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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (塩崎村)

塩崎村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:塩崎村(しおざきむら,) 幕末から明治初期:塩崎村 幕末から明治初期(よみ):しおざきむら 『長野県町村誌』 1巻 ,大神社 寺: 善勝寺/高山寺/西光寺/天用寺/長谷寺/欣浄寺/浄信寺/上宮寺/来楽寺 学校: 塩崎学校,北第十四大区六小区取扱所/鉱山(滝ノ入・湯ノ崎)/郵便局(増田俊蔵宅) 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 塩崎村 / 塩崎村
パスファインダー (長野市篠ノ井地区)

キーワード 塩崎 共和 川柳 東福寺 西寺尾 信里 布施高田 布施五明 瀬原 田 御幣川 会 横田,「篠ノ井」「塩崎」「共和」「川柳」「東福寺」「西 寺尾」「信里」が篠ノ井地区である。,塩崎村史 柴田幸夫/編 塩崎村史刊行会 1971.10 昭和34年(1959)篠ノ井町は塩崎村と合併,北国街 道の篠ノ井追分は塩崎村にあるなど、篠ノ井の歴史を知る上で塩崎は 重要な地域である。,井地区文化財説明版設置事業 実行委員会/編 篠ノ井地区文化財説明版設置事業実行委員会 2012.3 中央、塩崎
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([解説])

・川中島、稲荷山、塩崎地域は上田藩松平氏の近親者が納めている領地ですから情報が入り『問屋日記』に記されているのです,八月一日には稲荷山と塩崎間の堤防が決壊、左岸の村々に大きな被害をもたらしています。,堤防を決壊させた洪水は、まず塩崎村を、次に御幣川村、会村、を襲い小森村に流れ込みました。,『松代満水の記』によると、流死者は塩崎村で八三人、御幣川村で一〇二人、会村一六人の多数に及んでいます。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([翻刻])

一 川中島、稲荷山、塩崎亡所同前、岡田砂入其外壱万石之内無難。
松代まちあるきマップ (19白鳥山證蓮寺)

西仏坊覚明は、篠ノ井塩崎の康楽寺を開山。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

一 川中島、稲荷山、塩崎が流失、岡田には土砂が流入しましたがそのほかの一万石の領地は無事でした。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (八幡村)

更級川/御言川/宮川/千曲川/石清水/五線(真光寺・泓・大道・中道・志川) 渡・堰: 本村用水堰/塩崎陽水堰
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (塩尻村)

勝弦(かっつる)道山神社/山神社/蛭子(えびす)社/熊野社/山神社/山神社/姥神社/山神社/豊作社/塩崎社
伊那の中路 わがこころ (わがこころ)

17日に帰途に就き、ふたつ柳、塩崎、稲荷山を過ぎ猿が番場峠を越え青柳に宿した。
パスファインダー (信州の山城を歩く)

葛尾城跡 戦国武将・村上義清の拠点 信濃毎日新聞社・朝刊28ページ 2018.6.17 塩崎城の「大塔合戦
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([翻刻])

      6   中ニモ筑摩・安曇ノ両郡ハ漫々タル海原ナリ、中山の 崎より湖サシ入リシニ依テ、塩崎卜称
パスファインダー (二・四事件)

信濃毎日新聞社 1993.1 内容紹介 7 書名 「二・四事件の周辺 一本のテープ」 塩崎小学校
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([現代訳])

一つは善光寺より犀川を渡り、芝村の阿弥陀堂を拝し、千曲川を越えて松代の城下に出、ここから塩崎、稲荷山、,未詳)     白鳥山康楽寺(西派、院家)  柴村より2里半、塩崎(長野市篠ノ井塩崎)にある。,初めは海野庄白鳥(東御市本海野)に一寺を開き、盛んに真宗を広めたが、後にまた塩崎(長野市篠ノ井塩崎)に,大宝山正行寺  東派御坊所(塩崎から稲荷山、麻績、青柳、会田、刈谷原、岡田、この間12里。
安曇・筑摩両郡旧俗伝 ([現代訳])

)   中でも筑摩と安曇ノの両郡ははてしなく広い海原(うなばら)だった、中山の崎から湖が入るので塩崎
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部 ([翻刻])

善光寺より犀川      を渡り、芝村の阿弥陀堂を拝し、千隈川を越へ松代の城下に出、是より    塩崎,未詳] 白鳥山康楽寺[西派、院家] 柴村より二里半、塩崎に有。    報恩院と号す。,始め海野庄白鳥に一宇を開き、  壮んに真宗を弘め、後又塩崎に一寺を建立し、是を康楽  寺と称す。,大宝山正行寺 東派御坊所[塩崎より稲荷山、をみ、青柳、会田、厂ヶ原、岡田、此間十二里。
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([現代訳])

2丈(6メートル)余も増水し、上流は横田(長野市篠ノ井)・篠ノ井(篠ノ井駅付近ではなく、長野市篠ノ井塩崎
田ごとのはる ([翻刻])

ひかれないかのぼり 径川 鳳巾きのふの空にならびけり トグラ 素月 飛鳥ハ何とおもふぞいかのぼり 塩崎釈
豆から日記 ([翻刻])

ともいふや花の色 烏丈 花見にとうちこぞり行田舎かな 稲荷 竹摩 いひよるや花の莚に世すて人 塩崎
むしくら日記 (4巻 貞)

外流行したりとそ、 公義より厳度御停止ありて、読売も錦画も後にハ止 たりしと云、川中嶋の内にても[塩崎領
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

矢代(屋代)舟渡は、矢代宿の新町を下った千曲川岸にあり、対岸の塩崎村唐猫神社側との間に設けられていた。
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