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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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宿継要書留 ([解説])

宿継要書留 / この帳面は、「宿継要書」と表紙に書かれていますが、宿継に関係するいろいろな書類を書き留めた帳面で、江戸時代初期,これが、江戸時代の宿場と中馬の争いの始まりでした。  ,元禄6(1693)年伊那街道の16か宿は、宿継の荷物の励行を願い出ました。,この裁許書は『宿継要書留』には、全く記録されていません。,『宿継要書留』はここで終わっています。
宿継要書留 ([翻刻])

宿継要書留 /   本馬壱疋ニ付一宿賄代銭五百文ツヽ   可被下候事   人足壱人ニ付    一宿賄代銭弐百文,北国脇往還村井宿  有之候得共、松本町江之儀者  両村より付通、右両宿江前条  賃銭ヲ以継送候様, 数を分ケ被仰付候ハヽ、是迄之通  宿場助ニ成ニ茂相成、中馬稼差  支無之、尤宿送之義者問屋共,片桐宿・飯島宿・赤須宿右惣代ニ而差出シ候  伺書為御誦聞、右惣代之者御吟味之  御書留メ為御御誦聞之趣,方大通之節者、宿並相互ニ聞合等又ハ 為知候義も御座候得共、宿並儀離候ハヽ 別宿之様罷成、不依何事聞合等
宿継要書留 ([現代訳])

宿継要書留 / その上松本町で売出しの荷物を、宿継として宿問屋が言うので、右の荷物を16宿の者が買い出し、尾州・三州へ,不足していたり濡れ荷・損じ荷等のあった宿は、その宿で荷主と相対により解決し、ほかの宿へ世話をかけないようにすること,割り合い差し出すこと、飯田より宿を相手取り願い出て、宿々が召し出されても、大切なことなので13宿で割って,大島宿・片桐宿・飯島宿・赤須宿の惣代が差出した伺書を読み聞かせ、右惣代の者のお吟味の書留めを読むのを伺,一宿場は宿で申合等もあります。
「長野県町村誌」と明治初期の絵図・地図 (宿岩村)

宿岩村 地域 東信 市町村名 現在(令和2年):佐久穂町(さくほまち) 明治初期:宿岩村(やどいわむら,) 幕末から明治初期:宿岩村 幕末から明治初期(よみ):やどいわむら 『長野県町村誌』 2巻 ,他特記ワード: 伴野庄/八ヶ嶽下秣野/秣野/字中尾秣野 明治初期の村絵図・地図(県立歴史館所蔵) 宿岩村 / 宿岩村
木曾山林学校 (◎寄宿舎建築)

◎寄宿舎建築 26 寄宿舎は本年3月迄は本校舎内に設けられて30名ばかりの舍生が居りましたが、学年,(すこぶ)る不完全であった前の寄宿舎では、多数の寄宿生を收容することが出来なくなりましたので、新たに校舎裏側,寄宿の本舘が1棟、夫(そ)れに食堂・炊事室・病室が在りまして都合建物が4つあります。,而して只今では之れに60有余名の生徒が寄宿して居(お)りますが、前の寄宿舎に比べると仲々都合がよろしくて,、寄宿生一般が大に便益を与へられて居ります。 / ◎寄宿舎建築
パスファインダー (北国街道小諸宿)

北国街道小諸宿 トピック(テーマ) 北国街道小諸宿 ねらい 城下町でもあり,宿場町でもあった小諸町の歴史を探る。,海野宿 田中宿 参勤交代 加賀藩 佐渡金山 蠟 本陣 脇本陣 問屋 戌の満水 小諸市誌 歴史編(三),という章を設け、伝馬制や本陣・脇本陣など宿泊施 設について解説する。,小諸の商業の発生を城下町であり宿場町であることが一番の要 因としている。 / 北国街道小諸宿
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([解説])

寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 / 寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,、田地のための堤防工事をお願いしたが、望月宿は中山道の宿場であるから、宿場としての役目がはたせなければ,宿場としてのかいがない、宿場としてやってゆけるよう、宿場優先の堤防工事をお願いしたいと願ったものである,宿場住民が、宿場としての務めを優先していたことがうかがわれる。  ,「別高」(別村)になっているが、望月宿に橋一つでつながっているので望月宿の「加宿同然」に役目をはたしてきた
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([解説])

寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 / 寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,、田地のための堤防工事をお願いしたが、望月宿は中山道の宿場であるから、宿場としての役目がはたせなければ,宿場としてのかいがない、宿場としてやってゆけるよう、宿場優先の堤防工事をお願いしたいと願ったものである,宿場住民が、宿場としての務めを優先していたことがうかがわれる。  ,「別高」(別村)になっているが、望月宿に橋一つでつながっているので望月宿の「加宿同然」に役目をはたしてきた
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([現代訳])

寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 / [現代訳] 恐れながら書付をもって願い上げ奉る口上の覚え 一、望月宿は去年戌八月の大満水によって伝馬役屋敷二十軒,そこで先に宿場の堤防工事をお願いしましたが、今回流失しないで残った田地の堤防工事を、別紙帳面のとおりお,もっとも、田地の堤防工事をしていただいても、宿場を維持できなければ、田地を所持している甲斐がなく、宿場,、宿場の堤防工事をしていただきたいということです。,まず宿場の堤防工事をしていただけば、宿場を維持することができ、往還御用を務めることができありがたく存じます
寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 ([翻刻])

寛保三年二月宿の堤防工事嘆願書 / [翻刻] 1       乍恐以書付奉願上候口上之覚 一望月宿去ル戌之八月大満水ニ而、当宿御伝馬,此度御見分被成下置候通ニ御座候、  其上田地夥敷流失仕、御伝馬役相勤り兼候  躰ニ而困窮仕候、依之宿之川除御普請,猶又流失残り候田地川除場所、別  紙帳面ヲ以、此度奉願上候、御慈悲ヲ以田地  川除被成下置候而茂、駅宿難相立仕合,田地川除之  儀者追々手前普請ニ可仕候、左候得ハ重         2    畳之御慈悲ヲ以駅宿相立,可申と難有奉存候、以上、           牧野内膳正領分             中山道望月宿
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([翻刻])

寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 / [翻刻] 1       乍恐以書付奉願上候御事 一望月宿去戌八月大満水ニ而、此度御見分  ,被成下置候通大破仕、駅宿御伝馬役  相勤兼候躰ニ而、千万困窮至極仕候、依之  川除ケ御普請奉願上候得共,御入用金と被為思召、御金子御拝借  被下置候ハヽ、乍所上之段と申場所  川離候所ニ御座候、彼之地江当宿御引,御慈悲を以被為御  聞召分被仰付被下置候ハヽ難有奉存候、  以上、    寛保三亥二月  望月宿問屋
木曾山林学校 (寄宿寮より)

寄宿寮より 6           越    畔 つい先月(14日)まで淋しいさびしいと言つた寮 / 寄宿寮より
寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 ([現代訳])

寛保三年二月宿場引き移し嘆願書 / [現代訳] 恐れながら書付をもって願い上げ奉る事 一、望月宿は去年戌八月の大満水によって、このたびご,見分下されたとおり、大破し、宿場としての務めができず、困窮しています。,その金で上之段という、川から離れた場所へ宿場を移したいと思います。
木曾山林学校 (15.寄宿舎)

15.寄宿舎 40 本校生徒は自宅より又は親戚より通学するものゝ外は、凡て寄宿舎に収容し、舎監其他,達せん為、舍監々督の下に生徒より成る組長・室長及炊事・購買・図書等の委員を置き、各其事務を分担して寄宿舎生活,是等寄宿生活をして趣味あらしめ且家庭との懸隔甚しからざらしむる方針なればなり。 / 15.寄宿舎
別所温泉誌 (《温泉宿及び市中の概況》)

《温泉宿及び市中の概況》 当時、温泉宿は三十戸余り。,このうち宿名が紹介されているのは、院内にある十六軒と大湯の地にある七軒です。,宿泊料の規定や貸席及貸器具定価表の項目が挙げられていますが、いずれも数字は入っていません。   / 《温泉宿及び市中の概況》
寛保三年三月復旧方懇願書 ([解説])

寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,、田地のための堤防工事をお願いしたが、望月宿は中山道の宿場であるから、宿場としての役目がはたせなければ,宿場としてのかいがない、宿場としてやってゆけるよう、宿場優先の堤防工事をお願いしたいと願ったものである,宿場住民が、宿場としての務めを優先していたことがうかがわれる。  ,「別高」(別村)になっているが、望月宿に橋一つでつながっているので望月宿の「加宿同然」に役目をはたしてきた
寛保二年十一月堤防工事嘆願口上書 ([解説])

寛保二年一一月の「宿の堤防工事嘆願書」は、望月宿から幕府道中奉行所へ、流失をまぬがれた家の軒下が鹿曲川,、田地のための堤防工事をお願いしたが、望月宿は中山道の宿場であるから、宿場としての役目がはたせなければ,宿場としてのかいがない、宿場としてやってゆけるよう、宿場優先の堤防工事をお願いしたいと願ったものである,宿場住民が、宿場としての務めを優先していたことがうかがわれる。  ,「別高」(別村)になっているが、望月宿に橋一つでつながっているので望月宿の「加宿同然」に役目をはたしてきた
戸隠善光寺往来 ([現代訳])

経て、戸田の渡しで羽黒社を遥拝し、蕨宿、浦和宿から大宮権現(氷川神社)を過ぎ、上尾宿、桶川宿へ。,本庄宿から神流川(かんながわ)を渡り、新町宿、倉賀野宿を経て、高崎宿には越後路あるいは伊香保・草津への,それより、板鼻宿、安中宿では妙義への道が左に分かれ、松井田宿、坂本宿は碓氷峠の麓、峠の熊野権現の社は信州,軽井沢宿、平葉の原、沓掛宿、追分宿は「信濃なる浅間の山」と歌に詠まれた浅間山の麓の宿場で、まっすぐに行,田中宿、海野宿を過ぎ、上田の町から坂木宿、戸倉宿、屋代の渡し場からは、姨捨山の長楽寺、冠着山などが見渡
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

ここからは、はじめに宿名と次宿への距離を原文通りに写し、次に掲載されている旅籠屋数と店数を示すという形,岩村宿の旅籠屋は8軒と少なく、本陣や脇本陣のない宿駅であった。,次の八幡宿までは距離が短い。なぜ塩名田に宿を置いたのだろう。,長久保宿は、真田領知支配のために送り込まれた石合、小林氏を中心に新しく形成された宿である。,中山道塩尻宿は、古町付近や近郷の人々を集めて宿役人を定め伝馬制を整えた。  
善光寺道名所図会 (『善光寺道名所図会』の構成)

『善光寺道名所図会』の構成 5巻5冊からなる『善光寺道名所図会』は、中山道洗馬宿から善光寺道を各宿駅,その道筋を追うと、洗馬宿から郷原宿・村井宿を経て松本に入り、同城下内外の寺社古蹟をめぐります。,松本にもどって、善光寺道を岡田・苅谷原・会田、立峠を越えて乱橋・法橋を過ぎ、青柳宿・麻績宿から猿が馬場峠,ついで善光寺を発して丹波島宿から川中島に出て、松代城下の寺社を訪ねて屋代宿に進み、この宿の山王社の祭事,を探訪し、下戸倉宿・坂木宿を経て鼠宿から小県郡にうつります。
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

善光寺へ向かう道筋は、たいてい善光寺道といわれていましたが、とくに、中山道(なかせんどう)の洗馬(せば)宿で,まず、洗馬・村井宿間の道路を切開いて奈艮井川東岸の人びとを移して郷原宿をつくり、村井氏の館跡近くへ村井宿,岡田宿は約40年遅れて明暦4年(1656)に松本藩主の水野氏が近隣の人びとを集めて宿造りをしました。,宿場間の距離の長い所や峠の麓などには、休憩のために正規の宿場ではありませんが、間宿(あいのしゅく)といって,松本の南の出川、会田宿と青柳宿の間の立峠の麓の乱橋・西条、猿ケ馬場峠下の桑原などが間宿と呼ばれていました
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

○筑摩 洗馬 16左    洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里,京都から江戸まで69宿のうち、洗馬は39宿にあたります。,(注)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う,宿の長さは、5町50軒です。,ほどなく郷原宿にでます。
御役所より被仰渡御書付之写并請印 ([解説])

長野県佐久市)で作成された(あるいは岩村田宿で作成されたと推定される)ものなので、一括して解説する。,ちなみに岩村田宿は、中山道の宿場の一つで、江戸から碓氷峠を越えて信州に入ると、最初の宿場が軽井沢宿で、,沓掛宿・追分宿(以上の軽井沢三宿は軽井沢町)・小田井宿(御代田町)をへて岩村田宿にいたる。,次の宿場は千曲川に面した塩名田宿(佐久市)である。,ついては岩村田宿においても、そのようなことをしないように商人へ申し渡す、と記されている。
浅間山大焼け以来難儀につき見分願い ([解説])

長野県佐久市)で作成された(あるいは岩村田宿で作成されたと推定される)ものなので、一括して解説する。,ちなみに岩村田宿は、中山道の宿場の一つで、江戸から碓氷峠を越えて信州に入ると、最初の宿場が軽井沢宿で、,沓掛宿・追分宿(以上の軽井沢三宿は軽井沢町)・小田井宿(御代田町)をへて岩村田宿にいたる。,次の宿場は千曲川に面した塩名田宿(佐久市)である。,ついては岩村田宿においても、そのようなことをしないように商人へ申し渡す、と記されている。
浅間山焼けにより馬草などを取ることができないため小物成免除願い ([解説])

長野県佐久市)で作成された(あるいは岩村田宿で作成されたと推定される)ものなので、一括して解説する。,ちなみに岩村田宿は、中山道の宿場の一つで、江戸から碓氷峠を越えて信州に入ると、最初の宿場が軽井沢宿で、,沓掛宿・追分宿(以上の軽井沢三宿は軽井沢町)・小田井宿(御代田町)をへて岩村田宿にいたる。,次の宿場は千曲川に面した塩名田宿(佐久市)である。,ついては岩村田宿においても、そのようなことをしないように商人へ申し渡す、と記されている。
諸国道中商人鑑 (3 松井田から追分まで)

・「さ 中山道坂本宿 軽井沢え二里半十六丁 是より碓氷峠」  六軒の宿と八軒の店が掲載されている。,軽井沢から沓掛、追分と続く宿(しゅく)を浅間三宿と呼び「小諸馬子唄」では「浅間山さん なぜ焼けしゃんす,沓掛宿は3回の大火に遭っている。,現在は宿場の面影をうかがうことができない。,商家8軒)と大きな宿場町であった。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

民家が多く、宿場の入口に唐松の大樹が2株あります。,上方のほうから善光寺へ参詣する多くの人は、中山道妻籠(つまご)宿の橋場より右へ入り、飯田の城下へむかい,(注)郷原宿は、慶長19年(1614)に松本城主小笠原秀政が、中山道洗馬宿と北国街道を結ぶために、北国脇往還,を整備したときに設定した宿場の一つで、洗馬宿と村井宿の中間にあります。,桔梗ケ原に位置して地下水の低い郷原宿では、飲用水確保のために深井戸を堀り共同で管理してきました。
善光寺道名所図会 (○筑摩 村井)

○筑摩 村井 23右    村井宿は、松本へ1里半、南北6町ほどの宿場通りです。,宿の入口左側に神明の杜があり、ここの本居神です。,それより平田村を越し、間宿(あいのしゅく)の出川町(いでがわまち)にでます。長さ4町ほどの宿場です。
御役所より被仰渡御書付之写并請印 ([現代訳])

[現代訳] 申し渡し覚え  このたびの浅間山の大噴火によって、追分・沓掛・軽井沢三宿をはじめ、浅間山近辺,右のことは、常々心得ておくべきことであるが、このたび浅間山が大噴火して右の三宿はいたって難儀しているという,このため商品を買い占めたり、値段をつり上げたりしないようにしてほしいと、三宿から御影代官所へ願い出たということを,知っていて放置したら、宿役人を処罰する。  ,岩村田宿   天明三卯年七月十四日                    忠 八 (印)            
寛保三年三月復旧方懇願書 ([現代訳])

[現代訳] 恐れながら書付をもって願い上げ奉る口上の覚え 一、中山道望月新町は、本町(望月宿)に続,もちろん、本町に続く村なので、望月宿の加宿同然に昼夜往還御用を務めています。,御大名様方往来の節は、下宿なども務めています。,ことに鹿曲川が満水で橋が落ちた時には鹿曲川を渡ることができないので、京都へ向かう上りの家中様方の宿も務
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

○筑摩 会田 26右    7町ほどの宿場です。本陣の横内氏の林泉は佳景です。,福寿山広田寺(こうでんじ)は、宿のはずれの右側にあり、この寺に会田小次部の位牌を納めています。,会田宿は、この険路を控えた南麓に置かれ、善光寺道と上田・明科・筑北の各方面へ向かう道が出会う、交通の要衝,会田宿は、鎌倉時代に小県郡から進出してきた海野(うんの、会田)氏の城下町で、宿の北上段の殿村に居館を、,文久3年(1863)には、旅寵屋12、木賃宿4、馬牛宿3、茶屋5軒がありました。
戸隠善光寺往来 (『戸隠善光寺往来』の内容)

その間を主に宿場をたどりながら簡潔に述べています。,軽井沢宿と沓掛宿(中軽井沢)との間には、「平葉(場)の原」と呼ばれる原野がありました。  ,全国から人の集まる善光寺町の繁栄は、道中のどの宿場や城下にも見られなかった特別なもので、長旅をして善光寺
パスファインダー (信州中馬と伊那街道)

余剰作物販売のための運送から始まった中馬稼ぎ は、次第に専門職として遠くまで荷物を運び仕事をするようになった 宿,発展させるようになる様子を学ぶ キーワード 概要を知るた めのツール 資料リスト 中馬 宿場, 問屋 馬宿 伊那街道 飯田町 桜町 松本 岡崎 吉田 (豊橋) 宿継 付通し 荷歩銭 商品流通 荷物,長野県民俗調査報告) 長野県教育委員会/編 長野県教育委員会 1959 中馬の成立、はたらきおよび宿場,近世伊那交通史研究 第一集」 塩沢仁治(下伊那教育会/編) 下伊那教育会 1958 市田宿の成立やその
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([翻刻])

一 田中宿亡所、問屋長之助流死、家内之内左太夫無難、不残流死。,一 海野宿半分亡所、残砂流入埋亡所同前、海禅寺村、深井村、 右同断、下塩尻下村亡所、中島、新屋亡所、,一 諏訪無難、長久保、あした中山通(ママ)之内、望月宿砂入、其外ハ田畑。,大分損事候得共、宿々ハ差而之儀無之候。 一 近所川筋流死、秋和正福寺中へ無縁塚被 仰付候。
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

○筑摩 麻績 33右   六町程相対して巷をなす、其余町裏に散在す、稲荷山宿へ三里、 此間猿ケ馬場,といふ峠あり、 宿の入口左側に仏眼山法善寺[曹洞派、寺領八石]の黒門の脇に庚申の祠反 古塚等あり、,又宿中程北裏の山手に麻績山光明寺[天台宗]といふ 寺有り、此は麻績式部太夫が城趾なり、[式部太輔甲州,へ属して、十騎の軍役たりし、]      (改頁)   宿の出郷宮本村に神明宮立給ふ、白鳳十二年酉二月九日,六月 十七日、八月十四日、神主宮川雅楽亮[宮下帯刀・宮川豊後・宮下日向・寺沢近江・宮下織部] 此宿を
パスファインダー (中山道千曲川往還橋)

中山道千曲川往還橋 トピック(テーマ) 中山道千曲川往還橋 ねらい 江戸時代、中山道の塩名田宿と,キーワード 中山道、塩名田宿、御馬寄村、千曲川、往還橋、中津橋、川越し、 船渡し 概要を知,るためのツール 1 書名 著者名 出版社 出版年 中山道信濃二六宿 長野県文化財保護協会/,編 信濃毎日新聞社 1980.11.10 長野県文化財保護協会が行なった中山道信濃二六宿の調査研,内容紹介 究をまとめたもので、塩名田宿の項の「千曲川往還橋について」 で、架橋の変遷や橋普請の概要
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

東海道巡幸の旅程 明治11年8月30日に東京を出発した明治天皇は、浦和、桶川、熊谷、新町、前橋、松井田に宿泊,長野県内の昼食地と宿泊地は次の通りです。,9月6日 昼食 軽井沢 宿泊 追分 7日 昼食 小諸 宿泊 上田 8日 昼食 下戸倉 宿泊 長野,9日 宿泊 長野 10日 昼食 牟礼 以後、新潟、富山、金沢、福井、大津、京都、岐阜、名古屋、静岡等
木曾山林学校 (16.舎生心得)

16.舎生心得 42        第一 総則 一、寄宿舎は生徒の品性を陶冶し、共同自治の精神を,涵養し、智能を錬磨せしむるを以て目的とす 一、寄宿生は本校諸規則を遵守するは勿論、舎生心得を服膺(ふくよう,:心にしっかりとめて片時も忘れぬこと)し舎監の指揮に服従すべし 一、寄宿舎に於ける各役員は、常に共同,一、寄宿舎は毎年夏期休業・冬期休業・学年末休業中は之れを閉づるものとす   但、休業中と雖も閉鎖,せざることあるべし        第二 寄宿舎編制及役員 一、寄宿生を分ちて数組とし、各組に組長1
善光寺道名所図会 (○筑摩 麻績)

○筑摩 麻績 33    6町ほど相対して宿場をなしています。,稲荷山宿へ3里、その間に猿ケ馬場という峠があります。,宿の入口の左側に仏眼山法善寺(曹洞派、寺領8石)の黒門の脇に庚申の祠反古塚などがあります。,また、宿のなかほどの北裏の山手に麻績山光明寺(天台宗)という寺があります。,この宿を出て18町いったところの一の川村、これが猿が馬場の登り口です。
木曾山林学校 (23.諸種の会合)

するもの」の表は原本ビューワ55コマを参照)     (改頁)   (2)寄宿生,に関するもの (注 「寄宿生に関するもの」の表は原本ビューワ55コマを参照) (3)通学生に関するもの,(注 「通学生に関するもの」の表は原本ビューワ55コマを参照) 以上列記する処、通学生会あり、寄宿生会
パスファインダー (水戸の浪士伊那路通行)

リスト 水戸藩 天狗党 武田耕雲斉 藤田小五郎 北原稲雄 今村豊三郎 角 田忠行 国学者 松島宿 ,上穂宿 片桐宿 大島宿 駒場宿 清内路関 所  飯田藩 高遠藩  水戸浪士  幕府追討軍  薄井龍之  ,出版年 阿智村誌編集委員会/編 阿智村誌慣行委員会 1984.3 内容紹介 駒場宿へ,宿泊した水戸浪士との交流及び宿場に残された浪士の史料 の紹介 1 論題名 著者名 雑誌名 出版年
善光寺道名所図会 (○筑摩 青柳)

○筑摩 青柳 31左    5町ほど相対して宿場をなしています。麻績宿へ1里10町です。,野を越え山を越えつつ、麻績宿に到ります。  ,(注)青柳宿は、青柳氏が戦国時代に館を中村から移して町を形成し、街道を館前方まで引上げました。,が37軒、弘化3年(1846)は旅範屋11・茶屋7・馬士7・かご稼5軒、明治18年(1885)には、宿屋,青柳宿を出て、しばらく北へ向かうと、岩山を垂直に切り開いた大きな切り通しがあります。現れます。
寛保2年 戌の満水 原町問屋日記 ([現代訳])

一 田中宿は流失し問屋の当主(小田中)長之助が流死、当家では左太夫を除いて残らず流死しました。,一 海野宿は半分流失し土砂が流れ込みました。海禅寺村と深井村も同じでした。,長久保・芦田の中山道では、望月宿に土砂が流入、そのほか田畑への被害がありましたが、宿々への被害はそれほどではありませんでした
善光寺道名所図会 (○筑摩 乱橋)

乱橋は間の宿です。ここは、長さは4町ほど相対した宿場です。法橋(ほうきょう)へ30町です。
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

○筑摩 苅屋原 24右   間の宿とす、三町程相対して巷をなす、会田宿ヘ一里十丁、反町村板 場・,鳥居出を過て会田の宿にいたる、此辺ハ山間の小邑なれば、す へての風俗質朴にて、堅実なる山賎のみ多くつどひ
御役所より被仰渡御書付之写并請印 ([翻刻])

被仰渡御書付之写并請印 」       申渡覚      2 此度浅間山大焼ニ付、追分・沓掛 軽井沢三ケ宿を,物随分正路ニ商ひ候様可致候、 右之儀常々可相心得儀ニ有之候、尚 以此度浅間山之変事ニ付、右三宿,      4   可申候、右躰之儀致見聞候ハヽ早速 可申出、若聞遁しニいたし置候而者 宿役人可為越度候,以上、     (改頁)      5               岩村田宿
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

抑此駅ハ吉祖の深山幽谷を分凌ぎ、桔梗が原の曠野に出るの始なり、よつて木 曽の咽喉なりと謂ふ、繁昌の宿駅,此所に休泊して詩歌を遺せり        (略)          20左   神明宮[宿をはなれて,にあづま橋をわたせり、古道といふ、]木曽川[是は中山道の木曽川にあらず、水 源は鳥居峠に濫觴して、本山宿の,気の砌は渇を凌ぐの用意有べし、此街道五六月の頃奥州南部辺 より牛の子を多く牽出るなり、程なく郷原宿にいたる
善光寺道名所図会 (○筑摩 岡田)

鳥居から並木の松があり、本社まで7町、ほどなく岡田宿に至ります。4町ほど相対して民家が多いです。,宿のはずれに婦人を改める番所があり、松本藩が置いたものです。,(注)岡田宿の北端で鉤(かぎ)の手に曲った所に、享保11年(1726)に新設された口留番所があり、明治
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

○筑摩 苅屋原 24右    間宿(あいのしゅく)です。3町ほど相対して宿をなしています。,会田(あいだ)宿ヘ1里10町、反町村板場・鳥出を過ぎて会田の宿に至ります。
善光寺道名所図会 (○筑摩 郷原)

○筑摩 郷原 21左   村井迄一里半、南北八丁程相対して巷をなす、民家多し、宿の入口 に唐松の,右京いせ道、左伊奈諏訪道]松本の方より来 る人の左右なり、凡上方筋より善光寺へ参るに多くハ中山道妻籠宿の,橋場より右 へ入り、飯田の城下へかゝり、甲州の元善光寺へ参り、夫より塩尻宿へ出て、此 道へ来るなり
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