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木曾山林学校
(◎寄宿舎建築)
◎
寄
宿
舎
建築 26
寄
宿
舎
は本年3月迄は本校
舎
内に設けられて30名ばかりの
舍
生が居りましたが、学年,に入らしむると云ふことでありますから、狭隘(きょうあい:せまくるしい様子)にして、且つ
寄
宿
舎
としては頗,(すこぶ)る不完全であった前の
寄
宿
舎
では、多数の
寄
宿
生を收容することが出来なくなりましたので、新たに校
舎
裏側,に
寄
宿
舎
を建築する事になり、遂に去る4月5日迄に落成して4月7日から入
舎
を許されました。,而して只今では之れに60有余名の生徒が
寄
宿
して居(お)りますが、前の
寄
宿
舎
に比べると仲々都合がよろしくて / ◎
寄
宿
舎
建築
木曾山林学校
(15.寄宿舎)
15.
寄
宿
舎
40 本校生徒は自宅より又は親戚より通学するものゝ外は、凡て
寄
宿
舎
に収容し、
舎
監其他,して
寄
宿
舎
生活なる自治の一団を組織す。,而して組長は此自治団体の主脳にして、
舍
内に於ける矯風会委員之を兼ね、
舎
生の風紀・衛生・清潔等に留意し、,命令の伝達
舍
生より請願等、
舍
監と
舍
生との中間に介在して総ての事務を取扱ふ。,是等
寄
宿
生活をして趣味あらしめ且家庭との懸隔甚しからざらしむる方針なればなり。 / 15.
寄
宿
舎
木曾山林学校
(16.舎生心得)
16.
舎
生心得 42 第一 総則 一、
寄
宿
舎
は生徒の品性を陶冶し、共同自治の精神を,:心にしっかりとめて片時も忘れぬこと)し
舎
監の指揮に服従すべし 一、
寄
宿
舎
に於ける各役員は、常に共同,して生徒心得の実行を奨励し、
舎
風の振粛を計るべし 一、
寄
宿
生にして退
舎
を命ぜられたる時は直に退
舍
すべし,せざることあるべし 第二
寄
宿
舎
編制及役員 一、
寄
宿
生を分ちて数組とし、各組に組長1,名、各室に室長1名、学友若干名を置く 一、生徒の
舎
室は
舎
監之を定む 一、
寄
宿
舎
には当直を置き、組長 / 16.
舎
生心得
宿継要書留
([翻刻])
宿
継要書留 / 5 上ハ去春荷物
宿
次ニ申付候由、構虚 妄を為不届ニ付、伊奈海道問屋 令牢
舎
畢、向後諸色商荷物,口銭茂弥取不 申筈ニ被 仰付候、其上飯田問屋 勘左衛門・飯島問屋新五郎両人江 戸表ニ而籠
舎
被, 仰付、塩尻問屋 助右衛門ハ松本籠江被 仰付候、村 井問屋両人茂閉門被 仰付籠
舎
閉門共ニ,より
寄
々申聞候 様ニ被仰付候 御請仕候 其後 飯田問屋四ケ
宿
惣代之者共帰村仕候様被,より出候 商人買請之諸荷物、今度 御奉行所ニ而
宿
継ニ被仰付候ニ付、来ル朔日より継立 申候間、最
寄
宿
継場役人方
宿継要書留
([現代訳])
宿
継要書留 / この上は去春荷物
宿
継に申付けたことは、うそを言い不届であるので、伊那街道問屋を牢
舎
へ入れ、今後いろいろな,その上飯田問屋勘左衛門・飯島問屋新五郎両人は、江戸表において籠
舎
を仰せ付けられた。,塩尻問屋助右衛門は松本にて籠
舎
を仰せ付けられた。,村井問屋の2人も閉門を仰せ付けられ、籠
舎
・閉門ともに120日ということになった。,先の4か
宿
御
宿
は、市田町へ打
寄
相談の趣旨を仰せ下されました。近日この方よりも伺います。
木曾山林学校
([本文])
2、在学生年齢調 3、在学生家庭調 4、在学生通学状況調 5、通学生
寄
宿
舎
生調,本校位置略図 (改頁) 口 絵 写 真 本校新校
舎
全景,/旧校
舎
/標本室 (注 このページの写真は原本ビューワ3コマ参照) 初代松田校長/二代江畑校長/現岡部校長,6コマ参照) 農業ノ実習/演習林/測樹実習 (注 このページの写真は原本ビューワ7コマ参照)
寄
宿
舎
及苗圃
木曾山林学校
(◎長野県西筑摩郡立甲種木曾山林学校学則)
但し都合により
舎
外に
寄
宿
せんとする者は(父兄若くは後見人)及保証人並びに家主連署、其旨願ひ出て校長の許可,を受くべし 第 34 条
寄
宿
生にして食料を納めず、又は
舎
風を紊乱(びんらん:みだすこと)するの行為,第 35 条 本郡各町村より入学する本科生にして通学し能はず、本校
寄
宿
に入
舎
するものには学資の幾分,を補給する事あるべし 学資補給に関する規程は郡長之を定む 第 36 条
寄
宿
舎
に関,は学校長の指揮を承け
寄
宿
舎
に関する事を掌る 第 40 条 書記は学校長の指揮を承け庶務会計に従事す
木曾山林学校
(8.長野県立甲種木曾山林学校学則)
宿
舎
第 41 条 本校生徒ニシテ住所ヨリ通学シ能ハザルモノハ
寄
宿
舎
ニ入ラシムルモノトス ,但シ都合ニヨリ
舎
外ニ
宿
泊セントスルモノハ、父兄若クハ後見人及保証人並ニ家主連署ノ上其旨願ヒ出テ学校長ノ,許可ヲ受クべシ 第 42 条
寄
宿
舎
生徒ハ
寄
宿
料トシテ1ヶ月金30銭ヲ毎月20日(休日に当ルトキハ繰上,)ニ納ムベシ 第 43 条
寄
宿
舎
ニ関スル細則ハ学校長別ニ之ヲ定ム (改頁) ,ハ学校長ノ指揮ヲ受ケ
寄
宿
舎
ニ関スル事ヲ掌ル 第 47 条 書記ハ学校長ノ指揮ヲ受ケ庶務会計ニ従事ス
木曾山林学校
([本文])
文苑)我徒の本領、権現滝の春、逝く春、砂バク之夜、(学校便)伊藤先生の通信、西澤先生告別式、修学旅行、
寄
宿
舎
木曾山林学校
(学校要覧)
10年3月4日県令第16号を以て学則第30条改正授業料1ヶ月金1円50銭を金2円とし及び第38条削除
寄
宿
料, 1 職員室 1 事務室 1 応接室 1 図書室 1
宿
直室, 生徒控室 1 便所 2 講堂兼雨天体操場坪数 63坪
寄
宿
舎
及付属建物坪数,在学生通学状況調(大正10年10月調) (注 これについての表は原本ビューワ33コマ参照) 5、通学生
寄
宿
舎
生調,(大正10年10月調) (注 これについての表は原本ビューワ33コマ参照) 6、在学者入費調(
寄
宿
舎
木曾山林学校
([解説])
加えて同年10月に予定されている、校
舎
の新築移転や
寄
宿
舎
完備などを伝え、林学科のみの学校は全国に当校しかなく
木曾山林学校
(25.在学生父兄に望む)
2、自宅通学以外の者は絶対に
寄
宿
舎
に収容し、仮令(たとい)病気と雖も登校し得らるゝ限は外泊を許可せざる,3、生徒の監督に関しては
寄
宿
舎
に3名の
舎
監あり、各級に学級主任あり、更に担任教師あり。,而して
舎
監・学級主任及各担任教師は互に相協力して指導を完からしめ、同時に家庭との連絡を保つに勉めつゝあれば
パスファインダー
(軽井沢・小諸の文学(1))
キーワード 浅間山 軽井沢 沓掛 追分 浅間三
宿
北原白秋 落葉松(からまつ) 星野温泉 有島武郎, 堀辰雄 美しい村 ふるさとびと 立原道造 萱草 に
寄
す 室生犀星 信濃の歌 残雪 木漏日 児玉花外 ,小諸節 追分 節 藤村 千曲川のスケッチ 破戒 若山牧水 塚原健二郎 臼田亜浪 山室静 高原学
舎
高浜虚子,立原道造全集【1】 立原道造/著 筑摩書房 2006.11 内容紹介 詩集「萱草に
寄
す,出版社 東海大学出版会 出版年 1969 内容紹介 山室静は敗戦後、小諸に住んで高原学
舎
を
木曾山林学校
(実習便り)
翌日から新校
舎
地(注62)の苗圃へ檜苗の移植、24日から愈(いよいよ)2時間授業実施され、27日から実習中,ヒメコ松、金松(コウヤマキ)等10余種3日間にて播種を終へ、それから杉苗の移植を行なひ、5月1日新校
舎
及
寄
宿
舎
,新築校
舎
の雨天体操場が1棟建つ。愈以(もっ)て目出度(めでた)い日である。
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([解説])
松平家の財産処分に当たるとともに、蚕糸専門学校の上田誘致、上田郷友会郷里部大会の開催、上田図書館へ図書の
寄
贈,記念号は宮下翁の80歳の祝いとして昭和18年に発行されたもので、その中に翁自身が「既往80年」として
寄
稿,六級を受持たされて、生徒は男女四十四五名はかりであった、…石堂は仮校で、後町裏の田圃の中に、新築の校
舎
が,されて、神楽坂を昇り、驀地(まっしぐら)に急いだが、…漸(ようや)く学校に近づきし頃、突然裏道に出た、
寄
宿
舎
,をあげたが、足袋(たび)と下駄(げた)は、泥だらけになってゐたが、洗ふ所もないので、其(そ)の儘(まま)
寄
宿
舎
パスファインダー
(須坂市の歴史)
高井郡 墨坂神社 小坂神 社 井上氏 高梨氏 須田氏 井上光盛 堀氏 奥田氏 須坂藩 大笹 街道 仁礼
宿
,北国街道 北国脇往還 福島
宿
千曲川 蔵の町 三峯 紀聞 丸山
舎
人 堀直虎 須坂騒動 須坂県 製糸 山丸組,http://iss.ndl.go.jp/ 須坂市に関する書籍・雑誌記事・論文などを検索でき、中には最
寄
の,近隣の図書館にない資料でも取り
寄
せて閲覧できるものもありますの で、最
寄
りの図書館に問い合わせてみましょう
パスファインダー
(軽井沢・小諸の文学(2))
キーワード 浅間山 軽井沢 沓掛 追分 浅間三
宿
北原白秋 落葉松(からまつ) 星野温泉 有島武郎, 堀辰雄 美しい村 ふるさとびと 立原道造 萱草 に
寄
す 室生犀星 信濃の歌 残雪 木漏日 児玉花外 ,小諸節 追分 節 藤村 千曲川のスケッチ 破戒 若山牧水 塚原健二郎 臼田亜浪 山室静 高原学
舎
高浜虚子
パスファインダー
(長野市中央通り(善光寺表参道)の移り変わり)
キーワード 長野市 善光寺 門前町 北国街道
宿
場町 中心市街地 商店街 大 型店 市街地再生,7 書名 昭和のはじめ 長野市街案内図 著者名 出版社 光風
舎
出版年 2002.11,昭和のはじめ、長野の町 著者名 前田駒吉/原著 DEN企画工房/編 出版社 光風
舎
,見出し 発行機関 年月日 内容 中央通りに関する書籍・雑誌記事・論文などを検索でき、中には最
寄
の,近隣の図書館にない資料でも取り
寄
せて閲覧できるものもありますの で、最
寄
りの図書館に問い合わせてみましょう
諸国道中商人鑑
(4 小田井から本山まで)
ここからは、はじめに
宿
名と次
宿
への距離を原文通りに写し、次に掲載されている旅籠屋数と店数を示すという形,『木曽名所図会』に「駅内二町ばかり 多く農家にして旅
舎
少なし」とあり、
宿
泊に利用されることの少ない
宿
であったことがうかがえる,岩村
宿
の旅籠屋は8軒と少なく、本陣や脇本陣のない
宿
駅であった。,次の八幡
宿
までは距離が短い。なぜ塩名田に
宿
を置いたのだろう。,塩名田は対岸の御馬
寄
村とともに、千曲川往還を守り、継立を遅滞なくするために置かれた
宿
だった。
弘化丁未春三月廿四日信州大地震山頽川塞湛水之図
([翻刻])
諸司
舎
屋及東西亰盧
舎
往々顛覆、圧殺者衆。或有失神頓死者。亥 時亦震三度。,五畿七道諸国同日大震、官
舎
多損、海潮漲陸溺死者不可勝計云々。,歌枕名
寄
ニ信乃トス。又来目ノ岩橋ナド詠ルハ、大和ノ葛城ニ在ト。,○姓氏録曰、安曇ノ
宿
祢ハ海ノ神綿積(ツミ)豊玉 彦ノ神ノ子穂高見ノ命ノ後ト云々。
木曾山林学校
(14.生徒心得綱領)
9月30日までは夏服を着し、其他は冬服を着用すべし 一、靴は知靴(注14-3)紐付に限る 一、校
舎
内,欠席及遅刻 一、病気其他止むを得ざる事故により欠席せんとする時は、当日始業時間前、其事由及日数を記載し、
寄
宿
生,は
舎
監の認印を受け、通学生は父兄若くは保証人連署を以て、速に校長宛の届書を学級主任に差出すべし ,生徒は校の内外を問はず、喫煙をなし及び喫煙の用具を携帯すべからず 一、尊長同伴の外、飲食店・劇場に立
寄
るべからず
木曾山林学校
([本文])
………………68 14.生 徒 心 得……………………………………………………………71 15.
寄
,
宿
舎
…………………………………………………………………74 16.
舎
生 心 得………………………
上田の早苗
([翻刻])
大ニ敗北ス、城兵付取所ノ首級千六百三十余級ト云フ、
寄
手利ヲ失ヒ引退キシ トソ、 二度ノ城攻,カ郎 党ニ浅井小右衛門永田角右衛門ト云モノ先登ニ追テ戦ケルトキニ城中ヨリ木戸ヲ 開キテ突テ出
寄
手,コレハ何国ニヤ、恐クハ真田カ] 一天正八年三月九日真田昌幸蓮華定院ニ与フル書中ニ、真田郷貴賤高 野
宿
坊之儀,一郷社馬背神社上下二社[祭神諏訪大神]鎮座馬越、この村は先年浦野 駅の上の山に民居なせしも、浦野駅に合村して
宿
駅,の如し、[右両村の 人家田畑等多く入交り居て区別に苦しむ程なり、是ハ全右分村之際、村に備置ける名
寄
帳
御城下古法并市場古法書抜書集
([翻刻])
右町中 年
寄
,ともニ申談、馬
宿
田町塩屋小右衛門大横町又兵衛本町弐丁目塩屋嘉兵衛 三
宿
相談相極、馬方壱人ニて,追付手錠被仰付五人組御預ケ被遊候、伝馬町之者共之内 御大法背塩を卸候発頭人茂右衛門・由右衛門両人縄御掛 牢
舎
被,、市場之 者立合売買可申候、勿論馬
宿
と中買と内談ニて之 売買并かしかり堅仕間敷候事 一馬
宿
より, ○】 市場之義抜書 一安永二巳年九月市場廻り手板すれ候ニ付、新ニ板ニ彫付 相改置、古板両年
寄
へ
長野県師範学校生徒修学旅行概況
(長野県師範学校生徒修学旅行概況[全文])
東塩田小学校に立
寄
り、暫時休止せり。校長は清水菊太郎君にして 保科百助君も亦此校に在り。,校
舎
は位置結構二つ なから、便宜善きに似たり。,校
舎
は甚た広からすと雖も、位置山に添うて、涼風徐(おもむ)ろに来り、更に暑気を覚 えす。,沿道なれは立
寄
りて、休息あり たしとの通報あり。,近く立
寄
れは、泡沫霧を為し、暑さも忘るゝはかりいと涼し。
龍駕の跡
(龍駕(りょうが 天子の車)の跡(注一))
かゝる景况なれば田
舎
新聞の探訪記者などに
宿
貸すべき様あらざる故沓掛(くつかけ 今の中軽井沢)に至りて泊,階上は東西の廊下を以て二室に分る]
寄
宿
舎
二棟[校地内の北端にあり稍一列をなして連る]本校
舍
と東の
寄
宿
舍
,
寄
宿
舍
に在りては、四期生より一期生迄を混じて、一室[凡(およそ)十二畳]四五名宛收容し、四期生若しくは,之より先聖駕(せいが天子の乗物)師範学校に臨駕(りんが)在らせらるゝ由聞えければ、俄(にわか)に
寄
宿
舎
一棟,望楼の上層は其後取崩され、食堂は取り払はれ、
寄
宿
舎
は三十四年に焼失して其影もなし。
寺子屋師匠の日記
(寺子屋師匠の日記「当家初代好古堂芝産(注1)一代記 全 小沢和徳誌焉」)
衆中江茂相咄断申候上跡指南(次の師匠はの意味)ハ岡本様より譲り弟子之 内ニ而八左衛門殿
舎
弟要七殿其節一番能書, 一[俗名小左衛門氏昭]寿嶽様中風ニ而十三年之間御病気之節も至而御随ひ よく御孝行被成候由御
舎
兄寿徳様傷寒,和徳ト号ス 実名匡晧随喜軒素信ト云 菁莪堂 ト号シ雲集楼ト云 静寿館楽山ト号ス 匡保
舎
弟,相談之上取 計はんと直ニ其夜三日町へ参り喜惣治殿へ委細噺し談シ候処喜惣 治殿も同心ニ而成程御
舎
弟,より御尊判到来名主 組合親類差添可罷出旨被仰付御差日通皆々出府いたし候 其砌者 当時と違ひ田
舎
ニ
木曾山林学校
([注記])
(注1-5)長亭短駅(ちょうていたんえき):亭も短も
宿
場をあらわす語。,
宿
場と
宿
場の間が長いところも短いところもあるという意 (注1-6)保守退嬰(ほしゅたいえい):進んで,(注記 15.
寄
宿
舎
) (注15-1)骨牌(カルタ):「カルタ」と読むと、百人一首・いろはガルタ・
信州飯田町家控
([翻刻])
立ツ、飯田城ニハ従甲州為加勢 保科弾正忠殿御入、猶此城信州第一の頼ミ也 とて、小幡因幡守殿同
舎
弟五郎兵衛殿波多源左衛門,ニ申談じ候、馬
宿
田町塩屋小右衛門大横町又兵衛本町塩屋嘉兵衛 三
宿
相談相極、馬方壱人ニて馬三疋宛追来候処,、江戸之方江返り候ものハ伝馬町桜町ニて
宿
致候様ニ相定候、定
宿
有之旅人ハ勝手次第 之事也 ,作守菅原之親正公御知行高野州ニ而二万八千石御領 (改頁) 27 知之由、此内五千石ハ御
舎
弟様御両所,へ御分知被成、飯田領 之内二万石并新田分ニ千石余相渡被申候、御
舎
弟 孫太郎様三千石之御分知ハ一
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([翻刻])
正南ハ破風作にして、他の堂
舎
に 異也。,御止
宿
の間に残し置給ふ御遺宝、二種伝 感得し給ひける時も、此坊に止
宿
し給ふと也。,本堂十二間四面、経堂一区、坊
舎
三坊。本尊阿弥陀 如来[開基西念坊百歳にして作]。,
宿
縁のほどぞ有難き。,此時頼朝既に危かりけるに、此佐々木高綱一人群る敵の 中に取てかへし、
寄
来る大軍を追まくり/\、七度
「上田郷友会月報」記念号中「既往八十年」
([ルビ・注記])
、短堠は一里塚)の憾があった、漸(ようや)く学校に近づきし頃、突 然裏道に出た、
寄
宿
舎
が見ゆるので、,あげたが、足袋(たび)と下駄(げた)は、泥だらけになってゐたが、洗ふ 所もないので、其(そ)の儘(まま)
寄
宿
舎
,は冬 枯れの跡、まだ見るには早いので、割愛(かつあい)して、依田氏の下
宿
に立
寄
り暫(しばら)く話,
寄
宿
舎
の玄関にゆ くと、先日足袋(たび)を与へた、小使(こづかい)が早速に来て手伝って、荷 物を二階,五月十八 日、
宿
直番長兼務を命ぜられて、文部省構内の官
舎
に移転 した。
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
也、又善光寺ハ北国街道の
宿
駅にして、本名ハ水内 郡柳原庄芋井郷長野村なり、如来此所に遷座の後、地名,竜宮 城に至らざらんや、いと易き事にてあらめとて、釈尊の勅意を承り、其儘 立て、左の足にて大林精
舎
の,の神祇を敬ひ奉らんと詔有ける、守屋大に悦び、某が為にも敵ぞ かしとて、河内紀伊国より多の人夫をめし
寄
せ,め前 に戸帳をたれよ、其故いかにとなれバ、不善造悪の輩恣に我前に (改頁)
寄
て,敷石碁盤の面の (改頁) 32 如し、是ハ勢州白子の大竹屋何某一
寄
進
違作書留帳
([翻刻])
我等ハ御蔭ニ而ケ成取ル 籾弐十五俵 粟十三俵三斗程 追々さわがしく 十二月朔日奈良井伝馬
宿
、,御差紙、次右衛門 甲州へ罷越、喜与蔵御下渡し つれ戻る、此者無拠義仲間ニも 成不申、御手ニ逢牢
舎
一日,も落文、 是ハ木曽より千人程罷出候 ニ付弁当頼由 米屋ニ而も御詰所へ御届 申侯而用心等致し、
宿
方取,相聞へ、依之村々役人人足 召連、人々棒其外得手成 物所持致、此書付届次第 塩尻
宿
へ可罷出候、,宮越
宿
迄四ケ
宿
へ 助郷相勤候村方ニ御座候処、 旧冬より作間ニ者木の実・葛 の粉・粟ぬか其外いろ/
むしくら日記
(3巻 利)
摘要す、 (改頁) 大室村軒下又ハ鴨居下迄水付、居家流候も多分、 川田
宿
千曲川除土堤押切,村上より水押入鴨居下迄、 須坂御領綿内村床上四五尺水入、二尺前後ニ泥入、流 失之家夥敷流
寄
、, 岩崎五郎大輔門口大破、土蔵二棟大破 (改頁) 8 木町 河原
舎
人土蔵二棟大破,方へ伴ひ行けれとも、誰有て親族と いう者もなく、浅間の温泉辺にて尋しニ、佐久郡 より来りし者にて
宿
なし,栗田村 (改頁) 内 男三人 女二人 是者善光寺町へ罷越止
宿
仕居
善光寺独案内
([現代訳])
この館は近山与五郎という旅
舎
である。 ,この館は山屋喜兵衛という旅
舎
である。 ,右の方は山内の中衆という坊
舎
である。 ,両裏はみな
宿
坊である。 駒返り橋 石橋である。山門下の元善町の小橋をいう。,この間を 御霊
舎
(おたまや)小路という。
信州飯田町家控
([現代訳])
なおこの城は信州第一の頼みとて、小幡因幡守殿・同
舎
弟五郎兵衛殿・波多源左衛門殿が来て城を守っていました,しかし角屋はだいたい町年
寄
衆・問屋・肝煎衆の家なので、訴訟の企てもなかなかできず過ぎて、知久町通り・松尾町,このうち5000石は、
舎
弟様へ分知され、飯田領之内20000万石と新田分2000石余を領知することになり,
舎
弟孫太郎様3000石の分知は、一ノ宮の脇坂様5000石の内を下さることとなりました。,一町年
寄
は諸役を免除され、地子米は間口13間分免許されます。
違作書留帳
([現代訳])
我らは御蔭でかなり取る、籾二十五俵、粟十三俵三斗ほど、だんだん騒がしく、 十二月一日に奈良井伝馬
宿
、,越し、喜与蔵へ御下渡しして、連れ戻った、この人物は、やむをえないことを仲間にも申さず、御手にあい、牢
舎
で,せばじゅく、中山道の
宿
場、善光寺道との分岐点)の米屋にも落し文があった、、これは木曽より千人ほど罷り出,中山道の
宿
場、塩尻市)へ罷り出た、その場で指図するとのこと、十月一日、天明三卯年である、 天明四辰(,塩尻市)より宮越
宿
(みやのこしじゅく、木曽町日義)までの四か
宿
へ助郷(すけごう、近隣の村が
宿
場へ応援の
善光寺独案内
([翻刻])
其外各旅
舎
会社の支店多し。 ,東京々橋区新富町仮名垣魯文
寄
附。 ,館ハ近山与五郎卜云旅
舎
なり。,(改頁) 館ハ山屋喜兵衛卜云旅
舎
なり。,砂糖紙類筆墨硯 荒物数品 仝 新町 美濃屋号 小林久七 ――― (商標)諸国紙荒物類商人御定
宿
秀吉と真田
(東西に分かれた真田父子)
増田右衛門尉)長盛(花押) 徳善(前田徳善院) 玄以(黒印) 真田安房守殿 御
宿
所,天下人であった秀吉が、自分のような子飼いでもない田
舎
の一小大名を特にかばってくれた。, 今度安房守(あわのかみ)(昌幸)罷り帰られ候処、日比(ひごろ)の儀を相違(たが)へず、立たれ候事
寄
特千万
二十四輩順拝図会 巻之五 信濃之部・上野之部
([現代訳])
南の正面は破風造りで、他の堂
舎
とは異なっている。 ,その時釈尊は目連尊者に命じて、竜宮城から閻浮檀金を取り
寄
せられ、高台に載せて阿弥陀如来の前に置かれた。,聖人が53歳の4月19日に、善光寺如来の分身の金像を感得された時も、この
宿
坊に止
宿
されたという。,本堂12間四方、経堂一棟、坊
舎
3坊。本尊阿弥陀如来(開基西念坊の百歳での作)。 ,この時頼朝はもはや危うかったのに、この佐々木高綱が一人で群がる敵の中に取って返し、
寄
せ来る大軍を追いまくって
むしくら日記
(3巻 利)
◯村々へ流れ
寄
る米穀や衣類、道具類などおびただしい数だということです。,川田
宿
では千曲川の堤防が決壊し、村の上手から水が押し入り、鴨居の下まで達しました。,2尺前後泥が入り、流失した家がおびただしく流れ
寄
り、通行が難しくなっています。,に連れて行きましたが、だれも親族だというものがなく、浅間の温泉あたりで尋ねてみると、佐久郡から来た無
宿
者,米蔵や寺社、田
舎
も町もともに家の倒壊、破損が増えていると在所から報告がありました。
地震後世俗語之種
([現代訳])
ことに毛や織物のたぐいは、諸国の新製品・最新流行を好み、まったくことわざに言うように、「京に田
舎
あり」,(よい土地にも田
舎
めいたところがある)と言うことができましょう。,を引き入れれば、その景色は沖の波静かな海のよう、早乙女の菅笠があちらこちらに見え、遠くから聞こえる田
舎
歌,驚き恐れながらようやく権堂の田んぼに着いて辺りを見ると、人々が野
宿
しています。,どうなってしまうのだろうかと、時の鐘さえないのですが、「諸行無常、是生滅法、生滅滅已、寂滅為楽」と響いたという祇園精
舎
の
松本藩庄内組大庄屋御用留
([翻刻])
い そ 五右衛門忰 幸之助 右牢
舎
之者印形持参,村役人 白板村 喜八 牢
舎
,94 九月朔日 天気、西山 あれ見ゆる 朔日参二日帰ル 一此度和田
宿
より,
宿
立人馬 不足ニ付差村有之、御公役 村柄御見分有之候ニ付、懸り 御手代広瀬小左衛門殿・御同心,
宿
立人馬不足ニ付、差村所 ニ付出ス、付人庄次郎申達ス 一庄内村弥五右衛門垣限外麦柄之内ニ捨
善光寺道名所図会
(○水内 善光寺)
また善光寺は北国街道の
宿
場で、本来の地名は水内郡柳原庄芋井郷長野村である。,まことにたやすいことです」と言って、お釈迦様の指示を受けて、そこに立ったまま、左足で大林精
舎
(だいりんしょうじゃ,月蓋長者とその一族や家来たちはもとより、ビシャリ国の人民はすべて大林精
舎
に参詣し、仏教を信仰して悟りの,今この善光寺は日本の片田
舎
にあり、愚かな凡人の創建ではあるが、菩薩がみずからの手でお建てになったので、,参詣の人々で
宿
坊へ入る人は、ここで案内をする。
『説諭要略』巻一
([ルビ・注記])
注 (1)校
舎
いっぱいの。 (2)現茅野市。 (3)紙幣に同じ。,
宿
内ノ不調法ハ。皆銭沙汰ナリ。 ,其都度(つど)最
寄
ノ小校ヘ立チ
寄
リ。奨 励ヲ加ヘタレハ。夙(つと)ニ御趣意ヲ奉戴シ。,其景 況(いわんや)殆(ほとんど)桃源仙
舍
(とうげんせんしゃ)ニヒトシク。,(5)田
舎
のこと。 (6)それより後。 (7)すぐれた見識。
地震後世俗語之種
([現代訳])
さて川中島の話を聞きますと、そこはいずれも田
舎
の村々なので、町家とは違い、ほとんどの家では五ツ時(午後,西は岡田・小松原、北は花上・小市山、南は清野・西条山・東は鳥打山の続きなど、最
寄
最
寄
に仮小屋を掛け、家財,周辺の山々に避難して野
宿
していても、犀川の湛水は日夜増水し、次第に広がっていくので、その都度高い所へ避難,これは戦乱の国に城を造るのと同じで、今にも洪水が押し
寄
せるかと、大軍で押し
寄
せる敵を防ぐように身構えるのは,聞き伝える間もなく、申の刻(午後4時)頃に小市に押し
寄
せました。
地震後世俗語之種
([翻刻])
其程を年
寄
もとめて問ひけるに、善光寺を (改頁) 中はに取らハ,心を砕て珎
寄
妙案なる所の薬師堂を造立す。,只子孫打
寄
咄し伝への種になさん事を欲す。,爰にまた川中嶋の噺を聞に、何れも田
舎
の 村々なれハ、町家と違ひ、凡の家には五ッ時を過 にし頃は打臥,辺りの山々に逃去り野
宿
す れとも、大河の湛水日夜に満々、次第に広ごり たれハ、一時/\に高き方に逃去
松本藩庄内組大庄屋御用留
([現代訳])
それから、御年
寄
方・御奉行・御代官・御勘定所、そのほか年始の御礼に廻っり、その日のうちに済ませた。,(改頁) 庄内村弥六・力左衛門・いそ・五右衛門忰の幸之助、これら牢
舎
の者が印を持参するように、,河野左吉・青木又之助、小嶋村 利右衛門・五左衛門・元右衛門後家くに・弥兵衛・村役人、白板村 喜八・牢
舎
松次郎, (改頁) 九月朔日 天気、西山あれ見える 朔日参り二日に帰る 一、このたび和田
宿
(,中山道の
宿
場)より
宿
立人馬が不足なので、村への派遣があり、御公役村がらの御見分があるので、懸り御手代広瀬小左衛門殿
小県郡民謡集
(成人謡)
(旧長久保(ながくぼ)
宿
に女郎あり) (改頁) 52 ○長い長久保流,思ひも
寄
らぬ朝霧おりて そーこで牝獅子が隱(かーく)され た。,2.心中くどき……嘉永三(一八五〇)年八月、武蔵国富田村(埼玉県
寄
居町)の農家の 若い男女の心中,○小田井(おてい)追分輕井澤この三
宿
にとまらぬ客は碓氷(うすい)峠で死などまま。,19.片田
舎
。民間。 20.いなかびて、品のないこと。 21.
おらが春
([翻刻])
ちゝ母ハ今やおそしと かけ
寄
りて、一目見るより、よゝ/\と人目も 耻す大声に泣ころひぬ。,蚤の迹かそへなからに添乳哉 一茶 より/\思ひ
寄
せたる小児をも、遊ひ連に もと爰に集ぬ。 ,りける夜 夜の鶴土ニ蒲団も着せられす 基角 孫娘におくれて、三月三日野外に遊ふ
宿
を,かな 雲外 礒菜つむ手にさゝ波のそはへけり イヨ 鶯居 浪に手を洗ふて帰る子日かな オク
舎
用,嬌雨 (改頁) 塵払ふうめもはつ日の匂ひかな 蘭児 盗まれた日かさかり也
宿
のはな
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