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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (坂木村)

坂木村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):坂城町(さかきまち) 明治初期:坂木村(さかきむら,) 幕末から明治初期:坂木村 幕末から明治初期(よみ):さかきむら 『長野県町村誌』 2巻 p1427,北国往還駅/横吹新道(よこぶきしんどう)/郵便局/通運会社 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 坂木村全図 / 坂木村
善光寺道名所図会 (○埴科郡坂木)

○埴科郡坂木 55右    坂木からは上田へ3里8丁あります。,坂木は、榊(注1)、坂城(注2)とも書きます。9町ほどの間が、にぎやかな町通りです。,坂木の郷は、南条・中条・北条と分れており、南条は今、鼠宿(注3)といい、中条は今の中ノ条(注4)、北条,は坂木(注5)宿です。  ,(注5)江戸時代を通して、坂木村は幕府領でした。         / ○埴科郡坂木
善光寺道名所図会 (○埴科郡坂木)

○埴科郡坂木 55右   上田へ三里八町、榊・坂城とも書す、九町程相対して巷となす、むかしハ葛,尾の城下なりしとぞ、坂木の郷ハ南条・中条・北条と分る、南条ハ今鼠宿 といふ、中条は今の中ノ条なり、北条,は即坂木宿なり、 ○坂城神社 葛尾古城山の麓にて、村上在城の頃城内なりしといふ、 祭神大己貴命・事代主命 / ○埴科郡坂木
善光寺道名所図会 (○下戸倉)

むかしは、直径2尺5寸ばかりの鍋蓋くらいの鉄に観音の像を鋳着け、鎖で木の枝に吊るしてありましたが、いまは、坂木宿,江戸時代には、坂木と力石・上平とを結ぶ重要な渡し場があった地です。
善光寺道名所図会 (○下戸倉)

故は、むかし径弐尺五寸計の鍋蓋程の銕に観音の像を鋳着て、鎖を以て 木の枝につるしてありしが、今ハ坂木宿
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (磯部村)

養蚕/薪伐/漁業 民業女: 生糸/縫織 その他特記ワード: 葛尾城/村上義清/板倉重通/坂木代官
宮坂弥五左衛門古記録 ([解説])

「戌の満水」に関しては、流域の各地に古文書が残されているが、坂木代官所支配地であった寂蒔村には、当時の,また、坂木代官所支配地の多くは上田藩領と松代藩領の境界部に位置するが、この大水害に関する史料がなく、研究
犀川を下る記 (3.千曲川通船)

千曲川通船 (1)通船の始まり  千曲川通船計画は、寛延2年(1749)水内郡権堂村瀬兵衛ら4人が、坂木陣屋
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

丹波島宿から川中島に出て、松代城下の寺社を訪ねて屋代宿に進み、この宿の山王社の祭事を探訪し、下戸倉宿・坂木宿
戸隠善光寺往来 ([翻刻])

田中、海 野を打過、上田の町、      (改頁)   夫より坂木、戸倉、屋代之渉 より姨捨山長楽寺
パスファインダー (春秋庵加舎白雄(かやしらお))

旧坂木村で活躍の女性俳人 藤沢雨紅の句集刊行 信濃毎日新聞社 朝刊22ページ 2018.1.18 姨捨棚田
パスファインダー (村上義清と村上氏)

2巻原始古代・中世編】 更級埴科地方誌刊行会/編 更級埴科地方誌刊行会 1978.8 村上氏の発祥、坂木北条
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (堺村)

文道山(ぶんどうやま)/小毛無シ山(こけなしやま)/横峯峠(よこみねとうげ)/落合山(おちあいやま)/坂木山
戸隠善光寺往来 ([現代訳])

田中宿、海野宿を過ぎ、上田の町から坂木宿、戸倉宿、屋代の渡し場からは、姨捨山の長楽寺、冠着山などが見渡
書留帳(延徳田んぼを漂流した話) ([解説])

その結果、十二月下旬、坂木代官所大草太郎左衛門一行が見分に来た。  
来目路の橋 ([解説])

刈谷原を経て坂木に至り坂城神社に詣でた。23日松代の宿を出立し、24日は善光寺の御堂に詣でた。
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([翻刻])

ストカヤ、是ヨリ此所ニ於て犀乗沢ヨリ 下千曲川へ落合ふ所迄ヲ犀川卜称ス、其後犀竜ハ 白竜王ヲ尋て、坂木
パスファインダー (善光寺参詣と善光寺道)

由比ヶ浜、入間川、倉賀野、松井田、碓氷峠 を越え、布引山、海野、坂木、篠ノ井などを経て善光寺に着きます
豆から日記 ([翻刻])

夕柳 東福寺 玄二 あかゝりのあとや柳のみどり吹 相八木 文雅 芽柳や月になる間の詠めもの 坂木,戸倉 可明 (改頁) うくひすの春ハ猶予もなかりけり 東素 鶯に山のたよりもきく日かな 坂木,なりけり 武 碩布 おしつけたやうに咲けり道の木瓜(ぼけ) 大兆 木の枝に麻ふりかけし接穂かな 坂木
信濃名勝詞林 (越路廼日記)

よらず犀川丹波川の仮橋をわたり丹波嶋北原を過筑摩川(千曲川)をわたるこ〻も船橋懸わたしたり矢代戶倉を過て坂木驛
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([現代訳])

というとか、犀乗沢から千曲川へ合流する場所までを犀川(さいがわ)という、その後、犀竜は白竜王を尋ね、坂木
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

このあと『善光寺之部』は小諸から上田、坂木、戸倉、矢代、しの々井、丹波島を通り善光寺に到着、終わりとなる
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

坂木といふ所を過て。山になれるを。梺(ふもと)になかるゝ千曲川の岸つたひに。道をつけかへたり。
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

鼠御発輦坂木(坂城)に御小休在らせ給ふ。,坂木学校生徒二百余名は横町に於て奉迎し、御小休中裏道よリ横吹新道第三号橋に到り、其前後に整列し奉送し奉,坂木を出づれば横吹新道(よこぶきしんどう 注九)とて千曲川に沿ひて開きたる四百間余の新道あり。      , 鼠 御 小休所    瀧 澤  漸  御茶料 拾五円 修繕御手当 (木杯一個白羽二重一疋)  坂木駅御小休所,〇坂木(坂城)、宮原生吉方なる御小休所は、表門と共に今取除かれて耕地となり、本宅のみを残せり。
小県郡民謡集 (成人謡)

(改頁)      58   ○坂木(注12)照るてる追分曇る花の都は雨が降る。
地震後世俗語之種 ([翻刻])

火災の後改暦、戊申の春を迎ふ といへとも、松城より辰巳にかけ戸倉・坂木辺 の山続に至り、何所とも無
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

越後より北陸道を経て関東に出るには、善光寺より犀川を渡り、丹波島、さらに千曲川を越え、屋代、戸倉、榊(坂木
地震後世俗語之種 ([現代訳])

大災の後、嘉永と改元があって、戊申(1848)の春を迎えましたが、松代から南東にかけての戸倉・坂木辺の
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

或(あ)る 人が松代から長野まで三里の夜道を、往復は出来まへと、 言ふたら、上田から坂木迄、三里の
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