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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (塩尻村)

塩尻村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:塩尻村(しおじりむら,) 幕末から明治初期:塩尻村/堀の内村/大小屋村/桟敷村/長畝村/大門村/金井村/柿沢村/上西条村/,住吉/三ッ長段田/井尻五段田/家裏/大門原/下大門/上大門/山ノ神/東村/一町田西村/花見 山: 塩尻峰東山,/塩尻嶺永井坂戦場/塩尻戦場/桔梗ヶ原戦場/長者平/塩尻嶺/物見山/水ノ別レ山 物産2: 繭/生糸,史料ID:8-1 6-30 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌 / 塩尻村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (上塩尻村)

上塩尻村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:上塩尻村(かみしおじりむら,東太郎山/虚空蔵山/東山 川: 千曲川 橋: 船橋 道路: 北国街道/松本道 社: 上塩尻神社,/座摩神社 寺: 東福寺/虚空蔵堂 学校: 塩尻学校 古跡・名勝: 虚空蔵山城址/信福寺跡,/真綿/紬/木綿機 その他特記ワード: 須波郷 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 上塩尻之図 / 上塩尻村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (下塩尻村)

下塩尻村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):上田市(うえだし) 明治初期:下塩尻村(しもしおじりむら,渡・堰: 用水堰 道路: 北国街道 社: 天神社/飯綱神社 寺: 福生院 学校: 塩尻学校,真綿/紬/木綿/機織 その他特記ワード: 須波郷 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 下塩尻村之図 / 下塩尻村
蚕かひの学 ([解説])

上田市の塩尻地区は、知識と教養を持った在村文化人ともいえる蚕種商を輩出しました。,塩尻では在村文化の一つとして俳諧結社がつくられ、俳句と蚕種が結びついていました。,塩尻の蚕種商人たちは、いくつもの養蚕書を刊行しました。次に三冊の養蚕書を紹介します。,・上田領上塩尻村の塚田与右衛門は、上田小県地域では最も早い養蚕書といわれる『新撰養蚕秘書』を宝暦七年(
パスファインダー (慶応2年の木曽騒動)

資料リスト 雑誌 慶応2年 木曽騒動 松本領 尾張領 幕府領 藪原 奈良井 洗馬 本 山 塩尻,徒党乱妨一件取調 徒党乱妨害一件始末書上帳 (いずれも史料の翻 刻) 3 書名 東筑摩郡・松本市・塩尻市誌, 第二巻 歴史下 著者名 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会/編 出版社 東筑摩郡・松本市,・塩尻市郷土資料編纂会 出版年 1968 内容紹介 木曽騒動の顛末 騒動勢(第一波から四波
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

○筑摩 洗馬 16左   郷原へ壱里半[善光寺道なり、]塩尻へ壱里三十町[中山道筋なり、]京師より,所々の谷 川落あひて大河となり、松本の西にいたり、熊倉の橋辺より犀川といふ、] 肘松 洗馬を出て、塩尻,よりの御沙汰として枝葉を払ふ 事を制せられ、其辺百坪ほど除地なりといふ、 是より桔梗が原にて、東ハ塩尻辺
パスファインダー (幕末の木曽騒動)

神戸村 野口新田 竹田村 下大池村 小坂村 上大池村 松本藩 古見村 小野沢村 本洗馬村 大町 堀之内 塩尻町,長野県 1989 木曽騒動の発生、「世ならし」意識、の2項目で騒動の概略をまとめる 東筑摩郡・松本市・塩尻市誌,第2巻下 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会/編 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会 1968,しくまとめる 長野県史 近世史料編 第5巻(3) 中信地方 長野県 長野県 1974 東筑摩郡、松本市、塩尻市
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

○筑摩 洗馬 16左    洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里,(注)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う,肘松が、洗馬を出て塩尻の方へ別れる坂口にあります。,ここから桔梗が原で、東は塩尻あたりまで、西は木曽川端まで、北は松本のあたりまで広い広野が続きます。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

善光寺へ参るに多くハ中山道妻籠宿の橋場より右 へ入り、飯田の城下へかゝり、甲州の元善光寺へ参り、夫より塩尻宿,へ出て、此 道へ来るなり、[塩尻より是迄弐里]此側に神明宮の森あり、祠の右脇に立石あり、      
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (宗賀村)

宗賀村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:宗賀村(そうがむら,史料ID:8-1 6-29 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (筑摩地村)

筑摩地村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:筑摩地村(,史料ID:8-1 6-31 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (広丘村)

広丘村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:広丘村(ひろおかむら,史料ID:8-1 7-29 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (洗馬村)

洗馬村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:洗馬村(せばむら,史料ID:8-1 6-23 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌
パスファインダー (沢柳政太郎(2))

長 松本高等学 小里頼永 概要を知るた めのツール 1 書名 東筑摩郡・松本市・塩尻市誌,出版年 巻号頁数 2 論題名 著者名 雑誌名 出版年 巻号頁数 3 論題名 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会,東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会 1982 澤柳全集 全6巻 澤柳全集刊行会/編 澤柳全集刊行会
パスファインダー (松本城下町の移り変わり)

1 書名 著者名 出版社 出版年 内容紹介 東筑摩郡・松本市・塩尻市誌 第3巻[上] 東筑摩郡,・松本市・塩尻市誌編纂会 東筑摩郡松本市・塩尻市郷土資料編纂会 1962.11 明治以降の、旧松本市域
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (片丘村)

片丘村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:片丘村(かたおかむら,史料ID:8-1 6-32 目録を見る 変遷図 変遷図を見る 市町村史誌目次情報DB 塩尻市誌
パスファインダー (和合恒男)

概要を知るた めのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 東筑摩郡・松本市・塩尻市誌,  別篇人名 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会 1982
パスファインダー (蚕室造りの家と養蚕農家)

農商務省蚕業試験 場技師松永五作、上田蚕糸専門学校初代校長針塚長太郎、穂高蚕種 製造人相馬愛蔵、小県塩尻清水金左衛門,信濃毎日新聞社/編 信濃毎日新聞社 1972 内容紹介 「蚕室―人の住まいに優先―」を、塩尻市桟敷,桂木恵、冨田隆順、小林武彦、宮下勝江/著 上田小県近現代研究会 2012 旧神科村・豊里村・神川村・塩尻村,信濃毎日新聞 夕刊3ページ 年月日 2000.8.8 2 見出し 北国街道を行く(6)上田上塩尻
パスファインダー (臥雲辰致)

女鳥羽川 水車場 水車紡績・ 舟紡績 藍綬褒章 蚕網織機 細萱茂一郎 臥雲辰致 『東筑摩郡・松本市・塩尻市誌,』別篇人名 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会 東筑摩郡・松本市・塩尻市郷土資料編纂会 1982
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい、甲州(山梨県)の元善光寺へ参詣し、そこから塩尻宿,へ出て、この道へ来ています(塩尻からここまで2里)。
パスファインダー (中信地方の教育者たち)

1 書名 増補手塚縫蔵遺稿集 著者名 東筑摩塩尻教育会 出版社 東筑摩塩尻教育会
違作書留帳 (3、江戸時代の神戸村)

はじめは松本藩領に属し、出川組(いでがわぐみ)の神戸村・神戸新田村・二子村と、塩尻組の今村・小俣村の五
善光寺道名所図会 (○埴科郡坂木)

その際をつたい歩きして、下塩尻・上塩尻・秋和(注3)などの村々を通過、上田の城下に入ります。  ,(注4)『名所図会』が書かれたころ、新町は上田藩塩尻組、現在は上田市常磐城です。
善光寺道名所図会 (○埴科郡坂木)

大岩苔むして、十間十五間位或ハ二間三間程の岩幾許といふ数しら ず落重り、又山をなせり、其際を伝ひて下塩尻,・上塩尻・秋和等の 村々を過て、上田の城下に至る、城下の入口新町より右へ入り、千曲橋を 渉り、中の
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([翻刻])

一 海野宿半分亡所、残砂流入埋亡所同前、海禅寺村、深井村、 右同断、下塩尻下村亡所、中島、新屋亡所、
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (下之条村)

硯澤 川: 千曲川/浦野川 渡・堰: 用水堰 橋: 船橋 道路: 松本往還/隣村道/下塩尻村
パスファインダー (菅江真澄と『伊那のなかみち』)

三河 信濃 飯田城下 三州街道 塩尻市洗馬 洞月(どうげつ)上人 可児(かに)永通 手習師匠 旅日記 ,などを探すことができる 菅江真澄の資料館、秋田に 長興寺住職が招待 朝刊20ページ 1996.4.23 塩尻市
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (贄川村)

贄川村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:贄川村(にえかわむら
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (保野村)

け/下池/保野池 橋: 上手大橋/中橋/下ノ大橋 道路: 上田より別所道/浦野より長瀬道/下塩尻村
豆から日記 ([解説])

巻末に見える2巻の歌仙(三十六句の連句)のうち初めの1巻は、上田市塩尻の門人たちによるもの、後の1巻は
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (奈良井村)

奈良井村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):塩尻市(しおじりし) 明治初期:奈良井村(
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

下塩尻下村、中島、新屋、大日向、横沢久保、軽井沢、大庭も流失しました。
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

・「志 中山道下諏訪 塩尻え三里八丁 当所宿中に温泉有之候」旅籠屋五軒、店一軒  見開き2ページにわたる,・「志 中山道塩尻 洗馬え一里三十丁」旅籠屋八軒、店四軒  2軒の薬屋、菓子屋の広告が見える。  ,古代から交通の要所として重要な地である塩尻にいつ宿が成立したのかは定かではない。,中山道塩尻宿は、古町付近や近郷の人々を集めて宿役人を定め伝馬制を整えた。  
パスファインダー (長野県の動脈 篠ノ井線)

動脈 篠ノ井線 ねらい キーワード 概要を知るた めのツール 資料リスト JR篠ノ井線(塩尻,-篠ノ井)は、塩尻市と長野市を結ぶ路線である。
明治二年八月上田騒動一件書留 ([解説])

当時は親の定右衛門が塩尻組割番で、子の庄之助が西脇村庄屋であった。
蚕かひの学 ([現代訳])

・・・   天保十二丑年 信州上田在塩尻村 藤本善右衛門誌之」   最後の文章は、原書の通,蚕種の製造販売をしていましたが、文化五年(一八〇九)村の有志とともに、上州前橋在の糸師高山要七夫婦を塩尻
伊那の中路 わがこころ (伊那の中路)

その後小野村を経由して五月二十四日、桔梗が原(塩尻市)に着く。ここで長逗留をしている。,七月から始まった浅間山の噴火が遠く離れた塩尻市でも「昼頃からいよいよ勢いを増して、雷のごとく、地震のゆさぶるように
明治3年歎願書 ([現代訳])

に立て替えておいた代金(横浜の商人と契約を結ぶ前に上田地域の蚕種製造業者へ前貸ししてある)のみでは、塩尻組内,明治3年    午11月                   塩尻組                    
菴の春秋 ([解説])

その後小野村を経由して五月二十四日、桔梗が原(塩尻市)に着く。ここで長逗留をしている。,七月から始まった浅間山の噴火が遠く離れた塩尻市でも「昼頃からいよいよ勢いを増して、雷のごとく、地震のゆさぶるように
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

また、「中山道妻籠の橋場より右へ折れて、元善光寺へ参り、塩尻へ出る道程は、後編に譲る」とも記しています
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

原昌言による出版  この図を出版した原昌言(1820―1886)は、上塩尻村(上田市上塩尻)の人で、,上塩尻は蚕種の製造販売で知られた村で、昌言もそれに携わっていました。
伊那県布令書 ([解説])

明治二年三月になると、伊那県は東北信地域に中野・塩尻・御影・中之条局を置き、旧体制をすべて廃止し、新しい
豆から日記 ([翻刻])

改頁)     4 歳旦 七十を見かへる梅のはつ日かな 梨翁 分別にまだ手はつけず今朝の春 塩尻,笑顔哉 営之 はつ春や出あるく先がみな親子 雉啄 梅わか菜 似た家のあちらにもあり梅の花 塩尻, 広田 橘三 なつかしと鴈もかへるや京の空 寂蒔 文圃 蝶 蛙 飛影の何に似つらん草の蝶 塩尻,来て見れバ此山のミか春いそぐ さがミ 琶水 汐干 春の水 浦人やなにを汐干のあそびわざ 塩尻,松代 亜物 桃さくやあとになりたる不破の里 飯沼 露夕 猫の恋やつれしとさへいハれけり 塩尻
明治3年歎願書 ([翻刻])

御慈悲筋与難有仕合ニ奉存候、以上     明治三年    午十一月                   塩尻組
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

このルートは10数年で廃止され、慶長末年にはあらたに本山、洗馬・塩尻の筑摩郡三宿が正式な中山道と定められました
パスファインダー (長野県の誕生)

「文明開化と長野県」の「長野県が誕生するまで」には、信濃国に初めての 県が誕生し、飯島に庁舎を、塩尻
明治二年八月上田騒動一件書留 ([翻刻])

致居候ミせハ、皆打こわし候、夜ニ入悪行致候者者皆町続之もの共、 十九日、朝より雨、川むかふ者芳泉寺、塩尻組者向源寺,如何様ニも質素難渋いたし、農業出精取続候様 可致候事、 一、金三両三朱壱匁弐分五り 林定右衛門 塩尻組大中小破之者,預り候書類焼失 同 田中茂兵衛 外三軒踏荒し 一、居家土蔵迄踏込、家財大破、書類衣類焼失 下塩尻村,種々取交不用立、米五俵巣穴(殻)拾五貫文程 蒔散し、金三両弐分銭拾三貫文程紛失 下吉田村 宮坂勝五郎 塩尻組,五丁腰帯壱筋押取之上居宅へ 放火候得共消留候、小破 野竹村 内藤新左衛門 同 小破 宇作 塩尻組新町
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([現代訳])

ははてしなく広い海原(うなばら)だった、中山の崎から湖が入るので塩崎といい、その潮は伊奈(伊那)郡へ流れる、塩尻,(しおじり、塩尻市)の名もここからはじまった、深瀬(ふかせ)というの、その湖の中にある川筋の深い瀬のある
違作書留帳 (4、『松本市史』記述の天保の飢饉)

奈良井の鎮神社(塩尻市楢川)へ代参し、拝殿前の左右の砂盛の砂を田にまいたり、水口に鯨の油の串をさして虫
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (堺村)

長野県町村誌』 1巻 p1129に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 雪坪(ゆきつぼ)/塩尻
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