機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 11件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(塩崎村)
機織・縫裁 その他特記ワード: 掲示場/北第十四大区六小区取扱所/鉱山(滝ノ入・湯ノ崎)/郵便局(
増田
俊蔵宅
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
石田三成のほか、長束・
増田
・前田という豊臣家奉行の面々はもちろん、総大将に担ぎ出された毛利輝元や宇喜多秀家,檄文に名を連ねていた三人、長束正家・
増田
(ました)長盛・前田玄以については、長束は自殺したが、
増田
は家康,大坂の事、西の丸へ輝元(毛利)移られ、長大(長束正家)・徳善(前田玄以)・増右(
増田
長盛)丸々へ移り、,七月二十九日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押) 増右(
増田
右衛門尉
秀吉と真田
(家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)
八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣
増田
長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
豊臣家五奉行のうち、石田三成と浅野長政が抜けたあとの長束(なつか)正家・
増田
(ました)長盛・前田玄以の,七月十七日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押) 増右(
増田
右衛門尉)長盛(花押)
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([解説])
町内の
増田
塾では、後に「花月文庫」を残す飯島花月(保作)と同門であった。,に藩制の改革があって、学制も改められ、幼生寮(注4)が拡張されたので、私も入学することゝなったので、
增田
秀吉と真田
(伏見城普請)
長大(長束大蔵大輔)正家(花押) 極月十七日 増右(
増田
右衛門尉)長盛(花押)
宿継要書留
([解説])
また隣県の山梨県でも
増田
廣美氏の『商品流通と駄賃稼ぎ』などがあり、信州中馬との関係も研究されています。
秀吉と真田
(徳川秀忠軍の上田攻め)
慶長五年(一六〇〇)八月二十五日 「会津中納言」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・
増田
長盛
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
(改頁) 10 (中略) 明治二年正月、私が六歳になったので、町内の
增田
先生,改革があって、学制も改めら れ、幼生寮(注4)が拡張されたので、私も入学することゝなった ので、
增田
,(注1)
増田
秀実。当時の代表的な寺子屋師匠。,、上島徳義、 土屋筑溪、松前朝道、
增田
健太郎、廣瀬信太郎、森和重、 出野音吉、尼子麟太郎、吉岡銀一長,私は朝は
增田
先生の宅では、前漢書(注1)を読 み、夕方学校では、出野尼子吉岡の三氏と共に、私は皇朝
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
御承知被下候、早々以上 八月十一日 以書付申遣候 屯事
増田
万右衛門,明後廿三日御呼出し (改頁) 221 九月廿九日 神尾喜作殿
増田
為右衛門殿,共、 早々取繕元通りニ致候様、猶又申 達ス、 神尾喜作様
増田
万右衛門様
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
は、明十一日に御呼出しになった、御承知されたい、 八月十一日 書付をもって申し遣わす、 屯事、
増田
万右衛門,筑摩村の久兵衛は、明後二十三日に御呼出し、 (改頁) 九月二十九日 神尾喜作殿・
増田
為右衛門殿,そのような例はこれまでもなかったので、早急に修繕して元どおりにするように、なおまた申し達す、 神尾喜作様と
増田
万右衛門様
/ 1ページ