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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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検索結果 : 117件
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木曾山林学校 (実習便り)

実習便り 6           奈  留  瀬(注59) 本年の春季植樹実習は4月7日から開始,久し振りの実習、誠に面白くて仕事は仲々捗(はかど)つた。,マクリは実習中、吾々の最も愉快とする処(ところ)である。,3日から又授業が始まると思つて居ると又実習だと言ふ。,春季実習も今日を以て全く千秋楽を告げたのである。 / 実習便り
木曾山林学校 (11.実習)

11.実習 30 学科と実習との調和を計り、且つ学科の教授法と等しく実地指導の方法を適切ならしむるは,をなすに際し遺憾なからしむ 実習と学科との調和  実習と学科との関係を円満ならしめんが為め、各実習の,終日実習を課し、造林・伐木・林産物製造・農業実習等主として季節に関する実習を行ふ。,実習の種類及各学年に対する配当  本校に於て教授せる専門の学科には何れも実習を課し、且つ此等の実習は主,実習の方法  実地指導の要は前述実習の目的を達するにあること勿論なりと雖も、此時指導上特に注意するは、 / 11.実習
木曾山林学校 (◎農業実習地)

◎農業実習地 25 農業の実習は別つて2種として居(お)りますが、一は水田の実習で一は畑の実習であります,水田の実習地     (改頁)   は西筑摩郡役所前にある反別3畝15歩の,畑実習地は本校北側に接したる反別4畝28歩の地を以て充てゝ居ますが、今其地に栽培したるものは左の如し。,而して是等実習地に於ける害虫駆除・施肥・保護等に関する諸般の作業は、皆生徒より当番を定めて順次之れが任 / ◎農業実習地
木曾山林学校 (12.本校の実習に対する便宜)

12.本校の実習に対する便宜 35 実業学校に対し必要なる設備は元より多々あるべしと雖も、殊に実習地,要なる演習林は土地の関係上概(おおむ)ね十数里の遠隔せる地に設置せられ、彼の農業実習に於けるが如く,、学科の教授と相俟(まっ)て時々の実習を課するが如きは絶対に不可能にして、毎学年僅かに両3回の実習を施行,本校は如此(かくのごとく)至便の位置に広大なる演習林を有し、完全に実習を施行し得るのみならず、有名なる,に林木及森林の評価実習を為すに最も適当せり。 / 12.本校の実習に対する便宜
木曾山林学校 (我校演習林の価値)

我校演習林の価値 3           小 羽 根  40年後に於ける我校演習林が林価算法上如何,我校演習林面積は約100町歩なるが、此中林道・岩石地・沼沢地等のために実際造林面積は80町歩として算すべし,然(しか)れども演習林地は全部福島町の所有なり。,故に80年乃至(ないし)100年後、又は是れを法正林(ほうせいりん:注18)とせば、実際上我校演習林の,価値実に多大なるものたるを信ず。 / 我校演習林の価値
寺子屋師匠の日記 (小沢和徳の手習塾)

小沢和徳の手習塾 江戸時代を通じて信州には1400を超える手習塾があった。,6000人以上の手習師匠が存在したようである。,人といわれる手習師匠の75%はこの時期に誕生している。,この点からすれば近世中期の宝暦年間に手習塾を開業した小沢家は相当早いことになる。  ,として、信濃の手習師匠の実態を解明する上では好事例となろう。 / 小沢和徳の手習塾
パスファインダー (浅間山米軍演習地化反対運動)

浅間山米軍演習地化反対運動 トピック(テーマ) 浅間山米軍演習地化反対運動 ねらい,設置反対運動が各地で行われたが、見事に勝利したのがこの浅間 山演習地化反対運動だった。,米軍基地を抱える日本で平和を志向するには何が大切かを考えるう えでみおとせない実例 キーワード,の歌 堀辰雄 二百万人の勝利 浅間山米軍演習地化反対運動史 長野県浅間山米軍演習地化反対期成同盟,この中で、「浅間山米軍演習地化反対運動」と して詳細に論じられている。 / 浅間山米軍演習地化反対運動
赤松小三郎書簡 実母宛 (江戸・長崎遊学)

赤松小三郎書簡 実母宛 / 安政2年(1855)、幕府は長崎に海軍伝習所を設け、海軍ほかの軍事科学教育を行った。,小三郎も勝の門下生として長崎に随行し、伝習所が廃止された同6年まで当時の日本人としては最先端の教育を受,この折の長崎航海日記が「美美婦久呂(耳袋)」で、内田・下曽根門で学んだ学問を緯度・水深・風速等実地に応用
木曾山林学校 (◎林業試験苗圃演習地)

◎林業試験苗圃演習地 19 本試験苗圃は当校の西北なる半町以内にありて、此地は元桑畑であつたを本年,以上の仕事は演習であるからして2学年生徒が一切の学力に当て各区受持を定めて居ます。     ,本校演習林(注35)は福島町字大澤の山林総反別83町歩にして、地味は不良と云ふ程のことではなけれ共,此地の西境御料林に近き一部の面積1町歩を測量して本年(明治35年・1902年)の演習地とし、4月8日より,尚ほ落葉松は5月1日字権現滝尻実習地10余町歩の一部を伐り払ひ、杉・扁柏栽植法と同様に植へ付たが、此地 / ◎林業試験苗圃演習地
木曾山林学校 (7.本校の目的)

7.本校の目的 17  本校の目的は実業学校令及農業学校規定に基き林業の実務に鞅掌(おうしょう:せわしくはたらいて,従ひて教授の実質に就きても妄(みだり)に高尚に奔(はし)らず簡潔にして実用に適し、而かも普通学の智識を,拡充せしむるに必要なる教科を設け、且つ林業に関する各種の実習     (改頁)      ,而して実習は単に技術の習熟に止まらず、心身を鍛錬し堅忍の気風を養ひ精進力行の慣習を助長せしむる等、品性陶冶,之が救済は実業教育を外にして求むる能はず。
木曾山林学校 (8.長野県立甲種木曾山林学校学則)

       第 1 章  総   則 第 1 条 本校ハ農業学校規程甲種程度ニ基ヅキ、森林ニ関スル学理・実習,6 条 授業週数ハ毎学年40週以上トス、其細別左ノ如シ       授業週数36週       実習週数,    自12月26日                 至 1月18日       前項休業中、実習又,第 9 条 実習ハ林業・農業及ビ測量科ニ之ヲ課スルモノトス 第 10 条 実習ヲ分ツテ定期実習及臨時実習,条 各学年進級ノ成蹟ハ、各学期ニ於ケル各学科成蹟ノ平均点、及ビ実習ノ得点ニヨリテ之ヲ考査シ、実習科評点
パスファインダー (柴崎虎五郎)

キーワード 福沢諭吉、下村亀三郎、工藤善助、保科五無斎百助、養蚕国、製糸国、 機業国、機業講習会,、染織講習会、信濃染織同志会、長野師範学校、 丸子、西陣、桐生、足利、小県郡丸子学校長、上伊那郡赤穂尋常高等,小学校、福沢泰江赤穂村長、赤穂農工補習学校、赤穂染織学校、赤穂 高等学校、ハワイホノルル日本人学校、,目次には「柴崎虎五郎の機業染織講習」とあり、明治中期の信 州の農村に養蚕・製糸だけでなく機業を起こすべく,国語科、歴史科、理科、地理科、図画科、算術科、体操科などに分か れ、国語科の中では読書、綴り方、習字
木曾山林学校 (18.遊学者の便益)

農学或(あるい)は獣医科を併置したるものと異り、他に何等の係累なく全力を林学に傾注することを得るを以て学習に,2、造林・伐木・運材等修学上最も必要なる実地作業は、学校演習林及付近御料林に於て見学することを得ること,3、地は清楚(せいそ)閑寂・衛生に可なるは勿論、市井の悪習に染むの憂少なきこと。
木曾山林学校 ([本文])

4コマ参照) 本校講堂/全校生徒 (注 このページの写真は原本ビューワ5コマ参照) 苗圃/測量実習,(注 このページの写真は原本ビューワ6コマ参照) 農業ノ実習/演習林/測樹実習 (注 このページ
木曾山林学校 (学校要覧)

志願及卒業生無試験にて判任文官(はんにんぶんかん:注48)任用の件文部大臣より認可せらる 〇同35年4月実習林,現行の学則これなり ○同年4月中福島町所在の実習地残部を返却し、新たに校舎隣接地畑山林7筆合計2反4,日県令第16号を以て学則第8条中学科課程並に毎週教授時数表を改正し4月1日より施行す ○同年4月中実習地,として校舎隣接地田畑原野4筆合計3反17歩を借地し実習地とす ○同年12月皇太子殿下御真影奉戴 ○,習 配 当 表 (注 実習配当表は原本ビューワ32コマ参照)    (三)設  備 一、用 地
木曾山林学校 ([本文])

書 店   ○本誌目次 (学術論説)木材染色術、シューリツヒ氏森林学、八戸林学士行政論、我校演習林,本領、権現滝の春、逝く春、砂バク之夜、(学校便)伊藤先生の通信、西澤先生告別式、修学旅行、寄宿舎より、実習便
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)

 七月七日  終日雨天 昨夜大降 夕方より雨止不晴 一扇子壱対 宇治 五作  一拾疋   宇治実之助,一同     辰巳や 一同     ぬのや 一同    新田 富田忠太郎 一拾疋    宇治実之助,    (改頁)      42   (○中略)   九月廿五日 天気快晴 一真田三代実記三篇六巻今朝迄,十一月十一日 天気 一夫せん(夫銭:授業料のこと)  百文ツ々  友市   類次郎  彦市   実之助,十二月八日 天気 寒気強 子供撰書古参分朝飯後直ニ 為書調申候五拾八人大概出来申候 一真田三代実記三篇五巻使常二郎
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」)

宇治竹次郎 一金壱朱  田中 永弥 一金壱朱  田中 久吉 一拾疋   宇治 覚造 一拾疋   宇治実之助,一拾疋    宇治 覚蔵 一拾疋    宇治義十郎 一拾疋    田中 周弥 一拾疋    宇治実之助,40   (○中略)    閏四月廿四日 大上天気 風吹   (○中略)   義士伝実記一,休戸三郎兵衛殿江持参返し申候   (○中略)    閏廿七日 大雨降 終日雨天 義士伝実記十,の暮しかねぬる世とそ成ける 一旦之立身如大雨之潦久不保 門人江教方日々無懈怠可成丈直ニ出情為励真実ニ
木曾山林学校 (9.各学科教授の内容)

げて斯学(しがく:その方面の学問)に志さんとする士に便せんと欲するも、煩に過ぐるを以て普通学科を除き実業学科,造林事業実行上の順序。天然更新法。人工更新法。挿木。分根。分蘖(ぶんげつ)(注9‐1)。接木造林法。,勉むる事  2.表薄の使用に習熟せしめ、時間と手数を省略せしむるに勉む、即ち森林家必携・測量家必携・,    (改頁)      29    4.珠算及心算を課して、実用上の効力,せしむること  6 実践教授
木曾山林学校 (5.中等程度森林教育の方針)

且政府は斯種の学校に向つて特に補助金を下付し、或は実習其他の事に種々なる便宜を与へ、極力奨励又は監督の,従ひて2、3の学校にありては、修業年限等の関係より入学後の実習は比較的重きをなさざるに反し、学科に就きては,然れども下級学校即ち我国乙種程度に相当する学校にありては、往々斯種の入学条件を欠く者あるを以て実習に最,且教材の選択に留意して実習と相関連せしむ。即ち極端に謂へば学習に必要なるだけの学科を授く。,此故に成績調査に於ても学科と実習とは採点は均等にし、二者を平分するを可とす。
パスファインダー (保科五無斎)

保科五無斎:石の狩人(シリーズ民間日本学者) 井出孫六/著 リブロポート 1988.7 学習者,開 内容紹介 明教育を試み、晩年を深山放浪、鉱物採集で終えた奇才の生涯を通し て、明治期信濃教育の実像,出版年 五無斎と信州教育:野人教育家・保科百助の生涯 平沢信康/著 学文社 2001.4 学習者,込み、明治期の信州教育界において異彩を放った保科百助の等 身大の姿から、学問的かつ客観的にその生涯と実像,にぎりぎん式教育論:五無斎保科百助・その思想と生涯(上下) 著者名 出版社 出版年 須藤實/
「長野県下ノ小学教員二告ル文」 ([ルビ・注記])

希臘(ギリシャ)ノ盛ナリ シ時、児童ノ年齢五六歳ヨリ十四歳マテハ 神伝(注3)ノ説話 体操 読方 習字,)チ、予(あらかじ)メ之ヲ保護シ其健康ヲ維持スル モノナレハ、方今(ほうこん)(注15)東京体操伝習所,又文字モ実体的ナラズ。,ヲ聘シテ教師 トナシ、現今我本支師範学校ニ於テ教育学 心理学等ヲ講授シ体操唱歌ヲ伝習シ、実地 授業法,(31)実地・実物について教えること。
木曾山林学校 (◎開校一周年紀念祝賀運動会)

旅装・提灯(ちょうちん)・スプーン・高飛・幅飛・来賓職員等の諸競争及び福島学校生徒、師範学校第三種講習科生徒,くなるに随ひ此れを超える人は其数を減じて、後には漸(ようや)く3人となりましたが、極上手なる者となると実に,400ヤード    三澤義治  野尻慶三   宮下作次 旅装競争    杉本貢   西尾忠治   正又実次郎,   松島九平  佐藤綾雄   河崎本雄 戴嚢競争    野尻慶三  林 卓次   小形重忠 講習生競争,   小椋徳次郎 田中真一郎  柴田 要 講習生競争   松林茂美  細田治市   矢口金市 高飛競争
木曾山林学校 (13.修学旅行)

所謂(いわゆる)実際を離れて学理なし、況(いわ)んや実業教育に於てをや。,らず、数年の後或は数十年の後に於て始めて其結果を見得るが如く、学校の演習林に幾多の実習を課すと雖(いえど,故に時代ある林業の発達せる地方に旅行を企て学理と実際との調節を図るの必要あり。,ゆえん)にして、修学旅行を企つる所以のもの亦実に此(これ)に存す。,更らに本校は専門の教科の為め地理歴史等の科目を設くるの余地なきを以て、実業に関する科目に依りて此等教科目補習
木曾山林学校 (15.寄宿舎)

購買組合  舎内の一室に生徒の日用品即ち『シャツ』・股引・靴下・手袋・文房具・菓子・果実の類より郵便切手等,浴場  浴場の設備は僅(わずか)に1回10名を容(いれ)るゝに足らずと雖も、夏期2、3ヶ月間及実習中の,    (改頁)   時間割  時間割は日の長短其他の事情(例へば実習中、旅行,の前後、試験中及其前後)より時々多少の変更ありと雖も、起臥・飲食・入浴・自習・検査・外出・門限等規定の,自習  自習は朝食後1時間、夜1時間半之を課し、予習復習をなさしめ其間は厳に静粛を守らしむ。
「長野県下ノ小学教員二告ル文」 ([解説])

十五年七月、県令大野誠に招かれて県師範学校初代専任校長として、学習院教授兼監事であった能勢栄が赴任した,小学校教則に基く授業に教員養成が間に合わないため、十六年一~三月に師範学校主催の講習会を開催している。,受講者は帰郡後、自校や近隣学校の教員を集めこの内容を伝達講習したため、新しい教育内容や教授法は迅速に町村小学校,などについて述べ、「真ニ教育ノ道ニ熱心シ其学校ノ改良ヲ希図スルナレハ、(中略)本県師範学校ヘ来リ、唱歌体操ノ伝習ヲ,受ケ教育学心理学ノ講義ヲ聴キ、実地授業法ヲ熟覧」することを勧めている。  
長野師範学校は初めて学年・学期を定め、開業式・卒業式を挙行 ([解説])

十五年七月、県令大野誠に招かれて県師範学校初代専任校長として、学習院教授兼監事であった能勢栄が赴任した,小学校教則に基く授業に教員養成が間に合わないため、十六年一~三月に師範学校主催の講習会を開催している。,受講者は帰郡後、自校や近隣学校の教員を集めこの内容を伝達講習したため、新しい教育内容や教授法は迅速に町村小学校,などについて述べ、「真ニ教育ノ道ニ熱心シ其学校ノ改良ヲ希図スルナレハ、(中略)本県師範学校ヘ来リ、唱歌体操ノ伝習ヲ,受ケ教育学心理学ノ講義ヲ聴キ、実地授業法ヲ熟覧」することを勧めている。  
木曾山林学校 ([解説])

この中で初代校長松田力熊は6項目の教育方針を示し、日本で初めて実業学校で森林・林業教育を開始した。,例えばその中の「林学は観察の学問である」との認識は、具体的に実習及び修学旅行を重視する方針となり、長く
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

、日を期して待へしと欣喜ニ堪へさりしか、不幸 にして三条橋畔ニ於而暗殺せらる、享年三十一(ママ)、実ニ,司講司学監及武学校目付其他、自己之師家へ回礼せり、 (改頁) 32 明倫堂掲示 定 一、虚文を去り実行,詞章記誦之謂に あらす、故ニ君父に忠孝を尽し、親族和睦朋友に信義 ある類ハ論するに及はす、平日之行状篤実循謹,たるへき事 月日 明倫堂学則 涵養[主敬以立其本] 致知[窮理以致其知] 力行[反躬以践其実],而徴也、秀美請之騰録而納諸松平祠庫 明治十九年七月 旧臣増田秀実謹識
木曾山林学校 ([総合解説])

[総合解説] 木曾山林学校は、実業学校令に基づき、我が国最初の森林・林業を専門とする実業学校として、,さらに同年3月には、日本森林学会から同校に残されているこれら資料と、現在も実習で使われている演習林(約
パスファインダー (正木直太郎)

トピック(テーマ) 正木直太郎 ねらい 旧上田藩出身の正木直太郎がどのような教育実践,小県中学校へ唱歌 伝習所を開設する経過、唱歌の伴奏に模造バイオリンを使用するまで の文部省とのやり取りなどが,東京高等師範学校 出版年 1883 内容紹介 明治15年12月、小県郡教員総会で正木が唱歌伝習所,県下から集まった教師のなかには参観しただけで「直チニ生徒 ニ実施」している者もいる。,この状況を憂いて「正シキ順序ヲ経テ之ヲ実 施」するために唱歌伝習所が必要だ、と。
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと) ([翻刻])

文武場ヲ設ケ、夫々師 範ヲ申付ル趣意ハ、藩士ヲシテ孝悌忠 臣ノ道ヲ主トシ、儒学ノ本意ヲ失ハス 実学専一,フスヘシ、少年ノ 輩ハ勿論年立候者共、往々有用ノ人才 ヲ成立シ度存スル間、当今ハ経学専務 ニ講習シ,ニ心掛ケヘキ事  一課程ヲ定メ相互ニ励ムヘキ事  一互ニ流派ヲ争フ間敷事  一書生信実ニ切磋可致事,ヲ違背ス可ラサル    事  一書籍素疎略ニ取扱フ間敷事  一火之元別テ念入レヘキ事  一手習卒尓,ニ臨写スヘカラサル事  一習礼方ノ教平日忘ルヘカラサル     (改頁)      7  
木曾山林学校 (学校便)

且つ実習中定めし御疲労にも拘はらず、停車場迄も御見送り被下(くだされ)芳情感銘いたし候。
小学理科生徒筆記代用 ([解説])

『小学理科教授細目』四冊を出版した(明治四十四年から『理科筆記帳』、大正十年(一九二一)から『理科学習帳,また、蚕については卵・幼虫(蚕)・蛹・成虫(蛾)の変化が図示され病害虫についても学習するようなっていて,長谷川は埴科郡杭瀬下村出身で、長野師範学校第二種講習科修了後、県下の小学校教員となった。,彼は明治四十二年、上高井郡川田小学校時代にムギ・エンドウの交配実験を実施した。,わが国において遺伝学の実験に本格的に取組まれはじめた頃、すでに長谷川はその実証実験に成功していたのである
木曾山林学校 (アイヌ物語)

何故なればアイヌは往時の物語を口伝によりて伝へつゝあるが、本州に住居せし事に就きては確実なる伝説なし。,故に彼等の信じて相伝へし伝説の如きも果して事実なるや否や疑はしきものなり。,より相互間に於ける簡単なる通信若くは山川を記し、又は通路の順を明かにする等の種々の符号を用い来りしは事実なり,の事ありては、其の者自身恥たるのみならず、実に部落の不名誉なる事を以て、先づ自村の風習を教へ次に他村の,相当集団せる部落に於てのみ、国費を以て旧土人小学校を設けられ教育の進歩を計られたるも、其後経験により実際
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (原村)

用水堰 道路: 北国街道 社: 世茂井神社/伊勢社 寺: 蓮香寺 学校: 御厨村小学時習学校,殿屋敷/古戦場/五輪塚/庚申塔/金山/狐塚/千本松原 物産1: 米/大麦/小麦/大豆/菜種/実綿
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと) ([現代訳])

それは藩士たちに忠臣の道を中心として、儒学の本意を失わず実学を専らにすることを心懸る様にして学んでほしいと,そこでまずは経学を専らに講習するとともに、その他は力に応じて歴史等も広く学び、詩作や文章迄も研究してほしい, 一師弟の間親愛を主とすべき事  一貴賤をあれこれ言ったり人物の可否を言ったりしないこと  一実学,教えに反対をしないこと  一書籍を乱暴に取扱わないこと  一火の元は特に念を入れること  一手習いは,軽はずみに写さないこと  一習礼方の教えはふだん忘れないこと  一座席の順序を変えたりしないこと
木曾山林学校 (4.中等程度の林業教育の現状)

由来実業教育の発達に二様あり。,更に盛岡・鹿児島両高等農林学校を産み、一面(:一方)中等程度以下の教育機関の必要を認め、明治32年実業学校令,又各府県に短期の林業講習会ありて終了生歳々1万人を数ふ。,し、林学科は何れの場合に於ても最も窮迫の境地に呻吟(しんぎん:くるしんでうなること)し、最も必要なる実習,に至りては学校の多くが農村に設置せられ、林業実習地殊に演習林は土地の関係上概ね遠隔せる十数里の地に設置
木曾山林学校 ([注記])

(注記 11.実習)  (注11-1)実習組織:ここでは実習組織として、共同・組合・個人の3形態があげられているが,苗圃の実習でよくこの形態が使われた。  ,(注記 12.本校の実習に対する便宜)  (注12-1)作業種(さぎょうしゅ):林業経営においては、
木曾山林学校 (19.在学中学資金予定)

すべし(注意3、2学年生徒の教                科書代価は之より遥かに少額なり) 実習服
パスファインダー (和合恒男)

トピック(テーマ) 和合恒男 ねらい 農業労働を中心にした瑞穂精舎での教育を実践,1931 和合恒男―ある農本主義者― 深志百年 深志同窓会 1978 和合恒男の生涯とその思想・実践,近代日本における農民教育の遺産 : 和合恒男の生涯と行学 宮坂広作/著 大学改革と生涯学習,: 山梨学院生涯学習センター紀要  機関リポジトリ 下記サイトからアクセスできる https
パスファインダー (伊藤千代子)

2 書名 著者名 発行者 出版年 時代の証言者 伊藤千代子 増補新版 藤田廣登/著 学習の友社,2020 内容紹介 先行研究の事実をつみあげ、さらに新たに発見された伊藤千代子の手 紙などを,青春 葛城誉子/著 1998 こころざしいまに生きて 伊藤千代子の生涯とその時代 藤森明/.著 学習の
木曾山林学校 ([解説])

月に予定されている、校舎の新築移転や寄宿舎完備などを伝え、林学科のみの学校は全国に当校しかなく授業・実習
木曾山林学校 (6.本校の沿革)

により徴兵猶予1年、志願兵及卒業生無試験にて判任官に任用の件を文部大臣より認可せらる ○同 35年4月実習林
信州善光寺御堂額之写 ([解説])

江戸時代の善光寺は、本堂に絵馬を奉納する習慣がありました。,善光寺の本尊は阿弥陀如来で、極楽往生を祈るのが本来ですが、実際には病気平癒など切実な願いで参詣する人が
木曾山林学校 ([注記])

これは明治32年の実業学校令のことを述べており、その第2条に「実業学校ノ種類ハ工業学校・農業学校(中略,(注35)演習林:初代校長松田力熊は赴任して直ぐに演習林の設置に動きだし、郡幹部に働きかけて1年足らずの,間に演習林開設を実現した。,モチベーションは、東京農林学校(後、帝国大学農科大学)時代に教えを受けた本多静六の清澄(千葉県)での造林実習,(注50)履修(りしゅう):決められた学科・課程などを習い修めること。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (御厨村)

志名斗弁社/三峯社 寺: 光明山常行寺/今井山讃楽寺/亀傳山常泉寺/光明山法蔵寺 学校: 小学時習学校,古跡・名勝: 蔵屋敷/鍛冶屋敷/古戦場 物産1: 米/大麦/小麦/大豆/小豆/菜種/実綿
木曾山林学校 (母校を思ひて)

吾々は奈何(いかに)しても自発的には勉強するとしても、それは実に無意味のものである。,5ヶ年といへば長い様なものゝ水の流るゝ様に実に早い。吾々は今まだ社会校の1年生である。,然し5ヶ年はほとんど実際問題に就ての研究で印象が深い事ばかりである。,此の意味に於て山林学校は各種標本室の完備、演習地の拡張、実験室の整備は刻下(こっか:現在、目下)の急務,そして日本に二指を屈することすら出来ない母校として名実共に権威あるものにして欲しい。
パスファインダー (長野・更埴地域の文学について(1))

三水村 一茶 柏 原村 山田美妙 戸隠紀行 津村信夫 戸隠の絵本 中村八郎 桑門の 街 丸山健二 別役実 ,2011.2 明治6年、16歳のときに同郷の長野県松代の女子15名とともに官営富岡 内容紹介 製糸場の伝習工女,となった著者が、技術の習得につとめた1年数か月 の日々を綴った回想記 7 書名 定本花袋全集,8 書名 著者名 ビワの実 (坪田譲治名作選) 坪田譲治/著 出版社 出版年 小峰書店
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

し候四男岩松幼  年より手習学間を好み其頃[元文寛保之頃也]ハ当村ニ手習指南致す     (改頁,   もの無之松本水野家之御浪人岡本伝左衛門と云  御方仁義正敷(ただしく)諸道ニ御達シ被成誠篤実温厚,り御勤メ御看病被成候が  少も御うつりなく御看病被成其内寿徳様ニも御全快ニ  被為成候由斯一心ニ実意,松島江帰り又々商ひ出情両親  江仕へ申候 一親茂吉様母之仰ヲ守り若年より酒を御慎み少シも不呑物毎実貞,ニ者九ケ年之間  江戸稼被成候而都合能被成御帰国之上喜藤次殿被引取申候 親人  御壮年ニ者訳而篤実ニ
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