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宿継要書留
([翻刻])
宿
継
要書留 / 而茂下シ候ハヽ、其
継
場よ里 (改頁) 23
宿
並駄賃を以可
継
送被仰渡,より付出し候共、 他所之商人相調付送り候荷物者、
宿
々 馬
継
場ニ而
継
合候儀与相心得可申旨被 仰渡、,ケ町ニ不限、何之
宿
々馬
継
場も同様之儀ニ御座候ニ付、 右御請証文之写御渡被 置候間、 外
宿
々馬
継
場,、若無処儀ニ而
継
合候ハヽ 馬
継
場ニ而
継
宿
継
ニ致来り候商荷物之分者、中 馬付候儀者相止メ可申候、,より出候 商人買請之諸荷物、今度 御奉行所ニ而
宿
継
ニ被仰付候ニ付、来ル朔日より
継
立 申候間、最寄
宿
継
場役人方
宿継要書留
([解説])
宿
継
要書留 / 『
宿
継
要書留』は横半帳という形態の帳面で、普通の横帳の半分ほどの長さの帳面です。,この帳面は、「
宿
継
要書」と表紙に書かれていますが、
宿
継
に関係するいろいろな書類を書き留めた帳面で、江戸時代初期,元禄6(1693)年伊那街道の16か
宿
は、
宿
継
の荷物の励行を願い出ました。,この裁許書は『
宿
継
要書留』には、全く記録されていません。,『
宿
継
要書留』はここで終わっています。
宿継要書留
([現代訳])
宿
継
要書留 / その上松本町で売出しの荷物を、
宿
継
として
宿
問屋が言うので、右の荷物を16
宿
の者が買い出し、尾州・三州へ,中馬荷物を一
宿
でも下せば、その
継
場より
宿
並駄賃により
継
送るようにと仰せ渡されたのではなく、双方心得違いをしています,また伊那街道
宿
並御用の御伝馬や旅人の
継
馬を勤めれば、中馬荷物は
継
荷になるので、
宿
並の通
継
馬仰せ付けられるようにお,
宿
々や馬
継
場は、商人荷物を
継
送ることを利益として、御用や武家方御通行の
継
合いを勤めています。,ところが七久保は在郷村で、
宿
継
荷物を飯田から出した荷物に紛らわし、毎日戻りの駄賃稼をしているので、
宿
継
荷物
善光寺道名所図会
(善光寺道(北国脇往還))
まず、洗馬・村井
宿
間の道路を切開いて奈艮井川東岸の人びとを移して郷原
宿
をつくり、村井氏の館跡近くへ村井
宿
,の
継
ぎ立てを行なってきました。,しかし、大部分が山間部であるうえ、刈谷原峠・立峠・猿ヶ馬場峠などのけわしい峠があるので
継
ぎ立ては容易でなく,の場合は、近郷の応援を求めて
継
ぎ立て業務を果しました。 ,松本の南の出川、会田
宿
と青柳
宿
の間の立峠の麓の乱橋・西条、猿ケ馬場峠下の桑原などが間
宿
と呼ばれていました
善光寺道名所図会
(○筑摩 洗馬)
○筑摩 洗馬 16左 洗馬から郷原(善光寺道の
宿
場)まで1里半、塩尻(中山道の
宿
場)まで1里,京都から江戸まで69
宿
のうち、洗馬は39
宿
にあたります。,(注)洗馬
宿
は、中山道の
宿
駅で、上りは本山
宿
、下りは塩尻
宿
へ
継
立てる
宿
であり、また郷原・松本方面へ向う,
宿
の長さは、5町50軒です。,本陣の南側に、正徳2年(1712)から江戸の板橋
宿
とともに幕府の貫目改所がおかれ、
継
ぎ立荷物の目方を検査
犀川を下る記
(3.千曲川通船)
水内郡権堂村瀬兵衛ら4人が、坂木陣屋に千曲川・犀川の通船を願い出たのが最初でしが、福島・川田・丹波島・矢代各
宿
の,「寛政2年(1790)水内郡西大滝村の太左衛門が、西大滝から福島
宿
まで13里を5艘の船で通船する独占権,(2)幻の千曲川運河計画と信越本線 明治2年(1869)、松代藩川舟を引き
継
いだ川田
宿
又右衛門は通船会社
継
続願,すると、千曲川通船はその様相を一変し、新潟県からの塩や海産物、国外からの豆粕肥料などは信越本線豊野駅を中
継
して
善光寺道名所図会
(○筑摩 会田)
○筑摩 会田 26右 7町ほどの
宿
場です。本陣の横内氏の林泉は佳景です。,広政は海野幸
継
の2男で、はじめは当国衆の一味でした。,会田
宿
は、鎌倉時代に小県郡から進出してきた海野(うんの、会田)氏の城下町で、
宿
の北上段の殿村に居館を、,文久3年(1863)には、旅寵屋12、木賃
宿
4、馬牛
宿
3、茶屋5軒がありました。,殿村から虚空蔵山周辺の遺跡調査が、松本市教育委員会によって
継
続的に調査されています。
善光寺道名所図会
(○筑摩 苅屋原)
○筑摩 苅屋原 24右 間の
宿
とす、三町程相対して巷をなす、会田
宿
ヘ一里十丁、反町村板 場・,鳥居出を過て会田の
宿
にいたる、此辺ハ山間の小邑なれば、す へての風俗質朴にて、堅実なる山賎のみ多くつどひ,強飯を以て苅谷原の名物とす、 ○鷹巣根の古城 苅谷原より五、六町西の方にあり、むかし海野小太郎幸
継
の
パスファインダー
(信州中馬と伊那街道)
余剰作物販売のための運送から始まった中馬稼ぎ は、次第に専門職として遠くまで荷物を運び仕事をするようになった
宿
,発展させるようになる様子を学ぶ キーワード 概要を知るた めのツール 資料リスト 中馬
宿
場, 問屋 馬
宿
伊那街道 飯田町 桜町 松本 岡崎 吉田 (豊橋)
宿
継
付通し 荷歩銭 商品流通 荷物,長野県民俗調査報告) 長野県教育委員会/編 長野県教育委員会 1959 中馬の成立、はたらきおよび
宿
場,adeac.jp/shinshu-chiiki/ 概要 飯田市中央図書館所蔵「飯田文書」中の「
宿
継
要書留
善光寺道名所図会
(○筑摩 苅屋原)
○筑摩 苅屋原 24右 間
宿
(あいのしゅく)です。3町ほど相対して
宿
をなしています。,会田(あいだ)
宿
ヘ1里10町、反町村板場・鳥出を過ぎて会田の
宿
に至ります。,鷹巣根の古城は、苅谷原から5、6町西の方にあり、むかしは海野小太郎幸
継
の5男、苅谷原五郎が城主でした。
善光寺道名所図会
(○筑摩 会田)
三十丁、下り十八丁の〓路なり、 北東に虚空蔵山見ゆる、則会田小次郎広政の古城地なり、 広政は海野幸
継
の,甲州へ降て十 騎の軍役たり、小笠原帰国の後、会田・青柳・麻績三家とも亡されたり、 ○福寿山広田寺[
宿
はづれ
『長野史料』索引
(『長野市史』と『長野史料』)
天保木綿商取締鑑札に付訴願、嘉永安政木綿商仲間掟、善 光寺古事見聞録、善光寺由来記、文久二年人馬
継
立之件, 災記、市場衰微歎願訴訟、権堂飯盛女に付約定書、安政年中歩役一件出入、元 禄度市場伺、慶長
宿
証文,、寛保権堂村水茶屋渡世に係る文書、桜屋火事、明治 初年善光寺
宿
助郷調、御役事日記、城山県社考証」
犀川を下る記
(おわりに)
かつて、人と物資の大動脈を担った信州の通船は既に姿を消し、現在、観光用として残っているのみですが、
宿
継
パスファインダー
(信越を結ぶ谷街道)
五街道 北国街道 谷街道 千曲の真砂 口留番所 道普請 善光地道
継
立村 雪中
継
立会所
継
立会所仲間 ,/著 出版社 長野郷土史研究会 出版年 1982.9 内容紹介 特集 街道と
宿
場, として 「谷街道」「 越後の雪中における
宿
場」などの 論文が掲載されている。
おらが春
(小林一茶の生涯)
一茶の生まれた柏原(長野県上水内郡信濃町柏原)は、北国街道の
宿
場で、信州北部の豪雪地帯にありました。,3歳の時母を失い、
継
母との折り合いが悪かったこともあって、15歳で江戸に奉公に出ました。
木曾山林学校
(学校要覧)
40年9月13日江畑猷之允校長に任ぜらる 〇同41年12月長野県通常県会に於て42年度より向ふ4年間
継
続事業,2日校長安藤時雄転職す ○同年10月6日教諭七宮純雄、安藤前校長の後を襲ひ(おそい:地位などを受け
継
ぐ,円20銭を1円50銭に改む ○同年4月10日西筑摩郡主催小学校准教員養成所を本校舎内に開催し2ヶ年
継
続事業,10年3月4日県令第16号を以て学則第30条改正授業料1ヶ月金1円50銭を金2円とし及び第38条削除寄
宿
料,(大正10年10月調) (注 これについての表は原本ビューワ33コマ参照) 6、在学者入費調(寄
宿
舎
諸国道中商人鑑
(4 小田井から本山まで)
ここからは、はじめに
宿
名と次
宿
への距離を原文通りに写し、次に掲載されている旅籠屋数と店数を示すという形,岩村
宿
の旅籠屋は8軒と少なく、本陣や脇本陣のない
宿
駅であった。,次の八幡
宿
までは距離が短い。なぜ塩名田に
宿
を置いたのだろう。,塩名田は対岸の御馬寄村とともに、千曲川往還を守り、
継
立を遅滞なくするために置かれた
宿
だった。,中山道塩尻
宿
は、古町付近や近郷の人々を集めて
宿
役人を定め伝馬制を整えた。
絵頭入書百性往来童子宝全
([翻刻])
#160; 御巡見遵行御伝 馬、御領私領之村々 定大助遠村加助 役并ニ助郷問屋人 馬割触順番
宿
駅,#160; (改頁) 10 之到着御用無指 支様馬指之任指 図、
継
送荷物宰,) 人掛、分持壱人者 五貫目、其外貫 目之軽重者、一人 五貫匁之積を以、
継
合候事御大法也
秀吉と真田
(三成ほか西軍諸将よりの書状)
石田三成・大谷吉
継
は敗死。毛利輝元は大減封のうえ転封。,花押) 徳善(前田徳善院) 玄以(黒印) 真田安房守殿 御
宿
所,重ねて大坂御
宿
所へも人をこれを進め候て御馳走申すべく候事。 , 幸村の妻の父、越前敦賀城主大谷吉
継
よりの書状。,七月二十九日 芸中納言 輝元(花押) 真田安房守殿 御
宿
所
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
94 九月朔日 天気、西山 あれ見ゆる 朔日参二日帰ル 一此度和田
宿
より,
宿
立人馬 不足ニ付差村有之、御公役 村柄御見分有之候ニ付、懸り 御手代広瀬小左衛門殿・御同心,
宿
立人馬不足ニ付、差村所 ニ付出ス、付人庄次郎申達ス 一庄内村弥五右衛門垣限外麦柄之内ニ捨 ,一籾弐俵 筑摩村岩蔵極 難ニ付御救被下置候、直ニ遣ス 一庄内村喜源ニ借屋、木曽宮ノ越
宿
より,先年右之場 (改頁) 215 野行有之候哉、左様ニ候ハゝ 年歴候共ニ御
宿
蒙
寛保二年八月上畑村水災救恤願
([現代訳])
前々から甲州・越州への通路で、馬
継
ぎ村です。幕府のご巡見役人が通行される際には、
宿
泊地にされます。
「内藤家十五世紀」(十一)(藩校進徳館設置のこと)
([解説])
中でも『内藤十五世紀(十一)』は、安政6年(1859)に家督を
継
ぎ、最後の藩主となった内藤頼直の時代の,進徳館開校から遡ること100年も以前のことですが、彼の教えは門下生らに受け
継
がれ、後の進徳館の学びの根幹,その後、頼寧の遺志を
継
ぎ、学問所の設立の悲願を果たしたのが、最後の高遠藩主・内藤頼直でした。,校内には寄
宿
寮が設けられ、17歳以上の希望者かつ成績優秀者が入寮し、朝早くから夜遅くまで勉学に励みました,開校以来、進徳館に通学した生徒の累計は約500名、寄
宿
生徒は約40名といわれており、職員は文武総裁を筆頭
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
増田右衛門尉)長盛(花押) 徳善(前田徳善院) 玄以(黒印) 真田安房守殿 御
宿
所,そして、秀吉側近の要人のひとりで三成の盟友でもある大谷吉
継
(越前敦賀城主)の娘を妻としていた。,吉
継
は、やはり家康の命に応じて会津遠征に参加しようとしていた。,吉
継
は再三それを思いとどまらせようとしたが、親友三成を見捨てられず、ついに同心したという有名な話であるが,、信繁の岳父でもあった吉
継
の西軍加担の事実も当然、使者により伝えられたはずである。
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
(改頁) 九月朔日 天気、西山あれ見える 朔日参り二日に帰る 一、このたび和田
宿
(,中山道の
宿
場)より
宿
立人馬が不足なので、村への派遣があり、御公役村がらの御見分があるので、懸り御手代広瀬小左衛門殿,
宿
立人馬が不足につき、差村所に付け出スすと、付人庄次郎が申し達す 一、庄内村の弥五右衛門の垣の外の麦柄,上げられ、、北の御番所鍋島内匠様へ御召し出しのうえ、入牢を仰せつけられた、もっとも手入したが松本の無
宿
者,き、お頭半右衛門と紋蔵・九左衛門・松弥が話し合った、 (改頁) さりながら松本無
宿
と
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
并誤一札取之候事 【(朱書)廿一】一同 年二月 他所行肴荷物中
継
庭銭定之事, 一上川路村より享保三戌年願出候者、上川路村之義者伊豆木・ 下条辺下向ハ、諸方御通之節人馬差出
宿
継
場同前,、在郷 町同前ニ而御城下町並諸商売不相成筈ニ候処、傳馬町
継
合ニ 御伝馬被仰付、依之市場之内袋茶并差支,本書者筆頭福住太郎太夫殿江預ケ置候 【(朱書)廿一 ○】 一同閏十二月十六日於本覚寺 他処行肴荷物中
継
誰,享保年中度々被 仰出候御停止を相背、 御城下町同様ニ商売物取扱仕、其上諸職方相始、他国送荷物 或者他所行
継
荷抔茂仕
パスファインダー
(『曽我物語』『大塔物語』と善光寺)
(歴史文化ライブラリー) 坂井孝一/著 吉川弘文館 2000.12 内容紹介 苦労して
宿
願,を遂げ若くして散った曽我兄弟の話は、人々の同情を集 め、中世を通して語り
継
がれ歌舞伎にも取り入れられた
信州飯田町家控
([翻刻])
城主小笠原掃部太夫信嶺公関東江御所 替之後、松尾町をニ引伊勢町之上ニ建続て松尾町 と号、田町も此時建
継
大横町并,ニ上横町下横町と路を 割知久町三丁目を建
継
、此所ニ鍛居初候故鍛治町と号ス 御家中小路も此時代より, 定利公御病気重く次ニ御死去、此頃御子に大膳定次公 駿河ニ被成御座候而、御病気を御聞、夜を日ニ
継
で,ばず上郷村へ相送申候 当村之あて有之候村まで持参致候連名之御書付ハ 初筆の村へ相届け夫より村
継
ニ,ひろめ被成候事 一貞享二丑年越後国高田御在番ニ御越十一月八日越 後におゐて 殿様御逝去、無御世
継
依而近藤織
信州飯田町家控
([現代訳])
田町もこの時建て
継
ぎ、大横町ならびに上横町・下横町と路を割り、知久町3丁目を建て
継
ぎました。,一同4(1655)年家督は脇坂中務少輔藤原安吉公が
継
ぎました。,宛名のある村まで持参し、連名の書付は、初筆の村へ届け、それより村
継
ぎにしています。,家督は周防守親貞公が受け
継
がれました。 ,御世
継
がなく、近藤織部様の子千之助様を養子にされ、家督を仰せ付けられました。
『長野史料』索引
([翻刻])
三、法規命令 上杉森松平三家ヨリ指令国道 慶長十六年越後家ヨリノ
宿
証文,弘化五年倹約触 仏 天和二年博奕禁制 正徳元年火事場心得 延宝元年
宿
場条目,ク権堂村ヨリノ訴願 人四 二〇 安政年度歩役一件 人六 文久元年人馬
継
立
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「年内諸事控日記 小沢和徳(注1) 慶応四戊辰年正月吉日」)
三月朔日天気快晴 (○中略) 今日ハ子供少々手習ニ来り昼仕廻ニ いたし申候 昨夜京都岩倉様本山
宿
御止
宿
,夜中大雪 亭主塩尻泊ニ而早朝帰宅 仍相談三人共ニスワ迄不参 節句祝申候 一傘壱本かし返ル 宮木
宿
, (○上略) 四月七日 曇 雨天ニ成 早朝より子供ニ素読教為習申候 俵や直治殿
継
蔵,四月八日 天気子供休日 (○中略) 四月十一日 雨天 夜上り星みゆ 一酒壱升 小沢
継
蔵又々手習,今 天子幼冲姦臣権ヲ密ミ猥ニ 詔ニシ矯テ追討ノ命ヲ下タス 苟モ 人心アル者百諫千争シテ是ニ
継
ニ
むしくら日記
(1巻 元)
凡 例 ○弘化三(ママ)丁未三月、予此月御用奉、辰の 刻に登営し、未の刻に鎌原石州と代りて 下
宿
し,、酉の刻に又登営し丑の刻に 下
宿
しぬ、四月ニ至りても申合せ其如くに なしぬ、四月十三日水災の後ハ夜,の登営 ハやみて昼計となりぬ、是よりハ未申酉の 下
宿
にて定れる刻限なし、下
宿
の後庭裏 の小屋にありて,も同様之儀ニ而人馬
継
立等も出来兼申候、猶精々手当申付置候へ共、先此段 御届申上候、委細之儀,りて有司に対面し、布野御通行御 渡船の事を乞ぬ、藤井喜内道橋奉行助柘植嘉兵衛等 面会して、三町に
宿
継
長野県師範学校生徒修学旅行概況
(長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])
となるに因り、武田上総介信綱来り代り、天正元年仁科五郎信盛(信玄の五男油川五 郎を以て、仁科氏を
継
かしめて,午后五時頃須原
宿
に 著し、住吉屋、桜屋に投
宿
す。,其北は
継
母岳に接す。之を御嶽の北端とす。,又一の池の西壁を三十六童子と称 し
継
母岳其西に屹立(きつりつ)し、共に信飛の境界を為せり。,日暮奈良井に逹し、徳利屋、米屋に投
宿
す。
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
不申様ニとの思召也とぞ 一宝暦十二壬午年男子出生幼名茂吉成長して団治 匡保と名乗同親之業ヲ
継
ギ, 玉祭法随法尼 男子 幼名忠吉 喜次郎ト改メ三代目ノ団治 家督ヲ 続(
継
),歌道を学ひ睦敷(むつまじく)相成候[享和二年ノ夏の頃和睦] 一寛政十一の冬松島より帰村布屋ニ居候節荷
継
問屋相始暫
継
候所伯,ニぬり申候 棟上致素建之所ニ而家代金(ママ)こはし運ひ地形礎居木も所々より貰又 ハ買ひ候へ共
継
足,ニ対面 挨拶之上暫休み酒弁当之御馳走此方之人足江振廻 爰より小野江馬人返し是より南殿人足ニ而
継
参
御城下古法并市場古法書抜書集
([現代訳])
り、合わせて誤り証文を取る事 【(朱書)廿一】一同 年2月 他所へ行く魚荷物の中
継
庭銭定,享保3戌年に願い出たのは、上川路村は伊豆木・下条辺などへ行く時、いろいろな人々が通行し、人馬を差し出し
宿
継
場,けておく 【(朱書)廿 ○】 一文化7年閏12月16日に本覚寺において、他所へ行く魚荷物は、中
継
が,日本覚寺へ役人が寄り合い、組頭本町1丁目庄次郎が出て、2月本町1丁目市場当番より届け出があり、萬屋孫三郎が
継
いで,された禁止に背き、城下町同様に商売物を取扱い、そのうえ諸職業を始め、他国へ送る荷物あるいは、他所へ行く
継
荷
むしくら日記
(2巻 亨)
欠入て、母を助出て外に 置、又欠入て火をしめし、母を脊屓ふて難路をしのき、 観音堂に来りてため息
継
つゝ,者ふり返りて引上ツゝ、互ニ命限り と助合て、漸此村のみか野組に出、少しく抜も間遠な れば爰に息を
継
、,りに走り候へとも、年 若の甚七郎に及候はず、一船後れて、七八十人乗組、 川中へ漕出候比ほつと息を
継
候, より千曲川・犀川落合之辺ハ一円之乱瀬ニ相成、 丹波嶋
宿
并北国往還川田
宿
・福嶋
宿
之三
宿
前条之次第,ニ而、人馬
継
立出来兼候、且又川辺 村々米穀之儀は山手村々へ相移候様兼而申付置 候得共、其外近辺村々
善光寺道名所図会
(○筑摩 松本)
この寺は松本の駅長(松本
宿
の問屋)倉科という者がまだ駅長でなかった頃の宅地でしたが、のちに寺となりました,本来
宿
泊してはいけない旅人の利用が増えたために、近隣の
宿
場から、旅人の
宿
泊を禁止するよう訴訟がたびたびおこされるほどの,(注)善光寺道は松本から岡田
宿
・会田
宿
・青柳
宿
をへて麻績
宿
へと向かいますが、「図会」では、まつもとから,(注)野麦街道の島々
宿
は、大野川の金山で採掘された銀・鉛鉱の
継
立て伝馬役をしたり、橋場番所、または梓川渓谷,から出される藩用薪炭、材木の検査に行く役人の送迎伝馬、善光寺参りの客の
宿
泊などの役を果していた小さな
宿
むしくら日記
(1巻 元)
そんな時に鼠
宿
村の早足の在之助が来ました。,丹波島
宿
等も同様で、人馬
継
立などもできずにおります。,稲荷山
宿
でさえも旅人が800人も死んだと聞きますので、善光寺では
宿
屋や
宿
坊まで加えれば旅人は3、4千人,道橋奉行助、柘植嘉兵衛らが面会して、3町に
宿
継
がなく、そのうえ上流のたまっている水が抜けたらどんな水害,、五ツ(8時)過ぎに矢代
宿
にお着きになり、お泊りになりました。(このお泊まりも
宿
方が引き受けました。
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
当時の学校は既に焼失して、今日(こんにち)は市役所にな っているが、九月七日の行事は
継
続されて居(い,
宿
料は茶代ぐる み二十五銭を与ヘた。 ,考へ、 其(そ)の向ふ側を見て、
宿
屋が知れたので、ほっとした。,もと毎年十一月 中旬頃、新
宿
御苑で行われた催し。 ,文久元年和宮降嫁にあたり本 山
宿
より和田
宿
までの道中警備を務める。
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
ず、 按るに、牟礼より柏原・野尻・越後の関川・二《マタ》・関山・二本木・荒井迄を 中山八
宿
といふ,也、又善光寺ハ北国街道の
宿
駅にして、本名ハ水内 郡柳原庄芋井郷長野村なり、如来此所に遷座の後、地名,は、 日夲を呪咀し調伏する為ならん、速に御返しあつて然るべしと奏しける、 しかるに蘇我大臣稲目の
宿
袮奏, て法服を剥ぎ牢に押篭禁めける、かくて丙午八月にいたつて、敏達 天皇崩御まし/\て帝弟御位を
継
せ,勢州白子の大竹屋何某一寄進と也、是より南へ大門町後丁・ 新田町・石堂丁など北国街道の順路なり、商家軒を
継
で
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
3 此日は浦和に御
宿
泊、翌三十一日は桶川御
宿
泊、九月一日は熊谷、二日は新町、三日は前橋、四日は高崎,御小休(おこやすみ)所は実に信州に属する神楽殿(かぐらでん)に三棟を
継
ぎ足せるものにして[此新築一棟は,古
宿
假
宿
ナドヲ過ギル頃ハ夜全ク明ケ家々戸ヲ開ケリ。 ,副区長は藤澤長十郎]専ら其任に当り、御著輦(ごちゃくれん)の当日は各
宿
所に貼札をなせるの外、
宿
割を印刷,階上は東西の廊下を以て二室に分る]寄
宿
舎二棟[校地内の北端にあり稍一列をなして連る]本校舍と東の寄
宿
舍
違作書留帳
([翻刻])
我等ハ御蔭ニ而ケ成取ル 籾弐十五俵 粟十三俵三斗程 追々さわがしく 十二月朔日奈良井伝馬
宿
、,も落文、 是ハ木曽より千人程罷出候 ニ付弁当頼由 米屋ニ而も御詰所へ御届 申侯而用心等致し、
宿
方取,宮越
宿
迄四ケ
宿
へ 助郷相勤候村方ニ御座候処、 旧冬より作間ニ者木の実・葛 の粉・粟ぬか其外いろ/,六月十六日頃 又々水きれ 大川筋見分 六月廿一日 分水口江土井 かける 御出役 藤江
継
太夫様,とう町 鈴木 作之丞様 おはた町 山本九右衛門様 同 辻 小平太様 こうばり町 藤江
継
太夫様
むしくら日記
(2巻 亨)
◯幕府の方から信濃・越後の被災地調査として、御普請役佐藤睦三郎という者が来て、4月11日に坂本
宿
に到着,(その折住持の後
継
の願いが出されました。) ,甚七郎には敵わず、(赤坂の渡しでは)ひと船遅れて7、80人乗り組み、川の中に漕ぎ出した頃、ほっと息を
継
ぎました,北国街道沿いの丹波島
宿
から千曲川・犀川の合流する辺りは一面荒れた瀬になっています。,丹波島
宿
ならびに北国街道川田
宿
・福島
宿
の三
宿
は前条の通りで、人馬の
継
立ができません。
違作書留帳
([現代訳])
我らは御蔭でかなり取る、籾二十五俵、粟十三俵三斗ほど、だんだん騒がしく、 十二月一日に奈良井伝馬
宿
、,せばじゅく、中山道の
宿
場、善光寺道との分岐点)の米屋にも落し文があった、、これは木曽より千人ほど罷り出,塩尻市)より宮越
宿
(みやのこしじゅく、木曽町日義)までの四か
宿
へ助郷(すけごう、近隣の村が
宿
場へ応援の,六月十六日頃、またまた々水きれ(氾濫か)、大川筋の見分、 六月二十一日 分水口へ土塁を掛ける、御出役は藤江
継
太夫様,御堂町)、鈴木作之丞様(御旗町)、山本九右衛門様(御旗町)、辻小平太様(口張町、こうばりまち)、藤江
継
太夫様
上田の早苗
([翻刻])
コレハ何国ニヤ、恐クハ真田カ] 一天正八年三月九日真田昌幸蓮華定院ニ与フル書中ニ、真田郷貴賤高 野
宿
坊之儀,フモノハ本書ニハアラス写シナリ、其文ニ曰ク 申渡覚 小県郡保屋野村塩野神社神主与太夫同郡
宿
海道村子檀嶺神主,諏訪氏大祝を置く、有賀氏大市を置く、明神に仕奉る之を神家といふ、 家法に諏訪氏断れハ則有賀氏之を
継
くへし,、有賀氏断れハ則真志野氏之 を
継
くへし、其裔今に聯々なり、鎌倉の平義時のとき、有賀四郎其子 五郎共,一郷社馬背神社上下二社[祭神諏訪大神]鎮座馬越、この村は先年浦野 駅の上の山に民居なせしも、浦野駅に合村して
宿
駅
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「諸事日新録 沢和徳扣(ひかえ) 慶応四戊辰年六月朔日ヨリ」)
一扇子壱対 宇治 五作 一拾疋 宇治実之助 一拾疋 宇治 安市 一拾疋 小沢
継
蔵, 20 上方より贋役人ヲ連参り本地堂五重塔 下諏方観音堂御仮屋三重塔等破却 致し掛塩尻
宿
御陣屋詰磅, 同 桑二郎 十三夜餅壱重 同人 一拾疋 小沢 保助 一拾疋 小沢
継
蔵, 祐吉 年重 長太郎 茂吉 孫太郎 喜代太郎 喜十郎 寿之介
継
蔵
地震後世俗語之種
([現代訳])
父母との死別までの日々も残り少ない頃に養家を
継
ぎながら不行跡の過ちを犯し、今路頭に迷ったからと自分勝手,夜に旅する人は吹上(荒木村の地名)の石灯籠を見て、旅の疲れを忘れ、もう善光寺に着いた気分になって、
宿
場,しばらくすると庄五郎は息も
継
がずに戻ってきました。,驚き恐れながらようやく権堂の田んぼに着いて辺りを見ると、人々が野
宿
しています。,背負われて野中で介抱を受けても、風にさらされ日に照らされて痛みが強くなると、身内の人々は熱心に夜を日に
継
いで
地震後世俗語之種
([翻刻])
狂気の如くにして (改頁) 父母の遠行を残り多しとせす、養家を
継
,面白く、夜行にハ吹上の石燈 籠を見当に旅の労(つか)れをわすれ、はやくも 善光寺にいたりぬるかと
宿
入馬,、爰に稀なる 店餝りゆゑ評判もよく、また繁昌し、家内の ものも歓て、此上仕入も間に合なは、御山内
宿
坊,心は急げと足腰たゝす、 肩にすがり腰をいだかれ、御輿あるかたを三礼 し、打連立て漸々に、我
宿
さして,介抱をうくるといへとも、風を受、日を受、痛強 くすれは、親族の輩是に気をうばハれ、夜 を日に
継
て
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
思うに、牟礼から柏原・野尻・越後の二俣・関山・二本木・荒井(新井)までを中山八
宿
という。,また善光寺は北国街道の
宿
場で、本来の地名は水内郡柳原庄芋井郷長野村である。,すると蘇我大臣(そがのだいじん)稲目(いなめ)の
宿
祢(すくね)が天皇に申し上げた。,こうして丙午(ひのえうま)の年(586年)の8月になると敏達天皇は崩御されて、弟君が皇位を
継
がれて、用明天皇,参詣の人々で
宿
坊へ入る人は、ここで案内をする。
むしくら日記
(3巻 利)
摘要す、 (改頁) 大室村軒下又ハ鴨居下迄水付、居家流候も多分、 川田
宿
千曲川除土堤押切,彼者答て、左ニ候ハす、柴まてハ よほとの場所なれは、家まれ大木まれ流れ来よ、 しからは夫に登りて息
継
なんものをと,方へ伴ひ行けれとも、誰有て親族と いう者もなく、浅間の温泉辺にて尋しニ、佐久郡 より来りし者にて
宿
なし,栗田村 (改頁) 内 男三人 女二人 是者善光寺町へ罷越止
宿
仕居
むしくら日記
(3巻 利)
川田
宿
では千曲川の堤防が決壊し、村の上手から水が押し入り、鴨居の下まで達しました。,柴まではだいぶ遠いので、家でも大木でも流れて来い、そうしたらそれに上って息を
継
ごう、と待っていましたが,に連れて行きましたが、だれも親族だというものがなく、浅間の温泉あたりで尋ねてみると、佐久郡から来た無
宿
者
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