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天保飢愁
([解説])
天保
飢愁 / [解説] [目録] 東御市文化財保護審議会 寺島隆史 江戸時代後期、
天保
年間に起こった
天保
の大飢饉,
天保
の飢饉は冷害によるもので、
天保
4年(1833年、巳年)に始まり同7年の被害が最大でした。,まず、
天保
4年(巳年)は長雨で秋の実りが悪く飢饉となりました。,冷害による凶作はこの
天保
7年で終わったのですが、翌8年春になり暖かくなったところで、「時疫」と称する疫病
天保飢愁
([翻刻])
天保
飢愁 / 上田海野町 松原晋蜂 1 (東山堂主人)
天保
飢饉,物価等記録
天保
飢愁 全 (改頁) 2 (改頁),よりもはやく (改頁) 6 既に五十余年をへて、今
天保
四年
違作書留帳
(4、『松本市史』記述の天保の飢饉)
4、『松本市史』記述の
天保
の飢饉 『松本市史』第2巻歴史編Ⅱ近世には、
天保
の飢饉について、かなりの頁,
天保
の飢饉 凶作は貯えのない農民の生活を容赦なく困窮におとしいれた。,ちょうど
天保
4年(1833)、5年がそうであった。,
天保
の飢饉は、人々に家存続のありかたを意識させるものとなった。,
天保
の飢饉をへて、
天保
9年(1838)から農村復興をめざした松本藩の
天保
の改革がはじまる。 / 4、『松本市史』記述の
天保
の飢饉
善光寺道名所図会
(著者)
著者 本書は、
天保
14年(1843)に脱稿し、下絵のままのものは改めて依頼して精画とし、嘉永元年(1848,利忠が本書の構想を思い立ったのは
天保
初年のことです。それから10数年の歳月を費して書かれました。
違作書留帳
(1、「違作書留帳」)
「違作書留帳」は、
天保
4年(1833)から11年(1840)にかけての記録で、当時全国に被害をもたらした,
天保
の飢饉に関して、その被害の状況や飢饉に至った際の対応の方法、村の様子などについて角之丞の見た範囲を,当時の丸山家当主の丸山角之丞は、毎年作成している「御用留」や家政に関わる公的日誌のほかに、とくに
天保
4,おそらく飢饉が下火となった
天保
11年の段階で、一気に書き上げたものと思われます。
善光寺道名所図会
(「名所図会」の刊行)
文化元年(1804)に、『木曽路名所図会』6巻が刊行されましたが、
天保
期になって、善光寺道の宿駅を中心
赤松小三郎書簡 実母宛
(幕末の先覚者赤松小三郎)
幕末の先覚者赤松小三郎 赤松小三郎は上田藩士芦田勘兵衛の二男、
天保
2年(1831)4月4日、今の上田市木町
違作書留帳
([現代訳])
[現代訳]
天保
(てんぽう)四年(一八三三)癸已(みずのとみ)、同五年甲午(きのえうま)、同六年乙未,一七八三)の飢饉、つづいて三年後の天明六丙午(ひのえうま)年(一七八六)、それより四十七年を経て、いまの
天保
四癸巳年,辛労を感ずることだ」と、このことを、朝夕忘れないようにすることだ、す (改頁)
天保
四癸巳年,、二合毛にtr八合一勺 御奉行の玉野勘兵衛様 初の坪にて七勺を御用捨、後の坪にて二勺を御用捨、
天保
銭,)の日記、 (改頁)
天保
八丁酉上納、去る申年(
天保
七年)の御直段三か所の平均が、
寺子屋師匠の日記
(小沢和徳の手習塾)
ただ、手習塾のほとんどは江戸時代末期、文化文政年間から
天保
の大飢饉のころに急速に増加しはじめ、6000,また、和徳の手習塾は塾が急増する
天保
年間以降のものであったから、その点でも絶好のモデルと言えよう。
犀川を下る記
(1.犀川通船の盛衰)
(「信濃の青竜 犀川」P264) 犀川通船は
天保
3年(1832年)に松本の白板から信州新町までの14,(2)通船営業 松本藩は女鳥羽川と田川の合流点に船会所を建て準備を整え、
天保
3年8月、松本白板-信州新町間
『長野史料』索引
([翻刻])
明治二年]人七 一一一 享和三年権堂田町高附帳 人二 一五 有地改冲付帳[妻科
天保
四年, 安永ヨリ文久ニ至ル駄賃帳 人三 四〇 安政六年江戸迄旅籠帳 人三 六六
天保
四年凶作后米相場,正徳元年博奕等事禁 (改頁) 四、諍訟嘆願 里方山方秣場争
天保
,] 人四 三〇 権堂町ト善光寺ト脇定一件 人六 一四 附帯書数通
天保
度倹約諭達
検地仕法
([解説])
は、今井村(松本市今井)と古見村(東筑摩郡朝日村)との用水をめぐる紛争解決のために、幕府がおこなった
天保
,
天保
2年には論所の地所改め(検地見分)もなされたうえで、新堰の埋めたてなど安永年度のきまりへの復帰を言,業をにやした幕府は、その紛争解決をはかるために、
天保
5年にこの地の地押検地の実施にふみきったのです。
諸国道中商人鑑
(4 小田井から本山まで)
天保
14年(1843)ごろの旅籠屋は7軒であった。,
天保
14年の明細帳によると、町の長さは6丁余、総家数82、本陣1、脇本陣1、旅籠屋が9軒であった。,
天保
14年、総家数80軒、本陣1、脇本陣2、旅籠屋6であり文久元年には旅籠屋14、牛宿1、木賃宿1、茶屋,旅籠屋六軒 中山道一の長丁場で難所であった和田峠を控えているため、本陣1、脇本陣2、問屋2、旅籠屋28(
天保
,
天保
14年の旅籠屋は29軒であるが文久3年(1863)には72軒と大幅に増え、飯盛女もいた。
松代まちあるきマップ
(10象山恵明寺)
天保
(てんぽう)四年(一八三三)、八代幸貫が本堂・御霊屋・鐘楼・庫裏など諸堂を再建。堂内には釈迦三尊、
違作書留帳
([翻刻])
[翻刻]
天保
四 癸 已 2 同 五 甲 午 同 六 乙 未 同 七 丙 申 同 ,五十一年をへて、 天明三癸卯年のききん也、 続て三年の後同六丙午年也、 夫より四十七年を経て今
天保
,委有 (改頁) 11 大三十日おだやかにして 世上静ニなる 〇
天保
六乙未年,弐合毛ニ而八合壱勺 御奉行 玉野勘兵衛様 初の坪ニ而七勺御用捨 後の坪ニ而弐勺御用捨
天保
,より江戸表へ 被仰上可被下様、松本御役所へ 奉願御下引叶 文政九戌より 十ヶ年平均
天保
六未迄
『長野史料』索引
(『長野市史』と『長野史料』)
妻科村誌、茂菅村誌(各村誌は明治八九年より十 二三年頃迄に編纂したるもの) 明和善光寺領人別、
天保
木綿商取締鑑札
パスファインダー
(女流の信仰物語、善光寺への女旅日記)
ざかり花の旅笠 著者名 田辺聖子/著 出版社 集英社 出版年 2001.6
天保
,
天保
12年(1841)1月16日から6月13日ま で、道程800里を超える旅日記 雑誌 インターネット
拾八町家並帳
([解説])
そのうち江戸時代のものは、宝暦2(1752)年・寛政9(1797)年・
天保
2(1831)年の3点です。,宝暦2年と
天保
2年の家並帳は、太田浅太郎『飯田町小史』(大正14年)の中に掲載されているものですが、原史料
検地仕法
([翻刻])
ケ様ニ認メ 荒所は御 検地之節 御見分無之 場所一枚絵図ニ仕立 耕地切用可申
天保
五午年八月,高六拾六石九斗三升壱合五夕四才 (改頁) 12 右者日々御案内見取聞書誌
天保
五午年八月
パスファインダー
(真田氏研究の基本史料・古記録)
にあたって」) 内容紹介 この事業の中心になって編輯に当たったのは、真田家重臣河原綱紀 で、
天保
,9年幸貫から編纂(へんさん)を命ぜられ、7年の歳月を経て
天保
14年12月に至って、正編62巻に
蚕かひの学
([現代訳])
・・・
天保
十二丑年 信州上田在塩尻村 藤本善右衛門誌之」 最後の文章は、原書の通,さらに、
天保
年間には秋田藩や米沢藩に招かれ、養蚕と蚕種の指導をしたとも伝えられています。
松代まちあるきマップ
(8象山神社 象山記念館)
望岳賦:
天保
十二年(一八四一)夏、象山三十一歳の時の作。
蚕かひの学
([解説])
・同村の藤本善右衛門保右も
天保
十二年(一八四一)に『蚕(こ)かひの学(まなび)』を著し、改版を重ねました
寺子屋入門記録「壱番入門記録」
([解説])
壱番入門記録 文政8年(1825)10月 ~
天保
6年(1835)4月 二番入門記録
天保
6年
犀川を下る記
(3.千曲川通船)
また、「
天保
12年(1841)善光寺町の厚連ら二人が通船10艘を用いることが許され、これが千曲川最大の
検地仕法
([現代訳])
でもこのように認め、荒れた場所は御検地のときに御見分のない場所を一枚の絵図に仕立てて耕地切りして用いた、 「
天保
五午年,高六十六石九斗三升一合五夕四才、 (改頁) 右は日々の御案内を見取り聞き書きして記したもの、
天保
五午年八月
信州善光寺御堂額之写
([翻刻])
「
天保
四年 巳三月十八日 加賀国 射水郡 行者 源介」 かくのごとく 三度まで をがみ,(下段) 「
天保
三壬辰 権堂村田町 九月十六日未明 宮下勝右衛門 御導師
寺子屋師匠の日記
(概要)
中でも、3代和徳は15歳で父の代役を務め、
天保
期から明治2年に没するまで 飢饉、開国、幕末という動乱の
善光寺道名所図会
(○筑摩 洗馬)
慶安4年(1651)に戸数117軒、
天保
14年(1843)に163軒で、本陣・脇本陣・問屋などは中央部
信州善光寺御堂額之写
([現代訳])
(絵)「
天保
四年巳三月十八日 加賀国射永郡 行者 源介」 このように3度まで拝み申し上げました。,(絵)「
天保
三壬辰九月十六日未明 御導師の図 権堂村田町 宮下笹右衛門」 (杖の絵)「尾州中島郡
パスファインダー
(真田三代の妻妾・子女)
1977 真田家御事蹟稿 この事業の中心になって編輯に当たったのは、真田家重臣河原綱紀 で、
天保
パスファインダー
(牧野康哉)
出版年 郷土歴史人物事典長野 古川貞雄/編著 第一法規出版 1978 内容紹介
天保
飢饉
善光寺道名所図会
(○筑摩 麻績)
本堂は
天保
年間(1830~1844)の再建で、本尊は阿弥陀如来坐像です。
パスファインダー
(御代田町塩野のカラマツ人工林)
書名 著者名 出版社 出版年 天然カラマツ、人工カラマツ、小諸藩、御林、牧野康哉、保護林、
天保
明治3年歎願書
([解説])
天保
年間、彼の先代から上田藩の御勝手方を勤めることとなり、上田藩の財政立て直しの助力をしていたようです
秀吉と真田
(「真田」の錦絵)
芳虎は
天保
年間(一八三〇年代)より明治初期に活躍。国芳の門人で武者絵を得意とした。
御城下古法并市場古法書抜書集
([解説])
末尾の記述を見ると、「
天保
14(1833)年閏9月写之」とあり、途中に「弘化2(1845)年2月写之候
寺子屋入門記録「壱番入門記録」
([翻刻・注記])
十月二十四日 池田町釘屋弥平次殿息子 一 当午八歳 福沢竹次郎 爪印 (改頁) 57
天保
六未年正月二十二日, 爪印 四月二十一日 知久町弐丁目水戸屋市太郎殿息女 一 当未八歳 児玉ひそ 爪印 去
天保
五午歳二月,箕瀬大野屋治助殿四女 一 当九歳 田中末代 【(付箋)明治三十五年調 大野屋弥之助母】 右弐人帳落故記干爰 去ル
天保
六未年二月
西江部村篠田家文書
([解説])
西江部村の村人は、大草代官に感謝し、その功績を長く伝えようと、
天保
四年(一八三二)に大草稲荷を建立して
宿継要書留
([解説])
いはこの後も続き、文政期(1818~1830)になると、三州(愛知県)に起こった三州馬との争いが出てきて、
天保
期
扶桑之蚕6巻
([解説])
ここには質問コーナーがあり「小石丸と又昔の由来を問ふ」に対し、「右答・又昔は安永・・・小石丸は
天保
年間信州小県郡伊勢山村
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
申学文能詩作等も被遊候 諸礼等委敷(くわしく)祖父団治へ不残御伝授有之右伝書等 所持罷在候処
天保
五甲午二月朔日夜火災, 御隠居様火燵(こたつ)ニ而本抔御覧之節御用ひ被成候様ニ迚 歳暮ニ持来り申候大ニ重宝ニ而有之候処
天保
五二月朔日火事,三略註書大本[但シ写本]明教大師補教編 其外写本小本等有之候 右亀春様より匡晧迄伝来 之処去ル
天保
五年火災,等拵子供教諭一段ニ御教被成南殿同様横川ニ而茂大ニ諸人ニ被倚 頼御安堵ニ御暮被遊候 文政九年より十十一十二
天保
,の御心弱キ所なれば傍ニ而如何様ニ申慰ノ候 而も御案事強ク候故分ケ而御弱ク相見心配いたし候 然る処
天保
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
天保
12年(1841)に深志神社というようになりました。 ,享和3年(1803)年閏正月に火災にあい、それから39年後の
天保
13年(1842)に起工し、檀家の協力,「アキハ」(秋葉堂)は
天保
11年(1840)の建立です。
(株)第十九銀行と諏訪製糸業
([ルビ・注記])
平野村林善左衛門ナル者始テ横浜へ輸出シ海外ノ販路ヲ開キ タリ其糸ハ鉄砲造ニテ百斤ニ付「ドル」幾個「
天保
蚕かひの学
([翻刻])
なきをかへりミず筆をとりていさゝか思ふよしを書つくるになん 信州上田在塩尻村
天保
十二丑年
地震後世俗語之種
(絵の解説)
石段下右側の建物(現在の蔵春閣の場所)は四宜楼という料亭で、漢詩人大窪詩仏が
天保
年間に「信州第一楼」という
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
同じく曇る (改頁) 九月二十五日 曇る 一、木綿短尺について、去る卯の年(
天保
十四年,、終日雪、 三月八日 快晴、暖い、 宗門送りは大事なことだが、まちまちな取り計らいがあり、すでに
天保
十三寅,この未二月より来る酉二月(嘉永二年)まで、一か国九十日宛、御料・私領・寺社領・在町に巡行されるにつき、
天保
十四卯年,してきたので、みな心得るように、もっとも、二通は右の巡行役人より御役所へ指し出す、同書面の写し鼠半紙書付は、
天保
年中
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
終日雪 三月八日 快晴暖し 宗門送り之義ハ大節之事ニ 候処、区々之取計有之、既去ル
天保
十三寅三月聢与御達,依之当 未二月より来ル酉ノ二月迄 一ケ国九十日宛、御 料・私領・寺社領・在 町令巡行候ニ付、
天保
,、一 同心得罷在候様、尤 二通者右巡行役人 より御役所江指 出候、同書面写鼠 半紙書付ハ、
天保
年中
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
右拾三町之者共江 (改頁) 26
天保
四癸卯年, 連印 (改頁) (改頁) (改頁) 79
天保
十四癸卯年
御城下古法并市場古法書抜書集
([現代訳])
松尾町通 右13町の者どもへ
天保
,文政5午年 18町組頭 連印
天保
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