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寛保二戌年水害御届書
([翻刻])
廿九日夜中大風雨當朔日従 未之刻千曲川・犀川其外川々 満水千曲川定水ニ二丈五尺余 増水仕、
城内
并侍屋鋪,流死人 男拾六人 女二十三人 一、流死馬 拾五疋 右之通
城内
并侍屋敷町家
寛保二戌年水害御届書
([現代訳])
千曲川は定水より約7m57cm 増水し、松代
城内
並びに侍屋敷、町家に以下のような 被害が出しましたので, 男16人 女23人 一、流死馬 15疋 右のとおり、
城内
並
松代まちあるきマップ
(1松代城)
天守閣は無く、
城内
には門、櫓、御殿などの建物、土蔵、作業場などがあった。,桜の名所として知られ、四月中旬頃、
城内
は満開の桜で彩られる。
松代まちあるきマップ
(29祝神社)
生魂命は慶長三年(一五九八)に東条から松代の現在の地に、健御名方富命・八坂斗売命の諏訪二神は、
城内
の鎮守
善光寺道名所図会
(○埴科郡坂木)
といふ、中条は今の中ノ条なり、北条は即坂木宿なり、 ○坂城神社 葛尾古城山の麓にて、村上在城の頃
城内
上田案内
([解説])
「松平神社」は、旧藩主松平氏を祀るために上田
城内
に建てられたが、現在は「真田神社」と名称を変えている。,その後、市民運動が盛り上がり買い戻され、現在は、元のように「櫓」として
城内
に戻っている。
善光寺道名所図会
(○埴科郡坂木)
坂城神社 葛尾古城山の麓にあり、村上氏がいたころはその
城内
であったといわれています。
秀吉と真田
(小田原出陣)
められているので、小田原一城を落とすだけで、関東を一遍に討ち果たすことができる、落城も間もないだろうが、長陣して
城内
,落去(らっきょ)程有るべからず候と雖も、長陣なされ、
城内
の奴原(やつばら)悉く干殺しに仰せ付けられ、出羽奥州
『説諭要略』巻一
([解説])
松本
城内
の筑摩県庁が開庁したのは五年一月十三日のことであった。
むしくら日記
(2巻 亨)
千曲川下続ヘ一面ニ押入候、水勢甚強、下 筋よりも追々湛来交溢水ニ相成、専致逆流、居城 際迄押上、
城内
地陸, (改頁) 25 大破候付、種々手当申付急難相防候内、致減水 候故、危
城内
,も早速行届申間布、必至与指(ママ)支、 人心不隠甚不安心奉存候、専ら手当等申付罷在候 得共、
城内
初家中屋敷破損并城下町領分村々,先達而先御届申上置候通ニ御座候処、其後も相止兼、昼 夜度々相震候趣ニ御座候、手遠之村方ハ未相分り兼候得共、
城内
并家中城下町破損所左之通御座候,安曇郡、去ル三月 廿四日夜四時比地震強、其後折々震有之、破損 所等有之、左之通、 一 御
城内
要害之外
木曾山林学校
(2.木曽の歴史)
然れども此山谷は信濃に接近するを以て世人尚信濃の
城内
となし、爾後(じご:そのあと)其所属分明(ぶんめい
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
([解説])
また、学問所の建物として、
城内
三ノ丸にあった家老・内藤蔵人の屋敷を使うことにしましたが、この建物は茅葺
むしくら日記
(2巻 亨)
また
城内
を差立・家督に時間交代で巡回させました。(延享ころの風廻り役に似ています。),
城内
の敷地より水が高くなったところは、去る文政年間にお知らせして築きました防水の土手で凌ぎました。,水嵩が減りましたので、危ういところで
城内
には水が入りませんでしたが、城下町へはだいぶ水が押し寄せました,いろいろ算段を申し付けておりますが、
城内
や家中、屋敷の破損ならびに城下町、領分の村々では倒壊した家、亡,遠方の村についてはいまだ様子が分かりませんが、
城内
ならびに家中、城下町の破損箇所は左の通りでございます
むしくら日記
(3巻 利)
[榊原式部大輔]御届 初度二度 私在所越後国高田、去月廿四日亥刻比より大 地震ニ而、
城内
住居向門櫓囲塀破損,三丸所々門囲塀橋腰懸大破 一 大手門橋右手土手三十間余裂崩、左手土手二十間 余大裂 一
城内
外往来道所々裂割,其後地震相止兼、猶又破損所出来、当 六日阿部伊勢守様へ御届書被指出、両度荒増 左之通、 一
城内
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
に、蛭子の社人とて三、四人あり、初市には地蔵清水といふ所にて塩をひろめし が[地蔵清水いまハ
城内
むしくら日記
(1巻 元)
れりと云、 ○廿六日の先御届左の如し、 私在所信州松代、一昨廿四日亥刻比より大地震ニ而、
城内
住居向櫓并囲塀等夥敷破損,潰家ハ相見へ不申、御城塀横筋ニわれ損候所所々ニ 見受申候、御城裏之方ハ塀傾候処も相見へ申候、御
城内
, 原田 糺 中村嘉一郎 湛の図一枚添出しぬ、 ○御
城内
御家中在町夥,金御願仰上られたりし、 過日先御届申上候通、私在所信州松代、去月廿四日 夜未曽有之大地震ニ而、
城内
櫓一
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([翻刻])
土橋武右衛門様 右之御方々様、二月十七日岩村田宿江御着被遊、十八日ニ当所江御出 被成、袋町口より御
城内
江御入被成
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
然して
城内
悉く火をかけ、やきうちにいたし候。鳥井彦右衛門尉は石垣をつたいにげ候よし。
むしくら日記
(1巻 元)
私の在所信州松代では、一昨日24日亥の刻(午後10時)よりの大地震で、
城内
の住居・向い櫓ならびに囲い塀等夥,
城内
では様々な噂が流れていて、収まる様子がありません。,◯御
城内
のお屋敷も民家もひどく損壊し、手配が行き届かないため、寛保の洪水のときの例に倣って御拝借金の御願,過日、先に申し上げました通り、私どもの領地信州松代では先月24日夜、未曽有の大地震があり、
城内
の櫓1箇所
寺子屋入門記録「壱番入門記録」
([翻刻・注記])
爪印 (改頁) 本町壱丁目 同断 仙台屋兼吉殿息子 一 当酉八歳 小松丹三郎 爪印 御
城内
寛保二年小諸大洪水変地絵図(2)
([現代訳])
右の方々は、二月十七日に岩村田へ到着され、十八日に当所へ来られ、袋町口より
城内
へ入られました。
むしくら日記
(4巻 貞)
私在所信州松代、先達追々御届申上 候之通、当三月廿四日夜大地震以来、度々 之地震ニ而、
城内
并家中町在居家其外,諸番所等屋根瓦 震落、壁破損 (改頁) 一、米蔵壱棟潰 一、同九棟破損 一、
城内
囲水除土堤五拾弐間崩
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
一日市場という所に、蛭子(えびす)の社人が3、4人いて、初市には地蔵清水(じぞうしみず、いまは松本の
城内
むしくら日記
(3巻 利)
越後高田侯(榊原式部大輔)御届 初度2度 私の在所越後高田では、先月24日亥の刻ころより大地震があり、
城内
住居
上田の早苗
([翻刻])
宇ヲ建立シ、之ヲ伝叟山月窓寺ト云フ、天正十三年ノ上田合戦ノ時、池田 長門守ノ手ニテ焼込ス、其後
城内
鷹匠町
信州飯田町家控
([翻刻])
宝永四亥年十月十三日於江戸 表ニ、諸国札遣停止被 仰出候よしニて相止候 一宝永四亥年十月四日地震強く揺き、御
城内
町在
地震後世俗語之種
([翻刻])
御城廓向も大破の夥しく、 殊更数日におよふといへとも地震鳴動止まさり けれハ、恐多くも 殿様御儀、御
城内
桜
信州飯田町家控
([現代訳])
一宝永4年10月4日地震で強く動き、
城内
町在々で大破がありました。
地震後世俗語之種
([現代訳])
でしたが、松代の城郭も地震の被害が大きく、また数日間は地震の鳴動が止まなかったので、畏れ多くも殿様は
城内
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
中沢、 (改頁) 7 十九日 廿 日 廿一日 一例年之通御
城内
稲荷様
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
(改頁) 21日、例年のとおり、御
城内
の稲荷様に拝礼、我らは鍛之助が出た。
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