解説])
宮坂家十代当主弥五左衛門が
嘉永
六年(1853)、34歳の折に編んだものという。,とはいえ、弥五左衛門が「古記録」を執筆したのは寛保の洪水からすでに一世紀余を経過した
嘉永
六年である。,結論としては、宮坂家十代当主弥五左衛門が
嘉永
六年に編んだ「宮坂弥五左衛門古記録」の記事は、水害から一世紀以上後
赤松小三郎書簡 実母宛
(幕末の先覚者赤松小三郎)
後、
嘉永
7年(1854)同藩士赤松弘の養子となり、文久元年正月小三郎と改めた。
おらが春
(『おらが春』の出版)
一之は一茶没後25年目の
嘉永
5年(1852)、自筆稿本を元に『おらが春』を出版しました。
松本藩庄内組大庄屋御用留
(4、御用留の書かれた年)
弘化5年(1848)2月28日まで、同日から
嘉永
元年)には、庄内組の小島村で、阿弥陀堂が再建されています
違作書留帳
(3、江戸時代の神戸村)
家数・人数は、元文元年(1736)32軒・176人、文政5年(1822)52軒・246人、
嘉永
6年(1853
松代まちあるきマップ
(15小山田家住宅)
現存する棟札の墨書から、
嘉永
二年(一八四九)に建てられたことが分かる。
松代まちあるきマップ
(17松代藩鐘楼(まつしろはんしょうろう))
嘉永
二年(一八四九)佐久間象山が、この鐘楼から御使者屋二階まで約六十メートルの電線を張り、日本最初の電信実験
松本藩庄内組大庄屋御用留
(3、大庄屋と折井家)
この折井伴右衛門正我は、
嘉永
3年、本書収録の「御用留」を記した2年後に亡くなっています。
赤松小三郎書簡 実母宛
([現代訳])
小三郎は
嘉永
7年(1854)上田藩士赤松弘の養子となった。) 一筆啓上申し上げます。
『長野史料』索引
([翻刻])
地震ニ付松代藩ノ布達 仝 六 洞山先生地震詩 仝 六 寛延
嘉永
両地震,(改頁) 9 安政二年軒並改帳 人二 四三 課業御書上[
嘉永
元年戸数人別,妻科神社由緒書 神宮及官国幣社一覧 市神 天神様 天王様
嘉永
度年神堂普請
『長野史料』索引
(『長野市史』と『長野史料』)
明治八九年より十 二三年頃迄に編纂したるもの) 明和善光寺領人別、天保木綿商取締鑑札に付訴願、
嘉永
安政木綿商仲間掟
養蚕往来
([解説])
刊行は
嘉永
3年(1850)、京都の藤岡屋慶次郎によるものでした。
長野県師範学校生徒修学旅行概況
(4.数千の教師を育てた浅井洌先生)
嘉永
2年(1849年)、松本藩士大岩昌言の三男として生まれ、12歳の時浅井家の養子となりました。
松本藩庄内組大庄屋御用留
(5、「御用留」にみる善光寺大地震の記録)
左之人相之者村方へ参り候ハバ、留置右村庄屋方へ致通達候様組下村々」へもれなく申し聞かせよという記事もみえます(
嘉永
元年
松本藩庄内組大庄屋御用留
(1、御用留)
この年の正月からの1年間と、翌
嘉永
元年12月までが収録されています。
パスファインダー
(物くさ太郎)
信濃史料刊行会 信毎書籍印刷株式会社 1978.11 内容紹介 「善光寺道名所図会」(豊田利忠
嘉永
二年
松本繁昌記 上・下
(2人の編輯人)
2人の編輯人 浅井洌は、
嘉永
2年(1849)松本城下の鷹匠町に松本藩士大岩昌言の3男として生まれ、幼名,関口友愛は、年
嘉永
5年(1852)に、松本藩士関口友忠の長男として松本堂町に生まれました。
パスファインダー
(善光寺四十九霊地)
善光寺道名所図会 巻之3 豊田利忠/編画 信濃毎日新聞社 1972.6 内容紹介
嘉永
パスファインダー
(牧野康哉)
嘉永
3年に 藩医に種痘を学ばせ、その普及を図った。
パスファインダー
(女流の信仰物語、善光寺への女旅日記)
東路日記 著者名 小田宅子/著 井上敏幸[ほか]翻刻・解題 出版社 出版年 奥付
嘉永
パスファインダー
(信濃の古典(2))
版本地誌大系) 著者名 出版社 豊田庸園/著 臨川書店 出版年 1998.4
嘉永
養蚕往来
([翻刻])
[翻刻] 「
嘉永
三年版 2 江戸藤岡屋板 養蚕往来 」 養蚕往来 ,、偏ニ致大切時ハ自然と天理ニ 叶、其家富貴繁昌可為永久者歟、 (蔵書印「佐藤園右衛門」あり)
嘉永
三庚戌歳八月改正
パスファインダー
(善光寺参詣と善光寺道)
善光寺街道協議会/編 善光寺街道協議会 2014年 「『善光寺道名所図会』は美濃国今尾の人、豊田利忠が
嘉永
寺子屋入門記録「壱番入門記録」
([解説])
敬助が寺子屋を始めたのは20代のころで、敬助はそれから40年間近く寺子屋を続け、
嘉永
5年(1852)閏
おらが春
([翻刻])
嘉永
壬子春涅槃日 東都 瓢隠居逸淵 (印) (改頁) 昔たんこの国普甲寺といふ,
嘉永
四辛の亥春彼岸 仲日 瓢界四山人しるす (印)(印) (改頁), 草萌もよそにのミ見てたつ日哉 梅塵 眼にミゆる風のひかりや東窓 一之
嘉永
壬子春
地震後世俗語之種
([現代訳])
大災の後、
嘉永
と改元があって、戊申(1848)の春を迎えましたが、松代から南東にかけての戸倉・坂木辺の,戊申(
嘉永
元年)3月、折から眼病に苦しむことすでに半月、眼鏡の力を借りて書いた人は、例の地震を体験した
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
高出組高宮村の東弥聟養子庄五郎このたび勝手につき、当村の市郎兵衛借屋に、今年の六月より来年申年(
嘉永
元年,れること、おって、この書付は返すこと、郡所より、 (改頁) 弘化五戌申年(一八四八、
嘉永
元年, 夜雨、朝曇、小雨降る 鍛之助出勤、 書付をもって申し遣わす、 江戸表において、当十五日年号を
嘉永
,三河・飛騨・信濃・伊勢・越後の八か国が、ともに勧化御免を仰せつけられたので、この未二月より来る酉二月(
嘉永
二年
小県郡民謡集
(成人謡)
2.心中くどき……
嘉永
三(一八五〇)年八月、武蔵国富田村(埼玉県寄居町)の農家の 若い男女の心中
地震後世俗語之種
([現代訳])
嘉永
元年(1848)戊申夏 伝え聞くところによると、地震は陰陽の昇降・浮沈の遅速によって,翌戊申の年(
嘉永
元年・1748)になっても、恐ろしくも悲しいことに、いまだ図のように片付いていませんが
地震後世俗語之種
([翻刻])
嘉永
元年戊申夏 (改頁) 伝聞、地震は陰陽の昇降浮沈の遅速
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
、 小雨降ル 鍛之助出勤 以書付申遣候 於江戸表当十五日年号
嘉永
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
(注1)たなかひらとき
嘉永
三年~大正七年(1850~ 1918)。
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