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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(長野町)
下西之門町/上西之門町/横沢町/狐池/西方寺裏/下長野/御殿/来間池/上長野/村前/八幡裏/獅々沢/
堂
西,/一本松/南往生寺平/北往生寺平/高岡/湯福/小丸山/焼野/法華久保/花岡平/岩井
堂
/山ノ神/大神宮/,稲荷社/諏訪社/山神社/御嶽社/大神宮社/西宮大神 寺: 善光寺/大勧進/教授院/吉祥院/長養院/玉
照
院,常行
坊
/甚妙
坊
/善行
坊
/玄証
坊
/大本願/
堂
照
坊
/
堂
明
坊
/兄部
坊
/随行
坊
/常円
坊
/正信
坊
/淵之
坊
/鏡善
坊
,/称名
坊
廃址/林泉
坊
廃址/遍
照
坊
廃址/正定
坊
廃址/蓮池
坊
廃址/行蓮
坊
廃址/白狐庵廃跡/耕雲庵廃趾/霊雲院廃趾
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
(著者、絵師等)
信濃の部 越後から信濃に入り、戸隠山、明専寺、平出の藤兵衛宅、善光寺、
堂
照
坊
、西厳寺、長命寺、芝阿弥陀
堂
,当時は本
堂
内で夜間の参籠(お籠り・お通夜)が行われていて、本
堂
内で夜を明かした人々は引き続いてお朝事に,これは『信州善光寺御
堂
額之写』にも取り上げられた有名な絵馬で、「幽霊の絵馬」として現在は善光寺史料館に
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
高祖聖人爰に登山まし/\、中の院 行
照
坊
に暫く止り給ひ、三尊の 弥陀仏を感得有て、即筆を 染られ,
堂
照
坊
善光寺塔中四十八
坊
あり。内十五
坊
ハ妻帯して如来を守護す。,
堂
照
坊
ハ右十五院の内、其一
坊
なり。,〇善光寺南門
堂
照
坊
願証院ハ、往昔高祖 親鸞聖人御参詣の宿
坊
なり。,本
堂
十二間四面、経
堂
一区、
坊
舎三
坊
。本尊阿弥陀 如来[開基西念
坊
百歳にして作]。
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([現代訳])
伝えられていることによると、親鸞聖人は当寺へご参詣になり、塔頭の僧
坊
願証院(
堂
照
坊
)に逗留されている間,
堂
照
坊
善光寺の塔頭には、46の院
坊
がある。その内15
坊
は妻帯して、如来をお守りしてきた。,
堂
照
坊
はその15
坊
の一つである。 ,善光寺南門の
堂
照
坊
願証院は、その昔親鸞聖人が参詣された時の宿
坊
である。,本
堂
12間四方、経
堂
一棟、
坊
舎3
坊
。本尊阿弥陀如来(開基西念
坊
の百歳での作)。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(生田村)
長野県町村誌』 2巻 p1779に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 二ツ山/一本木/池下/御
堂
窪,/城平/山根/赤畑/宮地/中尾/稗田/山寺/大平/須川/上平/大窪/大山/光明
坊
/濡澤/神田/大澤/下川原,道路: 長野往還新道/長野往還 社: 熊野神社/日吉社/上諏訪社/下諏訪社/諏訪社/八幡社/天
照
皇大神,飯沼氏城址/真田氏館跡/尾野山氏城址/依田氏城址/孫台/三日城/ダイダラブッチ足跡二所/平等寺廃跡/地蔵
堂
廃跡
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
、上人如来へ参詣の時逗留の所にして、自作の木像也、] ○親鸞聖人旧跡[
堂
照
坊
にあり、笹字の名号并に肉付,遠流にて、建暦元年の春勅許なり、其後常陸国へ御通りの (改頁) 節、当山へ御仏詣
堂
照
坊
,の御 帰に、風越といふ所に暫く御休の時、御手慰に路傍の岩笹を 採たまひ文字の形をなし給ひ、即其夜
堂
照
坊
,]聖人肉附の御歯一ツ、[
堂
照
坊
にあり、] 七十四歳の御時にて、便御詠歌一首あり、 いつのまに髪,に霜おき一葉落ち身にしみてこそ南無阿弥陀仏 また元仁二乙酉年四月十五日御止宿あり、[
堂
照
坊
第二十四世空阿大徳了意此丘
地震後世俗語之種
([翻刻])
此上の火害盗難を恐れて小屋毎にひやうし木う ち、ちやうちんを
照
らして小屋の外面を見廻り、 また狼の,よりてこの町を法然
堂
町といふ。 ○笹の葉の名号 此一軸は中衆の一老
堂
照
坊
にあり。,良性院・威徳院・常住院・蓮花院・尊勝院・ 教授院・吉祥院・福生院・宝林院・常智院・長養院・玉
照
院, 以上廿一
坊
堂
照
坊
・
堂
明
坊
・兄部
坊
・白蓮
坊
・正智
坊
・渕之
坊
・常円
坊
・ 行蓮
坊
,・寿量
坊
・林泉
坊
・称名
坊
・甚明
坊
・正定
坊
・ 蓮池
坊
・常行
坊
・遍
照
坊
以上十
坊
衆徒・中衆・妻戸一時
地震後世俗語之種
([現代訳])
さらなる火災や盗難を恐れて、小屋ごとに拍子木を打ち鳴らし、ちょうちんで
照
らして小屋の周囲を見回り、狼よけの,そのためこの町を法然
堂
町といいます。 ◯笹の葉の名号 この掛け軸は中衆の重鎮
堂
照
坊
にあります。,・本覚院・良性院・威徳院・常住院・蓮花院・尊勝院・教授院・吉祥院・福生院・宝林院・常智院・長養院・玉
照
院,、以上21院、
堂
照
坊
・
堂
明
坊
・兄部
坊
・白蓮
坊
・正智
坊
・淵之
坊
・常円
坊
・行蓮
坊
・向仏
坊
・徳行
坊
・鏡善
坊
・,、常行
坊
・遍
照
坊
、以上10
坊
、衆徒・中衆・妻戸が一時に焼失したのですから、名だたる霊仏・宝物の類が灰になることは
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([解説])
同様に「大本クハン」「四十六
坊
」「シヤカ
堂
」が赤く塗られていて、大本願(大勧進は無事)や、釈迦
堂
を含む,46の宿
坊
群が焼失したことを表示しています。 ,この図もそれを参
照
しているようです。,古ノ馬場ノ瀬」といった地名も、川中島古戦場の案内図に記入されている地名で、この図がそうした案内図を参
照
していることが,「弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図」を参
照
) 大俣(中野市大俣)の千曲川に女夫(めおと
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
上人が善光寺に参詣の時に逗留した場所で、自作の木像がある) ○親鸞聖人旧跡(
堂
照
坊
にある。,その後、常陸国(ひたちのくに)へ行かれる時、当山に参詣して、
堂
照
坊
にご逗留の間に戸隠に参詣された帰りに,でしばらく休んでおられた時、たわむれに道端の岩笹を採って、南無阿弥陀仏の文字の形を作られ、すぐにその夜
堂
照
坊
,この時
堂
照
坊
は、第21世源阿大蓮教智比丘(びく)の代であった)。,聖人の肉付きの歯、1つ(
堂
照
坊
にある)。74歳の時で、それを詠んだお歌1首がある。
善光寺独案内
([翻刻])
苅萱山寂
照
院西光寺 石
堂
町 にあり。 苅萱法師及石
堂
丸の開基なり。,(改頁) 見真大師御旧跡 石階の際の
堂
照
坊
なり。,玉
照
院にあり。信濃百番の内。 法然上人御旧跡 正信
坊
にあり。故に字法然
堂
町といふ。,祭神 天
照
皇大神 寿福山寛慶寺 仝町にあり。 ,――― 仝横沢町 入歯 徳武金太郎 ――― 上後町 印舗 潤光
堂
久保田
照
華
パスファインダー
(親鸞聖人と善光寺)
キーワード 善光寺 親鸞聖人 聖徳太子 他力本願 自力本願 親鸞松
堂
照
坊
笹字の名号 関山神社
善光寺独案内
([現代訳])
苅萱山寂
照
院西光寺 石
堂
町にある。苅萱法師と石
堂
丸の開基である。 ,右の方は山内の中衆という
坊
舎である。 ,(大本願の図) 見真大師御旧跡 石段の際の
堂
照
坊
である。,玉
照
院にある。信濃百番の一つ。 法然上人御旧跡 正信
坊
にある。,祭神 天
照
皇大神 寿福山寛慶寺 同町にある。
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
さらに、正観音・馬頭観音の
堂
を建立して岩谷
堂
としました。 ,活鬼紅葉のたましいが大天狗・小天狗の形を表し、八丈
坊
・九丈
坊
と名乗り日吉権現の眷属となり、北向山を守ると,惟茂将軍は信濃の国の松尾に城を構え、大悲殿・瑠璃殿・日吉の神祠そのほかを残らず再建し、別に六十
坊
を建立,し支
坊
とし、七
堂
伽藍の霊場三楽四院六十
坊
と称しました。,金剛山常楽寺
照
明院と号し、天台宗東叡山三寺の一つ。本尊は阿弥陀如来、大悲殿の別当所。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(春日村)
/矢名田/反田/矢花/落合/高橋/長戸/金塚/長林/善郷寺/後沖/前平/堺沢/別府/三切/裏屋/浄永
坊
/,/中田/茂沢/宇樽/原田/川原/岩下/小窪/牧寄/蔦石/一ノ瀬/細小路/東平/円覚/蔵体/諏訪入/実
堂
/,春日穴小屋城跡/小倉城跡/大小屋城跡/茨小屋窟/産ノ窟/向反邸跡/長林邸跡/別府廃跡/金塚/廃寺金井山法憧寺/遍
照
山繫福寺
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
在番持なり、天正十壬午年、再び 小笠原右近大夫貞慶入城なり、此砌深志を改て松本と称せらる、 ○遍
照
山光明院,なりにけるとなむ、 (略) 30 ○大宝山正行寺[東派松本御
坊
と,称す、本
堂
十二間四面、太子
堂
、経
堂
、佐々木
堂
、鐘楼、寺中四ヶ寺、妙勝寺、玄正寺、芳仙寺、浄信寺] ,牛伏寺とふ霊場あり、[此道筋ハ五千石通とて、松本より塩尻への閑道なり、] ○金峯山牛伏寺普賢院威徳
坊
[,行程九里余、本社 奥宮ともに東面なり、 祭神 穂高見命 [南]石姥女命 [北]瓊瓊杵尊 天
照
大神
地震後世俗語之種
([現代訳])
一山衆徒(宿
坊
)の門前には、破風屋根を付けた台提灯を一斉に並べ、小御
堂
はお布施の品々を掛け並べ灯明を灯,慣例として3月9日の午後3時頃、御本
坊
大勧進の表門から輿を出し、前立本尊のご宝龕(ほうがん)、御印文のご,しかし、他でもない願い出で、ご許可もあるはずではあるが、役人たちの考えもあるだろう、ついては御本
坊
より,さらに仕入れも間に合ったならば、境内の宿
坊
や旅籠屋にもお願いして、座敷に上がって旅人に勧めるについては,間もなく西之門町新道辺りから火の手が盛んに上がり、すぐに御本
坊
(大勧進)さえ危うく見えました。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
1-12 「従石
堂
田甫善光寺市街ヲ見上ルノ畧図」(石
堂
田んぼより善光寺市街を見上ぐるの略図) 南石
堂
付近,現在ここは北石
堂
町と南石
堂
町の境になっていて、右手から二線路通りが合流している交差点です。,先頭は「光明遍
照
」「十方世界」の旗が立つ山門前に達しています。,1-66 永井善左衛門幸一は出店の梅笑
堂
に戻りました。これは梅笑
堂
付近の情景です。,善光寺地震が起こった弘化4年(1847)3月24日は、善光寺御開帳のさなかであったため、宿
坊
も門前の旅籠屋
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
遍
照
山光明院。松本入口長沢川のわきにある袖が池の傍にあります(馬喰町)。,東派松本御
坊
といいます。,本
堂
は12間四方、太子
堂
・経
堂
・佐々木
堂
・鐘楼があり、末寺は、妙勝寺・玄正寺・芳仙寺・浄信寺の4か寺です,金峯山牛伏寺普賢院威徳
坊
(筑摩郡内田村にあり、真言宗で高野山に属します)。 ,天
照
大神の社。右の3社の北に並んでいます。 穂高見命御陵(瑞垣の外本社のうしろにある)。
地震後世俗語之種
([翻刻])
干時弘化丁未の夏、麦園に仮居の折節 徒然のあまり閑窓の下に塵を払ひ、十 六夜の月の
照
りを行燈の,常盤 なる松の声を添ヘ、鉢植なる梅が香福寿草も 共にうち揃ひたる此春を迎へ、はつ日の出青畳を
照
し,旧例として三月九日申の上刻、御本
坊
表御門 より出輿ありて、御夲
堂
まて 前立尊像の ,就ては 御夲
坊
より御内々仰入られも下さるへくや、内実 御許容の趣もあれはなり。,そのほともなく、西の門町新道辺より、火の 手盛んに燃立、暫時に御本
坊
こそ危く見えに けり。
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
寺子屋師匠の日記「当家初代好古
堂
芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」 小沢芝産同亀春一代記 ,慶応三年八月稿 (改頁) 2 「当家初代 好古
堂
芝産一代記,[二代]小左衛門 [華山蘭藁居士] [三代]治兵衛 [壁応心鉄居士] [四代目]小沢喜左衛門政則
照
阿興吽居士,)キ政左衛門ト改名シ又団治ト改ム 隠居シテ 和徳ト号ス 実名匡晧随喜軒素信ト云 菁莪
堂
,不聞入女房も捨置欠込致候ニ付 親父之計ひニ而伝(ツテ)を求め叔母おりよさまをは暫之内上野東叡山御
坊
官岸本按察知様江御奉公 / 寺子屋師匠の日記「当家初代好古
堂
芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」
おらが春
([翻刻])
こたひ (改頁) 同国の一之、家に伝へし
坊
が遺 稿をその儘上木して、追慕の こゝろさしを,予も亦旧知己 をわすれす、
坊
か命終の年、 柏原の旧里を訪ひて往事を かたるに、あるひは泣、あるひは,の火や朝の祝義の咳はらひ ゝ 三介か敲く木魚もしくれけり ゝ 木からしやから呼されし按广
坊
,にふりむく鹿や朝かすみ 圭布 深入は結句さひしや花の中 静一 はつ/\にさくや老樹のはな配り
照
樹,元録(ママ)の一畸人にして、 一茶
坊
ハ今世の一奇人也。
違作書留帳
([現代訳])
検査)が入り、御奉行玉川助之丞様、一合の実りにて八合九勺、二合にて一升二合、この年のあたり稲、「飛彈
坊
主,越後白葉」は大いによい、 不作のなかにて、一坪一升二合あり、 簑三分囲粟、「めざし」よい、「小ン
坊
粟,塩尻から諏訪までのうちで餓死した者が十一人ほどあり、あまりにもたびたびぼことなので、御届もせず、皆を
堂
へ,(東ノ町)、樋口右市様(御
堂
町)、 (改頁) 市橋円太夫様(西町)、西川清一郎様・,半鐘) つきぞめを侍る (改頁) 観音
堂
晩鐘 つきぞめを 信心の力に響 かねの声
小県郡民謡集
(成人謡)
○行(いこ)か長久保不動
堂
の橋よここが思案の山の鼻。,「ぼこ」……赤ん
坊
。〔方〕 3.「揺られ(ゆられ)」の転か。 ,天
照
す天
照
す 神の御國の神祭り (改頁) 56 千秋萬歳御代ぞ目出度き御代,○信濃善光寺御
堂
で見下ろす大門町 權
堂
お女郎は吉原まがひで まわしの無いのがよござんす とこよいとこ,日清條約談判爆裂(注7)し 品川乘り出す東艦 大久保殺すも彼がため 西郷殺すも彼がため 遺恨なるちやんちやん
坊
違作書留帳
([翻刻])
御奉行玉川助之丞様 壱合毛ニ而八合九勺 弐合ニ而壱升弐合 此年あたり稲 飛彈
坊
主, ゑちこ白葉大よし 〇不作之中ニ而坪壱升弐合有、 簑三分囲 粟 めざしよし 小ン
坊
粟,り咄候ハ、塩尻より 諏訪迄之内餓死致し 候もの十一人程有之、余り 度々之事故御届も不申、 皆
堂
へ, (改頁) 何右衛門・千蔵・塩尻 左市頭字を入レて 十月廿二日 新田観 音
堂
晩鐘,つき初メ、 当村も役人始行、 代金三両壱分弐朱、 松本よねやニ而求 元の鐘ハ盗まれた、
堂
にて
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
樂 寺 元善町仁王門前 内務書記官 兄 部
坊
,
照
坊
西ノ門町八坂社前 侍従華族 光 明 院,浪費をことゝして借金に首も廻らぬ
坊
つ様もありたり。,勧業工場の職工男女に下賜されたる金額も、前記工人数と対
照
すれば余分なるが如し。,詳細ハ本録「聖蹟巡礼の記、北信の巻」ヲ參
照
アリタシ。
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
ささい)のことにも能(よ)く泣いたが 深窓(しんそう)育ちであって怯(おび)へるのであろうが可愛い
坊
チャン,或(あ)る晩泥 (改頁) 11
坊
(どろぼう)がやって来た。,ってくるので、私は驚いて、無我夢中 で早く起き玉へ、早く起き玉へと、大きな声で呼び続けた ので、泥
坊
(,
堂
前のでんがく(一食参銭)、二王門横の五厘蕎麦、表 権
堂
と裏権
堂
の間の、を雪蕎麦(壱杯壱銭)等を、能,職務は全 国の郵便局て、受付けたる為替(かわせ)願書と、其(そ)の証書とを対
照
記入、計算するので
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)
(改頁) 7 (○中略) 六月十二日 昼迄曇天 昼後より夕陽
照
輝,而諏方之義ハ全社家達之業ニ而 (改頁) 20 上方より贋役人ヲ連参り本地
堂
五重塔,下諏方観音
堂
御仮屋三重塔等破却 致し掛塩尻宿御陣屋詰磅《ハク》隊 ニ被取巻其上及掛合夜中ニ京都,中略) 真言の秘密もうせて還俗し 寺も散乱人も散乱 此頃は都も近く成にけり 復古にさはく
坊
主神主
むしくら日記
(1巻 元)
政
堂
まで行くと貫実子は早くも登城しておりました。,また政
堂
に戻りますと、役人たちが次々に出てきて、殿のご機嫌を伺いました。,◯
堂
島往来にも7、8寸から1尺くらいまでの地割れができました。,御届けをご参
照
ください。 ,稲荷山宿でさえも旅人が800人も死んだと聞きますので、善光寺では宿屋や宿
坊
まで加えれば旅人は3、4千人
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