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NPO長野県図書館等協働機構/信州地域史料アーカイブ

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宿継要書留 ([翻刻])

宿継要書留 / 而茂下シ候ハヽ、其継場よ里     (改頁)      23    宿並駄賃を以可継送被仰渡,より付出し候共、 他所之商人相調付送り候荷物者、宿々 馬継場ニ而継合候儀与相心得可申旨被 仰渡、,ケ町ニ不限、何之 宿々馬継場も同様之儀ニ御座候ニ付、 右御請証文之写御渡被 置候間、 外宿々馬継場,、若無処儀ニ而継合候ハヽ  馬継場ニ而継宿継ニ致来り候商荷物之分者、中  馬付候儀者相止メ可申候、,より出候 商人買請之諸荷物、今度 御奉行所ニ而宿継ニ被仰付候ニ付、来ル朔日より継立 申候間、最寄宿継場役人方
宿継要書留 ([解説])

宿継要書留 / 『宿継要書留』は横半帳という形態の帳面で、普通の横帳の半分ほどの長さの帳面です。,この帳面は、「宿継要書」と表紙に書かれていますが、宿継に関係するいろいろな書類を書き留めた帳面で、江戸時代初期,元禄6(1693)年伊那街道の16か宿は、宿継の荷物の励行を願い出ました。,この裁許書は『宿継要書留』には、全く記録されていません。,『宿継要書留』はここで終わっています。
宿継要書留 ([現代訳])

宿継要書留 / その上松本町で売出しの荷物を、宿継として宿問屋が言うので、右の荷物を16宿の者が買い出し、尾州・三州へ,中馬荷物を一宿でも下せば、その継場より宿並駄賃により継送るようにと仰せ渡されたのではなく、双方心得違いをしています,また伊那街道宿並御用の御伝馬や旅人の継馬を勤めれば、中馬荷物は継荷になるので、宿並の通継馬仰せ付けられるようにお,宿々や馬継場は、商人荷物を継送ることを利益として、御用や武家方御通行の継合いを勤めています。,ところが七久保は在郷村で、宿継荷物を飯田から出した荷物に紛らわし、毎日戻りの駄賃稼をしているので、宿継荷物
善光寺道名所図会 (善光寺道(北国脇往還))

まず、洗馬・村井宿間の道路を切開いて奈艮井川東岸の人びとを移して郷原宿をつくり、村井氏の館跡近くへ村井宿,の継ぎ立てを行なってきました。,しかし、大部分が山間部であるうえ、刈谷原峠・立峠・猿ヶ馬場峠などのけわしい峠があるので継ぎ立ては容易でなく,の場合は、近郷の応援を求めて継ぎ立て業務を果しました。  ,松本の南の出川、会田宿と青柳宿の間の立峠の麓の乱橋・西条、猿ケ馬場峠下の桑原などが間宿と呼ばれていました
善光寺道名所図会 (○筑摩 洗馬)

○筑摩 洗馬 16左    洗馬から郷原(善光寺道の宿場)まで1里半、塩尻(中山道の宿場)まで1里,京都から江戸まで69宿のうち、洗馬は39宿にあたります。,(注)洗馬宿は、中山道の宿駅で、上りは本山宿、下りは塩尻宿へ継立てる宿であり、また郷原・松本方面へ向う,宿の長さは、5町50軒です。,本陣の南側に、正徳2年(1712)から江戸の板橋宿とともに幕府の貫目改所がおかれ、継ぎ立荷物の目方を検査
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

○筑摩 会田 26右    7町ほどの宿場です。本陣の横内氏の林泉は佳景です。,広政は海野幸継の2男で、はじめは当国衆の一味でした。,会田宿は、鎌倉時代に小県郡から進出してきた海野(うんの、会田)氏の城下町で、宿の北上段の殿村に居館を、,文久3年(1863)には、旅寵屋12、木賃宿4、馬牛宿3、茶屋5軒がありました。,殿村から虚空蔵山周辺の遺跡調査が、松本市教育委員会によって継続的に調査されています。  
犀川を下る記 (3.千曲川通船)

水内郡権堂村瀬兵衛ら4人が、坂木陣屋に千曲川・犀川の通船を願い出たのが最初でしが、福島・川田・丹波島・矢代各宿の,「寛政2年(1790)水内郡西大滝村の太左衛門が、西大滝から福島宿まで13里を5艘の船で通船する独占権,(2)幻の千曲川運河計画と信越本線  明治2年(1869)、松代藩川舟を引き継いだ川田宿又右衛門は通船会社継続願,すると、千曲川通船はその様相を一変し、新潟県からの塩や海産物、国外からの豆粕肥料などは信越本線豊野駅を中継して
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

○筑摩 苅屋原 24右   間の宿とす、三町程相対して巷をなす、会田宿ヘ一里十丁、反町村板 場・,鳥居出を過て会田の宿にいたる、此辺ハ山間の小邑なれば、す へての風俗質朴にて、堅実なる山賎のみ多くつどひ,強飯を以て苅谷原の名物とす、 ○鷹巣根の古城 苅谷原より五、六町西の方にあり、むかし海野小太郎幸 継の
パスファインダー (信州中馬と伊那街道)

余剰作物販売のための運送から始まった中馬稼ぎ は、次第に専門職として遠くまで荷物を運び仕事をするようになった 宿,発展させるようになる様子を学ぶ キーワード 概要を知るた めのツール 資料リスト 中馬 宿場, 問屋 馬宿 伊那街道 飯田町 桜町 松本 岡崎 吉田 (豊橋) 宿継 付通し 荷歩銭 商品流通 荷物,長野県民俗調査報告) 長野県教育委員会/編 長野県教育委員会 1959 中馬の成立、はたらきおよび宿場,adeac.jp/shinshu-chiiki/ 概要 飯田市中央図書館所蔵「飯田文書」中の「宿継要書留
信濃名勝詞林 (陸路廼記)

東海道巡幸の旅程 明治11年8月30日に東京を出発した明治天皇は、浦和、桶川、熊谷、新町、前橋、松井田に宿泊,長野県内の昼食地と宿泊地は次の通りです。,9月6日 昼食 軽井沢 宿泊 追分 7日 昼食 小諸 宿泊 上田 8日 昼食 下戸倉 宿泊 長野,9日 宿泊 長野 10日 昼食 牟礼 以後、新潟、富山、金沢、福井、大津、京都、岐阜、名古屋、静岡等,近藤芳樹 周防国岩淵村(山口県防府市)に生まれ、国学を学んだ後、長州藩士近藤家を継ぎました。
善光寺道名所図会 (○筑摩 苅屋原)

○筑摩 苅屋原 24右    間宿(あいのしゅく)です。3町ほど相対して宿をなしています。,会田(あいだ)宿ヘ1里10町、反町村板場・鳥出を過ぎて会田の宿に至ります。,鷹巣根の古城は、苅谷原から5、6町西の方にあり、むかしは海野小太郎幸継の5男、苅谷原五郎が城主でした。
善光寺道名所図会 (○筑摩 会田)

三十丁、下り十八丁の〓路なり、 北東に虚空蔵山見ゆる、則会田小次郎広政の古城地なり、 広政は海野幸継の,甲州へ降て十 騎の軍役たり、小笠原帰国の後、会田・青柳・麻績三家とも亡されたり、 ○福寿山広田寺[宿はづれ
『長野史料』索引 (『長野市史』と『長野史料』)

天保木綿商取締鑑札に付訴願、嘉永安政木綿商仲間掟、善   光寺古事見聞録、善光寺由来記、文久二年人馬継立之件,  災記、市場衰微歎願訴訟、権堂飯盛女に付約定書、安政年中歩役一件出入、元   禄度市場伺、慶長宿証文,、寛保権堂村水茶屋渡世に係る文書、桜屋火事、明治   初年善光寺宿助郷調、御役事日記、城山県社考証」
犀川を下る記 (おわりに)

かつて、人と物資の大動脈を担った信州の通船は既に姿を消し、現在、観光用として残っているのみですが、宿継
パスファインダー (信越を結ぶ谷街道)

五街道 北国街道 谷街道 千曲の真砂 口留番所 道普請 善光地道 継立村 雪中継立会所 継立会所仲間 ,/著 出版社 長野郷土史研究会 出版年 1982.9 内容紹介 特集 街道と宿場, として 「谷街道」「 越後の雪中における宿場」などの 論文が掲載されている。
おらが春 (小林一茶の生涯)

一茶の生まれた柏原(長野県上水内郡信濃町柏原)は、北国街道の宿場で、信州北部の豪雪地帯にありました。,3歳の時母を失い、継母との折り合いが悪かったこともあって、15歳で江戸に奉公に出ました。  
諸国道中商人鑑 (4 小田井から本山まで)

ここからは、はじめに宿名と次宿への距離を原文通りに写し、次に掲載されている旅籠屋数と店数を示すという形,岩村宿の旅籠屋は8軒と少なく、本陣や脇本陣のない宿駅であった。,次の八幡宿までは距離が短い。なぜ塩名田に宿を置いたのだろう。,塩名田は対岸の御馬寄村とともに、千曲川往還を守り、継立を遅滞なくするために置かれた宿だった。,中山道塩尻宿は、古町付近や近郷の人々を集めて宿役人を定め伝馬制を整えた。  
木曾山林学校 (学校要覧)

40年9月13日江畑猷之允校長に任ぜらる 〇同41年12月長野県通常県会に於て42年度より向ふ4年間継続事業,2日校長安藤時雄転職す ○同年10月6日教諭七宮純雄、安藤前校長の後を襲ひ(おそい:地位などを受け継ぐ,円20銭を1円50銭に改む ○同年4月10日西筑摩郡主催小学校准教員養成所を本校舎内に開催し2ヶ年継続事業,10年3月4日県令第16号を以て学則第30条改正授業料1ヶ月金1円50銭を金2円とし及び第38条削除寄宿料,(大正10年10月調) (注 これについての表は原本ビューワ33コマ参照) 6、在学者入費調(寄宿舎
絵頭入書百性往来童子宝全 ([翻刻])

#160; 御巡見遵行御伝 馬、御領私領之村々 定大助遠村加助 役并ニ助郷問屋人 馬割触順番宿駅,#160;   (改頁)      10   之到着御用無指 支様馬指之任指 図、継送荷物宰,)   人掛、分持壱人者 五貫目、其外貫 目之軽重者、一人 五貫匁之積を以、 継合候事御大法也
秀吉と真田 (三成ほか西軍諸将よりの書状)

石田三成・大谷吉継は敗死。毛利輝元は大減封のうえ転封。,花押)                徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)      真田安房守殿 御宿所,重ねて大坂御宿所へも人をこれを進め候て御馳走申すべく候事。   , 幸村の妻の父、越前敦賀城主大谷吉継よりの書状。,七月二十九日  芸中納言 輝元(花押)      真田安房守殿 御宿所    
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([翻刻])

94     九月朔日 天気、西山        あれ見ゆる  朔日参二日帰ル 一此度和田宿より,宿立人馬  不足ニ付差村有之、御公役  村柄御見分有之候ニ付、懸り  御手代広瀬小左衛門殿・御同心,宿立人馬不足ニ付、差村所  ニ付出ス、付人庄次郎申達ス 一庄内村弥五右衛門垣限外麦柄之内ニ捨  ,一籾弐俵 筑摩村岩蔵極  難ニ付御救被下置候、直ニ遣ス 一庄内村喜源ニ借屋、木曽宮ノ越  宿より,先年右之場     (改頁)      215   野行有之候哉、左様ニ候ハゝ 年歴候共ニ御宿蒙
寛保二年八月上畑村水災救恤願 ([現代訳])

前々から甲州・越州への通路で、馬継ぎ村です。幕府のご巡見役人が通行される際には、宿泊地にされます。
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと) ([解説])

中でも『内藤十五世紀(十一)』は、安政6年(1859)に家督を継ぎ、最後の藩主となった内藤頼直の時代の,進徳館開校から遡ること100年も以前のことですが、彼の教えは門下生らに受け継がれ、後の進徳館の学びの根幹,その後、頼寧の遺志を継ぎ、学問所の設立の悲願を果たしたのが、最後の高遠藩主・内藤頼直でした。,校内には寄宿寮が設けられ、17歳以上の希望者かつ成績優秀者が入寮し、朝早くから夜遅くまで勉学に励みました,開校以来、進徳館に通学した生徒の累計は約500名、寄宿生徒は約40名といわれており、職員は文武総裁を筆頭
秀吉と真田 (東西に分かれた真田父子)

増田右衛門尉)長盛(花押)          徳善(前田徳善院) 玄以(黒印)      真田安房守殿 御宿所,そして、秀吉側近の要人のひとりで三成の盟友でもある大谷吉継(越前敦賀城主)の娘を妻としていた。,吉継は、やはり家康の命に応じて会津遠征に参加しようとしていた。,吉継は再三それを思いとどまらせようとしたが、親友三成を見捨てられず、ついに同心したという有名な話であるが,、信繁の岳父でもあった吉継の西軍加担の事実も当然、使者により伝えられたはずである。  
御城下古法并市場古法書抜書集 ([翻刻])

                     并誤一札取之候事 【(朱書)廿一】一同   年二月      他所行肴荷物中継庭銭定之事,  一上川路村より享保三戌年願出候者、上川路村之義者伊豆木・  下条辺下向ハ、諸方御通之節人馬差出宿継場同前,、在郷  町同前ニ而御城下町並諸商売不相成筈ニ候処、傳馬町継合ニ  御伝馬被仰付、依之市場之内袋茶并差支,本書者筆頭福住太郎太夫殿江預ケ置候   【(朱書)廿一 ○】 一同閏十二月十六日於本覚寺 他処行肴荷物中継誰,享保年中度々被 仰出候御停止を相背、 御城下町同様ニ商売物取扱仕、其上諸職方相始、他国送荷物 或者他所行継荷抔茂仕
松本藩庄内組大庄屋御用留 ([現代訳])

    (改頁)   九月朔日 天気、西山あれ見える 朔日参り二日に帰る 一、このたび和田宿(,中山道の宿場)より宿立人馬が不足なので、村への派遣があり、御公役村がらの御見分があるので、懸り御手代広瀬小左衛門殿,宿立人馬が不足につき、差村所に付け出スすと、付人庄次郎が申し達す 一、庄内村の弥五右衛門の垣の外の麦柄,上げられ、、北の御番所鍋島内匠様へ御召し出しのうえ、入牢を仰せつけられた、もっとも手入したが松本の無宿者,き、お頭半右衛門と紋蔵・九左衛門・松弥が話し合った、     (改頁)   さりながら松本無宿と
パスファインダー (『曽我物語』『大塔物語』と善光寺)

 (歴史文化ライブラリー) 坂井孝一/著 吉川弘文館 2000.12 内容紹介 苦労して宿願,を遂げ若くして散った曽我兄弟の話は、人々の同情を集 め、中世を通して語り継がれ歌舞伎にも取り入れられた
信州飯田町家控 ([翻刻])

城主小笠原掃部太夫信嶺公関東江御所  替之後、松尾町をニ引伊勢町之上ニ建続て松尾町  と号、田町も此時建継大横町并,ニ上横町下横町と路を  割知久町三丁目を建継、此所ニ鍛居初候故鍛治町と号ス  御家中小路も此時代より, 定利公御病気重く次ニ御死去、此頃御子に大膳定次公  駿河ニ被成御座候而、御病気を御聞、夜を日ニ継で,ばず上郷村へ相送申候  当村之あて有之候村まで持参致候連名之御書付ハ  初筆の村へ相届け夫より村継ニ,ひろめ被成候事 一貞享二丑年越後国高田御在番ニ御越十一月八日越  後におゐて 殿様御逝去、無御世継依而近藤織
信州飯田町家控 ([現代訳])

田町もこの時建て継ぎ、大横町ならびに上横町・下横町と路を割り、知久町3丁目を建て継ぎました。,一同4(1655)年家督は脇坂中務少輔藤原安吉公が継ぎました。,宛名のある村まで持参し、連名の書付は、初筆の村へ届け、それより村継ぎにしています。,家督は周防守親貞公が受け継がれました。  ,御世継がなく、近藤織部様の子千之助様を養子にされ、家督を仰せ付けられました。
『長野史料』索引 ([翻刻])

     三、法規命令     上杉森松平三家ヨリ指令国道     慶長十六年越後家ヨリノ宿証文,弘化五年倹約触      仏     天和二年博奕禁制     正徳元年火事場心得     延宝元年宿場条目,ク権堂村ヨリノ訴願   人四 二〇     安政年度歩役一件     人六     文久元年人馬継立
むしくら日記 (1巻 元)

凡 例 ○弘化三(ママ)丁未三月、予此月御用奉、辰の 刻に登営し、未の刻に鎌原石州と代りて 下宿し,、酉の刻に又登営し丑の刻に 下宿しぬ、四月ニ至りても申合せ其如くに なしぬ、四月十三日水災の後ハ夜,の登営 ハやみて昼計となりぬ、是よりハ未申酉の 下宿にて定れる刻限なし、下宿の後庭裏 の小屋にありて,も同様之儀ニ而人馬継   立等も出来兼申候、猶精々手当申付置候へ共、先此段   御届申上候、委細之儀,りて有司に対面し、布野御通行御 渡船の事を乞ぬ、藤井喜内道橋奉行助柘植嘉兵衛等 面会して、三町に宿継
天明三年浅間騒動記 ([翻刻])

虚空え飛散る有様曲手鞠を投るかことく 地に落ハ、火石くたけて火玉となり往来の 旅人もなく、軽井沢宿・,にもへ付キ、宿半迄 焼失すれとも誰有て火を防く者も なく、ミな家財・財宝を打捨テ逃去りし 故、跡,え盗賊入込こと/\金銀財宝を 盗ミ取ル、此節松井田宿も余程焼失す、漸々 七月十二日十三日ニ至り焼も,より勤る人馬も なけれハ武家・売人荷物共賃銭相対頼ニ而 歩行にて持越継送る、 御見分方御役御普請惣奉行,追分宿・沓掛宿ニ充満(ジウマン)せり、一揆 之大将勢に下知し、随分猥りヶ間敷儀 無之様むさと火を懸
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」)

三月朔日天気快晴   (○中略)   今日ハ子供少々手習ニ来り昼仕廻ニ いたし申候 昨夜京都岩倉様本山宿御止宿,夜中大雪 亭主塩尻泊ニ而早朝帰宅 仍相談三人共ニスワ迄不参 節句祝申候 一傘壱本かし返ル  宮木宿 ,  (○上略)    四月七日 曇 雨天ニ成 早朝より子供ニ素読教為習申候 俵や直治殿継蔵,四月八日 天気子供休日   (○中略)    四月十一日 雨天 夜上り星みゆ 一酒壱升 小沢継蔵又々手習,今 天子幼冲姦臣権ヲ密ミ猥ニ 詔ニシ矯テ追討ノ命ヲ下タス 苟モ 人心アル者百諫千争シテ是ニ 継ニ
長野県師範学校生徒修学旅行概況 (長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])

となるに因り、武田上総介信綱来り代り、天正元年仁科五郎信盛(信玄の五男油川五 郎を以て、仁科氏を継かしめて,午后五時頃須原宿に 著し、住吉屋、桜屋に投宿す。,其北は継母岳に接す。之を御嶽の北端とす。,又一の池の西壁を三十六童子と称 し継母岳其西に屹立(きつりつ)し、共に信飛の境界を為せり。,日暮奈良井に逹し、徳利屋、米屋に投宿す。
御城下古法并市場古法書抜書集 ([現代訳])

り、合わせて誤り証文を取る事 【(朱書)廿一】一同    年2月       他所へ行く魚荷物の中継庭銭定,享保3戌年に願い出たのは、上川路村は伊豆木・下条辺などへ行く時、いろいろな人々が通行し、人馬を差し出し宿継場,けておく   【(朱書)廿 ○】 一文化7年閏12月16日に本覚寺において、他所へ行く魚荷物は、中継が,日本覚寺へ役人が寄り合い、組頭本町1丁目庄次郎が出て、2月本町1丁目市場当番より届け出があり、萬屋孫三郎が継いで,された禁止に背き、城下町同様に商売物を取扱い、そのうえ諸職業を始め、他国へ送る荷物あるいは、他所へ行く継荷
小倉百しほ染 (小倉百しほ染 乾[本文])

「かけ踊り」は、厄(やく)神(がみ)や虫送りの悪霊など、長居無用の諸霊を村から村へと送り継いで最後に海,しない)や簓(ささら)を用い、霊を誘い込んで、村境まで送り出し、受け入れた村は同じように次の村へ送り継ぐ,近世初期、伊勢から踊り継がれて、全国に広がった伊勢踊の例がある。風流踊りや盆踊り等もその一種。,「箭根宿」は善根宿の宛字。修行僧や遍路、貧しい旅人などを無料で宿泊させる宿。,宿泊させることは、自ら巡礼を行うのと同じ功徳があるとされた。春の季語。
寺子屋師匠の日記 (寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)

 不申様ニとの思召也とぞ 一宝暦十二壬午年男子出生幼名茂吉成長して団治  匡保と名乗同親之業ヲ継ギ,       玉祭法随法尼     男子 幼名忠吉 喜次郎ト改メ三代目ノ団治 家督ヲ        続(継),歌道を学ひ睦敷(むつまじく)相成候[享和二年ノ夏の頃和睦] 一寛政十一の冬松島より帰村布屋ニ居候節荷継問屋相始暫継候所伯,ニぬり申候  棟上致素建之所ニ而家代金(ママ)こはし運ひ地形礎居木も所々より貰又  ハ買ひ候へ共継足,ニ対面  挨拶之上暫休み酒弁当之御馳走此方之人足江振廻  爰より小野江馬人返し是より南殿人足ニ而継参
むしくら日記 (2巻 亨)

欠入て、母を助出て外に 置、又欠入て火をしめし、母を脊屓ふて難路をしのき、 観音堂に来りてため息継つゝ,者ふり返りて引上ツゝ、互ニ命限り と助合て、漸此村のみか野組に出、少しく抜も間遠な れば爰に息を継、,りに走り候へとも、年 若の甚七郎に及候はず、一船後れて、七八十人乗組、 川中へ漕出候比ほつと息を継候, より千曲川・犀川落合之辺ハ一円之乱瀬ニ相成、  丹波嶋宿并北国往還川田宿・福嶋宿之三  宿前条之次第,ニ而、人馬継立出来兼候、且又川辺  村々米穀之儀は山手村々へ相移候様兼而申付置  候得共、其外近辺村々
善光寺道名所図会 (○筑摩 松本)

この寺は松本の駅長(松本宿の問屋)倉科という者がまだ駅長でなかった頃の宅地でしたが、のちに寺となりました,本来宿泊してはいけない旅人の利用が増えたために、近隣の宿場から、旅人の宿泊を禁止するよう訴訟がたびたびおこされるほどの,(注)善光寺道は松本から岡田宿・会田宿・青柳宿をへて麻績宿へと向かいますが、「図会」では、まつもとから,(注)野麦街道の島々宿は、大野川の金山で採掘された銀・鉛鉱の継立て伝馬役をしたり、橋場番所、または梓川渓谷,から出される藩用薪炭、材木の検査に行く役人の送迎伝馬、善光寺参りの客の宿泊などの役を果していた小さな宿
むしくら日記 (1巻 元)

そんな時に鼠宿村の早足の在之助が来ました。,丹波島宿等も同様で、人馬継立などもできずにおります。,稲荷山宿でさえも旅人が800人も死んだと聞きますので、善光寺では宿屋や宿坊まで加えれば旅人は3、4千人,道橋奉行助、柘植嘉兵衛らが面会して、3町に宿継がなく、そのうえ上流のたまっている水が抜けたらどんな水害,、五ツ(8時)過ぎに矢代宿にお着きになり、お泊りになりました。(このお泊まりも宿方が引き受けました。
旧上田藩学制沿革取調書 全 ([翻刻])

、 制度区画既に定まりしか、未造営に及はすして文化 九年ニ致仕せり、七代忠学伊賀守襲封し、其志を継述,拡張之事 を謀りしか、未兵制を改革するに及はすして、安政六年ニ 卒せり、九代忠礼伊賀守襲封し、其遺志を継述,、文学校中 英学数学測量等之科を加へ、医学校を起し、又、鐘美 館を学校之域内ニ造り、文武生徒之寄宿所,と為し、 人撰して寄宿脩業せしめ、舎長を置て之を監督 せしめ、又武学校之区域を拡め教塲を建築し、武,、不衒声誉、不事著述、一述師説以唱後生、云々 文化年間学校創立之挙、其源固より藩祖之遺意 を累代継述
はなの (秋部)

に狐のつきし野寺かな トベ 蘇鳥 雨の夜や哀燈篭の粘(のり)ばなれ トグラ 文架 施餓鬼 継母,キヨノ 莵孝 あさがほに隣の朝寝見付たり 鼡尾花 ミそはぎハ花のまこともつい三日 奥 旦々 宿魂草,露の中 武 碓嶺 玉の名のあなかしましや露の降 越 蓬杣 投首(なげくび)の人ばかり也つゆの宿,彩色摺の図 野ぎく 月落て野菊捨たる六位かな ハセ 東器 つた 見て居ればものゝふる也蔦の宿
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」 ([ルビ・注記])

当時の学校は既に焼失して、今日(こんにち)は市役所にな っているが、九月七日の行事は継続されて居(い,宿料は茶代ぐる み二十五銭を与ヘた。          ,考へ、 其(そ)の向ふ側を見て、宿屋が知れたので、ほっとした。,もと毎年十一月     中旬頃、新宿御苑で行われた催し。     ,文久元年和宮降嫁にあたり本     山宿より和田宿までの道中警備を務める。     
龍駕の跡 (龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))

3  此日は浦和に御宿泊、翌三十一日は桶川御宿泊、九月一日は熊谷、二日は新町、三日は前橋、四日は高崎,御小休(おこやすみ)所は実に信州に属する神楽殿(かぐらでん)に三棟を継ぎ足せるものにして[此新築一棟は,古宿假宿ナドヲ過ギル頃ハ夜全ク明ケ家々戸ヲ開ケリ。  ,副区長は藤澤長十郎]専ら其任に当り、御著輦(ごちゃくれん)の当日は各宿所に貼札をなせるの外、宿割を印刷,階上は東西の廊下を以て二室に分る]寄宿舎二棟[校地内の北端にあり稍一列をなして連る]本校舍と東の寄宿舍
善光寺道名所図会 (○水内 善光寺)

ず、   按るに、牟礼より柏原・野尻・越後の関川・二《マタ》・関山・二本木・荒井迄を   中山八宿といふ,也、又善光寺ハ北国街道の宿駅にして、本名ハ水内   郡柳原庄芋井郷長野村なり、如来此所に遷座の後、地名,は、 日夲を呪咀し調伏する為ならん、速に御返しあつて然るべしと奏しける、 しかるに蘇我大臣稲目の宿袮奏,     て法服を剥ぎ牢に押篭禁めける、かくて丙午八月にいたつて、敏達 天皇崩御まし/\て帝弟御位を継せ,勢州白子の大竹屋何某一寄進と也、是より南へ大門町後丁・ 新田町・石堂丁など北国街道の順路なり、商家軒を継で
違作書留帳 ([翻刻])

我等ハ御蔭ニ而ケ成取ル  籾弐十五俵  粟十三俵三斗程 追々さわがしく 十二月朔日奈良井伝馬宿、,も落文、 是ハ木曽より千人程罷出候 ニ付弁当頼由 米屋ニ而も御詰所へ御届 申侯而用心等致し、宿方取,宮越宿迄四ケ宿へ 助郷相勤候村方ニ御座候処、 旧冬より作間ニ者木の実・葛 の粉・粟ぬか其外いろ/,六月十六日頃 又々水きれ 大川筋見分 六月廿一日 分水口江土井 かける  御出役    藤江継太夫様,とう町 鈴木 作之丞様  おはた町 山本九右衛門様  同 辻  小平太様  こうばり町 藤江 継太夫様
むしくら日記 (2巻 亨)

◯幕府の方から信濃・越後の被災地調査として、御普請役佐藤睦三郎という者が来て、4月11日に坂本宿に到着,(その折住持の後継の願いが出されました。)    ,甚七郎には敵わず、(赤坂の渡しでは)ひと船遅れて7、80人乗り組み、川の中に漕ぎ出した頃、ほっと息を継ぎました,北国街道沿いの丹波島宿から千曲川・犀川の合流する辺りは一面荒れた瀬になっています。,丹波島宿ならびに北国街道川田宿・福島宿の三宿は前条の通りで、人馬の継立ができません。
違作書留帳 ([現代訳])

我らは御蔭でかなり取る、籾二十五俵、粟十三俵三斗ほど、だんだん騒がしく、 十二月一日に奈良井伝馬宿、,せばじゅく、中山道の宿場、善光寺道との分岐点)の米屋にも落し文があった、、これは木曽より千人ほど罷り出,塩尻市)より宮越宿(みやのこしじゅく、木曽町日義)までの四か宿へ助郷(すけごう、近隣の村が宿場へ応援の,六月十六日頃、またまた々水きれ(氾濫か)、大川筋の見分、 六月二十一日 分水口へ土塁を掛ける、御出役は藤江継太夫様,御堂町)、鈴木作之丞様(御旗町)、山本九右衛門様(御旗町)、辻小平太様(口張町、こうばりまち)、藤江継太夫様
義烈百人一首 ([翻刻])

したまひしに、沖中に至り給ふ比、俄に風おこり波あらく御舩たゞよひていとあやうし、妃の橘姫と申すは尾張の穂積忍山宿祢,もち父が首の前にて自害せんとす、母走より取付涙と共に諫て、汝子心にもなどかばかり惑へるぞ、父上桜井の宿より,ものヽふは おぼえもおちも 一言ぞかし (改頁) 59_土佐兼定(とさのかねさだ) 植おきし 宿の,66_吉川駿河守元春(きつかはするがのかみもとはる) はてし憂き 心もしらで 朝夕に なれにし宿の,今朝の霜と消なんこと悲しく思ひ切つたる心中も刀をもつに力なく抱しめて泣沈みしに、長治は声をかけ親子の宿縁
上田の早苗 ([翻刻])

コレハ何国ニヤ、恐クハ真田カ] 一天正八年三月九日真田昌幸蓮華定院ニ与フル書中ニ、真田郷貴賤高  野宿坊之儀,フモノハ本書ニハアラス写シナリ、其文ニ曰ク       申渡覚  小県郡保屋野村塩野神社神主与太夫同郡宿海道村子檀嶺神主,諏訪氏大祝を置く、有賀氏大市を置く、明神に仕奉る之を神家といふ、  家法に諏訪氏断れハ則有賀氏之を継くへし,、有賀氏断れハ則真志野氏之  を継くへし、其裔今に聯々なり、鎌倉の平義時のとき、有賀四郎其子  五郎共,一郷社馬背神社上下二社[祭神諏訪大神]鎮座馬越、この村は先年浦野  駅の上の山に民居なせしも、浦野駅に合村して宿駅
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