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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の価値)

地震後世俗語之種 / 『地震後世俗語之種』の価値 [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  『地震後世俗語之種』は、権堂村名主,の永井善左衛門幸一(さちかず)が、善光寺地震(1847年)の体験を子孫に伝えるために書き残した絵入りの,文章による地震の体験記は数多くありますが、詳細な絵を伴って記述した本はほとんど例がありません。,、堰き止められた犀川の決壊による大洪水が達した高さを図中に示すなど(2-74)、説明的な絵も交えて、地震,『地震後世俗語之種』は、江戸時代の善光寺御開帳を絵に描いている唯一の本でもあります。 / 『地震後世俗語之種』の価値
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の価値)

地震後世俗語之種 / 『地震後世俗語之種』の価値 [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  『地震後世俗語之種』は、権堂村名主,の永井善左衛門幸一(さちかず)が、善光寺地震(1847年)の体験を子孫に伝えるために書き残した絵入りの,文章による地震の体験記は数多くありますが、詳細な絵を伴って記述した本はほとんど例がありません。,、堰き止められた犀川の決壊による大洪水が達した高さを図中に示すなど(2-74)、説明的な絵も交えて、地震,『地震後世俗語之種』は、江戸時代の善光寺御開帳を絵に描いている唯一の本でもあります。 / 『地震後世俗語之種』の価値
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の諸本)

地震後世俗語之種 / 『地震後世俗語之種』の諸本 原本  永井善左衛門幸一の自筆本で、永井家に伝えられています。,永井家文書として長野市指定有形文化財となっており、『善光寺大地震図会』の書名で翻刻されています。,「地震後世」の部分は角書(つのがき)であるため、書名は『俗語之種』となっています。,この書名は特異ですので、このアーカイブでは一般的な『地震後世俗語之種』を用いています。,ただし原本を翻刻している『善光寺大地震図会』は、第6冊・第7冊の順序が入れ代わっているので、注意が必要 / 『地震後世俗語之種』の諸本
地震後世俗語之種 (『地震後世俗語之種』の諸本)

地震後世俗語之種 / 『地震後世俗語之種』の諸本 原本  永井善左衛門幸一の自筆本で、永井家に伝えられています。,永井家文書として長野市指定有形文化財となっており、『善光寺大地震図会』の書名で翻刻されています。,「地震後世」の部分は角書(つのがき)であるため、書名は『俗語之種』となっています。,この書名は特異ですので、このアーカイブでは一般的な『地震後世俗語之種』を用いています。,ただし原本を翻刻している『善光寺大地震図会』は、第6冊・第7冊の順序が入れ代わっているので、注意が必要 / 『地震後世俗語之種』の諸本
地震後世俗語之種 (著者)

地震後世俗語之種 / 著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺大勧進家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家,善光寺地震のあった弘化4年(1847)当時、幸一は34歳で、妻イト(糸)29歳、娘ジュン(順)16歳、,大工に店を任せていましたが、夕食後に家族そろって出店に出かけ、一人で本堂に参拝して本堂を出たところで大地震
地震後世俗語之種 (著者)

地震後世俗語之種 / 著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺大勧進家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家,善光寺地震のあった弘化4年(1847)当時、幸一は34歳で、妻イト(糸)29歳、娘ジュン(順)16歳、,大工に店を任せていましたが、夕食後に家族そろって出店に出かけ、一人で本堂に参拝して本堂を出たところで大地震
パスファインダー (善光寺地震)

善光寺地震 トピック(テーマ) 善光寺地震 ねらい 弘化4年(1847)3, 旧上水内郡 旧上高井郡  第四章「弘化四年 の善光寺地震」 2 書名 善光寺大地震,4 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺大地震図会:弘化四年 地震後世俗語之種 永井善左衛門/絵,地 内容紹介 質・地震学と歴史学の協力で新たな史料を発掘し、現代の地震災害対 策に活かせるヒントを示,弘化4年の善光寺地震の古記録による調査 5 書名 地震後世俗語之種:善光寺大地震図会 / 善光寺地震
地震後世俗語之種 (絵の解説)

地震後世俗語之種 / 1-59  地震の発生時のありさまです。善光寺の本堂前と思われます。,善光寺地震の悲惨さを伝える、『地震後世俗語之種』を代表する絵です。,地震の発生から2、3日が経過した善光寺の門前であることが分かります。,1-86  地震の際、善光寺本堂の釣鐘が揺れて落ちたことを図示しています。,地震と関連付けて不気味に感じられたにちがいありません。
地震後世俗語之種 (絵の解説)

地震後世俗語之種 / ここには地震前の、本来の水内橋が描かれています。,この堂も善光寺地震により、土砂とともに崩落してしまいました。,善光寺地震の4年も前のことなのですが、こうした不思議な現象は後で思い起こすと地震の予兆であったのではないかと,これは地震から1か月余たった時期で、しかも東方です。,三災とは地震・水害・火災で、2-60にも「三災一時の大難」という語句があります。
地震後世俗語之種 ([現代訳])

地震後世俗語之種 / 大地震が発する気が地中に満ち満ちて、漏れ出たことが疑われます。,こうした大地震を起こすほどの正邪のために、地中にはまだ不順の気が満ちていて、放出されないのでしょうか。,大地震が起こって例の岩倉山が崩落し、犀川の流れを堰き止めました。,その実物を手に入れて地震関係の袋に入れておいたので、後世までも捨ててはなりません。,きっと地震の揺れで壊れてしまったのだと、個々に話をしました。しかも犀川の瀬音も聞こえません。
地震後世俗語之種 ([翻刻])

地震後世俗語之種 / 爰に二十四日の夜大地震を発して 斯大災を受る事のおそろしさよといへり。,疑ふらくハ大地震 発する所の気、地中に満ち/\てもれたるにも ありけるや。,大地震発して彼の岩倉山抜崩     (改頁)   れ、犀川の大河を止む。,其生  物を求め得て、地震一類の袋に入置なれは、  後世まても捨へからす。,○尚残る所は地震書類入の袋、 ○丁未より戊申ニ至る所の記録帳、 ○地震大絵・洪水絵図、   是等
パスファインダー (1944年東南海地震と長野県)

1944年東南海地震と長野県 トピック(テーマ) 1944年東南海地震と長野県,公にされず隠された大地震下で学徒動員により三 菱名古屋航空機製作所で働いていた生徒たちが命を落とすなどの, 学徒勤労令 学徒勤労動員 東南海地震め殉難学徒の碑 戦争が消した諏訪〝震度6〟 昭和19年東南海地震,諏訪を中とした地震」と 「思い込んでいた」「東南海地震体験者の会」会長の宮坂五郎の手記を もとに描かれている,「諏訪の地震」は東南海地震の一環だったことや 諏訪の被害の実態や特徴など、戦意への影響を恐れ隠された地震 / 1944年東南海地震と長野県
地震後世俗語之種 ([現代訳])

地震後世俗語之種 / 起こって雷となり、また地震となるということです。,私が日記に記しておいたことを、このような大地震の原因ではないかと思いつくままにここに記します。,その昔   (1-23図・1-24図について) ◯前の図は、この『地震後世話の種』(正しくは『地震後世俗語,「地震だぞ。うろたえるな」という声も聞こえます。,ようやく地震であったことを知り、次に怖れたことは、このような大地震では地割れが起こって地中に飲み込まれてしまうのではないかということでした
地震後世俗語之種 ([翻刻])

地震後世俗語之種 / 嘉永元年戊申夏       (改頁)   伝聞、地震は陰陽の昇降浮沈の遅速,によ り発行して雷となり、地震となるとかや。,冷気にして地を 震ひ、秋暑難去(さりかたく)して邪気を発し、立冬よ り冬至に及すのころ暖気にして地震,徐(やうや)く 地震なる事をしりて、又おそるゝハ、かゝる大変 の事なれハ、地われて土中に埋なん事を,地震の 大なるを驚怖するのみなり。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 / 弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 弘化丁未春三月二十四日信州大地震山頽川塞堪水之図,上段の文章  冒頭で『三代実録』と『扶桑略記』の仁和3年(887)の大地震の記事を考察し、善光寺地震,現在では、仁和地震は南海トラフ沿いの大地震であって善光寺地震の前例ではないとする説が一般的ですが、大地震,善光寺地震が起きた3月24日、善光寺は御開帳の最中でした。,小市(長野市安茂里)では地震で真神山が崩落し、犀川へ押し出しました。
松本藩庄内組大庄屋御用留 (5、「御用留」にみる善光寺大地震の記録)

5、「御用留」にみる善光寺大地震の記録 収録した「御用留」の記述は、弘化5年正月元旦からはじまりますが,弘化四年で特筆すべきことは、善光寺大地震がおきていることです。  ,「廿四日夜五ツ七分頃、地震ゆり出し増々強ク大ゆりニて、我等方家居土蔵共ニ大ニ損し、四ツ時頃迄ゆり出し、,日「夜九ツ時大ゆり」、29日「地震ニ付善光寺参詣人死失之者書上」、4月6日「天気地震有之候但シ強シ」、,等々、体感した地震についてや、村のうごきは6月ころまで書かれています。   / 5、「御用留」にみる善光寺大地震の記録
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([現代訳])

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 / [現代訳] 弘化4年(1847)春3月24日、信州の大地震で山が崩れて川をせき止め、水をたたえている,「光孝天皇の仁和3年(887)7月30日、午後4時ころ大地震があって、数刻がたっても余震が止まない。,えきれない」 (注)『日本三代実録』(901年成立)に見える仁和地震の記録。,南海トラフ沿いの巨大地震とされる。   ○『扶桑略記』(第22)に次のように書いてあります。,仁和3年の大地震では信濃の6郡がことごとく流失したということです。
パスファインダー (長野県の災害)

キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 雑誌 長野県の災害 長野県に発生した水害、地震,水害、地震、土石流、火災、雪害、鳥害 松代群発地震 伊那谷災害 長野県西部地震 地震と防災 1,内容紹介 長野県に起きた水害、地震、土石流、火災、雪害、鳥害等災害全般につ いての企画展図録。,:長野県西部地震の記録 長野県西部地震の記録編纂委員会/編 家高卓郎 1986 内容紹介 昭和61,年に発生した長野県西部地震の記録 4 書名 信州の地震と防災 (信州大学放送公開講座):災害
むしくら日記 (『むしくら日記』という題名)

題名については、凡例の中で著者自身が、「むし倉日記と名付たるハ、こたひの地震、虫倉山の回り村々取分て大荒,にて、別に御届出たる程の事也、思ひ合すれハ、地震の来る方角例も此方に当ると誰もいふ也、しかれは此山究めて,地震の元なるへしと、独ふと思うかまゝに名付たる事にて、別ニ因所あるにあらす」(「むし倉日記と名づけたのは,、今回の地震で虫倉山のあたりの村々の被害が特に甚だしかったのは、別にお届けを出した通りですが、あれこれ,思い合わせてみると、地震の来た方角もこの方角にあたると誰もが言っておりますので、それならばこの山がきっと
『長野史料』索引 ([翻刻])

書中芋井三宝記ノ如キ、善光寺史略ノ如キ、地震記事ノ如キ、 古人ノ編成ニ係ルモノアレドモ、多クハ断簡零,    地震記事          地 一       松城藩家老鎌原洞山著。,中条代官高木氏救済所分届 地 二     地震見聞記事       仝 五     鷲沢氏地震記       ,人 四     地震ニ付松代藩ノ布達   仝 六     洞山先生地震詩      仝 六     ,寛延嘉永両地震      仝 五 三七     正徳四年地震       文政年間越后越郡ノ大地震地二
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([解説])

[解説] [目録] 長野郷土史研究会 小林一郎  次の項目は「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図,善光寺地震の被災図 原昌言による出版 観光案内図として 図中の文   上段の文章  弘化4,(大地震発生)  大地震によって虚空蔵山が崩落し、犀川をせき止めたこと、澣花川(裾花川)などの支流も,ここに記された被害の状況は、「弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図」に描かれています。,(まとめ)  鴨長明が『方丈記』に書いている通りで、地震ほど恐ろしいものはありません。  
パスファインダー (江戸時代千曲川水害と上今井瀬直し工事)

仁和4年の洪水 戌の満水 善光寺地震 千曲川瀬直し 内務省堤防 むしくら日記 信濃国地震大絵図 信濃国大地震火災水難地方全図,2 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 3 書名 著者名 出版社 出版年 善光寺地震に学,赤羽貞幸・北原糸子/編著 信濃毎日新聞社 2003.7.30 1世紀半前に長野県北部を襲ったM7.4地震,地質・ 地震学と歴史学の協力で、新たな史料を発掘。現代の地震災害対策に 活かせるヒントを示す。
松本藩庄内組大庄屋御用留 (4、御用留の書かれた年)

同じ3月24日に、善光寺大地震がおきます。,この大地震のため、善光寺西山地区で山崩れが発生し、とくに岩倉山の大崩落が犀川をせき止め、湛水湖をつくり
戸隠善光寺往来 (口絵)

綱が3本あることは、『地震後世俗語之種』(『善光寺大地震図会』)などの図とも一致しています。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([翻刻])

弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
『長野史料』索引 (『長野史料』の索引)

信州地域史料アーカイブはこの内、善光寺地震関係の史料として「地震後世俗語之種」を公開しています。
パスファインダー (善光寺四十九霊地)

出版社 長野市 出版年 1997.1 内容紹介 資料編近世 4 書名 善光寺大地震図会,著者名 永井善左衛門/絵 出版社 銀河書房 出版年 1985.12 地震後世俗語之種,これは、権堂村名主の永井善左衛門幸一 内容紹介 が、善光寺地震(1847年)の体験を子孫に伝えるために
むしくら日記 (4巻 貞)

  国役御普請被成下間敷旨被仰出候付、其以来無拠   手普請ニ而相凌罷在候処、当未三月廿四日夜大地震,筋何分も御普請被成下候様奉願候、以上、    五月朔日   御名   ○岩下革が話に、新町近辺の者地震,居しか、高浪洞中ニ打入足を浸せしかは、 何事なるやと驚き覚けるに、頻リニ強く震ひけるまゝ、 扨ハ地震,不明》の如く五色ニ 一の字を引り、誰も渠も見しか、何故なるをしらす、長 雨の兆ならんか抔云しか、地震,と云 旅籠やへ聟養子ニ成、地震の夜用事有之堂庭へ行ける に、俄の大地震、家並ヒシ/\と潰けるに魂を
むしくら日記 (1巻 元)

文も いと拙なけれと、校合も加へすそかまゝになし 置る也、 ○むし倉日記と名付たるハ、こたひの地震,、虫倉   山の回り村々取分て大荒にて、別に御届出たる 程の事也、思ひ合すれハ、地震の来る方角,例も此方に当ると誰もいふ也、しかれは此山 究めて地震の元なるへしと、独ふと思うか まゝに名付たる事,めぬ、 園柱誌     (改頁)   (改頁)      4  三月廿四日夜亥の刻少し過大地震,の塀、鎌原伸佑の門より東の塀、玉川左門中老 が南東へ折曲りし塀、池田大内蔵奏者が塀もたをれぬ、 地震
むしくら日記 (3巻 利)

中尾村は村内には水は入りませんでしたが、地震の際に皆家が潰れ、小屋掛けもできずに困っている者もいます。,栗田村は地震の被害、水害ともにありませんでした。,◯四ッ谷村で地震の時、産土神の社が潰れました。,東寺尾の町はいかにも地震は弱かったと見えて、傾いた家も見えません。向張の木が2本あるばかりです。,地震はよほど弱かったと思われます。金井山には小屋がたくさん見えました。
善光寺独案内 (『善光寺独案内』に収録された伝説)

弁慶ねじり柱  善光寺本堂の東向拝(ごはい)の柱で、一般には「地震柱」と呼ばれています。,弘化4年(1847)の善光寺地震でねじれたと伝えられてきましたが、実際には十分に乾燥していない木材を用
むしくら日記 (3巻 利)

  小屋懸も出来兼候難渋者共有之、夫々御手充申   渡候、   飯山御領石村・三才等ハ耕地水入、地震潰多,、今以片付出来兼申候、   三輪村・相之木村ハ地震之上善光寺出火ニて類   焼仕、少々つゝハ小屋懸出来申候,、   権堂村土蔵迄も不残焼失、掃払し、野中之様ニ   相成申候、   栗田村ハ地震水災共無御坐候,須坂ニ而地震并流失潰家死失人     (改頁)      21    一 流家二十九軒  一,ニ、大鋒寺御木像寺へ御帰坐也、御番頭一 組と御目付も出たり、予五ッ過より御代参をつとめし 途中、地震
むしくら日記 (『むしくら日記』の構成)

元    3月24日夜の地震発生直後から4月12日ころまで。    
むしくら日記 (1巻 元)

今日も強い地震があり、また鳴動ばかり強く揺れの小さいものもありました。,◯大地震の時、強い稲妻のような光が見えて、地震があったといいます。,さてまたこのたびの大地震はいかにも大変なことでございます。,地震前に普請に取りかかっていたものか、これもまた心配しております。,地震による立鼻村ならびに厚貝村の山崩れ箇所の調査報告 立鼻村 右の村は千曲川河岸にございますが、地震
秀吉と真田 (家康、秀吉に臣従)

だが、その翌日に起こった天正大地震の被害もあって、家康討伐どころではなくなったらしい。
むしくら日記 (2巻 亨)

其うちに村の男女も 追々ニ迯来りて、怖れおのゝき、只管に大悲の御名唱 ふるも多かり、藤太思ふハ、地震,にハむかしより火事と成 事多しと聞り、今の大変もし地震ならは火あらんか(ママ)     (改頁),      4   かと見ゐしに、潰れたる庫裡より火燃出、また遠近 にも猛火盛ん也、さてハ地震に,ふしぎや是程にハ酔さり しと思ひしにと云て、立ばこけ/\しける内ニ、其辺の 地裂けるに驚き、扨ハ大地震,御奉行殿のおつむりの上へ火の玉が落たと呼ひける を、音門きゝて、是ハ火の玉にてハなし、かやうなる大地震
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (熊坂村)

慶沢(けいざわ) 山: 黒姫山/長範山 川: 関川/池尻川/本道川/古海川/慶沢川/関川堤/地震滝
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (千栄村)

よなみね)/万時山/天ノ窪/柳窪/大郡(おおごおり) 山: 越危山/川尻山/溝垣外山/禿山/井ノ口山/地震崩山
松代まちあるきマップ (11松代象山地下壕)

舞鶴山(まいづるやま)(現気象庁松代地震観測所)を中心として、皆神山(みなかみやま)、象山(ぞうざん)
寛保二年大洪水余禄 ([翻刻])

ヒロニワ)江 水押上ケ、御番所之 ふみ石迄水押上ケ候 たちまに両掘れて かけ入ル、其ひゝき 大地震之入
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([現代訳])

あるいはこの日、西北に白い虹のようなものが見えたということです]、わが信濃の国に大地震があり、山が崩れて,地震の翌日の昼になっても盛んに燃えていました。,たちまち大地震が起こって火災が発生し、周囲に燃え広がりました。,24日の地震以上だったということです。,大地(土)だけは変わってしまうことがないと思っていたが、恐ろしいものの中でも特に恐れなけれならないのは地震
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (野尻村)

長範山/家老路 山: 黒姫山 川: 関川/池尻川/赤川/山桑川/馬屋久保ノ堤/石積堤/熊倉堤/地震瀑布
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (稲荷山町)

学校: 小学稲荷山学校 古跡・名勝: 城址/鉦山/塚穴/城水/義仲鞍掛石/舟繋石/和歌ノ芭蕉碑/地震横死
寛保二年大洪水余禄 ([現代訳])

土石流の音は大地震、あるいは雷の音のようだった。
むしくら日記 (2巻 亨)

藤太は、地震の時は昔から火事になることが多いと聞いている、今の出来事がもし地震なら火事が起こっているだろうと,やはり地震だったのかと初めて悟り、燃え出した庫裡の方をつくづくと眺めていると、火煙が盛んに燃えながら、,このような大地震の揺れの時には、陽気と言って地中から火の玉のようなものが出ることがある。,地震の時土蔵に寝ていましたが、ひと揺れで押し潰されてはりの下敷きになり、しかも裸で寝ていたとのことです,私の在所信州松代は、先達て先に御届けした通り大地震で、更級郡山平林の岩倉山が崩落して犀川を埋め立て、2
パスファインダー (長野市長沼地区)

佐藤魚 淵 西島士英 村松春甫 りんご アップルライン 洪水水位標 北陸新 幹線 洪水 東日本台風 長沼地震,昭和十六年(一九四一)長野市北東部を襲った長沼地震 山上茂司/著 市誌研究ながの 2015.03.01
パスファインダー (天明3年(1783)の浅間山噴火)

記載 1 論題名 京都大学に所蔵されている自然災害史料の解読と画像化 : 弘化四年善 光寺地震,URL https://adeac.jp/shinshu-chiiki/ 概要 「地震
パスファインダー (渡辺 敏)

長野高等女学校・長 野商業学校の設立に深く関わり、また、善光寺地震の調査、郷土史料 の収集、理科の実験,についての記述がある 赤彦没後70年 信濃毎日新聞 夕刊1ページ 1996.3.7 活断層を歩く 善光寺地震断層
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

 村方差支有無  別紙之通御沙汰ニ御座侯、御  詮義之上、可被仰上侯、以上、   廿五日 一地震,ム  同 四日 天気少曇、         地震昼夜         五六度、朝大ゆれ  同 ,  十三日 十二日夜より雨地震            折々   十五日 天気地震折々   十六日, 天気中是       地震折々 一当日宗門御改ニ付、我等鍛之助  出勤致ス、尤鍛之助朝五ツ前ニ,  十八日 天気、地震折々   十九日 雨、地震夜中   廿 日 天気、雨夜       地震中
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

支えの有無について別紙のとおり御沙汰があったので、御詮議のうえ仰せ上げられたい、 二十五日 一、地震,げ渡すので、封をして差し上げるから請け取ること、金井より、三月二十九日 右を今町へ直ちに遣す 一、地震,四度ばかり、 六日 天気、地震あり、強い、 七日 同じ 八日 曇り、地震、同断じ 九日 八日夜,十三日 十二日夜より雨、地震折々 十五日 天気、地震折々 十六日 天気中是、地震折々 この日,し 十八日 天気、地震折々 十九日 雨、地震夜中 二十日 天気、雨夜、地震、中の大 中田より申
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