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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (吾妻村)

吾妻村 地域 中信 市町村名 現在(令和2年):南木曽町(なぎそまち) 明治初期:吾妻村(あずまむら,) 幕末から明治初期:妻籠村/蘭村 幕末から明治初期(よみ):つまごむら/あららぎむら 『長野県町村誌,ページを見る キーワード 字地: 渡島/町分/大道/一石塚/上在郷 山: 床浪山/賤母山/妻籠峠,)縫織/養蚕/篶籠 その他特記ワード: 郵便局 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 吾妻村図 / 吾妻村
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (妻科村)

妻科村 地域 北信 市町村名 現在(令和2年):長野市(ながのし) 明治初期:妻科村(つましなむら,) 幕末から明治初期:妻科村 幕末から明治初期(よみ):つましなむら 『長野県町村誌』 1巻 ,待居堤 渡・堰: 鐘鋳堰/八幡堰/南八幡堰/古川堰/山王堰 橋: 鶴ヶ橋/華相橋/千代ヶ橋/吾妻橋,/常磐橋 道路: 北国往還/大町街道/新開県道 社: 妻科神社/諏訪社/弥栄社/火之神 寺: / 妻科村
パスファインダー (真田三代の妻妾・子女)

真田三代の妻妾・子女 トピック(テーマ) 真田三代の妻妾・子女 ねらい 名将,、豪傑にも妻があり、子女があった。,真田三代の妻妾・子女につい て調べる手がかりを提供する。,著者名 出版社 出版年 田中誠三郎/著 信濃路 1979年 内容紹介 真田弾正忠幸隆の妻妾,・子女、真田昌幸の妻妾・子女、真田信之の妻 妾・子女、真田信繁(幸村)の妻妾・子女について詳述されている / 真田三代の妻妾・子女
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (倭村)

現在(令和2年):松本市(まつもとし) 明治初期:倭村(やまとむら) 幕末から明治初期:北大妻村,/南大妻村/横沢村/氷室村/岩岡村 幕末から明治初期(よみ):きたおおずまむら/みなみおおずまむら/,いわおかむら 『長野県町村誌』 3巻 p2889に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 南大妻/,大持橋/上大妻/下大妻/田屋村/奥場/北大妻/宮尻横沢/沖村/堰免/田中/半四郎屋敷/氷室(ひむろ)/,岩岡/火打岩/狐原 川: 梓川/横沢堰/荘ノ堰/温堰 道路: 飛州往還/大町往還 社: 大妻(
朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) ([翻刻])

なりしがいつとなく 今日の如く水少くなりたり、其時分は松城より 矢代驛への通路ハ勘太郎橋を渡り眞直に行 妻女山,を踰へて路あり、妻女山の東の麓に石地 蔵あり、其辺に家四、五宇あり四ッ屋村といへり、 茶店はなけれ,共旅人は立寄、休息の所とす、此石 地蔵は道の傍にあり、前に言如く妻女山を越 土口坂へかゝり雨宮、矢代,岩野を往来する事なし、今馬喰町裏崩れ 〓《ワク》辺より赤坂の渡頭までは一面の川なり某 十歳の比ほひ妻女山,      63   来のみにて馬の往来はならざりし、いつしか今は 道幅廣く真の往還となり妻女山
朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) ([現代訳])

今日のように水が少なくなった、その時は松代から 矢代宿への通路は勘太郎橋を渡り、まっすぐに行き 妻女山,を越えて道があった、妻女山の東の麓に石の地 蔵があり、その辺りに家が四・五軒あり、四ツ屋村といった、,茶店はないけれど旅人は立ち寄り、休息の場所とした、この石の 地蔵が道の傍らにあり、前に書いたように妻女山,今馬喰町裏は崩れ、 わく(河が陸に当たる水衝部)辺りから赤坂の渡しまでは一面川で、某 10歳の頃、妻女山,ただし、歩行の往 来のみで、馬での往来は出来なかった、いつしか今は 道幅も広くまつすぐな道路となり、妻女山
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (戸隠村)

/上泡原/下泡原/蕨平/中島/堀切/上猿塚/下猿塚/下柏原/上瀬戸/下瀬戸/品沢 山: 裏山/高妻山,/乙妻山/黒姫山/奥社嶽/西岳/瑪瑙山/怪無山/高巓キ山/白水山/荒倉山 川: 濁リ川/白水川/地獄谷川,/釈長明墓/児之塔/幽魂塚/西光寺廃址/本院堂廃址/修験二十坊廃址/地蔵石像/女人堂廃址/氷清水/高妻山,・乙妻山/沸池/種池/巴岩/三十三窟/西行桜/達磨石/秋葉山三尺坊出所/親鸞聖人旅舎 物産1: 米
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (清野村)

キーワード 字地: 西沖/中沖/東沖/離山/五反田/新馬喰町/河原新田 山: 深山/倉科坂山/越山/妻女山,日吉社/招魂社 寺: 高源寺/林正寺/龍泉寺 学校: 清野学校 古跡・名勝: 鞍骨城墟/妻女山
浅間山噴火の被害記 ([解説])

七月六日・七日・八日の大噴火のようす、吾妻川から利根川にいたる沿岸村々の被害状況などが、おもに記されている,此度之次第并ツナミ」という記述(二八六~二八八頁)と、後者の上州群馬郡南牧村・北牧村・川島村の被害状況、吾妻山,南牧村・北牧村・川島村は、吾妻川を挟んで近くの村なので、本書の小牧村・川辺村は、北牧村・川島村の誤記かと,ただ、群馬県内でほかに吾妻山と呼ばれているのは、現桐生市市街地北西の吾妻山(あづまやま)、現吾嬬村の吾妻山,また、草津村は湯治場として有名だが、吾妻川からは相当離れていて、「川岸」ということはできない。
朝陽館漫筆(千曲川の改修工事) ([解説])

昔は妻女山を越え、土口坂から雨宮 矢代へと通行していましたが、今は妻女山の麓に近いところから岩野村を通
木曾山林学校 (私の好む静岡県の山村)

静岡市から3里程軽便にゆられて北に行くと牛妻と言ふ地がある。,牛妻から八里の陸路は道らしい道がない。,   大 き い (イカイ又デカイ)   椎 茸 (キノコ)   いやな人  (イヤナテハイ)   妻   
秀吉と真田 (武田氏・織田氏の滅亡と真田昌幸)

幸隆は上野国吾妻(あがつま)郡の中心拠点岩櫃(ひわびつ)城の城代として活躍する。,武田氏の家臣としてではあるが、昌幸は小県に隣接する上州の吾妻郡から利根郡沼田にかけてという上州北部一帯,昌幸はこの混乱を乗り切って、従来からの勢力圏であった吾妻・沼田領を再び確保しただけでなく、元来の本拠地小県郡全域,しかも、その講和条件は、真田領の上州吾妻・沼田と北条勢力下の佐久郡・甲州都留(つる)郡とを交換し、家康,家康も昌幸に対して、吾妻・沼田を引き渡せと、すぐには言い出せなかった。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (長倉村)

大切和田/南中通/三間通/上野/広前/湍水/旭見/嵐野/宮前/大的/清倉/頭梨/今戸/堀/御所/御所垣妻/,狩野/吾妻野/鳩ケ谷/中曽根/鵲田/宇田/戸狩/鳥ケ坂/腰巻/平野/舟久保/城ノ腰/竜ケ沢/前田/芽黒,石海苔沢/塸(読みは「ツカ」)端/三ツ俣/古宿/中端/芦原/信太/篠原/下原/滝上/谷地附/南条/下妻/,中道端/西ノ河原/道上/上妻/荏原/松原/大溝/堰下/〓(山へんに票)峯/黛/小牧/堰上/柳宿/柳宿/
『長野史料』索引 (『長野市史』と『長野史料』)

渡辺敏氏蒐集長野史材料二十六冊之内   震災記事 七冊 永井幸一著  権堂永井益之助氏蔵   同    一冊 徳武某著   妻科徳武喜久治氏蔵,  同    一冊 小林秀之助著 問御所小林幸五郎氏蔵   長野町誌、腰村誌、鶴賀村誌、妻科村誌
小諸洪水流失改帳 ([現代訳])

流死は昨日までで侍身分の妻子や足軽以下中間ならびにその者たちの妻子家中召仕ら77人である。
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

関東へ罷り立ち候衆、妻子人質も堅く召し置き候間、異儀有るべからざる歟(か)。,伊達(政宗)・最上(義光)事も大坂に自分の妻子は申すに及ばず、家老まで悉(ことごと)く妻子これ有るに付,上方の事一篇に申し合せ、妻子人質悉く相卜しめ候。,一出陣の諸侍妻子御年寄衆より相卜され候。御両所の御内儀、我等頂り分に仕り候事。   ,上方の事一篇に申し合せ、妻子人質悉く相卜しめ候。
赤松小三郎書簡 実母宛 (実母宛の書簡)

赤松小三郎の実母志賀は南条村鼠(坂城町)の坂田氏の出で、芦田勘兵衛の妻となり、明治11年(1878)77
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

へしより、此山峯子丑の間より山鳴崩れ、沼涌出  し大石大木を押出し、鎌原村をはじめ夫より羽尾村へ出、吾妻川,泥火石は百丈余も高く打揚、青竜の乱れ  たる如く、一時に闇夜となり、火石の光は天を貫くばかりにて、吾妻川,あがること  三十四五度あり、利根川筋別して砂押埋み、両三日流を留む、右川並  亡村四十八九ヶ村、吾妻川添村々,砂石雨のごとく降る、同五日夜八  半頃浅間山より黒雲生じ、その中に一丈ばかりの光物くる/\と廻り、稲妻の, 如し、人々天魔の所為なりとて、銕炮を撃しに、吾妻が岳の辺にて薄  く成り、北国の方へ散渡り候、
弘化丁未夏四月十三日信州犀川崩激六郡漂蕩之図 ([解説])

(大洪水)  4月13日の夕方、原昌言は西条山(妻女山)で善光寺平に流れ込む激流を目撃しました。,西条山(妻女山)から見ていた原昌言によれば、洪水は3流となって川中島平に広がりました。,上段に「於是みな海津(松代)に湊(あつま)る」とあるのは、西条山(妻女山)から見ると、幾筋にも分かれた
浅間山噴火の被害記 ([翻刻])

、二抱程の 大石降り、家を潰し候故、人家を捨、思い/\遠所江迯ケ候、   一同七日昼七ツ時、吾妻山辺,家数三百六拾軒        同    牛馬百七拾五疋        同    右村々近所ニ上州吾妻(,嬬カ)山と申山有之、去月中旬より  浅間山焼、砂降り申候処、当八日ニ右吾妻山抜ケ出て  夥しく、一度,、鯉・鮒・どぢやう・  うなぎ不残死流、     (改頁)      10    一上州吾妻郡蒲
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (岩野村)

p1493に掲載 該当ページを見る キーワード 字地: 山浦沖/韮崎沖/中道沖/芦原沖 山: 妻女山
烈女百人一首 ([翻刻])

、松葉を焚ていぶし、又は讒(ざん)ををかまへて山にすてん事をはかる、真鹿これを人に聞て大きにいかり、妻を,をかきて奉りければ、かまくらどのはしたなくいひつるものかな、宿を見て参れと人をつけけるに、梶原源太が妻也,にことごとくつたへしと也、夫死して妻半者となり、此曲をひきしにときは井相国かんじ給ひ なかばなる 月, わが身なりけり 妻泣く泣くかのかたみの小袖に「たれ見よと」の哥をかき、夫のおくりし刀にて自害して果,、若くして夫にはなれ再び人に嫁せず、俳に遊びてその名高し、神官の妻なる故法躰はせず形うるはしければ人の
信濃国浅間嶽之記 天明騒動記 (信濃国浅間嶽之記)

りものくる/\と廻り火花電のことく、其 けわしき事たとへん方なし、天魔外道の業ならんと鉄 炮打けるに、右妻上妻,四つ半時分信州木曽の御嶽・戸隠山の辺より光り物 浅間か嶽へ飛入と見へしより山鳴動押出し、上州吾 妻川通,らぬに 思ひかけなき天命泥海のみくつとなし、浅間の鬼神 生なからの人地獄へ進め、露の風に落る如く稲妻の,のことし、 一 村々田畑泥五尺七尺壱丈余押埋、其中に火石有て 焼る事凡三十日余也、あハれ成哉、吾妻川附村々,一 流家弐百五拾九軒 但吾妻・群馬合弐拾ヶ村 (改頁) 16 一 流死人四百三拾九人 馬百廿弐疋
パスファインダー (善光寺の火災と復興)

善光寺 の火災と復興について調べる キーワード 概要を知るための ツール 資料リスト 吾妻鏡,信濃史料 [第3巻] 信濃史料刊行会/編  信濃史料刊行会 1952ー1970 吾妻鏡 鎌倉幕府,(『国史大辞典』より) 内容紹介 『吾妻鏡』7巻(信濃史料③389)文治3年(1187)7月27日-善光寺再興,を 命ずる源頼朝下文 『吾妻鏡』11巻[曼荼羅供](建久2年1191)・31巻[五重塔供養](嘉禎3年
地震後世俗語之種 (著者)

善光寺地震のあった弘化4年(1847)当時、幸一は34歳で、妻イト(糸)29歳、娘ジュン(順)16歳、
拾八町家並帳 (知久町三丁目)

四間四尺七寸五分 近江屋  久左衛門 四間 ホ 桧皮屋  兵左衛門 ヘ 四間四尺五寸 麟庵妻里
地震後世俗語之種 (著者)

善光寺地震のあった弘化4年(1847)当時、幸一は34歳で、妻イト(糸)29歳、娘ジュン(順)16歳、
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (蒼久保村)

川: 神川 渡・堰: 青木堰/大屋堰/岩下堰 橋: 神川坂橋 道路: 松代・上州吾妻道
松代まちあるきマップ (34慧日山長明寺)

戦国時代の地侍で建久五年源頼朝上洛の際、寺尾太郎、寺尾三郎太郎がこれに従ったとの『吾妻鏡』の記事がある
善光寺道名所図会 (○佐久郡小諸)

(8日は午前中だけでしたが)  北上州吾妻郡では、浅間山中腹の石だまりという所まで先年3度押し出しましたが,これが、鎌原村から羽尾村へ出て吾妻川へ押し込み、川沿いの村々を押し崩しました。  ,一時に闇夜となり、火石の光は天を貫くようで、吾妻川や利根川沿いの村々は水が出、武州熊谷の中瀬村あたりまで,5日夜3時ごろ、浅間山から黒雲が生じ、その中で1丈ばかりの光物がくるくると回り稲妻のようでした。,人々は天魔の仕業だとし、鉄砲を撃つと吾妻岳のあたりが薄くなり、北国の方へ散り渡りました。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (屋代村)

大根/葱 民業男: 農間養蚕/商工 民業女: 農間生糸・綿布・縫針 その他特記ワード: 吾妻鑑
秀吉と真田 (家康、秀吉に臣従)

そして五月には自分の妹を離縁させてまで、家康の正室(後妻)に送り込み、さらに十月には実母を実質的な人質
浅間山噴火の被害記 ([現代訳])

一、七月七日午後四時ごろ、吾妻山辺りから蛇が出たという。利根川の上流は二時間ほど水がなかった。,家数三六〇軒       同     牛馬一七五疋       同    右の村々の近所に上州吾妻山,先月中旬より浅間山が噴火し、砂が降ったところ、今月八日に吾妻山が大崩れして、いちどに大石を押し出し、右,一、上州吾妻郡鎌原村     家数四一四軒     人別一二六三人      内 老人二人     
赤松小三郎書簡 実母宛 (父兄との書簡、佐久間象山との交流)

(1862)にかけて松代に蟄居の身となっていたが、刑が解かれた文久3年に、小三郎が松代藩士白川氏から妻を
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (新村)

岩崎沖/北方沖/中村田沖/天白沖/若宮沖/本田沖/小作沖/下田沖 川: 梓川/横道堤 橋: 大妻橋
浅間山 (第三編 浅間山変異記)

七月の大噴火では、吾妻火砕流で山麓の原野が焼かれ、鎌原火砕流で鎌原村を呑み込み吾妻川をせき止め、それが,…夜になり・・・径一丈余の光物出づ、其(その)様(さま)恰(あたか)も火花稲妻の如く、・・・」「翌日、,そこには吾妻郡と群馬郡の村々三十六ケ村の名が挙げられています。  ,まれ、その谷間は噴き出したる猛火を以て埋めたれば、恰も火の中に立ちたる火屏風の如く・・・黒烟の中より稲妻四方八方,十二月七日の噴火は上田での地震からはじまったとあり、上州吾妻郡大笹・草津・佐久郡小沼村・岩村田町・小諸町
松代まちあるきマップ (37荒神堂)

荒神堂(こうじんどう) 荒神堂は、城下町松代の町人町八町の一つ荒神町にある入母屋造、妻入の向拝付
松代まちあるきマップ (15小山田家住宅)

木造平屋建、切妻造、桟瓦葺,南面破風に懸魚を飾った造りで 江戸期の建物を現在地に移築したものだという。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

[右京いせ道、左伊奈諏訪道]松本の方より来 る人の左右なり、凡上方筋より善光寺へ参るに多くハ中山道妻籠宿
松代まちあるきマップ (7真田勘解由家 さなだ かげゆけ)

切妻、桟瓦、平入で、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、腰壁は海鼠壁。
おらが春 (小林一茶の生涯)

没後、3度目の妻に娘が生まれています。
信濃名勝詞林 (碓氷紀行)

せしかある日あるし病にか〻り醫藥(医薬)もそのしるしなく終に步行さへ叶はぬ身となりぬれは車をしつらひ其妻是,の方松かさありて男松にはなしとまた此松を夫婦と名付けたるはおのつから陰陽の形ちになはりたれはなり實に妻夫,名木も去年の雪に二本共に折れたりとて半はより下の方のみ殘れりをしむへし 大人 いかならん契り有てか妻夫松,おなし心に雪折れにけん おのれ 萬(万)世にかけもと〻めす神垣の 妻夫のまつはいかてをれけん,約540m)下りてなかめをかしき所にいつ おのれ 千早振神代の事もしのはれて 昔戀(恋)しき吾妻路
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

その後は秀吉の家臣扱いとなっていたが、妻には家康の重臣本多忠勝の娘小松殿を迎えていた。  ,そして、秀吉側近の要人のひとりで三成の盟友でもある大谷吉継(越前敦賀城主)の娘を妻としていた。,また、昌幸の娘のひとりは、石田三成の妻の弟宇多頼重(頼次)の妻となっている。
『小諸義塾と木村熊二先生』 ([解説])

帰国後は、妻鐙子とともに明治18年に明治女学校を創立したり、『女学雑誌』を創刊したりと、女子教育に力を,注いだが、妻鐙子は翌明治19年にコレラで急死する。
パスファインダー (『曽我物語』『大塔物語』と善光寺)

ねらい 善光寺は庶民の寺であり、誰でも平等に救ってくれると全国各地に説い て回ったのは妻戸衆,曽我塚 雨乞い 虎化粧の井戸 小笠原長秀 坂西長国 横田城 大塔の砦 遊女 玉菊 花寿 常葉八 郎 妻戸衆
『長野史料』索引 ([翻刻])

人一     腰 村誌         人一     鶴賀村誌         人一     妻科村誌,善光寺外十四村引高[明治二年]人七 一一一     享和三年権堂田町高附帳  人二 一五     有地改冲付帳[妻科天保四年,    水内神社考証     諏訪神役記     諏訪神社由緒書     戸隠神社由緒書     妻科神社由緒書
秀吉と真田 (真田氏上田領・沼田領の石高)

同じく慶長五年までの信幸の沼田二万七千石(上州利根郡・吾妻郡)は、江戸前期ごろ三万石であった。  
秀吉と真田 (上杉景勝への従属と証人信繁(弁丸))

上杉景勝は、右の誓詞で昌幸に、沼田・吾妻・小県等のほか、「屋代一跡」も給付するとしている。,この合戦の前後に信繁の母(昌幸の妻)が海津城にいたことも知られる。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (小田中村)

村落通(そんらくとおり) 社: 春日社(かすがしゃ)/三島社(みしましゃ)/諏訪社(すわしゃ)/吾妻社
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (河合村)

山田小池城/小原丸山城/非持城/小原桜馬場/仁科信盛の墓/小山田備中守昌辰□/渡辺金太夫照墓/諏訪勝右衛門妻花
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