機関トップ
資料グループ
テキスト一覧
キーワード一覧
NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ
トップページ
詳細検索
詳細検索
目録
テキスト
キーワード
その他(トップページ等)
検索条件を追加
目録
テキスト
年表
キーワード一覧
その他(トップページ等)
AND
OR
NOT
年号変換
閉じる
検索結果
: 27件
辞書ファセット
○○○
△△△
10件
20件
50件
100件
(並べ替え)
テキストタイトル(昇順)
テキストタイトル(降順)
ページタイトル(昇順)
ページタイトル(降順)
掲載ページ(昇順)
掲載ページ(降順)
/ 1ページ
善光寺道名所図会
(目録)
鐘楼 骨堂 経蔵 弁財天 秋葉宮 兄弟塚 山王塚 諸神塚 万善堂 別当
大勧進
地震後世俗語之種
(著者)
著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺
大勧進
家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家
地震後世俗語之種
(著者)
著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺
大勧進
家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家
地震後世俗語之種
(絵の解説)
(2-63左)
大勧進
寺侍の上田丹下、供の2人の若党、後ろは鑓持(やりもち)と草履取です。,同じく寺侍久保田内記と供回り4人、(続く6人が描かれていません)侍2人、
大勧進
別当山海、近習4人、手燭衆徒,(2-64左)右に続く若党の後には、
大勧進
寺侍の今井中三が前の寺侍と同様に4人を従えています。,2-71 ご本尊を
大勧進
から本堂にお移しする行列です。,先箱2人、高張2人、被官8人、尊勝院(洒水)、威徳院(手香炉)、被官2人、近習4人、
大勧進
別当山海、近習
『長野史料』索引
(『長野市史』と『長野史料』)
秋山は善光寺
大勧進
の寺侍の家に生まれ、教育界で活躍してきた人物でした。
善光寺独案内
(『善光寺独案内』に収録された伝説)
善光寺が創建された時、飛騨の荘作という者によって作られたという話は、荒唐無稽のようですが、寛慶寺の門が
大勧進
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図
(長野町)
伊勢社/八幡社/弥栄神社/天神社/稲荷社/諏訪社/山神社/御嶽社/大神宮社/西宮大神 寺: 善光寺/
大勧進
善光寺独案内
([現代訳])
別当
大勧進
山門の下、西の方にある。前に池があって欄干のある橋がある。風景がたいそう美しい。,
大勧進
の建物のひとつである。もろもろの法会はここで行う。,また
大勧進
も一棟だけで消し止め、その他も一斉に鎮火となって、人々はようやく安心した。,建久8年、源頼朝公が善光寺を再建した時、この門を
大勧進
へ移し、のこらず御造営になった。,その後、代々
大勧進
の門だったが、等順僧正の代にこれを当山(寛慶寺)に寄付され、今の
大勧進
の門を造営したことによって
パスファインダー
(信濃の絵解き)
サイト名 URL 概要 1 見出し 発行機関 年月日 2 見出し 発行機関 年月日 善光寺
大勧進
絵伝場
善光寺独案内
([翻刻])
別当
大勧進
山門の下、西の方にあり。 前に池ありて蘭干 橋あり。,
大勧進
のやしき内なり。 御法会諸事此処にて行ふ。,又
大勧進
も一棟にて消止、其外 一時に消囗とりて、諸人安蹟(ママ)の思 をなしぬ。,建久八年源頼朝公 善光寺再建の時、
大勧進
え移しのこらず御造営あり。 ,其後代々
大勧進
の門たりし を、等順僧正の代是を当山へ 寄附せられ、今の
大勧進
の 門を造営なりしによりて
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([解説])
同様に「大本クハン」「四十六坊」「シヤカ堂」が赤く塗られていて、大本願(
大勧進
は無事)や、釈迦堂を含む,5月16日からは
大勧進
万善堂に安置し、10月18日にようやく本堂に戻りました。
地震後世俗語之種
(絵の解説)
1-38~42 御開帳の初日(弘化4年3月10日)に行われた
大勧進
別当のお練りです。,この御開帳は常念仏堂で6万5千日間念仏を唱えた記念に行われたので、
大勧進
の行列はまず常念仏堂に参拝し、,
大勧進
のお練りの行列が下をくぐり抜けていた「常念仏」のちょうちんが正面にあります。
パスファインダー
(善光寺の火災と復興)
後期は、幕府が善光寺のみでは本堂 造営はおぼつかないと見て、松代藩に監督を命じ、また、江戸より慶運 が
大勧進
住職
パスファインダー
(善光寺史の研究)
全編
大勧進
に対する大本願の優位を証明しようとする趣 旨で一貫している。
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
([翻刻])
別当
大勧進
雖有小破不及顛仆倖脱火災。
地震後世俗語之種
([現代訳])
その頃
大勧進
方と大本願方との間で論争があって、仮の御堂を二つの寺の間に建てましたが、御堂を再建し御仏をお,この時
大勧進
・大本願両寺から願い出があって、松代御城主様より普請の指揮のために諸役人を遣わされました。,この時別当の
大勧進
(大仏頂院権僧正山海)と松代の殿様(真田幸貫)が以前から懇意の間柄だったため時候のご,そこで私の実家である久保田家(善光寺
大勧進
家老)に相談をいたしましたところ、もとより血縁は特別なもので,間もなく西之門町新道辺りから火の手が盛んに上がり、すぐに御本坊(
大勧進
)さえ危うく見えました。
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図
([現代訳])
別当の
大勧進
は小破はありましたが倒壊は免れ、幸いに火災もありませんでした。
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
御影堂 叢林の中にあり、目疾の者此影像に平愈を祈るに霊験著し、去る宝治年 中法橋上人位入禅竪者性算
大勧進
むしくら日記
(1巻 元)
途中村人足を集 め、四五十人具し行て火防せよと云含めて遣りぬ る比ハ午過也、二人此夜の四ツ比に戻り来て、
大勧進
,ハ毘沙門山に遁れ、如来も裏手へ立退あり、本堂山門ハ 残り、
大勧進
ハ潰れて残り、本願上人の方ハ跡方,たり、御城土堤にて眼 鏡もてみるに、さなから河原の如く、其中に山門と本堂 のみ残りて兀立せり、
大勧進
,止宿し、怪我したりと云、丹下か家潰れて焼失し、 家内五人の内丹下残りたる計皆圧死せしと也、[焼て後、
大勧進
善光寺道名所図会
(○別所温泉)
宝治年間に、法橋上人位入禅・竪者性算
大勧進
となり、結縁のため多くの人を集め、開山大師の昔にならい、金銀泥
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
蹄音輪声(ひづめの音と車輪んの音)喧々囂々(けんけんごうごう わいわいがやがやいうさま)午后四時半頃、
大勧進
前,城山南方の高地[今城山館の所在地]
大勧進
の遊覽所に阿屋を建てられ、西方の高地[今縣社の所在地]は其昔毘沙門堂有,へ召され、金百円を如来堂に、金拾五円宛を
大勧進
、大本願に下賜せらる。,拾五円 一名五拾銭 医員講習所優等生徒 五円 同所長 貮拾五銭 善光寺如来堂 百円
大勧進
,〇長野行在所
大勧進
は、明治三十五年更に皇太子殿下の行在所となれり。
むしくら日記
(1巻 元)
2人はこの夜の四つ(午後10時)頃に戻って来て申すことには、
大勧進
の方々は毘沙門山(城山)に避難し、如来,も裏手へ運び出した、本堂・山門は残り、
大勧進
は潰れて残り、大本願上人の方は跡形もなく焼失した、道々村人足,
大勧進
へお見舞いとして白米30俵、椎茸5斤、干瓢70把を下され、長井主計が命を受けてお使いを勤めました,(火事の後、
大勧進
より東叡山に拝借願に丹下を出府させまして、5月10日に戻りました。
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
大勧進
の別荘がここにある) ○納骨堂(本堂の北西にある)この辺りは本堂の裏通りで、諸家の石碑がたくさんある,○
大勧進
(西側にある)別当所である。東叡山・比叡山からの住職である。
地震後世俗語之種
([現代訳])
られた時、この釈尊の御輿が渡船場の辺りに至って重くなったのを、ただ事ではないと言って、そのため御本院(
大勧進
,説明) 5月16日暁六ツ時(午前6時頃)にお供揃い、正五ツ時(午前8時)堀切道の御仮小屋から万善堂(
大勧進
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
六丈六尺七分、桁行十一間一尺三寸梁間四間二尺四寸、文珠四天王を 安す、○是より二王門までを誌す、○
大勧進
地震後世俗語之種
([翻刻])
其頃
大勧進
御方・本願上人御方争論の 事ありて仮御堂を御両寺の間に建といへとも、 入仏再建の企も延引,此時御別当
大勧進
[大仏頂院 権僧正山海御代也]松代 大守様元来の御懇意たる
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
翌八日に善光寺
大勧進
に着蓮された。
/ 1ページ