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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (塩崎村)

機織・縫裁 その他特記ワード: 掲示場/北第十四大区六小区取扱所/鉱山(滝ノ入・湯ノ崎)/郵便局(増田俊蔵宅
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

石田三成のほか、長束・増田・前田という豊臣家奉行の面々はもちろん、総大将に担ぎ出された毛利輝元や宇喜多秀家,檄文に名を連ねていた三人、長束正家・増田(ました)長盛・前田玄以については、長束は自殺したが、増田は家康,大坂の事、西の丸へ輝元(毛利)移られ、長大(長束正家)・徳善(前田玄以)・増右(増田長盛)丸々へ移り、,七月二十九日      長大(長束大蔵大輔)正家(花押)                増右(増田右衛門尉
秀吉と真田 (家康の真田再征進発と秀吉による懐柔)

八月七日付け上杉景勝宛ての秀吉の臣増田長盛・石田三成書状では、真田は「表裏比興者」なので成敗することにした
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

豊臣家五奉行のうち、石田三成と浅野長政が抜けたあとの長束(なつか)正家・増田(ました)長盛・前田玄以の,七月十七日 長大(長束大蔵大輔)正家(花押)          増右(増田右衛門尉)長盛(花押)
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([解説])

町内の増田塾では、後に「花月文庫」を残す飯島花月(保作)と同門であった。,に藩制の改革があって、学制も改められ、幼生寮(注4)が拡張されたので、私も入学することゝなったので、增田
秀吉と真田 (伏見城普請)

長大(長束大蔵大輔)正家(花押)    極月十七日 増右(増田右衛門尉)長盛(花押)          
宿継要書留 ([解説])

また隣県の山梨県でも増田廣美氏の『商品流通と駄賃稼ぎ』などがあり、信州中馬との関係も研究されています。
秀吉と真田 (徳川秀忠軍の上田攻め)

慶長五年(一六〇〇)八月二十五日  「会津中納言」上杉景勝から宇喜多秀家・毛利輝元・前田玄以・石田三成・増田長盛
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

  (改頁)      10   (中略)    明治二年正月、私が六歳になったので、町内の增田先生,改革があって、学制も改めら れ、幼生寮(注4)が拡張されたので、私も入学することゝなった ので、增田,(注1)増田秀実。当時の代表的な寺子屋師匠。,、上島徳義、 土屋筑溪、松前朝道、增田健太郎、廣瀬信太郎、森和重、 出野音吉、尼子麟太郎、吉岡銀一長,私は朝は增田先生の宅では、前漢書(注1)を読 み、夕方学校では、出野尼子吉岡の三氏と共に、私は皇朝
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

梗概也、今依之而一藩之臣被風化之実可得 而徴也、秀美請之騰録而納諸松平祠庫 明治十九年七月 旧臣増田秀実謹識
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

御承知被下候、早々以上   八月十一日    以書付申遣候      屯事       増田万右衛門,明後廿三日御呼出し     (改頁)      221     九月廿九日    神尾喜作殿    増田為右衛門殿,共、  早々取繕元通りニ致候様、猶又申  達ス、         神尾喜作様       増田万右衛門様
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

は、明十一日に御呼出しになった、御承知されたい、 八月十一日 書付をもって申し遣わす、 屯事、増田万右衛門,筑摩村の久兵衛は、明後二十三日に御呼出し、     (改頁)   九月二十九日 神尾喜作殿・増田為右衛門殿,そのような例はこれまでもなかったので、早急に修繕して元どおりにするように、なおまた申し達す、 神尾喜作様と増田万右衛門様
義烈百人一首 ([翻刻])

御父子の御中不和とならせられ御不興を蒙りてたゞちに虚名を申開んと聚楽より伏見に赴き給はんとせしに、途中に増田長盛来
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