• 機関トップ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧

NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

  1. トップページ
  2. 詳細検索

詳細検索


検索条件を追加
閉じる
検索結果 : 29件
辞書ファセット
/ 1ページ
善光寺道名所図会 (目録)

  鐘楼   骨堂  経蔵   弁財天  秋葉宮  兄弟塚  山王塚  諸神塚  万善堂  別当大勧進
地震後世俗語之種 (著者)

著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺大勧進家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家
地震後世俗語之種 (著者)

著者 『地震後世俗語之種』を著した永井善左衛門幸一は、善光寺大勧進家老久保田家に生まれ、権堂村名主永井家
地震後世俗語之種 (絵の解説)

(2-63左)大勧進寺侍の上田丹下、供の2人の若党、後ろは鑓持(やりもち)と草履取です。,同じく寺侍久保田内記と供回り4人、(続く6人が描かれていません)侍2人、大勧進別当山海、近習4人、手燭衆徒,(2-64左)右に続く若党の後には、大勧進寺侍の今井中三が前の寺侍と同様に4人を従えています。,2-71  ご本尊を大勧進から本堂にお移しする行列です。,先箱2人、高張2人、被官8人、尊勝院(洒水)、威徳院(手香炉)、被官2人、近習4人、大勧進別当山海、近習
『長野史料』索引 (『長野市史』と『長野史料』)

秋山は善光寺大勧進の寺侍の家に生まれ、教育界で活躍してきた人物でした。  
善光寺独案内 (『善光寺独案内』に収録された伝説)

善光寺が創建された時、飛騨の荘作という者によって作られたという話は、荒唐無稽のようですが、寛慶寺の門が大勧進
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長野町)

伊勢社/八幡社/弥栄神社/天神社/稲荷社/諏訪社/山神社/御嶽社/大神宮社/西宮大神 寺: 善光寺/大勧進
善光寺独案内 ([現代訳])

別当大勧進  山門の下、西の方にある。前に池があって欄干のある橋がある。風景がたいそう美しい。,大勧進の建物のひとつである。もろもろの法会はここで行う。,また大勧進も一棟だけで消し止め、その他も一斉に鎮火となって、人々はようやく安心した。,建久8年、源頼朝公が善光寺を再建した時、この門を大勧進へ移し、のこらず御造営になった。,その後、代々大勧進の門だったが、等順僧正の代にこれを当山(寛慶寺)に寄付され、今の大勧進の門を造営したことによって
パスファインダー (信濃の絵解き)

サイト名 URL 概要 1 見出し 発行機関 年月日 2 見出し 発行機関 年月日 善光寺大勧進絵伝場
善光寺独案内 ([翻刻])

別当大勧進 山門の下、西の方にあり。       前に池ありて蘭干  橋あり。,大勧進のやしき内なり。  御法会諸事此処にて行ふ。,又大勧進も一棟にて消止、其外  一時に消囗とりて、諸人安蹟(ママ)の思  をなしぬ。,建久八年源頼朝公  善光寺再建の時、大勧進  え移しのこらず御造営あり。  ,其後代々大勧進の門たりし  を、等順僧正の代是を当山へ  寄附せられ、今の大勧進の  門を造営なりしによりて
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図 ([解説])

同様に「大本クハン」「四十六坊」「シヤカ堂」が赤く塗られていて、大本願(大勧進は無事)や、釈迦堂を含む,5月16日からは大勧進万善堂に安置し、10月18日にようやく本堂に戻りました。  
地震後世俗語之種 (絵の解説)

1-38~42  御開帳の初日(弘化4年3月10日)に行われた大勧進別当のお練りです。,この御開帳は常念仏堂で6万5千日間念仏を唱えた記念に行われたので、大勧進の行列はまず常念仏堂に参拝し、,大勧進のお練りの行列が下をくぐり抜けていた「常念仏」のちょうちんが正面にあります。
パスファインダー (善光寺の火災と復興)

後期は、幕府が善光寺のみでは本堂 造営はおぼつかないと見て、松代藩に監督を命じ、また、江戸より慶運 が大勧進住職
パスファインダー (善光寺史の研究)

全編大勧進に対する大本願の優位を証明しようとする趣 旨で一貫している。
信濃名勝詞林 (信濃下向日記)

心地して ふるさとの朝熊山のあさからぬ 人のこゝろをこゝに見しかな 十一日(四月)天気 今日大勧進
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([翻刻])

別当大勧進雖有小破不及顛仆倖脱火災。
地震後世俗語之種 ([現代訳])

その頃大勧進方と大本願方との間で論争があって、仮の御堂を二つの寺の間に建てましたが、御堂を再建し御仏をお,この時大勧進・大本願両寺から願い出があって、松代御城主様より普請の指揮のために諸役人を遣わされました。,この時別当の大勧進(大仏頂院権僧正山海)と松代の殿様(真田幸貫)が以前から懇意の間柄だったため時候のご,そこで私の実家である久保田家(善光寺大勧進家老)に相談をいたしましたところ、もとより血縁は特別なもので,間もなく西之門町新道辺りから火の手が盛んに上がり、すぐに御本坊(大勧進)さえ危うく見えました。
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

行在所は善光寺別当大勧進の家なり。午前十時に県庁に臨ませたまへり。県令楢崎寛直(ならさきひろなお)。,大勧進彼母某とか。おほん導きにて。こゝかしこみそなはせり。おのれはゆふかけて。
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

御影堂 叢林の中にあり、目疾の者此影像に平愈を祈るに霊験著し、去る宝治年 中法橋上人位入禅竪者性算大勧進
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([現代訳])

別当の大勧進は小破はありましたが倒壊は免れ、幸いに火災もありませんでした。
むしくら日記 (1巻 元)

途中村人足を集 め、四五十人具し行て火防せよと云含めて遣りぬ る比ハ午過也、二人此夜の四ツ比に戻り来て、大勧進,ハ毘沙門山に遁れ、如来も裏手へ立退あり、本堂山門ハ 残り、大勧進ハ潰れて残り、本願上人の方ハ跡方,たり、御城土堤にて眼   鏡もてみるに、さなから河原の如く、其中に山門と本堂 のみ残りて兀立せり、大勧進,止宿し、怪我したりと云、丹下か家潰れて焼失し、 家内五人の内丹下残りたる計皆圧死せしと也、[焼て後、大勧進
善光寺道名所図会 (○別所温泉)

宝治年間に、法橋上人位入禅・竪者性算大勧進となり、結縁のため多くの人を集め、開山大師の昔にならい、金銀泥
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

蹄音輪声(ひづめの音と車輪んの音)喧々囂々(けんけんごうごう わいわいがやがやいうさま)午后四時半頃、大勧進前,城山南方の高地[今城山館の所在地]大勧進の遊覽所に阿屋を建てられ、西方の高地[今縣社の所在地]は其昔毘沙門堂有,へ召され、金百円を如来堂に、金拾五円宛を大勧進、大本願に下賜せらる。,拾五円 一名五拾銭  医員講習所優等生徒 五円  同所長 貮拾五銭  善光寺如来堂 百円  大勧進,〇長野行在所大勧進は、明治三十五年更に皇太子殿下の行在所となれり。
むしくら日記 (1巻 元)

2人はこの夜の四つ(午後10時)頃に戻って来て申すことには、大勧進の方々は毘沙門山(城山)に避難し、如来,も裏手へ運び出した、本堂・山門は残り、大勧進は潰れて残り、大本願上人の方は跡形もなく焼失した、道々村人足,大勧進へお見舞いとして白米30俵、椎茸5斤、干瓢70把を下され、長井主計が命を受けてお使いを勤めました,(火事の後、大勧進より東叡山に拝借願に丹下を出府させまして、5月10日に戻りました。
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

大勧進の別荘がここにある) ○納骨堂(本堂の北西にある)この辺りは本堂の裏通りで、諸家の石碑がたくさんある,○大勧進(西側にある)別当所である。東叡山・比叡山からの住職である。
地震後世俗語之種 ([現代訳])

られた時、この釈尊の御輿が渡船場の辺りに至って重くなったのを、ただ事ではないと言って、そのため御本院(大勧進,説明) 5月16日暁六ツ時(午前6時頃)にお供揃い、正五ツ時(午前8時)堀切道の御仮小屋から万善堂(大勧進
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

六丈六尺七分、桁行十一間一尺三寸梁間四間二尺四寸、文珠四天王を  安す、○是より二王門までを誌す、○大勧進
地震後世俗語之種 ([翻刻])

其頃大勧進御方・本願上人御方争論の 事ありて仮御堂を御両寺の間に建といへとも、 入仏再建の企も延引,此時御別当大勧進[大仏頂院  権僧正山海御代也]松代 大守様元来の御懇意たる     
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

翌八日に善光寺大勧進に着蓮された。
/ 1ページ
  • 資料グループ
  • テキスト一覧
  • キーワード一覧
  • 機関トップ
  • 利用規定
  • 利用ガイド
  • サイトマップ
  • ADEACトップ
X(旧Twitter) facebook line urlcopy
トップへ
ページURLがコピーされました