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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長野町)

下西之門町/上西之門町/横沢町/狐池/西方寺裏/下長野/御殿/来間池/上長野/村前/八幡裏/獅々沢/堂西,/一本松/南往生寺平/北往生寺平/高岡/湯福/小丸山/焼野/法華久保/花岡平/岩井堂/山ノ神/大神宮/,稲荷社/諏訪社/山神社/御嶽社/大神宮社/西宮大神 寺: 善光寺/大勧進/教授院/吉祥院/長養院/玉照院,常行坊/甚妙坊/善行坊/玄証坊/大本願/堂照坊/堂明坊/兄部坊/随行坊/常円坊/正信坊/淵之坊/鏡善坊,/称名坊廃址/林泉坊廃址/遍照坊廃址/正定坊廃址/蓮池坊廃址/行蓮坊廃址/白狐庵廃跡/耕雲庵廃趾/霊雲院廃趾
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 (著者、絵師等)

信濃の部  越後から信濃に入り、戸隠山、明専寺、平出の藤兵衛宅、善光寺、堂照坊、西厳寺、長命寺、芝阿弥陀堂,当時は本堂内で夜間の参籠(お籠り・お通夜)が行われていて、本堂内で夜を明かした人々は引き続いてお朝事に,これは『信州善光寺御堂額之写』にも取り上げられた有名な絵馬で、「幽霊の絵馬」として現在は善光寺史料館に
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

高祖聖人爰に登山まし/\、中の院 行照坊に暫く止り給ひ、三尊の 弥陀仏を感得有て、即筆を 染られ,堂照坊  善光寺塔中四十八坊あり。内十五坊ハ妻帯して如来を守護す。,堂照坊ハ右十五院の内、其一坊なり。,〇善光寺南門堂照坊願証院ハ、往昔高祖  親鸞聖人御参詣の宿坊なり。,本堂十二間四面、経堂一区、坊舎三坊。本尊阿弥陀  如来[開基西念坊百歳にして作]。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

伝えられていることによると、親鸞聖人は当寺へご参詣になり、塔頭の僧坊願証院(堂照坊)に逗留されている間,堂照坊  善光寺の塔頭には、46の院坊がある。その内15坊は妻帯して、如来をお守りしてきた。,堂照坊はその15坊の一つである。  ,善光寺南門の堂照坊願証院は、その昔親鸞聖人が参詣された時の宿坊である。,本堂12間四方、経堂一棟、坊舎3坊。本尊阿弥陀如来(開基西念坊の百歳での作)。  
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (生田村)

長野県町村誌』 2巻 p1779に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 二ツ山/一本木/池下/御堂窪,/城平/山根/赤畑/宮地/中尾/稗田/山寺/大平/須川/上平/大窪/大山/光明坊/濡澤/神田/大澤/下川原,道路: 長野往還新道/長野往還 社: 熊野神社/日吉社/上諏訪社/下諏訪社/諏訪社/八幡社/天照皇大神,飯沼氏城址/真田氏館跡/尾野山氏城址/依田氏城址/孫台/三日城/ダイダラブッチ足跡二所/平等寺廃跡/地蔵堂廃跡
信濃名勝詞林 (信濃下向日記)

歩行]判左衛門麻上下[順に為右衛門]素袍(すおう)草履取喜六乗物[長刀持傘持] 沓籠 世尊院より御堂へ,案内有之候処暫く差扣へ候様申来り候との事暫く待合候処御 (改頁) 17 堂より案内有之世尊院内にて,行く内陣毛氈敷きあり堂奉行円乗院内にて着座開帳再拝開帳之後起坐善光之前へ一拝夫(それ)より御坐を下り本坊,はもいきくきあかしひるはもなけかひくらしなくさもる心もあらねはまさきつら永井のぬし福草の幸直あかせ秋の立ていくかもあらねは照月,はかくろひてをとめ子か手にとらすてふかゝみなす山のたをりゆさしのほる月の光は隈(くま)もなく国ぬちこと/\あきらけく照しとほろふ
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

、上人如来へ参詣の時逗留の所にして、自作の木像也、] ○親鸞聖人旧跡[堂照坊にあり、笹字の名号并に肉付,遠流にて、建暦元年の春勅許なり、其後常陸国へ御通りの      (改頁)   節、当山へ御仏詣堂照坊,の御 帰に、風越といふ所に暫く御休の時、御手慰に路傍の岩笹を 採たまひ文字の形をなし給ひ、即其夜堂照坊,]聖人肉附の御歯一ツ、[堂照坊にあり、] 七十四歳の御時にて、便御詠歌一首あり、   いつのまに髪,に霜おき一葉落ち身にしみてこそ南無阿弥陀仏 また元仁二乙酉年四月十五日御止宿あり、[堂照坊第二十四世空阿大徳了意此丘
地震後世俗語之種 ([翻刻])

此上の火害盗難を恐れて小屋毎にひやうし木う ち、ちやうちんを照らして小屋の外面を見廻り、 また狼の,よりてこの町を法然堂町といふ。 ○笹の葉の名号   此一軸は中衆の一老堂照坊にあり。,良性院・威徳院・常住院・蓮花院・尊勝院・    教授院・吉祥院・福生院・宝林院・常智院・長養院・玉照院,   以上廿一坊     堂照坊・堂明坊・兄部坊・白蓮坊・正智坊・渕之坊・常円坊・    行蓮坊,・寿量坊・林泉坊・称名坊・甚明坊・正定坊・    蓮池坊・常行坊・遍照坊 以上十坊 衆徒・中衆・妻戸一時
地震後世俗語之種 ([現代訳])

さらなる火災や盗難を恐れて、小屋ごとに拍子木を打ち鳴らし、ちょうちんで照らして小屋の周囲を見回り、狼よけの,そのためこの町を法然堂町といいます。 ◯笹の葉の名号 この掛け軸は中衆の重鎮堂照坊にあります。,・本覚院・良性院・威徳院・常住院・蓮花院・尊勝院・教授院・吉祥院・福生院・宝林院・常智院・長養院・玉照院,、以上21院、堂照坊・堂明坊・兄部坊・白蓮坊・正智坊・淵之坊・常円坊・行蓮坊・向仏坊・徳行坊・鏡善坊・,、常行坊・遍照坊、以上10坊、衆徒・中衆・妻戸が一時に焼失したのですから、名だたる霊仏・宝物の類が灰になることは
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

同様に「大本クハン」「四十六坊」「シヤカ堂」が赤く塗られていて、大本願(大勧進は無事)や、釈迦堂を含む,46の宿坊群が焼失したことを表示しています。  ,この図もそれを参照しているようです。,古ノ馬場ノ瀬」といった地名も、川中島古戦場の案内図に記入されている地名で、この図がそうした案内図を参照していることが,「弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図」を参照)  大俣(中野市大俣)の千曲川に女夫(めおと
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

上人が善光寺に参詣の時に逗留した場所で、自作の木像がある) ○親鸞聖人旧跡(堂照坊にある。,その後、常陸国(ひたちのくに)へ行かれる時、当山に参詣して、堂照坊にご逗留の間に戸隠に参詣された帰りに,でしばらく休んでおられた時、たわむれに道端の岩笹を採って、南無阿弥陀仏の文字の形を作られ、すぐにその夜堂照坊,この時堂照坊は、第21世源阿大蓮教智比丘(びく)の代であった)。,聖人の肉付きの歯、1つ(堂照坊にある)。74歳の時で、それを詠んだお歌1首がある。   
善光寺独案内 ([翻刻])

苅萱山寂照院西光寺 石堂町           にあり。  苅萱法師及石堂丸の開基なり。,(改頁)   見真大師御旧跡 石階の際の           堂照坊なり。,玉照院にあり。信濃百番の内。 法然上人御旧跡  正信坊にあり。故に字法然堂町といふ。,祭神 天照皇大神 寿福山寛慶寺 仝町にあり。  ,―――    仝横沢町 入歯 徳武金太郎 ―――    上後町 印舗 潤光堂    久保田照華
パスファインダー (親鸞聖人と善光寺)

キーワード 善光寺 親鸞聖人 聖徳太子 他力本願 自力本願 親鸞松 堂照坊 笹字の名号  関山神社
善光寺独案内 ([現代訳])

苅萱山寂照院西光寺  石堂町にある。苅萱法師と石堂丸の開基である。  ,右の方は山内の中衆という坊舎である。    ,(大本願の図)     見真大師御旧跡  石段の際の堂照坊である。,玉照院にある。信濃百番の一つ。   法然上人御旧跡  正信坊にある。,祭神 天照皇大神   寿福山寛慶寺  同町にある。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

さらに、正観音・馬頭観音の堂を建立して岩谷堂としました。  ,活鬼紅葉のたましいが大天狗・小天狗の形を表し、八丈坊・九丈坊と名乗り日吉権現の眷属となり、北向山を守ると,惟茂将軍は信濃の国の松尾に城を構え、大悲殿・瑠璃殿・日吉の神祠そのほかを残らず再建し、別に六十坊を建立,し支坊とし、七堂伽藍の霊場三楽四院六十坊と称しました。,金剛山常楽寺  照明院と号し、天台宗東叡山三寺の一つ。本尊は阿弥陀如来、大悲殿の別当所。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (春日村)

/矢名田/反田/矢花/落合/高橋/長戸/金塚/長林/善郷寺/後沖/前平/堺沢/別府/三切/裏屋/浄永坊/,/中田/茂沢/宇樽/原田/川原/岩下/小窪/牧寄/蔦石/一ノ瀬/細小路/東平/円覚/蔵体/諏訪入/実堂/,春日穴小屋城跡/小倉城跡/大小屋城跡/茨小屋窟/産ノ窟/向反邸跡/長林邸跡/別府廃跡/金塚/廃寺金井山法憧寺/遍照山繫福寺
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

在番持なり、天正十壬午年、再び  小笠原右近大夫貞慶入城なり、此砌深志を改て松本と称せらる、 ○遍照山光明院,なりにけるとなむ、        (略)          30   ○大宝山正行寺[東派松本御坊と,称す、本堂十二間四面、太子堂、経堂、佐々木堂、鐘楼、寺中四ヶ寺、妙勝寺、玄正寺、芳仙寺、浄信寺]  ,牛伏寺とふ霊場あり、[此道筋ハ五千石通とて、松本より塩尻への閑道なり、] ○金峯山牛伏寺普賢院威徳坊[,行程九里余、本社 奥宮ともに東面なり、   祭神 穂高見命 [南]石姥女命 [北]瓊瓊杵尊   天照大神
地震後世俗語之種 ([現代訳])

一山衆徒(宿坊)の門前には、破風屋根を付けた台提灯を一斉に並べ、小御堂はお布施の品々を掛け並べ灯明を灯,慣例として3月9日の午後3時頃、御本坊大勧進の表門から輿を出し、前立本尊のご宝龕(ほうがん)、御印文のご,しかし、他でもない願い出で、ご許可もあるはずではあるが、役人たちの考えもあるだろう、ついては御本坊より,さらに仕入れも間に合ったならば、境内の宿坊や旅籠屋にもお願いして、座敷に上がって旅人に勧めるについては,間もなく西之門町新道辺りから火の手が盛んに上がり、すぐに御本坊(大勧進)さえ危うく見えました。
地震後世俗語之種 (絵の解説)

1-12 「従石堂田甫善光寺市街ヲ見上ルノ畧図」(石堂田んぼより善光寺市街を見上ぐるの略図)  南石堂付近,現在ここは北石堂町と南石堂町の境になっていて、右手から二線路通りが合流している交差点です。,先頭は「光明遍照」「十方世界」の旗が立つ山門前に達しています。,1-66  永井善左衛門幸一は出店の梅笑堂に戻りました。これは梅笑堂付近の情景です。,善光寺地震が起こった弘化4年(1847)3月24日は、善光寺御開帳のさなかであったため、宿坊も門前の旅籠屋
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

遍照山光明院。松本入口長沢川のわきにある袖が池の傍にあります(馬喰町)。,東派松本御坊といいます。,本堂は12間四方、太子堂・経堂・佐々木堂・鐘楼があり、末寺は、妙勝寺・玄正寺・芳仙寺・浄信寺の4か寺です,金峯山牛伏寺普賢院威徳坊(筑摩郡内田村にあり、真言宗で高野山に属します)。    ,天照大神の社。右の3社の北に並んでいます。 穂高見命御陵(瑞垣の外本社のうしろにある)。
地震後世俗語之種 ([翻刻])

干時弘化丁未の夏、麦園に仮居の折節  徒然のあまり閑窓の下に塵を払ひ、十  六夜の月の照りを行燈の,常盤 なる松の声を添ヘ、鉢植なる梅が香福寿草も 共にうち揃ひたる此春を迎へ、はつ日の出青畳を 照し,旧例として三月九日申の上刻、御本坊表御門  より出輿ありて、御夲堂まて 前立尊像の  ,就ては 御夲坊より御内々仰入られも下さるへくや、内実 御許容の趣もあれはなり。,そのほともなく、西の門町新道辺より、火の 手盛んに燃立、暫時に御本坊こそ危く見えに けり。
俳諧二重染 (四季時候順)

栖かな 晋如 (改頁) 鶯や霞ヶ関の窓の内 楼川 梅 初梅や雨夜の軒も何所となく 夕佳堂 ,はつかはぬ十寸鏡 素丸  涼しく眠る物干の猫 之悦 子伝へも雫のはねる水なぶり 露月  六角堂は,撰居 郭公 問捨る草履の音やほとゝぎす 全木 老らくの其東海寺郭公  山夕 岩倉も寝坊は,をかぞふれば 財峩  おもて/\と落る桐の葉 安士 ナウ はじかみは隠逸らしく芋細 露月  坊主,もあかずたんぽゝ 来絮 仝(同) 卯の華は昼になるまで夜露哉 牧子  黄色な麦へちつとづゝ照る
俳諧二重染 ([上巻])

  狸之腹鼓               青瓐書 新蕎麦も 飽けば たぬきの はらづゝミ  円徑堂周角,(改頁) [七丁 オモテ]   狐を馬に乗たやう 女房に 見付られたり 糸薄     華星堂 沾霞,十八丁 オモテ / 十七丁 ウラ [十七丁 ウラ]   ひんすればどんする 蕣(あさがお)や 寝好坊主, オモテ]   腐ても鯛            財峩画 沢水を 呑むとすれば 蛍かな    観花坊柴翁,福井市立図書館本は 仁義勇の三冊本 その「勇」上(本書は柱刻では下)  同本の柱は破れのため不明  参照:
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」 小沢芝産同亀春一代記            ,慶応三年八月稿     (改頁)      2      「当家初代     好古堂芝産一代記,[二代]小左衛門 [華山蘭藁居士] [三代]治兵衛 [壁応心鉄居士] [四代目]小沢喜左衛門政則 照阿興吽居士,)キ政左衛門ト改名シ又団治ト改ム 隠居シテ        和徳ト号ス 実名匡晧随喜軒素信ト云 菁莪堂,不聞入女房も捨置欠込致候ニ付  親父之計ひニ而伝(ツテ)を求め叔母おりよさまをは暫之内上野東叡山御  坊官岸本按察知様江御奉公 / 寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」
おらが春 ([翻刻])

こたひ     (改頁)   同国の一之、家に伝へし坊が遺 稿をその儘上木して、追慕の こゝろさしを,予も亦旧知己 をわすれす、坊か命終の年、 柏原の旧里を訪ひて往事を かたるに、あるひは泣、あるひは,の火や朝の祝義の咳はらひ ゝ   三介か敲く木魚もしくれけり ゝ   木からしやから呼されし按广坊 ,にふりむく鹿や朝かすみ 圭布   深入は結句さひしや花の中 静一   はつ/\にさくや老樹のはな配り 照樹,元録(ママ)の一畸人にして、 一茶坊ハ今世の一奇人也。
違作書留帳 ([現代訳])

検査)が入り、御奉行玉川助之丞様、一合の実りにて八合九勺、二合にて一升二合、この年のあたり稲、「飛彈坊主,越後白葉」は大いによい、 不作のなかにて、一坪一升二合あり、 簑三分囲粟、「めざし」よい、「小ン坊粟,塩尻から諏訪までのうちで餓死した者が十一人ほどあり、あまりにもたびたびぼことなので、御届もせず、皆を堂へ,(東ノ町)、樋口右市様(御堂町)、     (改頁)   市橋円太夫様(西町)、西川清一郎様・,半鐘) つきぞめを侍る     (改頁)   観音堂晩鐘 つきぞめを 信心の力に響 かねの声 
小県郡民謡集 (成人謡)

○行(いこ)か長久保不動堂の橋よここが思案の山の鼻。,「ぼこ」……赤ん坊。〔方〕   3.「揺られ(ゆられ)」の転か。  ,天照す天照す 神の御國の神祭り     (改頁)      56   千秋萬歳御代ぞ目出度き御代,○信濃善光寺御堂で見下ろす大門町 權堂お女郎は吉原まがひで まわしの無いのがよござんす とこよいとこ,日清條約談判爆裂(注7)し 品川乘り出す東艦 大久保殺すも彼がため 西郷殺すも彼がため 遺恨なるちやんちやん坊 
義烈百人一首 ([翻刻])

相応したりと太刀をそへて領知の判物をたまはりしとかや、 (改頁) 29_菊地次郎武士 28_道場坊祐覚,28_道場坊祐覚(どうじやうばうゆうがく) おほかたの 年の暮ぞと 思ひしに 我身のはても 今宵,なりけり 【頭注】 道場坊助注紀祐覚は法勝寺の律僧なりしが、後醍醐天皇隠岐国より伯州舟の上山へ還幸,義照剃髪して大覚寺僧正と号す、然るに讒臣ありて義照は室町御所を傾んとする企ありと申す者ありければ、義教公大,柱に自書つけし哥なり、此堂は太閤此所の大樹の楠を切て造立ありし、俗に千畳敷といふ堂なり、直之勇功を人称
違作書留帳 ([翻刻])

御奉行玉川助之丞様   壱合毛ニ而八合九勺   弐合ニ而壱升弐合  此年あたり稲   飛彈坊主,  ゑちこ白葉大よし 〇不作之中ニ而坪壱升弐合有、 簑三分囲 粟   めざしよし   小ン坊粟,り咄候ハ、塩尻より 諏訪迄之内餓死致し 候もの十一人程有之、余り 度々之事故御届も不申、 皆堂へ,    (改頁)   何右衛門・千蔵・塩尻 左市頭字を入レて 十月廿二日 新田観 音堂晩鐘,つき初メ、 当村も役人始行、 代金三両壱分弐朱、 松本よねやニ而求 元の鐘ハ盗まれた、 堂にて
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

 樂  寺             元善町仁王門前 内務書記官          兄  部  坊,照  坊             西ノ門町八坂社前 侍従華族           光  明  院,浪費をことゝして借金に首も廻らぬ坊つ様もありたり。,勧業工場の職工男女に下賜されたる金額も、前記工人数と対照すれば余分なるが如し。,詳細ハ本録「聖蹟巡礼の記、北信の巻」ヲ參照アリタシ。  
贈答百人一首 ([本文、奥付])

られたり、又松殿僧正行意(まつどのそうじやうぎやうい)大病(たいびやう)を煩(わづら)ひ夢に志巻の毘沙門堂(, かはらざりけり 斯つらねて世のうきをおもひなげき、爰にて僧を請(しやう)じ戒を受て出家し、入道性照とあらため,の坊主くさきもよからねど、又俗の坊主くさきもよろしからずと 仏にも なりかたまりて いかにせん 石ぼとけらを,る、小寺休夢はいつにても御相伴御供にてことの外御意にかなひし人なり、同十八日、箱崎の松原海道の南、夷堂(,けん、給ず借したる毛氈も見えねば、さてはゑせ者季鷹と偽り、毛氈を欺きうばひたりとあたりを見れば、地蔵堂の
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

ささい)のことにも能(よ)く泣いたが 深窓(しんそう)育ちであって怯(おび)へるのであろうが可愛い坊チャン,或(あ)る晩泥     (改頁)      11   坊(どろぼう)がやって来た。,ってくるので、私は驚いて、無我夢中 で早く起き玉へ、早く起き玉へと、大きな声で呼び続けた ので、泥坊(,堂前のでんがく(一食参銭)、二王門横の五厘蕎麦、表 権堂と裏権堂の間の、を雪蕎麦(壱杯壱銭)等を、能,職務は全 国の郵便局て、受付けたる為替(かわせ)願書と、其(そ)の証書とを対照 記入、計算するので
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)

  (改頁)      7   (○中略)     六月十二日 昼迄曇天 昼後より夕陽 照輝,而諏方之義ハ全社家達之業ニ而     (改頁)      20   上方より贋役人ヲ連参り本地堂五重塔,下諏方観音堂御仮屋三重塔等破却 致し掛塩尻宿御陣屋詰磅《ハク》隊 ニ被取巻其上及掛合夜中ニ京都,中略)   真言の秘密もうせて還俗し 寺も散乱人も散乱 此頃は都も近く成にけり 復古にさはく坊主神主
むしくら日記 (1巻 元)

政堂まで行くと貫実子は早くも登城しておりました。,また政堂に戻りますと、役人たちが次々に出てきて、殿のご機嫌を伺いました。,◯堂島往来にも7、8寸から1尺くらいまでの地割れができました。,御届けをご参照ください。    ,稲荷山宿でさえも旅人が800人も死んだと聞きますので、善光寺では宿屋や宿坊まで加えれば旅人は3、4千人
烈女百人一首 ([翻刻])

の倭歌を詠ずる濫觴(らんしやう)は伊弉冊尊天の浮はしにて喜心哉(あなにへや)といひ給ひしを本とし、下照姫,熱田明神ならびに神々あらはれ給ひ蛇を退治し縁采女を助給ひしを、いとありがたし、 (改頁) 05_阿部照田姫,その辛苦いくばくなるや、猛きますらをなりとも、これに比すべきものまれなり、 (改頁) 05_阿部照田姫,子を抱きてのがれしが、身のおき所なきゆゑ、此哥を詠、をさなき子にそへ東大寺の門ぜんに捨おきしを、奥正坊といふ,にきこえ誠にやさしき者なりと、やごとなき方へ縁づき末めで度栄えけるとなん、因にいふ、むかしつくしの大進坊といふ
源氏百人一首 ([本文])

袖ぬるゝ こひぢとかつは しりながら おりたつたごの みづからぞうき 【頭注】 大臣家の娘にて前坊(,あきこのむちうぐう) 国つ神 空にことわる 中ならば 等閑事(なほざりごと)を まづやたゞさむ 【頭注】 前坊(,につきてそれになずらへて言る也、 【歌意】 月が澄む桂川の川向こうの里であるので、月の桂の光はゆったりと照っているのであろう,出版目録] [奥付] [奥付] 天保十年己亥十二月年発行 松軒田靖書 棔斎清福画 玉山書堂梓
北向山霊験記 戸隠山鬼女紅葉退治之伝 全 ([翻刻])

坊間(せけん)紅葉(もみぢ)が伝説(でんせつ)甚異同(はなはだゐどう)ありて、更(さ)らに拠(よる)べきなし,、 幾年(いくとし)古(ふる)き松杉(まつすぎ)や諸木(ものき)の多(おほ)く立茂(たちしげ)り、照(,不思議(ふしぎ)や、此時(このとき)空中(くうちう)に金光(きんくわう) 颯(さ)と照(て)らし来(,くげん)を薄(うす)くなさばやと、終(つゐ)に詣(も)ふで ぬ善光寺如来(ぜんくわうじにょらい)の御堂(,鎮座(ちんざ)まします北向厄除観音(きたむきやくよけくわんおん)大士へ御礼参(ごれいさん) ありて、堂宇伽藍
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